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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
阿曇・安曇(69)都萬神社(つまじんじゃ)
課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
出典:平凡社:歴史地名大系
:294頁
都萬神社(つまじんじゃ):(現)西都市妻
一ッ瀬川の氾濫原と西都原(さいとばる)古墳群がのる台地の間に
展開する中間台地の縁辺に位置する。
木花開耶姫命を祀り、旧県社。
都萬は妻・妻万とも書き、地元では「さいまん様」とよばれる。
また古くは妻万大明神・妻万大五社明神などともいった。
境内には宇戸神社・霧島神社・四所神社・妻八坂神社の
境内社四社が鎮座し、
高さ四○メートル余、目通り一一メートル余のクスの大木は
「妻のクス」として国指定天然記念物。
神社の南西には当社神宮寺の寺跡がある。
「古代・中世〕 草創の経緯は不詳であるが、
「続日本後紀」承和四年(837)八月一日条に「子湯郡妻神」とみえ、
同じ児湯郡の都濃神、宮崎郡の江田神、諸県郡の霧島岑神とともに
官社に列せられている。
天安二年(858)には日向国内五神に対する神階昇叙が行われており
(おそらく清和天皇の即位を契機とする)、
このときは従五位上から従四位下に昇っている
(「三代実録」同年一〇月二二日条)。
「延喜式」神名帳には児湯郡二座のうちに「都寓神社」とみえ、小社。
妻万宮縁起(郡司信介家文書)などによれば五社明神ともいうのは
妻万社を筆頭に平郡社・臼杵高知尾社・櫛間社・江田社の五社を
祀ることに由来するという説や
妻万の本地が「妻 尺迦鹿嶋」「妻 観音伊勢」
「平郡矢久渡薬師春日」「鹿那田潮霧島地蔵平岡」
「文殊三輪三才若宮」であるからという説があり、
平安後期から中世においては
日向国の有力な神社を合祀していたとみられる。
当社は国府域の中にある神社で、
神職は平安時代から日向国衝の在庁職を独占してきた日下部氏が勤め、
惣社的な機能をもっていたとみられる。
建久図田帳では「妻万宮領九十八丁」とみえ、
その後に
「清水社六十丁」「江田社三十丁」「高知尾社八丁」と記される。
この図田帳の記載の解釈は難しいが、
縁起にある五社明神としての性格と関係しているとも解釈できる。
在国司職は在国しなくなった国司に代わって、
一宮や惣社などの国衝編成の宮の祭祀にかかわる職である
という説があるが、
日向在国司職も当社祭記にかかわっていたと考えられる。
日向在国司職は平安末まで日下部氏が勤めてきたが、
鎌倉時代には、日向最大の在地系領主となる
土持栄妙(宣綱)が先の在国司日下部盛平の養子となり、
同職を手に入も大きな影響力をもったようである。
しかし南北朝時代には、国府域に伊東氏の力が及ぶようになり、
伊東氏が都於郡に本拠を定める室町時代には、
当社は伊東氏の手厚い保護を受けるようになる。
社蔵棟札によれば
応永二四年(1417)・宝徳四年(1452)・長享二年(1488)・
天文七年(1538)・永禄八年(1565)と伊東氏が願主となって
造営が行われたことが確認できる。
「日向記」によれば、最初の棟札が残る応永二四年は、
島津勢と伊東、土持勢の合戦の和議が成立した年であり、
その間隙をぬって造営がなされている。
なお同書は宝徳元年にも伊東祐尭によって当社の再興があったと記すが、
これは宝徳四年の棟札にあたると思われる。
また伊東祐尭が垂水という名は縁起が悪いとして一族である
垂水氏の系図ならびに幕紋を当社の社前で焼き、
新たな出発を祈願したという話が載せられている。
室町から戦国期の伊東氏支配時代の当社造営の様子を記したとみられる
妻万宮御宮作材木注文(児湯郡旧社関係文書)によれば材木分として
調殿之分・三宅三○町分・穂北南方ノ分・穂北北方之分・三納之分・
新納比木方一〇○町分・野別府之分・新納郡司方分・宮崎南方之分・
宮崎北方之分・宮崎池内方分・広町之六○町分・田尻之分・
倉岡之分・綾之分などがみられる。
後欠のためこれが全部とは思われないが、
伊東領を中心に広く材木の役が賦課されたことがわかる。
また弘治二年(1556)六月吉日の土田帳写(予章館文書)によれば、
妻万領として二八町二段の神領があり、
その所在範囲は神社のある妻万だけではなく、
宮崎池内(現宮崎市)・船引下分(現清武町)・上田島(現佐土原町)・
江田(現宮崎市)・新田(現新富町)、三宅・鹿野田・平群・伊尾江・
新納比木方・山田、大田上分・上恒久(現宮崎市)、穂北、
八代(現国富町)などの
広範囲に及び、先の材木注文に共通する側面がある。
当地が島津氏領に組込まれたのちの天正六年(1578)、
豊後の大友宗麟との対決のため日向に出陣した島津義久は、
一月一三日に当社へ参詣し、二月九日には神で連歌の法楽が催され、
九月一五日には霧島・鵜戸神社とともに戦勝祈祷のために
仁王経三部講読が行われている(「日州御発足日々 記」旧記雑録)。
なお当社神宮寺に伝来した大般若波羅蜜多経写本は
明治四年(1871)の同寺廃寺後いったんは散逸したが、
麟祥院によって収集保管されている(六〇〇巻のうち一〇余巻を欠く)。
同写本第一巻奥書には、嘉暦二年(1327)三月一七日の日付があり、
書換筆者長門房とある。
第四〇〇巻の奥書には、
妻万宮大般若経一部のうち四○○巻が戦乱でなくなっていたので、
輪蔵院が花園寺(現新富町)重亀の援助により、
天文一一年一一月から翌年一一月五日までに一○○巻を一人で書き、
寄進した旨が記されている。
この一○○巻の願主は花園寺重亀で、
国中静謐・伊東義祐と子息の息災、武運長久等を願っている。
〔近世〕 慶長六年(1601)、
関ケ原の戦で没収された佐土原(現佐土原町)を賜ることを願って、
島津以久が三〇〇石を寄進し、
以前の拝領分を合せて江戸時代の神領は三一五石となった(社蔵文書)。
寛延四年(1751)の分限帳(清野家文書)では神領三一五石余、
うち修理免七七石余、神宮寺領二四石余、
一乗院(鹿野田村にあり、神宮寺の末寺)領二四石余となっている。
妻万町は当社の門前町として発達したが、
祭礼日の一一月一九日には大いに賑わった。
佐土原藩では他領民とのもめごとを恐れ、
祭礼日には横目や警護の役人を派遣していた(佐土原藩島津家日記)。
寛政四年(1792)閏二月一一日に当社を訪れた高山彦九郎の
「筑紫日記」によると当社は日向国二宮を称していた。
同日記には境内には石の鳥居や池があり、
根回り三―四間もある楠も数株ある。
玉垣の内には拝殿・渡殿・宮殿があり、末社も多い。
社家は三六人おり、
社より南二町ばかりは桜の並木が続いているなどと記されており、
往時をしのぶことができる。
什宝には棟札のほか、鏡・錫・剣・脇差・太刀・甲冑などがある。
………
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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