2015年7月31日金曜日

『アズミ族の正体』

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 ※出典: 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦 190~195頁

 ≪アズミ族の正体≫

  アズミ族は紀元前のかなり古い時代から

 メソポタミア・インドを祖地として

 木造帆船でアラビア海、インド洋から極東の太平洋へ

 その交易網を広げた海洋族である。

 インド亜大陸へ牛飼いのアーリア人が、

 北方ヒンズークシ山脈を越えて侵入してきた

 紀元前1500年頃よりも早く

 同大陸の西方に勢力を拡げていた文明人である。

 アズミ族は遠く海洋を航海するいわゆる、

 海上、つまり船上を住み家とする人々であった。

 船が家なのである「アズミ」の祖語は es-ma で語義は「屋船」である。

 この「船[ma]」が奴国の「奴[nau](船)」と合致する。

 このことから奴国は那珂ばかりでなく

 博多湾を取り囲む地域に広がっていたことが判明してくる。

 同湾の西方面は今津湾と称されるが、

 この「今:イマ」も e の音写で、

  e は es と同義の「家」を表わすのでやはり、「家(屋)-船」となり

 「アズミ es-ma 」と同義、

 また福岡市西区の湾岸の地域名「姪浜」の

 「メイ」も ma-e で「イマ e-ma 」を転倒させただけで「船-家」である。

  族名「アズミ」は es-ma 〔家-船:屋船〕に依る。

 山海経の「天毒」にある「其人水居」に適しい典型的な「海人YMYT」である。

 アズミ族はそのインド〔天毒〕からの渡来海洋人だが、

 邪馬臺国のアーリア人系とは全く別の系譜の人々で、

 その祖名をヤーダヴァ族という。

 紀元前1500年頃北方ヒンズークシ山脈を越えて来た

 牛飼いのアーリア人とは文化の違う紀元前5000年頃から

 メソポタミアからインド、太平洋のインドネシア諸島の方まで

 流浪していた海洋族である。

 彼等はインド亜大陸の西北部インダス川とビンダヤ山脈の間

 アラビア海岸のシンドからデリー・マルワ一帯に勢力を広げていた。

 彼等は単なる流浪者ではなく、各地方間の交易も開拓していた。

 特にメソポタミアとの間にも同地に根強い根拠地を設け

 海路を積極的にインド方面の物産をペルシャ湾を通し輸送した。

 紀元前1800年頃のアッカド王シャルルキン王碑銘には

 インド方面からしか得られない孔雀や紅玉、黒檀などの品目が

 輸入品目名として刻まれている。

  それより古いメソポタミアのシュメルの言葉に貿易相手先地名として

 「メルッハ」名があるが、

 同語は me-lulu-ha 〔土地‐人々‐魚〕で「魚人の地」である。

 Lulu は「人」の複数形である。

 上記したインドの現在の地方名「マルワ」は

  ma(me)-lu-ha〔土地‐人々‐魚:魚人の地〕と

 「人」が単数形で構成されている。 

 ヤーダヴァ族が建てた国「マッラ」は

 倭人伝の「末廬国」の祖語とした

  madhura〔甘い物〕を首都にする国だが、

 サンスクリット語で「魚」である matsura 名に依り、

 古代の主要国の一つであった。

  ヤーダヴァ族はインド神話に天下分け目の大戦、

 インドプラスタの戦いに敗れ、

 次第にアーリア人に圧迫され衰退していった。

 終末期の王はクリシュナ〔マハーカーラ:大黒〕といい、

 彼は最後の守城としてサウラシュトラの海に

 ドヴァラカーという門をいくつか備えた城を造るが滅亡し、

 城は海に没してしまったという。

 現在その西北端に Dwarka との町名が残っている。

 「海に没した」とは、

 そこを離れ海の中(向こう)に消えてしまったとの意味が隠されている。

 彼等が行き着いた先が現博多湾の周辺である。

 『古事記』に「綿津見の宮」、

 『日本書紀』の「海神の宮」 の祖形が

 ドヴァラカー城で、そのキラキラ輝いていた様相を

 『古事記』は「鱗のごと」といっている。

 その「鱗」が lu で、

 いわゆる「龍宮」とはその用語を負わせてた呼称である。

 綿津見の宮、龍宮の伝承にしても一切「龍:大きい蛇」は出てこない。


  ヤーダヴァ族はアズミ族の名で、

 その基になっているサンスクリット語中の

  yadas は「大きな水棲動物」で多分アーリア人には「海の怪物」と

 解釈されたが、その祖王(族)名の yadu の基語である。

 Yādava は「yaduの子孫」が語義である。

 誠に「水居」を背景に持つ族類ではある。

 この yadas 、単に魚のように水中にいただけでなく、

 陸上においても存在していたのが実際で、

 陸上水中〔海中〕双方で生息できた。

 海洋族そのものである。

  さて、水陸を生活の場にした者たちの伝承がメソポタミアにある。

 ジャン・ポテロの『メソポタミア』に紹介されている

 「オアネス」伝承がそれで、

 少々長いがその翻訳本〔法政大学出版局〕から紹介する。

 
   この神話は当初の姿では残っておらず、

  また正確な内容もわからない。

  部分的ながら復元してみる必要がある。

  まず第一に、前300年頃「バビロニアのベール神官」をしていて、

  この古い歴史を持った国の「哲学」と歴史との要説をギリシャ語で

  著したベロッソス(Berossos)自身のスケッチに頼ることにしよう。

   
   彼は説明する。

   バビロニアにおいては、数多くの人間がよそからカルディアの地

  (メソポタミア南部の、ペルシア湾に隣接した地域)

  にやって来て住み着いたが、

  彼らは動物と同様の粗野な生活を送っていた。

  最初の年に、紅海からやってきたオアネスという名の異様な怪物が、

  岸辺に現れた。 


  彼の身体は全体として魚のそれであったが、

  頭の下にもう一つの頭が挟み込まれていて、

  それは人間の頭であった。

  足の陰にも人間の足と同じ足が見えた。

  この姿を人々は記憶にとどめていて、


  今日でもそれを再現した像を作っている。

  この生き物は、人間の間に混じって、

  食物を何も採らず日々を過ごし、

  人々に文字、あらゆる種類の科学と技術、町の建設、

  神殿の建造、判例の集成、幾何学を教えた。

  同様に穀物(の栽培)や果物の収穫などについても明かした。

  要するに、

  彼は人々に文明生活の基本となる全てを授けたのである。

  それが完璧であったがために、

  それ以来人々は(この問題に関して)

  これ以上素晴らしいものに遭遇することはなかった。

  日没時には、オアネスという名のこの怪物は、

  夜を過ごすため水の中に身を沈めた。

  彼は水陸両棲生物だったからである。

  後になって、同じような別の生物が現れた……。


  同書はまた、ベロッソスの記述として

 「やはり紅海からやって来た魚人」が

 存在して合計で7人いたといっている。

 その7人は神話で

 「7人の素晴らしいアプカッツル」と称されていたとある。

 またその1人は「アダバ」の異称を持つという。

 そのアプカッツル、アダバ、魚人はヤーダヴァ族の仲間である。

  「オアネス」名はベロッソスがギリシャ語で書いた名称で、

 それをギリシャ語に捜すと、uionos で、

 その語義は「子供、孫」で、

 「綿津見」をまた「海童」と表記する「童:小児」に相当する。

 だからアズミ族の人々がメソポタミアとの関係を

 認識していたとの証拠である。

 「アプカッツル」の本書の解釈は ap-ka-lulu 「海の人魚」、

 「アダバ」は a-deb 〔水-歩き回る〕で「水を歩き回る」

 水陸両棲生物の特性である。

 これらは yadas の語義に合致する。

  メソポタミアのシュメルの時代に関係した族類が

 インドではヤーダヴァ族となり、

 そこでアーリア系の拡張に圧迫されて

 延命の策として海上へ出て極東へ移動し

 アズミ族となったと解釈される。

 彼らの使用言語はサンスクリット語ではない。

 同語はアーリア人の言語である。
 
 インド・ヨーロッパ語圏に属するもので、

 イラン〔ペルシャ〕から北方の牧人たちの言葉である。

 アーリア人の起源について述べておくと、

 本来は「アーリアン」でシュメル語の

  ar-en 〔賛美する-主(神)〕で「神を崇める」の語義である。

 その信仰がバラモン教である。

 彼等はメソポタミアの北部、

 現トルコ方面からイラン高原で牛飼いになり約千年もかけて

 ヒンズークシ山脈を越えて来た勢力である。

 アーリア人がインドでの先住のヤーダヴァ族を

 どうみていたかを示すよい例がある。

 前述の「メルッハ」がサンスクリット語に mleccha とあり、

 「非アーリア人」で「他国人」は宜しいとしても

 「野蛮人」「蛮族」の語義で使用されたのである。

 「シュメル人」とされた人々は

 メソポタミアのペルシャ湾の奥地に多大な文化を建設したが、

 いつの間にかそこから消えてしまったのかの

 推測をしておきたい。

 これも前出したアッカドの王シャルルキンの勢力が巨大となり

 先住の人々はそこにいられなくなったからである。

 アッカド人はアモリ人などと称される

 ユーフラテスの上流現シリア方面が祖地である。

 その川沿いに下ってペルシャ湾岸に侵入してきたのである。

  シュメルの人々はインドへ移りまた極東へ移ったのである。

 シュメルとは後の呼称でシュメルの時代には彼らの土地を

 ki-en-gi〔土地-の-葦〕といい、

 『日本書紀』が記す「葦原中ッ国」名の祖地といえる。

 これまでの多量の引用の実態から

 「シュメル語」の日本への伝来を確信していただきたい。

 シュメル語はこれまでの太陽信仰ばかりでなく、

 多くの主要な神社文化に徹底的に影響し、

 現在に継承されてきているのである。

 アズミ族の信仰の対象福岡市の志賀島にある志賀海神社は

 綿津見神を奉祭するが、

 「シカ」は suku〔神域:ギリシャ語sikos:聖域 〕、

 「シカウミ」は zikum〔天、深海〕の音写である。

 志賀島の外海「玄海灘」の「玄」にも

 漢語で「天界」及び「深海」の語義がある。

  シュメルの文化が、

 諏訪、伊勢、出雲の神社に影響した実相を簡単に述べる。

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