2014年7月12日土曜日

阿曇・安曇(76)橘・小門・阿波岐原と「エッタ叙事詩」

 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 阿曇・安曇(76)橘・小門・阿波岐原と「エッタ叙事詩」

 課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
    ―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦


 「橘小門之阿波岐原とエッタ叙事詩」

 ○『古事記』伊邪那伎大神の禊祓

  竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到り座して、禊ぎ祓ひたまひき。

 ○『日本書紀』伊弉諾尊の檍(あわき)原の禊

  筑紫の日向の小戸の橘の檍原に着かれて禊ぎ祓ひ

 ○阿波岐原・檍原「宮崎市の日向灘沿いの地名」

  ※九州の呼称では「アリキバル」

  「アワキハラ」(SK.)ap-cara 水棲動物、

  yadas 「大きな水棲動物」と同義:yadu yadava の語源

  メソポタミアの魚人伝承「バビロニアのベール神官」

  アプカッル apkallu (ギリシャ語)

  シュメル語による解釈「小嶋 秋彦」

   ap[ab]-ha[ku]-lulu

   海の  魚  人々「複数」 海の魚人たち・魚人

  猿野「さるの、阿波岐原:宮崎市」

   「サル」(SK.)ap-sara 水棲動物[ap-caraと同義]

 ○橘(たちばな) ”きはだ”

  「キツ」

  (シュメル語・阿曇語)gudu 神官「バビロニアのベール神官」

 ○小門・小戸

  「オド」adpa (ギリシャ語)

  「エッタ叙事詩」最初のアプカッルはアダパという異名を持っていた

  (シュメル語・阿曇語)

   a-deb [水-歩き回る]水を歩き回る<水陸両棲動物>

  両棲類は陸は元より、

  水中においても泳ぐことはできず歩かなければならない。

  -dpa 音はサンスクリット語で dvar(英語のdoor)で「門」「戸」

   江田神社は阿波岐原の北辺に鎮座する。

 ○上野(かみの)町「宮崎市、県庁近く、東側隣は橘通(地区名)」

  小戸神社が鎮座する。

  初めは下別府の地にあったが寛文2年(1662)の大地震で水没したため

  上野町に移されたという。昭和9年(1934)橘通の拡張に伴い、

  現在地の鶴島3丁目に遷座した。

  上野「ウエノ:ギリシャ語 Uanna ウアンナ、

     Oannes オアンネス、セレウス朝(B.C.300頃ベロッソス)

  ※阿曇族の神域志賀島の「上野」に対応する。


 ○檍 もち 木の語義は樫と同じで船材に多く使用された

  ※キツ・オドのアワキハラ

   神官アダパであるアプカッルのいる所


 『古事記』と『日本書紀』の記事の、微妙な表現の差が、

 どんな価値をもっているか、よくおわかり戴けると思う。

 伊弉諾尊が禊をした地点が、

 まず『古事記』と『日本書紀』で違っている。

 『古事記』 「黄泉国。   橘・小門・阿波岐・原

 『日本書紀』「黄泉。(一書)筑紫・日向・小戸・橘・檍  ・原

  こうして並べてみるとよくわかるように、

  『古事記』は「日向の橘」と書き、

 『日本書紀』は「日向の小戸」と地名が逆転している。

 どちらが本当かという大論争が、

 その裏に隠されていることに気づく必要がある。

 だが日向へは天孫「瓊瓊杵(ニニギ)の命」が降臨したのが後だとする、

 矛盾している『日本書紀』のほうが間違いである。

 日向の橘なら鹿児島県の種子島で、

 イサナキの尊が三貴子と居てもおかしくないが、

 日向の小戸(ウド)では、宮崎県の鶉戸(ウド)神宮のある海岸だから、

 天孫が初めて列島の本土である日向に地歩を占めた

 「歴史的偉業」だとして特記している『天孫降臨』の意義が、

 完全にゼロになってしまうからである。

 その地名のいちばん最初の文字も、歴史上重大な答を明記している。

 『古事記』は天竺(テンヂク)の「竺(ヂク)」字を使っているからだ。

 日本神話に多出する「天=沖縄」に続けて書くと、「天竺」になる。

 沖縄と九州とを併せて「天竺」と呼んでいた名残だったのである。

 これはソナカが仏教宣布団と来日して、

 卑弥呼が連邦に君臨していた時代の前後なら、

 別に不思義はないし、またそれによって卑弥呼政権崩壊後、

 天(沖縄圏)と筑紫(九州本島)の2政治圏に分裂したことも、

 史実だったことが、容易に理解できるようになる。

 鹿児島語はa(ア)をe(エ)と訛る。

 愛(アイ)がエ、手(タ)がテだから、タンはテンにもなる。

 天竺国はテンジッ国と発音するから、

 田の尻(タンジィ)・丹児(タンジ)ッ国とも同じである。

 種子島はこの沖縄・九州連邦の首都国だったから、丹児ッ囲(天竺国)と

 呼ばれていたのだとみれば、

 この小島が倭国・日本、南天皇家政権の母体であった理由も納得がいく。

 中国の『山海経(センガイ)』の、

 後漢初期の版の「海内(かいだい)」の部分に、

 次のような貴重な記事がある。

 「東海之内 北海之隅 有国 名曰 朝鮮天毒 

  其人 水居 偎人 愛人」。

 翻訳すると、

 「中国から見て東海、その北部の片隅に朝鮮天毒という国がある。

  海に囲まれた島国に住むその国民は、

  偎(ゥワイ)人、または愛(アイ)人と呼ばれている」

 というのだ。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

0 件のコメント:

コメントを投稿