2015年8月31日月曜日

角と「メ」信仰


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫角と「メ」信仰

  シュメル語における角を表す用語は si であることは

 すでに紹介した。

 この si の発音はどちらかというと

  qi に近かっただろうと思われる。
 
  si を含む王子を表す patesi は

 サンスクリット語の同義 pataka と同根語とみられるが、

 ここでは ka と表音されている。

  si と表記される角は

  khald の語頭の残存であると判断できるのである。

 サンスクリット語には

  arāda という「長い角のある」を意味する用語が、

 あるいは「登ること」に係わる ārudha ないし ārudhi

 という用語があり、

 アッカド語の aradu (降りる) に対応する。

 これらは都市名エリドゥ Eridu 関係すると思われ、

 Eridu は khald の二千年を経た後の転訛である可能性もある。

 角 khald が階段 galam を象徴していただろうことは

 すでに推察した。

 王子を表すシュメル語には patesi のほかに nun がある。

 『シュメルの王名表』の冒頭に表れる

 「王権が天下から下った時エリドゥに王朝が成立した」の

 エリドゥの都市名である

 ヌンキ nunki は「角の王子」の市と解釈することもできる。

 そうすると、

  patesi の同義語とされる ensi は

 「地方長官」の意味もあるが、

  エリドゥの都市であることになり、

 エリドゥ市の守護神ということにもなる。

  Enki であることになり、

 エリドゥ市の守護神ということになる。

  En は長官とともに「主」を表すので「角の主」となる。

 これまでエンキ神について、

 その神話から「地の主」との理解が一般化しているが、

 ジャン・ボデロが「メソポタミア」の中で

 「その正確な意味は確かめられていない」

 と述べるよう

 「地の主」と解釈するだけでは十分でないのである。

 参照のために角を意味する

  ペルシャ語は shākh 、

  バローチー語は hānt 、

  スィンディ語では siñu

 であることを付け加えておきたい。

 また、

 ギリシャ語の έρδω は「犠牲を献げる」を、

 άρδωは「灌水(家畜に)水を飼う」を意味する。

  角を表す si の絵文字※の形象がエリドゥ遺跡から

 発見された釘状の土器と関係あるだろうことを先に述べた。

 この丁字形の角を模したと思われる楔形文字が

 シュメル語 me の礎でもあろう。

 「メ me 」は「信託、天測、律法、摂理」を意味するが、

 重要事項は神話においてそれが原初的に

 エンキ神の持ち物であったことである。

 粘土で焼成された角状の si は

 エンキ神の象徴であったと解釈できる。

 さらに、

  me は「高み」を意味する mah と発音が近似しており、

 e-mah 寺院の「高み」から抽象化されたと考えられる。

 高床式神殿の概念が踏襲されているようなにみられるのである。


  si は角を意味するとともに「眼」としても使われた。

 シュメル語の「眼」を表す楔形文字は※で me の同類である。

 ※は igi と読まれるが、この用語は興味深い。

 目を意味する

  ドイツ語は Auge 、

  英語は eye であるが、

 それぞれ「自己」を表す一人称主語となり、

  Ich(ドイツ語)、

  I(英語)へと転換され、

 「自己の、わたしの」を表す所有格は

  my(英語)、

  mein(ドイツ語)、
 
 目的格「自己を、わたしを」は

  me(英語)、

  mich(ドイツ語)となり、

 目は自己を表す用語と直接的な関係を持っている。

 バローチ語では一人称単数の主語

 「わたし」は man で、

 一人称複数「我々」は mā で

 所有格が may となる。

 また、

 グルジア語の一人称単数の「わたし」は me で

 複数「我々」はスバルと関係するが tschven である。

 シュメル語の me も指示動詞「ある」の意味で使われているが、

 また me は「眼」であるとの解釈も成り立ってくる。

 日本語での「眼」の訓読は「メ」であり、

 また死語になっているが「マツ」と呼ばれた。

 睫は「マツゲ」つまり「眼の毛」で眼は「マツ」である。

 この me 及び mat は日本語だけに特異な用法ではない。

  サンスクリット語に mat 、

  ギリシャ語に mati とあるばかりでなく、

 中本正智が『日本語の系譜』で

 その調査を発表しているように

 ヨーロッパ、アジアに広がっている。

  Me は「眼」を表すばかりではない。

 日本語で

 「台風の目」といわれるように
 
 「その中心」を意味するが、

 英独語の例にみられるとおり、

 「自己・主体」に係わる用語である。

 インド・ヨーロッパ語圏において

 「自己・主体」を表す用語は「スバル」に係わる。

 「スワ sva ・ スヴェ swe 」である。

 例を挙げると、インドの十九世紀植民地からの独立運動を

 スワデシュ Svadesh 運動、

 現在のアフリカ南部にある国名 スワジ Swazi 、

 スイス Swiss の国名から スラブ Slav の民族名まで、

 さらに日本の諏訪から太平洋の ハワイ Hawai まで関係する。

 スバルは十字紋、卍字紋が起源であることはすでにみたが、

 十字紋の交差点、卍字紋の中心を me というのである。

 北メソポタミアからスバル人とも呼ばれたカルト人が

 南メソポタミアへ持ち込んだ

 高床式神殿の象徴「牛頭」は

 エリドゥの神殿における信仰の歴史のなかで、

 「 me 」に変身したのである。

  この me の信仰を最も盛大に行ったのが

 スバル人たちと思われる証拠が」ある。

 スバル人の土地を流れている大河はティグリス河で、

 ギリシャ人が虎の意味で付名したものであること、

 またその名が Dicle 河であることを述べたが、

 この ディクル は虎を意味していない。

 円いもの、敷衍されて、眼ないし瞼を表す。

 シュメル語によるティグリス河の呼称は idigna である。

 これまでアラビア語による解釈によって

 「急流の河」などと解釈されてきたが、

 「眼の河」と考えられるのである。

 シュメル語で id は川を、

 igna は igi-na の短略語で「眼の」を意味すると解釈できる。

  ハブール川がトルコ国境から多くの支流を集めるながら

  西流し、 

 西方から流れ来るシャブール川と合流して

 南流する地点の少々東に

 テル・ブラク Tel-Blak 遺跡がある。

 遺跡名は現代名であるが、

 Blak はアルパチア遺跡の碗形土器の垂幕に推察した

 brag に係わる聖所の呼称であろう。

 この遺跡の紀元前四千年紀の神殿から

 「眼の偶像」と呼ばれる石に彫られたか焼成粘土で作られた

 高さ二から十一センチメートルの奇妙な像が

 三百体も数千個の破片とともに発見された。

 この神殿跡にはこのような偶像が

 二万個は埋まっていると推測されている。

 同様の像は同時期の遺跡、例えば

 シンジャール山脈のグライ・レシュ遺跡などからも

 発見されており、

 奉納のためのシンボルと考えられている。

 エリドゥ神殿の丁字形粘土焼成品と同じ役目である。

 偶像の形象は「二つの眼」と思われる造形が強調され、

 人間の上半身から腕や手・頭の部分は元より

 鼻や口耳などを除いた、

 時には台の上にドーナツ状の輪を二つ造形しただけの

 像さえある。

 神殿の内部には十字形の中央広間が組み込まれていた。

  規模は百十ヘクタールの広さがあり、

 ウルク後期に当たる南メソポタミアの

 ウルクの市の神殿と同等の大きさで

 内部装飾も壁画を石製の円花飾りと

 テラコッタのコーンで構成したモザイク、

 祭壇には色石で継ぎ合わせた帯状装飾と

 金の帯が組み込まれているなど、

 ウルクの市の神殿に匹敵するものであったことが知られる。

 テル・ブラクのある地籍はスバルトゥの重要な地域で、

 スバル人によって創建されたと十分考えられる。

 これは、紀元前四千年紀から紀元前三千年紀にかけて

 後期ウバイド期文化が北メソポタミアへ影響した結果である。

 その文化的特性は煉瓦による神殿造営を第一の要素とする。

  Me の信仰が北上し、信仰の象徴として

 「眼の偶像」の神殿が作られたのである。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年8月30日日曜日

カルト人と南メソポタミア


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫カルト人と南メソポタミア

  これまでアルパチや遺跡遺跡出土の碗形土器にこだわって、

 ハラフ期の北イラクにおける宗教的状況について追求してきた。

 紀元前六千年頃

 すでに高度に洗練された信仰世界が成立しつつあった

 証左がここにあると思われる。

 そして、

 「祝:はふり」が取り行う祝祭の起源が北メソポタミアにあり、

 牡牛の屠殺による奉献が

 極めて重要な信仰行動であったことが解った。

  また、この文化を創造した人たちがカルト人であったこと、

 及び彼等は

 後になってスバル人と呼ばれたことを確認しなければならない。

  南メソポタミアのエリドゥに移住してきた

 第一の先住者はどういう人たちであったかが焦点である。

 先にはエリドゥに来た人々は

 すでに神殿を作る慣習を持つ人々であることを推察した。

 そして、これまで傍証してきたとおり

 北メソポタミアで高床式神殿を建てる信仰心と技術能力を

 獲得したカルト人こそ第一の先住者と考える。

 紀元前九世紀になると、南メソポタミアのペルシャ湾沿岸に

 カルディア(Chaladae)人と呼ばれる有力な部族が現われる。

 彼等は西セム系の民族といわれ、

 紀元前十一世紀ころから現在のシリア方面から
 
 アラム人と前後して南下してきた部族とされている。

 その民族名について、

 故地から持ち込んだ呼称との推察もできるが、

 彼等が占拠した地域名に依るものであったとも考えられる。

 西セム系であるアラム人の一派との見方もあるが、

 文書に表れた両者の関係は明確に区別されている場合が多い。

 カルディアの名称は部族名ではあるが、

 その居住した地域名に依るものと考えた方がよさそうである。

  紀元前八世紀の半ば

 新アッシリアの帝王ティグラト・ピレセル三世は

 統治政策として被征服民の集団的強制移住を行い、

 アラム人をエラム方面に

 イスラエル人をアッシリアへ移させたが、

 移住させられた人民の名として

 オロンテス河畔へ移されたカルトゥ人の名がある。

 旧約聖書創世記には

 「カルデア(Chaldaea)のウル」の地名が出てくる。

 ウル、エリドゥなどユーフラテス川の河口に近い地域で

 同河の南岸一帯を当時カルデアと呼んでいたのである。

 旧約聖書には創世記のほかに

 エゼキエル書、ダニエル書、ハバクク書にも

 カルデア人の呼称が出てくる。

 その内容からすると、

 新バビロニアのユダヤ人

 バビロン捕囚の時代及びその後にも

 この地方はカルデアと呼ばれていたといってもよいであろう。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
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2015年8月29日土曜日

太陽神


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫太陽神

 アルパチヤ遺跡ではハラフ期の終末、

 紀元前五千四百年頃にも彩色土器が盛んに作られたが、

 その中には菊花紋を意匠した大皿などが出土している。

 アッシリア時代になって菊花紋は太陽神で帝王の守護神

 アッシュル Assur の象徴となる。

 同紋様の起源がエジプトにあるとの解釈も

 これまでにされてきたが、

 アッシリア王が「角のついた王冠」を

 いただいていることを考えると、

 やはり北メソポタミア土着文化の継承と

 判断した方がよさそうである。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
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2015年8月28日金曜日

高床式神殿の祭神:創造主


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫高床式神殿の祭神:創造主

 碗形土器には垂幕の図絵が二ヶ所に描かれている。

 双方とも幕の端に房を付けているので、

 明らかにベイル veil である。

 一方のベイルは髪の長い二人の女性の手によって

 掲げられている。

 布幕の中は空白で何も無い。

 ベイルとは何かを覆い隠す幕のことであり、

 その向こうに何かが存在するが、

 空白はそれを敢えて語らないことにしている意思の表明である。

 この図柄から読み取ることができる状況は

 まさに「ありてなきもの、なきてあるもの」を見る者が

 感得しなければならない形而上学的表現である。

 しかし、

 「なきもの」の実体を推測するための材料が

 全く提供されていない訳ではない。

 まず布幕に付けられている房は紐状で、

 幕の内が神聖な場所(聖所)ないし事柄を秘めていること

 及び二人の女性が侍していることから

 女性に係わる秘所であると思われる。

 ベイルは英語の呼称ではあるがヒントがある。

 シュメルの絵文字を捜っていくと、

 この図柄に酷似した文字「絵文字」があり、

 シュメル語で bar と読まれ、

 「聖所」の意味であり、 veil と近似している。

 絵文字には碗形土器の意匠では空白であった囲みの中に

 V のマークが書かれているが、

 これは土器の女性にも白抜きで逆三角形が取られているように

 女性の性器の象徴であり、

 幕の内に女性が坐すことを示している。

 シュメル語 bar を同じ英語に捜ってみると bear があり、

 その意味は「子供を産む」であるばかりでなく

 「支える、持つ」の字義があり、

 二人の女性が垂幕を支え持っている行為自体が

 「出産」を表意していると解釈できる。

 産み出す役目をするのは母の役割である。

 この幕の内には母神が坐すことが解ってくる。

 シュメル時代に実在した王の名ドゥムジは

 アッカド語に tammuz と転訛し、

 神格化され賛美歌が寄せられているが、

 その中で「太古の母」である zikum とすでに紹介した

 「天空」が名指しされていると同時に

 「空を横断する偉大な母」と太陽を想起させる表現がある。

 シュメル語では母は「アマ ama 」といい、

 絵文字では「米□」と描かれ、

 天空 zikum 「絵文字」を神「絵文字」が移動していく図柄で、

 楔形文字では「絵文字」となり天空の中を神が動くことを示す

 「絵文字」が付け加えられている。

 明らかに母神が太陽である証明となっている。

 ここで、

 巻頭に紹介した日本の信濃風土記逸文に残る

 「箒木」を思い出していただきたい。

 あるとみえるが、近づくと見えないというのが主旨であった。

  目を直に向けると眩みして

  何も見えなくなる現象といったものと考えれば

  碗形土器の幕の内に何も描かれていない意図は

 太陽を表していると理解できる。

 因みに tammuz は聖木の呼称となっており

 「箒木」に対応される。

 絵文字「楔形文字」には bar より古いとみられる

 barg という訓読があり、

 同じく聖所を意味する。

 この用語はサンスクリット語に入って praja となって、

 「出産する、生じる」を

 名詞形で「生殖・繁殖・子孫・創造物」を意味する。

 構成用語 pra- は英語の pre- に対する

 接頭語(先の、前の)であるが、

 親族関係に使われると祖あるいは曽の内容となる。

 Ja は jan と同義で

 歴史がヴェータ時代に諸神を主宰する至上の神で

 「子孫の主」であるが、

 また

 「生産の主、繁殖を司る守護神、生命の保護者、創造主」と

 神話の中で高い地位を与えられた。

 同類語 prajňa は「知恵」を意味するが

 prajňa-pāramita は般若波羅蜜多、

 つまり「般若経」の祖語で最高度の知識

 または理解を示している。

 この合成語を解釈すれば、「原初の起源を知る」ことで、

 般若経の条句「色即是空」を悟ることとなる。

 以上のことから碗形土器に描かれた二人の女性が

 保持する垂幕意匠には

 太陽に象徴されるた大母神である創造神への信仰が

 込められているとしてよいであろう。

 となるように、

 グルジア語も本来は ha(b) eri であったと考えられる
 
 カルト語では……?……

 また、

 マルタ語の huburu に係わり

 碗形土器のヴェールの向こう(の大母神)の性格を示唆している。

 現在のカトリック教修道女の衣裳やイスラエル教の女性が

 外出する際に身を覆い、顔を隠すベイルの起源はすでに

 この紀元前六千年前のアルパチヤの碗形土器に

 その端緒があるともいえる。

 ところでシュメルの神を表す絵文字「」は

  dingir とは別に

 「天」を表す「アン an 」とも読まれる。

 シュメルの三大神のうちのアン神は

 アッカド語でアヌ anu と転訛するが、

 シュメルの神話における天の諸神の父である

 始祖神の地位にある。

 シュメル語の対称によると

 母神 ama に対して an は父神である。

 サンスクリット語 jna はこの an の転訛と考えられ、

 「主・支配者・太陽」の字義ではsるが

  jan の派生語と思われる。

 また、 janaka は Enki の転訛であろう。

  Enki の意味も父ではあるが、

 「創造主」と称した方がよいであろう。

 メソポタミアとインダス文明との関係について

 ここで多くを語ることはできないが、

 インダス河の河口地帯の西に Kirthar 山脈があり、

 そこを流れる川が Hab 川で、

 その河口のアラビア海に向かった

 前のパキスタンの首都 Karachi の名称は

 カルト人が移動したか影響された遺称で、

 古代からの地域名 Sindh は

  Singar あるいは dingir の祖語の転訛であると考えられる。

 インドの創世神話に語られる

 太初からの四っの時代(ユガ)のうち、

 第一の黄金時代をクリタユガ krta-yuga というのも

 示唆するところがある。

  Krta は「作られた」ではあるが、聖紐の意味もある。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
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 鳥居のルーツ

2015年8月27日木曜日

高床式神殿の祭神:水神


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫高床式神殿の祭神:水神

 アルパチヤの碗形土器には

 二人の人間の身長よりも大きい壺が描かれている。

 壺はアッカドのマルドゥク王の場合のように

 王の象徴でもあった。

 ハラフ期・ウバイド期の神殿に残された壺の中からは

 穀物、動物の骨、魚の骨などが発見されていて、

 神殿への奉納のための容器として使われたことを示している。

 しかし、牛頭・マルタ十字紋と並列された壺には

 単なる貯蔵用容器を表すだけでない

 神への期待が込められている。

 「水の恵み」を祈願しているものとみられるのである。

 シュメル語の畑を表す aša は「真ん中に水がある」字義で、

 農耕のために水がいかに貴重視されていたかが解る。

 「ア a 」が水、

 「シャ sa 」が中央を表す。

 高床式神殿の「高み」にある聖所は

 suku ないし sug と称したことは紹介済みだが、

 この用語の絵文字は「○の中に横∬」で、

 容器の中に水があることを表している。

 楔形文字になると、

 刻文は一つでも「池・堤」を表し、amber と読まれた。

 また、天空 zikum を表す楔形文字は engur とも読まれ

 「深海」ないし「深水」の意味で、大量の水を想像させる。

 河川は「 id イドゥ」であるが、

 その楔形文字は水とengur/zikumとの合成語である。

 エリドゥの神殿の呼称は e engur で「水の神殿」の意である。

 Engur の楔形文字を分析すると、

 容器( gur )が星型米( an )を囲んでいる。

 つまりengur は an-gur であり、「天にある容器」と解釈でき、

 雨を降らせるために水を貯える天の壺と考えられる。

 壺は dug ないし duk と呼ばれた。

 この楔形文字はまた buk とも読まれ、動詞形になり、

 「所蔵する」の意味になる。

 さらにこの語は「耕作する」にも使われ、

 神殿の壺が穀物の豊饒を祈っていることも理解される。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年8月26日水曜日

高床式神殿の祭神:豊饒神


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫高床式神殿の祭神:豊饒神

 あの碗形土器の高床式神殿には屋根がついているが、

 その形状は牡牛の角のように上に向かって弧を描いており、

 牛頭の象徴であろうことをうかがわせている。

 碗形土器の意匠にはマルタ十字紋様が四つ描かれている。

 十字紋や卍字紋意匠はサマッラ土器に特異な紋様である。

 十字紋の上に星形と動物の横身姿と思われる

 小さな図形がある。

 このことにより十字紋が信仰に係わる何かの象徴と

 判断できる。

 マルタ十字の名称は地中海のイタリア半島の西

 シシリア島のアフリカ側にある小さな島

  マルタ Malta国 と関係がある。

 首都は Vallette である。

 マルタ国は古来独自の文化を保持継続してきたが、

 言語的にもラテン語・アラビア語などの影響を受けながら

 自国語を守ってきた。

 そのマルタ語の中に

 神への信奉、敬愛、供施、慈愛を表す言葉 arita があり、

 また、

 Sinjur は宗教的表現でないが、

 主・主人・紳士を意味し、

 一般的に男性を呼ぶ「~さん」に使われている。

 北メソポタミアの影響と考えられる単語である。

 国名 Malta は

  ラテン語の「結婚させる」の marto に関係する。

 結婚は男女が「交わる」ことであるが、

 同島の地理的環境は東西南北の交通の要所でまさに

 「交差点」であり十字の中心である。

  以上のことを根拠とすると、

 「交差する」ことは「結婚するする」ことで、

 動物の場合は「交配させる」ことで、

  繁殖を意味することとなる。

 シュメル語 bal の派生語 šabal は子供、子孫を表す。

 碗形土器に描かれたマルタ十字紋は

 豊饒祈願のシンボルと考えられることになる。

 別の一角にも

 二つのマルタ十字紋とともに蛇の姿が描かれている。

 これは牡牛の男根の象徴であろう。

 シュメル時代に入ってからの、

 碑文を刻んだグディア王像を先に取り上げたが、

 同王の時代、

 紀元前二千年頃に作られた神像と思われる人、

 頭と牡牛の体した像には、

 その腹部に男根がが浮き彫りされている。

 土器の蛇には首のあたりにリボン状の紐を結っている。

 紐をつけることは

 祝福されていることの目印で神聖の象徴である。

 十字紋はハラフ期の当時何と呼ばれていたのであろうか。

 マルタ語の「主」を表す sinjur の同類後に

 「しるし、標識、記号」を表す sinjal がある。

 Sinjur と北イラクの山脈名 Sinjer は同根語で、

 sinjer は先にみたように神殿を表わした。

 この用語は現在のマルタでは「主、主人」の意味ではあるが、

 古代においては「神」そのものを意味したように思われる。

 するとマルタ十字紋である「しるし sinjal 」自体が

 「神体」の象徴であったことになる。

 「神への信奉」を字義とする

  karita を持つこの島の人々の基層には

  khard 人が存在したと考える。

 彼等がマルタ十字紋を「シンジャル」と

 称していたといってもよいだろう。

 牛頭崇拝の文化を

 北メソポタミアから持ってきたのである。

 シュメル語に入った神をいう場合の dingir は

 この sinjer の祖語の転訛であると考えられる。

 Dingir の絵文字「米」は星の抽象化によるものと

 解釈がされている。

 シュメル語の天空を意味する

 zikum は「□の中に米⊠」に作られ、

 星のある世界ということである。

 「高床式神殿の高み」にある「聖所」は suku で、

 十字紋の坐すさらなる「高み」の天空を

 「神の坐す聖所」と考え、
 
 zikum と称したと考えられる。

 サンスクリット語に七星を表す krittika (星座名)がある。

 この星座は小童である医方神 karttikeya の

 乳母とされているが、

 khard を祖語とする同類語と考えられる。

 Rarttikya 神の性格はエンキ神によく似ている。

 Krittika は漢訳では昴(すばる)宿とされている。

 しかし、

 インドの神話から判断すると北斗七星か小熊座であろう。

 サンスクリット語には大熊座(北斗七星)内の星を指す

 Kratu もあるが、

 karttikeya が小童であることを考慮すれば

 小熊座の方である。

 七つの星はひしゃくを表す配置になっていて、

 北斗七星の「斗」はそのひしゃくを意味するが、

 またこの形象は角を形作る。

 古代のメソポタミアにおいても

 khard座と呼ばれたことは十分ありえよう。

 サンスクリット語 kratu は

 「知恵、知識、犠牲、供犠」を意味し、

 カルト人の性向に一致する。

 また同類語 kartr は祭官を意味するばかりでなく、

 「創造者」あるいは「創造主」を字義としており、

 最初の知恵者であったことを髣髴させている。

 小熊座にある北極星は天空の中心点にあるものとして

 感得されていたと思われる。

 小熊座の名称は便宜上使うが、

 ギリシャ人が名付けたもので

 紀元前六千年期のカルト人には係わりがない。

 牡牛座などの星座名も全く同様である。

 サンスクリット語では

 十字紋、卍字紋を総称してスワスティカといい

 吉兆のシンボルであることはすでに記述した。

 この「スワ」はシュメル語にある

 šabal の同義語と考える。

 文法的解釈では「交差する中央」ではあるが、

 十字を表し、子供・子孫をも表す。

 紀元前二千五百年頃の史料に、

 アッカドのサルゴン王に征服された土地の中に

 北メソポタミアの種族として

 スバル人ないし、レスバルトゥが現れる。

 彼らが十字紋 šabal 信奉者であり、

 それが種族名の由来と考えられるので、

 カルト人の中から興ったか、その別称であったと思われる。

 スバル人の呼称の始原は、

 しかし紀元前二千五百年期よりかなり遡ぼるだろう。

 ある見解によると紀元前三千五百年前には現れたとしている。

 紀元前三千年頃のシュメル語に取り入れられた

 鍛冶屋を表す thveli はスバル人の職業的変名である。

 スバル人のアナトリアの銅を商業的にに発展させた結果を表す。

 このように後世スバル人と呼称されるが、

 ハラフ期からウバイド期にかけて北メソポタミアで

 活動していたのはカルト人であり、

 彼等は高床式神殿で天空の極点にある北極星を

 スバル星(中心星)とし、

 周辺の七星を角座として信仰したと解釈することができる。

 カルトがスバルに代わったことを証明する明白な根拠がある。

 先に述べたように「創造者・創物主」を表す用語は、

 サンスクリット語で kartr であった。

 同義の用語がドイツ語にあって、

 Schöpher がその用語で、

 シュメル語 śubal に対応する。

 サンスクリット語の成立は

 紀元前一千年頃からであるのに対し、

 ドイツ語の祖語を使うゲルマン人が現れるのは

 紀元前二、三世紀頃と遅い。

 ゲルマン神話の主神オーディン伝説を記す

 「ヘイムスクリングラ王朝」の成立は紀元後のことである。

 相互の時代的経緯を考え合わせると

 カルトがスバルに代わっていることの証左である。

 ドイツ語の schöphe には前記の他神、

 それも「全能の神」を schöpher 、

 さらに「すくう人、汲む人」を内容とする。

 スバルがひしゃくの神であり、

 北極星を含む角座あるいは北斗七星が

 信仰の対象になっていたことを物語っている。

 その動詞形schöphen の意味は「汲む」のほか、

 植物を対象とする使用方法で「受精する」、

 戯曲表現で女性が「妊娠する」の使用例があり、

 高床式神殿の豊饒祈願と合致するところである。

 シュメル語に kalu と表記して

 スバルと発音させる慣用句がある。

 「豊饒の門」の意味で、神殿への信仰を思わせる。


Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年8月25日火曜日

高床式建物と神殿


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫高床式建物と神殿

 再三アルパチャ遺跡の碗形土器に戻ることになるが、

 容器の底円形の中に描かれた図柄は、

 日本人の想像力には瞬間的に反応できるものである。

 神社の高床式神殿を簡単に連想できるからだが、

 ヨーロッパの人々にはそうはいかないだろう。

 階段を備えつけた神殿は

 日本の神社の本殿そのものの構造をもつ。

 この高床式建物に表された想念は、

 これまでの牛頭信仰の基礎にあった埋葬儀礼を抜け出しており
 
 葬送と関係はなくなっていると思われる。

 「牛頭」を崇拝の対象とした信仰へと発揚していると思われる。

 まずどのような理由により高床式建物は造られたのであろうか。

 推測の範囲に過ぎないが、

 農耕が進歩し耕作面積が拡大したことにより、

 麦類が主な穀類であることは明らかだが、その収穫量が増え、

 重要な種になる穀粒を安全に保管する必要が生じたのではないだろうか。

 ※旧約聖書創世記第10章22に出てくるセムの子孫名

  アルパクサデ Alpaxad は

  このアルパチャの地に係わる名称であることを付記しておきたい。

 河川の洪水で野生獣の群れの襲撃を避けるためには高い所に

 貯蔵しておくことが有利であったからと考えられる。

 ハラフ期のその当時の草原地帯は害を及ぼす野生獣を

 完全に排除できるような状況ではまだなかったのではないか。

 また、家畜化したとはいえ羊、

 山羊などは放し飼い状態であっただろう。

 シュメルの絵文字な柵に囲われた様子を礎にした

 羊の表記(○のなかに+)がみられるが、

 その時代より3000年も古い時代の状況である。

 動物を柵内に囲って飼育し始めたのは何時の頃だろうか。

 大ザブ川沿いのザウィ・チェミ遺跡の羊の家畜化が始まった頃は

 その必要も全くなかっただろう。

 柵が必要になったのは牛や馬の大型獣の家畜化を始めた時期以降だろう。

 野生の馬や牛が絶滅に近くになり、

 その確保の必要に迫られてからと考える。

 必要量の不足が予想されて捕獲して保持する

 あるいは繁殖させる知恵が働いたのである。

 後世15世紀末に始まったイングランドの囲み運動、

 さらに日本の海岸で1970年代から始められた

 ハマチ養殖業はその例である。

 アルパチャの碗形土器に描かれたこの高床式建物の時代は、

 まだ野生獣類は草原地帯に大量に棲息し、人間を脅かす存在であった。

 特に牡牛は獰猛でその威力に対する恐れが

 神格化され祀られたとの見解もある。

 野生獣から収穫した麦などの穀類、特に種とする穀粒を守り、

 神の加護を祈願したと理解したいのである。

 神は「高み」に座す。

 神の座所に至るためにははしごあるいは階段が必要になる。

 高床式神殿には必ずはしごが階段がついていなければならないのである。

 この概念を表しているのが旧約聖書創世記第28章である。

 ヤコブがベェルシンバを発ってハランへ向かう途中ある場所で夢をみる。

 「その所の石を取って枕とし、伏せて寝た。

  時に彼は夢をみた。

  一つのはしごが地の上に立って、

  その頂は天に達し、

  神の使いたちがそれを上り下りしているのをみた」

 ヤコブは神の声を聞き、朝目覚めてから

 「これは神の家である。これは天の門だ」と叫び。

 「枕としていた石を取り、それを立てて柱とし、

 その頂に油を注いでその所の名をぺテルと名付けた。

 その町の名は初めはルズといった」と述べられている。

 神は「高み」に座し、

 はしごを昇らなければその家に至ることができないのである。

 ぺテルは Bethel で神の家の意である。

 ルズは多分石を意味するギリシャ語λa-sの音写である。

 はしごについて『The New Jerome Biblical Commentary』は

 英語のladder(はしご)ではなく ramp (斜面路)、

 つまり stairway(階段)のことであると解説している。

 ぺテルは現在のイスラエルのイェルサレムに近いベツレム市で、

 古代にはカナアンのうちにあった。

  階段を昇って神の家に至るという観念には西アジアに広くあった。

 神殿を建造する際の重要な要素である。

 バビロン時代からアッシリア時代を通してメソポタミアでは

 多くのジクラドと呼ばれる巨大聖塔が作られた。

 土塁を高く積み上げてその上に神殿を設けたのであり、

 墓所としてつくられたエジプトのピラミッドとは性格を異にする。

 ※ジクラドはアッカド語の名称で、

  シュメル語の呼称はエ・マハ e・mah である。

  これは「大きな神殿」とともに「高みにある神殿」の意味でもある。

 そして、頂の神殿に昇るための階段が必ず付設された。

 エリドゥの最下層の神殿が土塁の上に建てられたのも

 同様の考え方の表れで、すでに後の聖塔の構成要素を示している。

 専門家が、現在知れれる神殿(祠堂)の下には

 さらに古い遺構があるのではないかと疑っているが、

 煉瓦で作られた建物ではない、

 木造建物ないし、葦屋の高床式神殿があったと推測できるのである。

  ジグラドのシュメル語での呼称には、

 ◎「hur-sag galam-ma」で「大きな階段のある山」の意であった。

 Hur-sag が山を「ma」が大きい、高い、「galam」が階段を表す。

 聖塔における階段は「高み」にある

 神殿(神の家)に仙りつくための単なる手段でなく、

 信仰の象徴であったとさえ思える。

 楔形文字の牡牛(gu)と階段(galam)はその刻字が近似している。

 つまり、galam は角の別称である。

 北メソポタミア地方で牛頭信仰が広がったのも、

 死霊は「牛角」である階段を通って神の家に至るとの

 想念が発生したからではなかろうか。

 Galam は、角を表すラテン語 corunu と同根語と考えられる。

 シュメル語の成句として野牛あるいは「野牛の角」となる。

 この成句を納得すると極めて興味ある事実が見えてくる。

 インド・ヨーロッパ語圏のこの alam-ma を同根語とする呼称が、

 地域によって表記は異なるものの

 地方名、都市名、川名などとして広がっているのである。

 まず、トルコのアナトリア、タロス山脈の

 北チャタル・フユク遺跡の東方の外れにある

 マラス市の正式名はKahraman-marasである。

 イオニアの故地に Germaneikがある。

 イランでは、

 バグダドの東方ザグロス山脈の山間に Kermanshah市、

 ペルシャ湾への入口アフガニスタンとの国境への地帯を

 Kerman地方といい、

 その北側にKerman市がある。

 アフガニスタンに入って

 シスターナとマルゴ砂漠を流れる川が Helman川である。

 インドの東南部ベンガル湾岸を Coromandel海岸といい、

 スリランカの首都 Colomboで、bo は牡牛の別称である。

 アメリカ大陸を発見したとされているColombusも同類語である。

 そして、

 ゲルマンGerman人およびGermaniaをあげておかなければならない。

 北メソポタミアでは、原新石器時代の遺跡名ケルメズ・デレが

 galam に由来する名称であることも意義深い。
《参考》
 ARPACHIYAH 1976
 
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部


 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ