2015年8月9日日曜日

筑紫と奴国

 『浦和レッズレディース』 猶本光サポーターズサイト
 『ひねもす至福の時』
 『誕生日の花と花ことば』
 『湘南ベルマーレ』
《明星院・広島県(歴史&地名)他》
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『madiのブログ』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫筑紫と奴国

 筑紫:筑紫(ちくしのし)「ちくし」とも呼んだ(続風土記拾遺)。

  地名の由来は鞍韉を摩りつくす険しい坂があったためとも、

  人の命をつくす神がいたことによるとも、

  その死者を葬る棺を作るため

  山の木を切りつくしたことによるともいう(筑紫風土記逸文)。

  筑紫倉吉遺跡(弥生時代~古墳時代)、名越古墳、兄弟塚古墳、

  筑紫氏居館跡、薬水墓、筑紫神社がある。

  筑紫神社(筑紫野市)筑紫野市原田字森本にある神社。

  延喜式内社、祭神は筑紫神(白日別命)、坂上田村麻呂、宝満神。

  「筑紫国風土記」は筑紫国・筑紫神の名の由来についての説話を記し、

  元来、ものを尽くすという意味の「ツクシ」が始まりであるという。

  また同書によれば、

  古代の豪族である筑紫君と肥君が祭祀に係わっており、

  この神社の起源が極めて古いことを示しているが、

  創建の時期は不明。

  「三代実録」に依れば、

  貞観元年(859)従五位下に、元慶3年(879)には従四位上に叙されいる。

  「延喜式」神名帳の筑紫国御笠郡に「筑紫神社名神大」と見える。

  天元2年(979)2月14日の太政官符(宗像郡誌)によれば、

  住吉、香椎、筥崎、竉門などの筑前国の有力神社と同様、

  大宮司職の存在が確認され、

  中世を通じても少弐氏庶流筑紫氏が社司となり、

  多くの神官・社僧を擁して勢力を誇っていたらしいが、

  筑紫氏の没落とともに衰微して近世に至った。

  例祭日10月20日。

  筑紫野(筑紫野市)背振山地と三郡山地に挟まれて位置する。

  中央部に平野があり、鷺田川、高尾川が北流して御笠川に注ぎ、

  背振山地に源を発した山口川は

  三郡山地に源を発した宝満川に注いで南流する。

  古くから交通の要衝として開けた所で、

  筑紫の地名の起源ともいわれる式内社筑紫神社が原田に鎮座し、

  その付近には装飾古墳の吾郎山古墳がある。

  武蔵には7世紀の寺院跡、塔原寺の塔心礎があり、

  「万葉集」にも詠われた武蔵温泉がある。

 武蔵:むさし(武蔵野市)背振山地東端天秤山の東麓に位置する。

  原口遺跡、大刀洗町遺跡など弥生時代の遺跡が多く、

  ほかに八隅古墳、原口古墳、武蔵寺経塚郡・武蔵寺跡がある。

  湯町は古くから温泉で知られ

  (一説に白鳳12年<672>に湯が出始めたという)。

  古くは吹田(すいた)の湯と言った。

  筑紫氏の城であった天拝山古城址がある(続風土記拾遺)。

  天拝山は、菅原道真が

  7日間籠って無実を天に訴えた場所であると伝え(太宰菅内誌)。

  文明12年宗祇の記した「筑紫道記」に

  「天拝ヶ岳をはるかにみて、なを御神の名残も浅からず」と

  みえる(郡書18) 

  [中世]武蔵村 戦国期にみえる村名。筑前国御笠郡のうち、

  「正任記」所引の文明10年(1478)10月10日の渋川教直書状案に、

  少弐政資の残党が武蔵に籠っていることが記されている(博多史料2)。


 常松:つねまつ(筑紫野市)恒松とも書く。

  [中世]恒松 戦国期にみえる地名、筑前国御三笠郡のうち、

  文明10年10月15日「正任記」三笠郡恒松七町五段地。

 上古賀:かみこが(筑紫野市)上空閑とも書く。

  空閑は古くは荒地を意味するので、地名は荒地を開発したことに因み、

  後、好字の古賀を当てたものか。

  [中世]上空閑 戦国期にみえる地名。

  文明11年11月19日の少弐政資安堵状に

  「三笠郡上空閑八拾町」 とみえ、筑紫満門に安堵している。

 原田:はるだ(筑紫野市)昭和24年に国史跡に指定された

  装飾古墳の吾郎山古墳を始め遺跡が多い。

  [中世]原田村、戦国期にみえる村名。

 「万葉歌」

  天平元年(728年)前後の太宰師で万葉歌人でもある大伴旅人は

  次田(すぎた)温泉に宿し、

  「湯の原に鳴く葦鶴は吾ごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く」と詠んだ。

  この次田温泉は藤原登羅麿(虎丸長者)の発見と伝え、

  二日市温泉として現在に至っている。
 
  また、彼が発願した寺は武蔵国から来た僧が完成させたので、

  武蔵(むぞう)寺と号したというが蘇我日向の建立で、

  寺号は彼の号に因むとする異伝もある。

 古賀:こが(筑紫野市) 

  地名は荒地を意味する空閑(こが)に由来にするが、

  山の口遺跡、扇祇古墳、古賀古墳がある。

  また、虎丸長者宅跡があった(続風土記拾遺)。

  [近世]古賀村 江戸期~明治22年の村名。

  古くは井手古賀村といい(慶長国図絵)、

  「元禄郷帳」にも「古くは井手古賀村」と注記されている。

  天正年間の「指出前之帳」では武蔵村井手古賀村となっているが、

  分かれて井手古賀村となり、

  その後古賀村と称するようになったという(続風土記拾遺)。

 「古賀」把木町、水巻町、柳川市、太宰府市(通古賀)、遠賀町(今古賀)、
  
    甘木市、朝倉町(古毛)、久留米市(原古賀)、大木町(絵下古賀)、

    三橋町(今古賀)

        ※但し、古賀市の場合は(Sk.),כהַגַ,khaga, 小鳥

    <佐賀県>佐賀市、鳥栖市、多久市(古賀ノ宿)、有明町、

        牛津町、厳原町、浜北町(五ヶ山組)

    <熊本県>植木町(古閑)、岱明町(古閑)、富合町(古閑)、

        砥用町(古閑)、益城町(古閑)、八代市(古閑)、

        山鹿市(古閑)、熊本市(子養<養郷>)、千丁町(古閑出)、

        一の宮町(古閑の滝、久家村:こがむら/古閑之村)、

        水俣市(古賀町)、甲佐町(古閑村)、泗水町(古閑村)、

        北部町(古閑村)、鹿央町((古閑原村)、菊池市(虎口:こく)
 
    <長崎県>長崎市(古賀)、諫早市(小ヶ倉)、大村市(古賀島町)、

        国見町(古賀村)

0 件のコメント:

コメントを投稿