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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
阿曇・安曇(26)カルト人と南メソポタミア
これまでアルパチや遺跡遺跡出土の碗形土器にこだわって、
ハラフ期の北イラクにおける宗教的状況について追求してきた。
紀元前六千年頃
すでに高度に洗練された信仰世界が成立しつつあった
証左がここにあると思われる。
そして、
「祝:はふり」が取り行う祝祭の起源が北メソポタミアにあり、
牡牛の屠殺による奉献が極めて重要な信仰行動であったことが解った。
また、この文化を創造した人たちがカルト人であったこと、
及び彼等は
後になってスバル人と呼ばれたことを確認しなければならない。
南メソポタミアのエリドゥに移住してきた
第一の先住者はどういう人たちであったかが焦点である。
先にはエリドゥに来た人々は
すでに神殿を作る慣習を持つ人々であることを推察した。
そして、これまで傍証してきたとおり
北メソポタミアで高床式神殿を建てる信仰心と技術能力を
獲得したカルト人こそ第一の先住者と考える。
紀元前九世紀になると、南メソポタミアのペルシャ湾沿岸に
カルディア(Chaladae)人と呼ばれる有力な部族が現われる。
彼等は西セム系の民族といわれ、
紀元前十一世紀ころから現在のシリア方面から
アラム人と前後して南下してきた部族とされている。
その民族名について、
故地から持ち込んだ呼称との推察もできるが、
彼等が占拠した地域名に依るものであったとも考えられる。
西セム系であるアラム人の一派との見方もあるが、
文書に表れた両者の関係は明確に区別されている場合が多い。
カルディアの名称は部族名ではあるが、
その居住した地域名に依るものと考えた方がよさそうである。
紀元前八世紀の半ば
新アッシリアの帝王ティグラト・ピレセル三世は
統治政策として被征服民の集団的強制移住を行い、
アラム人をエラム方面に
イスラエル人をアッシリアへ移させたが、
移住させられた人民の名として
オロンテス河畔へ移されたカルトゥ人の名がある。
旧約聖書創世記には
「カルデア(Chaldaea)のウル」の地名が出てくる。
ウル、エリドゥなどユーフラテス川の河口に近い地域で
同河の南岸一帯を当時カルデアと呼んでいたのである。
旧約聖書には創世記のほかに
エゼキエル書、ダニエル書、ハバクク書にも
カルデア人の呼称が出てくる。
その内容からすると、
新バビロニアのユダヤ人
バビロン捕囚の時代及びその後にも
この地方はカルデアと呼ばれていたといってもよいであろう。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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