『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
阿曇・安曇(77)宮崎市・上野町(かみのまち)
課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
出典:平凡社:歴史地名大系
:363頁
上野町(かみのまち)(現)宮崎市上野町・橘通西一―二丁目
東流する大淀川の左岸、飫肥街道沿いに位置する。
上別府村の枝町。
延享四年(一七四七)の上別府村明細帳(中村家文書)によると、
延岡藩有馬氏時代(慶長一九年― 元禄四年)には
那珂郡下別府村に町立てしていたが、
寛文二年(一六六二)の大地震で町屋敷が潮入したため居住できず、
上別府村へ引移り上野町と改名したという。
延享四年の寵数八四
(部当一・年寄二・筆者小触一・本百姓七六、小百姓・水呑二 、寺二 )
・人数五〇二、馬三五。
有馬氏時代から下北方村へ出作しており、高一八石余。
当町は往還筋のため旅人宿が置かれていた
(同年「演説覚書」内藤文書)。
赤江(大淀)川には渡場があり、
上別府村と対岸の太田村中村町の双方から
月一五日ずつ船渡しが行われた。
上別府村には渡船一艘があった。
巡見使の通行や飫肥藩伊東氏の参勤交代の節には
当町と中村町・福島町・小松村が残らず船を出し、
船渡しを勤めている。
当町には五○○石積以下の帆船が五艘あった(前掲村明細帳)。
延宝三年(一六七五)九月一七日、当地を訪れた橘三喜は
「上別府を通り、赤江川舟あり、此処を小戸の渡りと云」と記し、
渡守の語った古歌として
「日向なる大戸(オド)の渡りの浦こそはあを人ぐさの始なりける」の
歌を記している(一宮巡詣記)。
二・六の日には市が立てられた(前掲村明細帳)。
町内には酒屋が四軒あり、
酒造株として酒造米石高は
それぞれ一五○石・三○○石・一八○石・一二〇石であった
(享和元年「酒造株譲渡井名前替書出J 内藤家文書)。
文化九年(一八一二)九月六日、
佐土原(現佐土原町)の当山派修験の大先達
野田泉光院は宮崎神宮に詣でたのち、
付近の山伏を支配する当町の修験北山寺大乗院宅に一宿している
(日本九峰修行日記)。
文政一一年(一八二八)の宗門人別改帳(内藤家文書)では
人数三六〇(うち出家一・社人一・山伏一・医師一)。
万延元年(一八六〇)の宗門人別改帳(同文書)では
人数四〇七(うち出家一・社人一・山伏一)。
延享四年の前掲村明細帳によると、
小戸大明神・大将軍・愛宕社、山城醍醐寺三宝院末寺の真言宗北山寺、
天文二年(一五三三)証上の開山という浄土宗西満寺があった。
西満寺は京都知恩院末寺であったが、明治四年(一八七一)廃絶。
同六年三月の答書控(県庁文書)には
上別府村から独立して上之町とみえるが、
「日向地誌」には上別府村内の字地として上ノ町がみえ、戸数一三○ 。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
0 件のコメント:
コメントを投稿