2014年7月11日金曜日

阿曇・安曇(74)日向・江田


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 阿曇・安曇(74)日向・江田

 課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
    ―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 出典:角川文庫
    :160・161頁

 江田(えだ)<宮崎市>

 大淀川支流新別府川右岸に位置し、東は日向灘に面する。

 地名は江田神社があることによる。

 古代官道日向十六駅の1 つとして

 「延喜式」に見える石田駅は江田駅の誤記かと推定され、

 当地がその故地に比定されている。

 〔古代〕江田郷

 平安期に見える郷名。

 「和名抄」日向国宮崎(埼)郡四郷の1 つ。

 当郷には「延喜式」神名帳に見える式内社江田社があり、

 宮崎方面から日南国府に向かう交通の要衝の位置を占めていた。

 「延喜式」神名帳には、日向国内の社として、

 児湯郡の都農・都万両社、諸県郡の霧島社とともに,

 宮崎郡江田社を記している。江田社は、宮崎市江田の海岸近くにあるが、

 古墳など、より古い時代であることを示す遺跡が付近に残っている。

 「続日本後紀」承和4年8月1日条には、

 上記の日向の4社が官社となったと記しており、

 江田社は,宮崎郡の中心的社して成立していたことをうかがわせる。

 天安2年10月 22日には従五位上から従四位下に昇階した(三代録)。

 〔中世〕

 江田鎌倉期から見える地名。

 日向国那珂のうち。

 建久8年の「日向国図田帳写」によれば、

 江田社は刀阿郡内にあると記し、

 田数30町で、日向一宮妻万宮領であると記している。

 弁済使は宗遠なる人物である。

 応永28 年の「五郡田代写」にも「江田社三十町」とあり、

 天正19 年の「日向国五郡分帳」では「江田三十町」とされている。

 江田社を平安期に宮崎郡と記し、鎌倉初期に那珂郡のうちと記すのは、

 宮崎郡と那珂郡の境界が、

 平安後期に移動したことをうかがわせるものである。

 江田社は鎌倉期には妻万社に系列化されているが、

 中世京都醍醐寺鎮守清滝社で勧請した諸神を記す

 「清滝宮勧請神名帳」には、

 日向では江田明神が勧請されており(続群3 上)、

 日向の代表的神社しての伝統が感じられる。

 下って天正年間嶋津氏支配下の宮崎地頭上井覚兼は、

 天正11年6 月3 日、江田での網舟見物のため新別府に赴き、

 翌6 月4 日、新別府の漁船が漁を行っている様をみている。

 また、天正13 年7 月7 日には、

 江田社の大宮司が網を引き、覚兼をもてなし、

 また、天正14 年5 月26日には、

 覚兼のもとに江田から珍しい肴が届けられている。

 戦国期の江田は漁村の姿の濃厚な地域であったことがわかる。

 この江田の地において、覚兼は、天正11年6月14日、

 江田の盗入に対して.盗人逃亡により妻子と馬などを没収している様に、

 覚兼は江田で自身の権限に基づいて検断権を行使しており、

 江田は宮崎地頭支配下におかれていたものとみられる(上井覚兼日記)。


 〔近世〕江田村

 江戸期~明治22 年の村名。

 はじめ宮崎郡、のち那珂郡のうち。

 はじめ延岡藩領,元禄5 年からは幕府領。

 村高は、元禄11 年「日向国覚書」には宮崎郡に含まれ725石宇余、

 「天保郷帳」、天保9 年のものと推測される

 「日向国史」、「旧高旧領」ではともに810石余。

 なお、幕領調査では,村高810石余のうち13石余が諸引とあり、

 残高796石余の内わけは田高706石余・畑高89石余。

 神社は地内産母に表筒男命・底筒男命を祀る江田神社があり、

 日向国式内四座の一つで、

 地元では産母神社とも呼ばれるという(日向地誌)。

 また、同社は日向の禊・祓伝説の中心というべき社で、

 社伝によると仁明天皇承和4年官社に列せられ(続日本紀)

 清和天皇天安2年従四位下を授けられ(三代実録)、

 後円融天皇永徳元年までに正一位に至るとあり、

 建久の図田帳でも社領30 町が記録されている。

 寺院は、猿野に禅宗長持寺末竜泉寺があったが、

 明治4 年に廃絶したという(同前)。

 明治元年富高県、日田県、同4 年美々津県を経て、同6 年宮崎県、

 同9 年鹿児島県、同16 年からは宮崎県に所属。

 同17 年北那珂郡に属す。

 「日向地誌」の著者平部嵪南が当村に調査に訪れたのは

 明治9 年11 月12 日で、同書によれば、

 村の規模は東西約14 町・南北約19 町、

 東は海浜に至り、西は官崎郡大島村、南は新別府村、北は塩地村、

 東北は山崎村、西北は宮崎郡村角村と接し、

 宮崎県庁からの里程は東へ約1 里,地勢は「塩地村ト同シ」とあり、

 塩地村の項には

 「闔村平坦大半卑湿、海浜ノ地ハ深田多シ、泥悼深キコト二三尺、

 耘者転獲ニ困ム、運輸不便ニ非スト雛トモ、薪 林餓ナラス」と見える。

 地味は

 「其田五分砂、五分黒ソミ土、其質中ノ下、畑ハ悉皆砂土、

 其質中ノ中、水利ハ便ナリ、水害多シ」とある。

 また、税地は田90 町余・畑25 町余・宅地18 町余・

 山林70 町余・荒地4 町余などの計212 町余、

 無税地は1 町余、官有地は山林34 町余・

 海岸空地70 町余などの計106 町余、

 貢租は地租金8 88 円余・雑税金387 円余の計1 , 276 円余、

 戸数40 (うち神社1 )・人数591 (男309 ・女252 ) 、

 牛12 ・馬110 、船87、

 村内の字地別戸数は産母11、江田原36。

 学校は本村の北猿野に当村と山崎村・新別府村で

 共同の人民共立小学校があり、

 生徒数は男78 ・女62 。

 戸長役場は本村の中央中園にあった。

 民業は男女皆農漁業を営み、余暇に工業に6 戸、医業に1 戸、

 牛馬売買に2 戸、魚売りに6 , 7 人が従事した。

 物産は鯵30 万尾・鯖1 万尾・魣3 万尾・鱶450 尾・鰡300 尾、

 鰻15 貫・雑魚3 , 00 0 龍・鮒5 龍・川海老5 斗・蜆 斗・

 糶600 石・西瓜300 顆・松露5 斗。

 道路は、広瀬間道が南の新別府村境から本村に入り山崎村を経て

 また本村を通って塩地村境に至るという。

 さらに用水は前溝・牟田溝・先切溝・前田溝、年ノ神溝・江田原溝・

 出水溝が流れ、

 森林に海浜松林・江田原松林・野間松林、

 湖沼に八百牟田池・御池が見える。

 明治17 年の区町村会法改正の際の戸数148 、

 戸長役場は吉村・新別府村・塩路村・山崎村とともに

 吉村戸長役場の管轄であった(郡行政/県古公文書)。

 明治21 年の戸数148 ・人ロ640 、

 反別は田90 町余・畑28 町余・池沼1 町余・山林106 町余・

 原野4 町余・雑種地82 町余、

 諸税および明づ費の納入額は国税1 , 114 円余・地方税367 円余・

 町村費156 円余・協議費38 円余、

 村有財産は山林46 町余などがあった(郡行政/県古公文書)、

 明治22 年檍村の大宇となる。

 〔近代〕 江田

 明治22 年~昭和7 年の大字名。

 はじめ檍村、昭和7 年からは宮崎市の大字。

 明治24 年の幅員は東西7 町余・南北32 町余、

 戸数138 ・人ロ肘6 (男34 1 . 女305 ) 、

 厩77 、学校1、小船3 「徴発物件一覧表〕 。

 昭和8 年1 月1 日阿波岐原町となる。

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