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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
阿曇・安曇(66)笠本村(かさもとむら)
課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
出典:平凡社:歴史地名大系
:370頁
文永二年(1265)三月日の地頭・公文連署下文写
(奈古神社文書、以下すべて同文書)に笠本里とみえ、
宮崎庄の地頭・公文は奈古社の先の大宮司後家比丘尼に対して
笠本里内の牟多田三段を安堵している。
笠本里の表現から当地域に条里制が施行された可能性が想定される。
建治二年(1276)閏三月一日の某書下写は
宮崎庄笠本村の奈古社大宮司職を海清景に安堵しているものだが、
その宛先は佐藤左衛門尉で、
文永六年七月二八日の右衛門尉為親俸書(写)が
宮崎庄両地頭代宛となっている点からみて南方の地頭代官とみられる。
弘安五年(1282)当村の奈古社大宮司職をめぐり
清景後家氏女と清景の子三郎重清との間で争いとなり、
重清は清景の病中に清景の花押を模倣して
譲状を偽造し領有を主張したが、
「地頭御方」の年貢などは惣領がまとめて負担することとし、
後家の一期分と、
その後に重清舎弟の竹王丸が継承することが認められている
(同年一二月二五日某裁許状写)。
嘉元四年(1306)二月七日には
笠本村内の又次郎助守跡の田地を沙弥祥恵が継承し、
大宮司頼清に相伝している(沙弥祥恵書下写)。
当村は奈古社宮司の根幹所領の場であった。
文安二年(1445)九月一五日の某証状および
同年一二月一五日の祐範証状によれば、
南方笠本村内の立聞田の合せて二町二段が奈古社の祝とみられ
和田のいち太郎に売却されている。
寛正六年(1465)二月吉日の神事注文写では
奈古社の春秋彼岸の役として四日目を当村が勤め、
的次第では寅・申年を当村が勤めることとなっでいた。
また年月日未詳の奈古社相撲日記写の二番に
「かさもとの村」がみえ、
奈古社の社役では一番の南方に次ぐ位置を占めていた。
文明一五年(1483) 一二月二三日の某宛行状によると、
宮崎庄南方立聞田ニ段と笠本の屋敷一カ所が安堵されており、
当村は宮司の屋敷所在地でもあった。
なお室町期の私年号とみられる
応享二年二月九日の伊東祐春書下などの文書は
奈古八幡宮の正祝職とその田地などを安堵したものだが、
文書の端裏書に「奈古笠本之正祝」と記されており、
これも奈古社宮司の屋敷所在を認証したものといえる。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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