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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
阿曇・安曇(79)阿波岐原(あわきがはら):宮崎市
課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
阿波岐原(あわきがはら):宮崎市
大淀川支流別府川北東に位置し、東は日向灘に面する。
[古代]阿波岐原
良期から見える地名。
日向国宮崎郡のうち。檍原とも書く。
「古事記」伊邪那岐命と伊邪那美命条に
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」と見える。
「日本書紀」神代上にも同様の記事が見えるが、
伊弉諾尊が死んだ伊弉冉尊を求めて行った黄泉国からの帰り.
「筑柴の日向の小戸の橘の檍原」でみそぎをしたといい,
この話は、「日本紀略」「類聚国史」「神皇正統記」などにも見える。
なお、中世の神道書である「御鎮座次第記」「御鎮座伝記」によれば、
この時、
伊弊諾尊の左眼から生まれた神が鎮座したのが多賀宮であるという。
さらに、当地名は、伊弊諾尊のみそぎの話として、
住吉神のもととなる底筒・中筒・表筒3神の伝説とともに、
「釈日本紀」や室町初期の縁起「竜田大明神御事」(続群2下)、
室町期の「伊勢物語」注釈書「伊勢物語愚見抄」(統群18)に
継承される一方、
謡曲集に収める「白楽天」や「雨月」に住吉神にかけて
「檍が原」が読みこまれているように、
芸能の重要な素材となったことが知られる。
[近代]「阿波岐原町」
昭和8 年~現在の宮崎市の町名。官崎市江田。
昭和53 年一部が波島1 ~2 丁目となる。
世帯数・人口は、
昭和35年181・952 、同50年747・2,841、同55年692・2,597。
海岸地帯で,海辺を一ッ葉浜といい、
白砂青松の間に式内社江田神社があり、
はるか西方には霧島の霊峰が遠望される。
「古事記」「日本書紀」にある伊井諾尊がみそぎ・祓いをした
「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」はこのーッ葉浜と伝えている。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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