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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
セブンネット
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
≪アズミ族の正体≫漢委奴国王:「なぞ!ふしぎ!世界の遺跡探検」
出典:「なぞ!ふしぎ!世界の遺跡探検」
:岩田 一彦
:理論社
「2000年も前の日本と中国の交流を明らかにした印」
江戸時代の中ころにあたる1784年のことです。
博多湾に浮かぶ小さな志賀島で、
甚兵衛さんという百姓が、
海辺に近い田でミゾを修理していました。
大きな石が出てきたので、掘り起こしました。
すると、その底にキラッと光るものが
見えるではありませんか。
それをとり出した甚兵衛さんは
ビックリギョウテンしました。
いったい、それは何だったのでしよう。
「紀元1世紀の中国と日本」
中国の後漢王朝の歴史を記した『後漢書』とい書物に、
「紀元57年に、
倭の奴国の使者が後漢の首都洛陽をおとずれ、
みつぎものをさし出すと、よろこんだ皇帝は、
この使者に組みひものついた印をあたえた」
という記述があります。
このように中国の古い歴史書が伝えていることは、
ほんとうのことか、また事実としたら、
この印はどこにあるのか、
はっきりしないまま長い時がすぎました。
「発見された金印か争わかったこと」
甚兵衛さんが発見したのは、
1辺がおよそ2.3cm の正方形で、高さが2.2.cm 、重さが約108. 7g で、
純金でつくられた印でした。
印は「漢委奴国王」という漢字が3行で彫られ、
つまみはへビがとぐろをまいている形をしていて、
ひもを通す穴があいていました。
「漢」は漢王朝、「委」は「倭」のことで、
当時、中国で日本のことを示す呼び名でした。
「奴」は、
弥生時代に北九州の福岡平野にあった小さな集落の一つです。
印は
日本にあって、
漢王朝につかえる奴という国の王であることをみとめる
ということを意味しています。
こうして、志賀島で発見された金印は、
後漢の皇帝が奴という国の使者におくったものと
考えられるようになったのです。
「中国の中華思想」
古くから中国では、自分たちが世界の中心に位置し、
すべてにわたってすぐれている
ただ1 つの文明世界であるという考え方が根強くあります。
これを「中華」思想といいます。
中国の皇帝は、中華をしたってみつぎものをさし出した
外国とだけ外交関係をもちました。
そして、外交関係をもつにあたっては、
それらの国の王や支配者に中国の役職の肩書きをあたえて、
中国の皇帝の家来であるかのようにあつかいました。
2つの国の関係をはっきり示すものが、
この印をあたえるという儀式だったのです。
印はランクによって金印、銀印、銅印があり、
つまみも、方民族にはラクダ、
南方民族にはヘビの彫刻でかざったものをおくりました。
「漢委奴国王」の金印も、その1 つでした。
3世紀前半、耶馬台国の女王卑弥呼も、
魏という中国の王朝から、
金印と、それを肩からかける紫の組みひもや
銅製の鏡などをおくられたと、
『魏書倭人章』という書物に記されています。
「写真」福岡県志賀島の金印公園
「写真」金印の前景
「写真」金印の印面
「写真」金印を捺印した印影漢委奴国王の金印:「なぞ!ふしぎ!世界の遺跡探検」
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