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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
阿曇・安曇(71)宮崎神宮(神武さま)
課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
出典:「全国神社名鑑」神社本庁
◇宮崎神宮(神武さま)
祭神:神日本磐余彦尊
配祀:鸕鶿草葺不合尊
玉依姫命
例祭:一○月二六日
神紋:三矢付菊事業
宮崎神宮スカゥト団
神武館道場
書道塾
建物本殿:流破風白木造二○坪
幣殿同六八坪
拝殿同一二坪
御料屋同一四坪
神饌所同一四坪
渡殿切破風白木造一五坪
左右渡廊同一一坪
境内:七九、五一六坪
末社:二社
社宝:神号二面(織仁親王・彰仁親王各筆)
懸幅二軸(依仁親王・威仁親王各筆)
額面(威仁親王筆)
記念物:おおしらふじ
崇敬者:県内外多数
神事と芸能:神武天皇祭(四月三日・流鏑馬神事を行なう)
御神幸祭(例祭後の土曜日曜日)
「由緒」
この地は古史にある高千穂宮の霊地で神武天皇の遺跡である。
社伝によると、
神武天白王の皇子神八井耳命の御子健磐竜命が筑紫の鎮守となり、
天皇の都された跡にその神霊を鎮祭したのに始まるという。
建久八年地頭土持太郎信綱が社殿を造営した。
文明五年伊東祐国は蓮ケ池・下北方の両地より社領を、
さらに永禄五年伊東義祐が、下北方および江平の地で神領を奉献した。
ついで天正五年島津義久が米穀・御政料を寄進、
寛永二一年領主有馬康純が杜殿の造営を行なった。
このように武門・武将の崇敬があつかった古社である。
明治六年県社に列し、宮崎神社と改称。
同八年国幣中社に列し、宮崎宮と改め、同一八年官幣大社に昇格した。
大正二年宮崎神宮と改称。
なお、天皇陛下には五回、皇后陛下には三回のご参拝があった。
(神社本庁別表神社)
「写真」①社殿
②神事流鏑馬
宮司甲斐武教・権宮司黒岩龍彦
氏子代表岩切章太郎・清山芳雄・中村秀一・日高信輔・鹿島透・
増田吉郎・三重野老吉
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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