2014年4月15日火曜日
天武天皇の焚書を告発し続ける銅鐸文化
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録34:28頁
しかしこれと「ヤマト朝廷」が奈良にあったというのとは違う。
銅鐸文化が始まった弥生中期以前に、
近畿にヤマト朝廷が実在していたのなら、
銅鐸は山人族を象徴する聖器だったのだから、
8世紀以後、確かに存在したヤマト朝廷でも宝器とされ、
その後継者である天皇家と共に現代まで銅鐸信仰が続き、
全国の神社・仏閣でも祭られているはずである。
ところが現実には銅鐸も銅鐸信仰も消滅してしまって、
ただ弥生遺跡から遺物として出土するだけである。
それは卑弥呼とその後継者壹與と、
そのまた後継者の倭国天皇家とも
全く別の政権・ウッタラ仏教政権が、
畿内を中心に中国地方から東海にまで
実在していた史実を明瞭に立証して、
天武天皇の「焚書(ふんしよ)」の
事実を明確に告発しているのである。
視点を変えて記録の面から見ても、
あれほど倭人の生活を細部まで
観察し記録した『魏書倭人章』が、
銅鐸については1字も書かないのは、
卑弥呼政権も、
また壹與政権も、
ともに銅鐸とは無関係で、
その国の位置が近畿圏ではなく遠く離れていたことの、
誰にでもわかる動かない証拠である。
だがこの銅鐸の有無を無視して、
仮に卑弥呼が奈良で君臨していたとしても、
3世紀にそこがヤマトと呼ばれたはずがなく、
ありとあらゆる可能性を捜し求めてみても、
3世紀にはヤマト朝廷など列島内には
どこにもなかったという答しか見つからない。
《天武天皇の焚書を告発し続ける銅鐸文化》
「天武天皇の焚書を告発し続ける銅鐸文化」
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
2014年4月14日月曜日
我が国の本当の建国は、紀元前3世紀
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録34:27頁
しかし大学講義録30と大学講義録31で
「出雲の誕生は5世紀よりあと」だとお話しした。
それは出水(イズン)人が移住した先が
大阪の和泉(イズン)であって、
そのときのイザナキの尊が履中天皇で、
それを継ぐ倭王・興が失政で国を失ったとき、
その一族が出雲(イズン)まで逃げたから、
そこが出雲(イズン)になったのだった。
ウッタラの大国主は仁徳天皇系の亡命者とは無関係である。
それは当然で、
弥生時代のウッタラと、
古墳時代の亡命者が同じであるはずがない。
同じなのは漢字の当て字だけである。
同じことは幾人ものイザナキの尊が実在する例でも見た。
同じ名だから同一人だとしてきた在来の神話学が、
根底から崩れ去っていることが、
ご理解になれたと思う。
では、銅鐸とサカ~サタは無関係であろうか?。
これはすでに見たように切っても切れない関係にある。
それは紀元前の移住にも仁徳天皇系王朝の大移動にも、
つねについて回った標識地名である。
これもまた、
我が国の建国が弥生時代の早期だったことを証明している。
神武東征にこだわらなければ、
水稲の分布からみて初代のウッタラの東遷は、
紀元前3世紀のアソカ王仏教宣布団派遣直後だとみていいし、
卑弥呼の夫、仲哀天皇・ソナカをみても、
b同系のアソカ仏教宣布天皇で、
さらにその伝統を受け継いだのが仁徳天皇朝だったのだから、
本当の建国と天皇家の皇統譜は、
在来の説より3世紀、さかのぼるのが正しいのである。
《我が国の本当の建国は、紀元前3世紀》
「我が国の本当の建国は、紀元前3世紀」
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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
2014年4月13日日曜日
ウッタラ仏教国だった証拠が充満する出雲
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録34:26頁
サカは釋迦族=塞族を意味し、
張政の国名・塞曹掾史もまた塞族係官を意味していた。
今それに新たに蘇我が加わったのである。
すると西端に出雲大社のある島根半島の東端にある
境港(さかいみなと)が
重要なサカイであることが決定的になる。
そこから中の海に入れば目の前に「大根(だいこん)島」がある。
それが大=ウッ・根=タラシ=「ウッタラ之(シ)」島だとわかると、
この県がなぜ「島根」という名を持っているのかもわかるし、
そこでいま市制が敷かれている大田(おおだ)市もまた
大=ウッ・田=タ・国=ラ=「ウッタラ」の名残だということもわかる。
この大田(おおだ)はそのまま「田=ダ=国(ラ)」だから「大国」、
その主は「大国主」の尊だということになる。
出雲の大国主は、
卑弥呼の伝承が伝わった八俣大蛇退治と関連したもののほかに、
5世紀や7世紀の大国(オオくに)主や、
紀元前の大国主(ウッタラ)だった可能性があるとはっきり見えてきた。
こうみてくると出雲には『記・紀』の「出雲神話」や、
『風土記』ていどのものではなく、
それだけでは解けない歴史が隠れていたとわかる。
それが今、ウッタラと銅鐸に関わる弥生文明に始まることまで解明できた。
少なくとも「なぜ出雲に銅鐸が…?」ではなく、
「出雲だから銅鐸があるのは当然だ」というところまでわかった。
我が国の『建国史』解明は、これでまた一大飛躍を遂げ、
出雲と『出雲神話』は全く新しい研究対象になったのである。
《ウッタラ仏教国だった証拠が充満する出雲》
「ウッタラ仏教国だった証拠が充満する出雲」
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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
2014年4月12日土曜日
サカ→サタが解いた「銅鐸・出雲大量出土」の謎と答
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録34:25頁
その銅鐸が、1996年に島根県大原郡加茂町の岩倉で計38個出土した。
これは滋賀県野洲(やす)町大岩山の記録24個をはるかに超え、
簸川(ひかわ)郡斐川(ひかわ)町神庭(かんば)荒神(こうじん)谷で
銅剣358本と共に出土した6個とで計44個、
全国の出土数約500個の9%を占めた。
分布中心地の大阪から遠く離れた出雲で、
なぜ大量に出土したのか?。
当時諸説があったが定説はなく5年後の今も謎のままである。
この謎も「サカ~サタ]の歴史を知る私たちには、
すでに京都府のサガから
出雲のサタへ大移動した痕跡の確認によって、
すべて納得のいく史実になっている。
出土地の大原・加茂・岩倉も
全て嵯峨(サガ)と同じ京都市北部の地名と重なり、
私たちの着眼点の正しさを保証する。
それはさらに大学講義録34:24の地図でも、
三河(愛知県)の小坂井というサカが新たに銅鐸史に加わった。
これも仏教遺跡であることは動かない。
なぜなら銅鐸出土だけでなく、
三河という文字は
「サカ」への当て字であり「サンガ」という発音もある。
仏教ではサンガは「僧伽(サンガ)」と当て字されるパーリ語で、
「Sanga 僧団・教団」のことである。
また僧伽の当て字はそのまま「ソガ」でもある。
蘇我の馬子と完全に重(かさ)なる聖徳太子の、
倭(ウワイ)国・推古女帝政権が周知の仏教政権だったのと同じく、
仏教を国教とした徳川氏が、
この三河出身であることもまた決して偶然ではなく
弥生ウッタラ政権の遺物だったのだ。
出雲だけが例外ではありえない。
《サカ→サタが解いた「銅鐸・出雲大量出土」の謎と答》
「サカ→サタが解いた「銅鐸・出雲大量出土」の謎と答」
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
2014年4月11日金曜日
大和説を完全に否定する銅鐸出土状況
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録34:24頁
大和説なら橿原を中心に最も多く出土するはずだが、
下の銅鐸出土状況図
では奈良全体でも僅かで、
愛知の半分もない。
むしろ倭の五王圏に集中している。
私(加治木義博)は、
ウッタラ政権から倭の五王政権まで続いた
海人(ハヤト)の信仰文化だったと考えている。
「写真」
入れ子になったサナギ
滋賀県野洲(ヤス)郡野洲町小篠原大岩山出土
「写真」
小坂井銅鐸出土状況 (1924年)
「図」
原田大六『日本古墳文化』
青銅器分布図 (1954年)による
《大和説を完全に否定する銅鐸出土状況》
「大和説を完全に否定する銅鐸出土状況」
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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
2014年4月10日木曜日
言語学が明かにした「銅鐸」の正体
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録34:23頁
銅鐸は兵庫県に唯(ゆい)一伝世したものがあり、
それは御輿(みこし)のように担(かつ)ぎ回り、
海に入って水で洗う。
そこではサナギと呼ばれている。
キ・ギは沖縄ではチ・ヂで、
パーリ語は沖縄経由で入ったから、
サナチをパーリ語で捜すと
「サナチ サワン sanati savan 音を立てる。騒ぐ」があり、
銅鐸の使い方から、「騒ぐ」の語源までわかる。
またサンナッチ sannatti という言葉は
「説得、勧説(かんぜい)・宣撫(せんぶ)、教える」
といった意味をもっているから、
ウッタラの仏教宣布そのものである。
このサンナッチも南九州本土では短縮して
「サナッ・サナキ」になる。
これは四国ではサヌキになり、
近畿ではサナギになり、
中部ではサナゲになる。
それに漢字を着てると
讃岐(さぬき)・
蛹(さなぎ)・
猿投(さなげ)になる。
讃岐は香川県。猿投は愛知県豊田市猿投町。
そこに近い宝飯(ほい)郡小坂井町で
大小の銅鐸が「入れ子」になって出土した。
その様子はまるで蚕(かいこ)の踊が皮を脱ぐように、
中にも銅鐸が入っている。
その様子に似ているというので、
「蛹(よう)」を「サナギ」と呼ぶようになったことになる。
それはサンナッチ・サナチの聖なる宝器・銅鐸に似ているという意味だから、
中が空(から)の「踊の抜(ぬ)け殻(がら)」を指す名詞だったのである。
讃岐も尾張も銅鐸圏の中心から遠いが多数の銅鐸が出土している。
讃岐は仁徳天皇=倭(ウワイ)王讃の名乗りの国。
尾張は倭の発音「ウワイ」への当て字。
共に強大な仏教国なのである。
《言語学が明かにした「銅鐸」の正体》
「言語学が明かにした「銅鐸」の正体」
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
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2014年4月9日水曜日
ウッタラと銅鐸が残した多数の言語遺物
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録34:22頁
「銅鐸」というのは現代の考古学が仮につけた学名だから、
古代からあった名前ではない。
古代には何と呼ばれていたか。
ウッタラが使った言葉はパーリ語だから、
金属製で宗教用の打楽器には
銅鑼(どら)、鐃鈸(ねうはち)、鼓(つつみ)などを
意味するalamba アーラムバ、alambara アーラムバラ=太鼓などがある。
ところがalambati アーラムバチと変化すると、
「ぶら下がる・懸(か)ける」という意味になる。
銅鐸はその上部の形からみて、
間違いなく「ぶら下げる」構造になっており、
下に置いたのでは鳴らないのは明白である。
そしてアーラムバチの「バチ」は、
打楽器を打つ「ばち」と同じで、
鐃鈸(ねうはち)の「ばち」でもある。
また昔の僧侶などが、
門(かど)づけをする際には鐘を叩いて鳴らしたが、
それを鐘叩きとはいわずに「鉢(はち)叩き」といった。
このハチもまたウッタラ時代のアーラムバチの遺物だとみられる。
こうみてくると植木鉢は銅鐸を逆さにした形と共通牲が多く、
鉢というのは底のある食器だけとは限らないことに気付く。
そして打楽器というものは
「打ったら鳴るが、打たねば鳴らない」
その「打ったら鳴る」銅鐸が
ウッタラの持ってきた聖器だったのだから、
「打ったら」という日本語の語源が
この「ウッタラ」に結びつく。
銅鐸以前には打楽器は見られないから、
これらの複数の日本語は、
ウッタラと銅鐸が残した言語遺物だったとみて無理はない。
《ウッタラと銅鐸が残した多数の言語遺物》
「ウッタラと銅鐸が残した多数の言語遺物」
『My ブログ』
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