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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
阿曇・安曇(62)東臼杵郡(2)
課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
出典:平凡社:歴史地名大系
:200頁
「上別府村(かみのびゅうむら)」(現)日向市美々津町
才脇村の南、耳川下流域南岸に位置し、東は日向灘に面する。
豊後街道が南北に走り、才脇村との間は渡船を用いた。
上之別府とも記した。
耳川河口近くは中世から美々津湊として知られ、
湊町の美々津町が形成されていた。
同町は郷帳類では当村地内に含まれる。
児湯郡に属し、江戸時代は高鍋藩領。
寛文四年(1664)の高鍋藩領知目録写
(高鍋町歴史総合資料館蔵)に村名がみえる。
同年の高鍋藩領地覚(隈江家記)では高225石余。
天保郷帳では高367石余。
もと野別府代官川北庄屋の支配であったが、
天明二年(1782)川北庄屋河辺久兵衛の願出により支配地が三分され、
当村は高松名主の支配地になった(続本藩実録)。
元禄三年(1690)九月延岡藩領の山陰・坪屋両村(現東郷町)の
百姓らは、
延岡藩郡代梶田十郎左衛門の苛政に抗して1400余人が
川船で当村余瀬や峠越しで股猪野(現都農町)など高鍋藩領に逃散。
高鍋藩では当村美々津に役人が詰め、
延岡藩との交渉にあたった(高鍋藩日記」秋月家文書)。
余瀬には川船のための番人が置かれていた(本藩秘典)。
同九年六月には当村矢野庄兵衛宅に泊まり測量している
(伊能忠敬測量日記)。
明治五年(1872)田原・丸山・落子の三カ村と合併し高松村となる。
この村名は旧上別府村の字地名をとったという(日向地誌)。
旧高旧領取調帳によると高松村の高593石余。
「日向地誌」によれば高松村の戸数731・人数2977。
このうち落子・田原・丸山の三カ字地を除いた戸数
(宮ノ下・高松・田窪・石並町・美々津町・上別府・余瀬を含む)は
688。
浄土宗専修寺と浄土真宗本願寺派正覚寺、立磐神社・愛宕神社・
多賀神社がある。
山陰一揆では、正覚寺で逃散百姓の代表と
山陰山留黒木与次右衛門とが対談した(高鍋藩日記)。
愛宕神社の祭神は火産霊命・大物主命・船玉大神。
多賀神社の祭神は伊邪那岐命・菅原道真・彦火火出見命。
字高松の円墳(一号墳)をはじめとした四基からなる
美々津古墳(一部は古墳跡のみ)は県指定史跡。
天文年間(1532~55)の築造といわれる橋口氏庭園(県指定名勝)は
自然の岩壁を背に石組・池などが配されている。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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