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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
セブンネット
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
≪アズミ族の正体≫筑紫と奴国
筑紫:筑紫(ちくしのし)「ちくし」とも呼んだ(続風土記拾遺)。
地名の由来は鞍韉を摩りつくす険しい坂があったためとも、
人の命をつくす神がいたことによるとも、
その死者を葬る棺を作るため
山の木を切りつくしたことによるともいう(筑紫風土記逸文)。
筑紫倉吉遺跡(弥生時代~古墳時代)、名越古墳、兄弟塚古墳、
筑紫氏居館跡、薬水墓、筑紫神社がある。
筑紫神社(筑紫野市)筑紫野市原田字森本にある神社。
延喜式内社、祭神は筑紫神(白日別命)、坂上田村麻呂、宝満神。
「筑紫国風土記」は筑紫国・筑紫神の名の由来についての説話を記し、
元来、ものを尽くすという意味の「ツクシ」が始まりであるという。
また同書によれば、
古代の豪族である筑紫君と肥君が祭祀に係わっており、
この神社の起源が極めて古いことを示しているが、
創建の時期は不明。
「三代実録」に依れば、
貞観元年(859)従五位下に、元慶3年(879)には従四位上に叙されいる。
「延喜式」神名帳の筑紫国御笠郡に「筑紫神社名神大」と見える。
天元2年(979)2月14日の太政官符(宗像郡誌)によれば、
住吉、香椎、筥崎、竉門などの筑前国の有力神社と同様、
大宮司職の存在が確認され、
中世を通じても少弐氏庶流筑紫氏が社司となり、
多くの神官・社僧を擁して勢力を誇っていたらしいが、
筑紫氏の没落とともに衰微して近世に至った。
例祭日10月20日。
筑紫野(筑紫野市)背振山地と三郡山地に挟まれて位置する。
中央部に平野があり、鷺田川、高尾川が北流して御笠川に注ぎ、
背振山地に源を発した山口川は
三郡山地に源を発した宝満川に注いで南流する。
古くから交通の要衝として開けた所で、
筑紫の地名の起源ともいわれる式内社筑紫神社が原田に鎮座し、
その付近には装飾古墳の吾郎山古墳がある。
武蔵には7世紀の寺院跡、塔原寺の塔心礎があり、
「万葉集」にも詠われた武蔵温泉がある。
武蔵:むさし(武蔵野市)背振山地東端天秤山の東麓に位置する。
原口遺跡、大刀洗町遺跡など弥生時代の遺跡が多く、
ほかに八隅古墳、原口古墳、武蔵寺経塚郡・武蔵寺跡がある。
湯町は古くから温泉で知られ
(一説に白鳳12年<672>に湯が出始めたという)。672>
古くは吹田(すいた)の湯と言った。
筑紫氏の城であった天拝山古城址がある(続風土記拾遺)。
天拝山は、菅原道真が
7日間籠って無実を天に訴えた場所であると伝え(太宰菅内誌)。
文明12年宗祇の記した「筑紫道記」に
「天拝ヶ岳をはるかにみて、なを御神の名残も浅からず」と
みえる(郡書18)
[中世]武蔵村 戦国期にみえる村名。筑前国御笠郡のうち、
「正任記」所引の文明10年(1478)10月10日の渋川教直書状案に、
少弐政資の残党が武蔵に籠っていることが記されている(博多史料2)。
常松:つねまつ(筑紫野市)恒松とも書く。
[中世]恒松 戦国期にみえる地名、筑前国御三笠郡のうち、
文明10年10月15日「正任記」三笠郡恒松七町五段地。
上古賀:かみこが(筑紫野市)上空閑とも書く。
空閑は古くは荒地を意味するので、地名は荒地を開発したことに因み、
後、好字の古賀を当てたものか。
[中世]上空閑 戦国期にみえる地名。
文明11年11月19日の少弐政資安堵状に
「三笠郡上空閑八拾町」 とみえ、筑紫満門に安堵している。
原田:はるだ(筑紫野市)昭和24年に国史跡に指定された
装飾古墳の吾郎山古墳を始め遺跡が多い。
[中世]原田村、戦国期にみえる村名。
「万葉歌」
天平元年(728年)前後の太宰師で万葉歌人でもある大伴旅人は
次田(すぎた)温泉に宿し、
「湯の原に鳴く葦鶴は吾ごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く」と詠んだ。
この次田温泉は藤原登羅麿(虎丸長者)の発見と伝え、
二日市温泉として現在に至っている。
また、彼が発願した寺は武蔵国から来た僧が完成させたので、
武蔵(むぞう)寺と号したというが蘇我日向の建立で、
寺号は彼の号に因むとする異伝もある。
古賀:こが(筑紫野市)
地名は荒地を意味する空閑(こが)に由来にするが、
山の口遺跡、扇祇古墳、古賀古墳がある。
また、虎丸長者宅跡があった(続風土記拾遺)。
[近世]古賀村 江戸期~明治22年の村名。
古くは井手古賀村といい(慶長国図絵)、
「元禄郷帳」にも「古くは井手古賀村」と注記されている。
天正年間の「指出前之帳」では武蔵村井手古賀村となっているが、
分かれて井手古賀村となり、
その後古賀村と称するようになったという(続風土記拾遺)。
「古賀」把木町、水巻町、柳川市、太宰府市(通古賀)、遠賀町(今古賀)、
甘木市、朝倉町(古毛)、久留米市(原古賀)、大木町(絵下古賀)、
三橋町(今古賀)
※但し、古賀市の場合は(Sk.),כהַגַ,khaga, 小鳥
<佐賀県>佐賀市、鳥栖市、多久市(古賀ノ宿)、有明町、
牛津町、厳原町、浜北町(五ヶ山組)
<熊本県>植木町(古閑)、岱明町(古閑)、富合町(古閑)、
砥用町(古閑)、益城町(古閑)、八代市(古閑)、
山鹿市(古閑)、熊本市(子養<養郷>)、千丁町(古閑出)、
一の宮町(古閑の滝、久家村:こがむら/古閑之村)、
水俣市(古賀町)、甲佐町(古閑村)、泗水町(古閑村)、
北部町(古閑村)、鹿央町((古閑原村)、菊池市(虎口:こく)
<長崎県>長崎市(古賀)、諫早市(小ヶ倉)、大村市(古賀島町)、
国見町(古賀村)
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