2014年7月10日木曜日

阿曇・安曇(71)宮崎神宮(神武さま)


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 阿曇・安曇(71)宮崎神宮(神武さま)

 課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
    ―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦


 出典:「全国神社名鑑」神社本庁

 ◇宮崎神宮(神武さま)

 祭神:神日本磐余彦尊

 配祀:鸕鶿草葺不合尊

    玉依姫命

 例祭:一○月二六日 

 神紋:三矢付菊事業

    宮崎神宮スカゥト団
   
    神武館道場

    書道塾

 建物本殿:流破風白木造二○坪

      幣殿同六八坪

      拝殿同一二坪

      御料屋同一四坪

      神饌所同一四坪

      渡殿切破風白木造一五坪

      左右渡廊同一一坪

 境内:七九、五一六坪

 末社:二社

 社宝:神号二面(織仁親王・彰仁親王各筆)

    懸幅二軸(依仁親王・威仁親王各筆)

    額面(威仁親王筆)

 記念物:おおしらふじ

 崇敬者:県内外多数

 神事と芸能:神武天皇祭(四月三日・流鏑馬神事を行なう)

       御神幸祭(例祭後の土曜日曜日)
 「由緒」

 この地は古史にある高千穂宮の霊地で神武天皇の遺跡である。

 社伝によると、

 神武天白王の皇子神八井耳命の御子健磐竜命が筑紫の鎮守となり、

 天皇の都された跡にその神霊を鎮祭したのに始まるという。

 建久八年地頭土持太郎信綱が社殿を造営した。

 文明五年伊東祐国は蓮ケ池・下北方の両地より社領を、

 さらに永禄五年伊東義祐が、下北方および江平の地で神領を奉献した。

 ついで天正五年島津義久が米穀・御政料を寄進、

 寛永二一年領主有馬康純が杜殿の造営を行なった。

 このように武門・武将の崇敬があつかった古社である。

 明治六年県社に列し、宮崎神社と改称。

 同八年国幣中社に列し、宮崎宮と改め、同一八年官幣大社に昇格した。

 大正二年宮崎神宮と改称。

 なお、天皇陛下には五回、皇后陛下には三回のご参拝があった。

 (神社本庁別表神社)

 「写真」①社殿

     ②神事流鏑馬

 宮司甲斐武教・権宮司黒岩龍彦

 氏子代表岩切章太郎・清山芳雄・中村秀一・日高信輔・鹿島透・

 増田吉郎・三重野老吉

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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