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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
阿曇・安曇(42)三国志魏書倭人伝
海洋族阿曇族の日本定着と拡大
―魏書倭人章の投馬国と「トミ族」―
出典:東洋文庫「アジア民族史」
290~293頁
「三国志魏書倭人伝」
倭の人々は「帯方〔郡〕の東南にあたる
大海の中の〔島々〕に住んでいて、
山や島によって国や村をつくっている。
もとは百余の国々に分かれていて、
漢の時代には朝見して来る国もあった。
今、通訳をつれた使者が〔中国や帯方郡に〕通って来る所は、
三十国である。
※この部分は、『漢書』地理志の倭人の記事に、
魏醜時代の知議を付加して書いたものである。
〔帯方〕郡より倭に行くには、郡を出発して、
まず海岸に沿って航行し、
韓〔族〕の国々を歴て、
乍(しばらく)は南に、乍は東にすすんで、
その北岸の狗邪韓国に到着する。
〔この間の距離は〕七千余里である。
〔そこから〕始めて一つの海を渡り、
千余里にして対馬国に到着する。
この国の大官は卑狗といい、
次〔官〕卑奴母離という。
住んでいる所に海に囲まれた孤島で、
広さは四百余里四方ほどである。
土地は山が嶮しく、深林が多く、
道路は禽獣が通う小径のようで、狭く嶮しい。
〔家は〕千余戸ある。
良い耕地がなく、人々は海産物を食糧として自活しているが、
船によって南北〔の国々〕から米穀を買い入れてもいる。
次に南へ海を渡り、千余里すすむ。
この海の名は瀚海といい、一大国(壱岐)に到着する。
〔この国の長〕官もまた卑狗といい、
次〔官〕は卑奴母離という。
広さはほぼ三百里四方である。
〔この国には〕竹木や叢林が多く、三千ばかりの家不ある。
耕地は少々あるが、耕地を耕すだけでは
食糧を確保することができないので、
〔対馬国と〕同じく南北から米穀を買い入れている。
また一つの海を渡り、
千余里行って末盧国〔佐賀県松浦郡〕に到着する。
人家は四千余戸あり〔人々は〕山裾や海浜に沿って住んでいる。
草木が繁茂して、
〔道を〕すすんでいっても前に行く人の
姿を見ることができない〔ほどである〕。
〔この国の人々は〕魚や鰒を捕らえることが得意で、
水の深浅に関係なく水中に潜っては
それら(魚やあわび)を捕えている。ニ
陸上を東南に五百里すすむと、
伊都国(福岡県糸島郡)に到着する。
〔長〕官は爾支といい、
次〔官〕泄謨觚と柄渠觚という。
人家は千余戸ある。
代々国王がいて、みな女王国に統属している。
〔ここは帯方〕郡からの使者が
倭と往来する時に常に駐まるところである。
〔伊都国から〕東南に百里すすめば奴国(福岡市)に到着する。
〔長〕官は兕馬觚といい、
次〔官〕は卑弥母離という。
二万余戸の人家がある。
〔奴国から〕東に百里すすめば不弥国に到着する。
長〔官〕は多模といい、次〔官〕は卑奴母離という。
千余戸の人家がある。
〔不弥国から〕南へ水行二十日すすむと投馬国に到着する。
〔長〕官は弥弥、次〔官〕弥弥那利という。
五万余戸の人家がある。
〔投馬国から〕南にすすみ邪馬壹国に到着する。
ここは女王の都している所であり、
〔投馬国から〕水行十日、陸行一ヶ月〔の日数が〕かかる。
〔長〕官には伊支馬があり、
次〔官〕を弥馬升、
次を弥馬獲支、
つぎを奴佳鞮といい、
七万余戸〔の人家〕がある。
女王国より北にある国々については、
その戸数やそこへ行く道里(みちのり)を
だいたい記載することができるが、
その他の周囲の国々は遠く距っていて
〔それらの戸数や道里を〕詳細に知ることができない。
帯方郡
↓ 水行七千里
狗邪韓国(金海)
↓ 渡海千里
対馬
↓ 渡海千里、千余戸
一大(壱岐):一支、三千許家
↓ 渡海千里
末盧(松浦)
↓ 陸行東南五百里
→伊都国(糸島) → 奴国(博多 → 不弥
東南百里 ↓ 南水行二十日
投馬
↓ 南水行十日(1ヶ月)
陸行1ヶ月(十日)
邪馬壹
※伊都国から放射状に奴国以下をおく説がある。
つぎに斯馬国があり、つぎに巳百支国、つぎに伊邪国、
つぎに姐奴国、つぎに対蘇国、つぎに蘇奴国、つぎに呼邑国、
つぎに華奴蘇奴国、つぎに鬼国、つぎに為吾国、つぎに鬼奴国、
つぎに邪馬国、つぎに躬臣国、つぎに巴利国、つぎに支惟国、
つぎに烏奴国、つぎに奴国(重複か)などの国々がある。
ここまでが、女王の支配している領域である。
その南には狗奴国があり、男子が王となっている。
その〔長〕官に狗古智卑狗がおり、この国は女王に服属していない。
帯方郡より女王国に至る間の距離は一万二千余里である。
〔倭〕の男子は、大人・小人の〔身分の〕別なく、
みな顔や身体に入墨している。
古くから〔倭〕の使者は中国に来ると、
みなみずから大夫と称している。
〔その昔〕夏〔王朝の第六代の皇〕帝 少康の子が
会稽(浙江省紹興市地方)に封ぜられた時、断髪し入墨して
蛟竜(みずち)の害をさけ〔身体を守っ〕た。
いま倭の水人が水中にもぐって魚や蛤を捕えるのに入墨するのは、
〔少康の子と同じように〕
大魚や水鳥の害を防ぎ〔身体を守る〕ためである。
しかし今ではそれが次第に飾りにもなっている。
〔倭の〕諸国ではそれぞれに入墨の仕方も異なり、
或いは左に、或いは右に、或いは大きくし、或いは小さくし、
また尊卑〔の身分〕によって〔入墨に〕違いがある。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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