2014年7月7日月曜日

阿曇・安曇(61)東臼杵郡(1)


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 阿曇・安曇(61)東臼杵郡(1)

 課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
    ―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦


 出典:平凡社:歴史地名大系
       :89頁
 
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』東臼杵郡
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%87%BC%E6%9D%B5%E9%83%A1

 「東臼杵郡」

 面積2096.01平方キロ(境界未定)

 北浦町・北川町・北方町・門川町・東郷町・北郷村・

 西郷村・南郷村・諸塚町・椎葉村

 宮崎県の北部に位置する。

 北は大分県南海部郡蒲江町・直川村・宇目町および同県佐伯市、

 西は西臼杵郡、熊本県上益城郡清和村・矢部町、同県八代郡泉村・

 同県球磨郡水上村、

 南は児湯郡と西都市に接し、東は延岡市と日向市に接する地域を除き

 日向灘に面する。

 明治一七年(1884)臼杵郡が東西に分割されて成立し、

 当初、北は大分県海部郡・大野郡、西は西臼杵郡、

 南は児湯郡、東は日向灘に面していた。

 郡域は大部分が山間地で、北部の大分県境には

 大崩山(1643.31メートル)などがそびえ、

 一帯は祖母傾国定公園に指定されている。

 西部の熊本県境には国見岳(1738.8メートル)・

 鳥帽子岳(1691メートル)など

 1600~1700メートル級の九州山地が連なり、

 九州中央山地国定公園に含まれる。

 また山間を切裂くように、西臼杵郡五ケ瀬町を水源とする五ケ瀬川や、

 椎葉村を水源とする耳川などが東流し、日向灘へ注ぐ。

 郡の成立時は九町五三村で、郡役所は延岡に置かれた(県庁文書)。

 明治一九年の戸数16842・人口85203(地方行政区画便覧)。

 同二一一年の町村制施行により延岡・細島の二町と岡富・恒富・伊形・

  門川・冨髙・岩脇・東郷・南郷・西郷・北方・南方・東海・北川・

 南浦・北浦の

  一六村が成立した。

 大正一○年(1921)富高村が町制施行。

 昭和五年(1930)延岡町は岡富村と恒富村を合併し、

 同八年延岡市となる。

 同一○年門川村が町制を施行。

 同一一年東海村・伊形村が延岡市に合併。

 翌一二年には細島町と(富高町が合併し富島町となった。

 同一一四年西臼杵郡諸塚村と同郡椎葉村が東臼杵郡に編入された。

 同二六年富島町と岩脇村が合併し日向市となる。

 同三○年延岡市が南方村・南浦村を合併した。

 同四四年東郷村が、翌四五年には北方村がそれぞれ町制施行。

 同四七年には北浦村と北川村がそれぞれ町制を施行し、

 現在当郡は五町五村となった。

 「耳川(みみかわ)」

 県北部の主要河川で、日向市美々津を河口とする二級河川。

 源流域は九州山地のほぼ中央部熊本県境の向坂山(1684.4メートル)から

 国見岳(1738.8メートル)を経て銚子笠(1488.9メートル)に至る

 分水界の東側山岳地帯である。

 全延長91.1キロで県下第一、支流も十根川・柳原川・坪谷川など

 28流がある。

 明治一九年(1886)の統計及内務報告(県庁文書)には

 美々津川と表記され、10支流をあげているが、

 そのうち名称が今日まで変わらないのは

 坪谷川・小原井川・七ッ山川・不土野川である。

 中世・近世の史料には美々川ともみえる。 

 源流から河口までの流域の大部分がV字谷の連続で、

 西郷村小原地区から上流域にかけては深い峡谷が続く。

 上流の椎葉村の中心上椎葉地区では役場や民家が

 谷壁沿いの狭い場所に集落を形成する。

 ここに残る那須家住宅(通称鶴富屋敷)は国指定重要文化財。

 険しい地形が村に隠田集落的性格を与え、

 鶴富姫伝承という平家落人伝説を残したものと思われる。

 山村では谷筋は他地域に通じる往還として重要である。

 上椎葉で分岐する小崎川(一次支流)の谷筋は西米良村に通じ、

 下推葉で分岐する十根川(一次支流)の谷筋は五ケ瀬町鞍岡地区へ通じ、

 現在は小林市から熊本県阿蘇町までの国道265号の一部となっている。

 鞍岡へは従来は国見峠越の難所があったが、

 平成八年(1996)国見トンネル(長さ2777メートル)が開通した。

 七ッ山川(一次支流)の谷筋は飯干峠を経て五ケ瀬町への道

 (国道503号)となっている。

 河口部にある美々津は神武天皇の東征出発の場所と伝えられ、

 戦国時代は細島(現日向市)とともに日向国の要港の一つであった。

 とくに島津氏は瀬戸内海へ出る重要な港湾として利用した。

 戦国期末、日向国は伊東氏を支援する大友氏と

 南から進出した島津氏の勢力に二分されていく。

 天正五年(1577)伊東義祐は

 島津氏によって日向を追われ大友氏を頼ったため、

 翌六年には大友宗麟は日向に侵入し臼杵郡を掌握した。

 大友軍は10月には耳川を越えて

 島津方の守る新納院高城(現木城町)を

 包囲したが落すことはできなかった。

 11月には大友軍の主力と島津軍の主力が

 耳川から高城にかけての一帯で

 激突することになった。

 同月11~12日の高城・耳川合戦で大友軍は殲滅され、

 多くの武将を失い、

 小丸川から耳川に退却する大友軍は島津軍に追撃され、

 一帯は大友軍将兵の死体で埋尽されたという。

 13日には島津軍は耳川を渡り大友軍を掃討し、

 耳川沿いの山毛・坪屋(現東郷町)、田代(現西郷村)をはじめとして

 日知屋・塩見(現日向市)、門川市(現門川町)は

 島津方の手中に入った(「日州御発足日々記」雑録など)。

 ………

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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