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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
阿曇・安曇(35)ハンムラビの後継者
超古代にアラビア海から太平洋へ航路を開いた阿曇族
―「船」を家とした人々の来歴―
出典:「古代のメソポタミア」マイケル・ローフ
:朝倉書店
交易と交戦:122~123頁
ハンムラビの王位は争い事もなく
息子のサムス・イルナ継承にされた。
しかし前1742 年、サムス・イルナの治世第9 年、
南の競争相手、ラルサのリム・シン2 世に
ニップルを占領されている。
もっともサムス・イルナが
次の年にニップルの都市支配を奪回しているので、
リム・シンの征服は革命であった。
2 年後の前1739 年、
南メソボタミアにはある災難がおこっている。
ニップル出土の粘土板は、
そのとき経済的にも危機があったということを示している。
土地の価格は落ちこみ、
土地や神官の役所の販売件数は急に増加した。
この災難の一つのあリそうな原因、
サムス・イルナがリム・シンを降伏させるために、
バビロンの南を流れていたユーフラテス川の水を
迂回させたことのようだ。
サムス・イルナの第11年は、
ウルクとラルサの壁の破壊の後、と命名さている。
そしてウルの発掘によれば、
都市が本当にこの時に破壊されたということがわかっている。
リム・シンは最終的には前1737 年に破れた。
ニップルはこの難局をきリぬけたが、
20 年後には、よリ南の諸都市のように見捨てられ、
半世紀間荒れはてた状態におかれていた。
後の伝説によると、海の国第1 王朝が南を支配していたらしいが、
その当時のこの地域での彼らの存在に関する文献や考古学的証拠は、
これまでのところみつかっていない。
とはいえ、バビロンのアムル王朝は生き残リ、
マリ近くまでのユーフラテス川ぞいの諸都市の支配を行使しつづけた。
マリに支配されていた上流の地域では、マリの滅亡後ハナが独立し、
首都テルカのもとに栄えた。
テルカの平凡な家屋の発掘中にみつかった壷型土器には、
メソポタミアの交易網が極東にまでとどいていたことを示す
チョウジが入っていた。
その頃のチョウジの自然生息地は東インドであリ、
東アフリカにもちこまれたのはずっとあとのことである。
古バビロニアによる支配の最後の100 年間、
年名に戦争のことがあげられていない。
しかしこの後半、
とくにアンミサドゥカの治世(前1646-26 ) 考えられる時期に、
二つの重要な文書「アンミサドゥカの勅令」と「金星文書」がある。
アンミサドゥカの勅令は、彼の治世第1 年に発布されておリ、
先の治世の間に増加したアウィルム階級の個人負債
取リ消しのための国王布告であった。
ハンムラビなど初期の支配者たちも国の経済活動を助けるために、
類似した布告を発布してしいる。
金星文書は金星の昇降の観測記録であり、
アンミサドゥカの年名の一つを言及していることから、
おそらく彼の治世年間につくられたと考えられている。
この記録に残っている金星の運行周期は、
ある特定の時期にしかおこりえないものであリ、
その周期のくリ返しには60 年も間があいている。
このため金星文書はアンミサドゥカの治世と
その王朝の他の支配者たちの年代を決める元となっているが、
解釈によって、この時期の編年には、
60 年ないし120 年の違いがある。
(本書で使った)中期編年は、
ハンムラビの治世を前1792-50 年においている。
よリ一般的になってきている長期編年は、
前1848-06 年にハンムラビの治世をおいているし、
アナトリアとレヴァントで仕事をしている
多くの研究者がかつて採用していたが、
今日その信奉者は少数となった短期編年は、
前1728 -1686 年にそれをおいている。
将来うまくいけば、この時代には数千もの粘土板があるのだから、
そのなかで、よリ正確な日付のわかる食のような天文現象と、
この時代の出来事とを結びつけるような文書が発見されるかもしれない。
またはレヴァント地方の調査で、
より確実な証拠によって年代づけられている
エジブトの年代とメソポタミアの年代を
関連させるものがみつかるかもしれない。
古バビロニアの文書に記録されているように
近東の民族移動は絶え間なくつづいた。
かつてはアムル人やフルリ人が
メソポタミアとの抗争をくり返していたが、
その後も続々と新しい民族が流入していった。
力ッシート人はサムス・イルナの治世第9 年に初めて言及されているし、
ヒッタイト人は前16 世紀の初めにメソポタミアに現れたらしい。
ヒッタイト人の王ムルシリは、
前1595 年にユーフラテス川下流に行軍して、
バビロンを略奪、バビロン第1 王朝を滅亡させ、
これまでのところほとんど情報のない
およそ150 年つづく暗黒時代の案内役を務めた。
「写真」上端
ウルク期の粘土板にみられる荷車の絵文字は、
車輪を示す二つの輪がついている以外は、
橇を示すものと同じである。
この石板は雄ウシに曳かせた橇で移動する支配者を示しておリ、
おそらく前3000 年頃のものである。
「写真」二段目
北シリア出土の幌つきワゴン形土製品。
前3 千年紀後半.幌つきワゴンは、
前1 千年紀半ばに近東に侵入した
スキタイ遊牧民にも用いられていた。
「写真」上
戦車を曳いてぺルセポリスの
ぺルシア王のところに向かう
リュディア人を示す浮彫リ。
前485 年頃、戦車は戦争や行列だけでなく
伝令にも用いられ。
「写真」左
ウルの王家の墓地の王妃ブアビの墓から出土した
橇の復元模型。
橇は2 頭のウシが曳いた。
橇はアッシリア宮殿の巨大な有翼雄ウシ石像など
重いものを運ぶのにも用いられた。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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