2015年7月15日水曜日

『翰苑』

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2013/12/19

 倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」


 ※出典:古代史獺祭

 ≪翰苑≫

 張楚金 撰、雍公叡 注。 唐の時代に成立。

 卷第三十のみがわが国の大宰府天満宮に現存する。

 ただしこれは平安ころの写本とみられ誤字や脱漏が多い

 やっかいなしろものである。


 翰苑 卷第卅 蕃夷部 より 倭國 (原文)

 卷第三十 蕃夷部 より 倭國

 倭國

 憑山負海 鎭馬臺以建都 後漢書曰 倭在朝東南大海中 依山島居

 凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使譯通漢於者州餘國 稱王 其大倭王治邦臺

 樂浪郡儌去其國万二千里 甚地大較在會稽東 与珠雀儋耳相近 魏志曰

 倭人在帯方東南 炙問地 絶在海中 洲島之山 或絶或連

 周旋可五千餘里 四面倶海 自營州東南 經新羅 至其國也 分軄命官

 統女王而列部 魏略曰 從帯方至倭 循海岸水行

 暦韓國到拘耶韓國七十餘里 始度一海 千餘里至對馬國 其大官曰卑拘

 副曰卑奴 無良田 南北布 南度海至一支國 置官至對同 地方三百里

 又度海千餘里 至末盧國 人善捕魚 能浮沒水取之 東南五東里

 至伊都國 戸万餘 置曰爾支 副曰洩渓觚柄渠觚 其國王皆属王女也

 卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望 後漢書曰 安帝永初元年

 有倭面上國王師升至 桓遷之間 倭國大乱 更相攻伐 歴年無主

 有一女子 名曰卑弥呼 死更立男王 國中不服 更相誅

 復立卑弥呼宗女臺與 年十三 爲王 國中遂定 其國官有伊支馬

 次曰弥馬升 次曰弥馬獲 次曰奴佳鞮之也 文身點面 猶稱太伯之苗

 魏略曰 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗

 不属女王也 自帯方至女國 万二千餘里 其俗男子皆點而文 聞其舊語

 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之吾

 今人亦文身 以厭水害也 阿輩雞弥 自表天兒之稱 宋死弟 宋書曰

 永初中 倭國有王 曰讃 至元嘉中 讃死弟珎立

 自稱使時節都督安東大將軍倭國王 順帝時 遣使上表云 自昔祢

 東征毛人五十五國 西服衆夷六 渡平海北九十五國 今案 其王姓阿毎

 國号爲阿輩雞 華言天兒也 父子相傅王 有宮女六七百人

 王長子号哥弥多弗利 華言太子 因禮義而標袟 即智信以命官

 括地志曰 倭國其官有十二等 一曰麻卑吉寐 華言大徳 二曰小徳

 三曰大仁 四曰小仁 五曰六義 六曰小義 七曰大礼 八曰小礼

 九曰大智 十曰小智 十一曰大信 十二曰小信 邪屆伊都 傍連斯馬

 廣志曰 國東南陸行五百里 到伊都國 又南至邪馬嘉國 百女國以北

 其戸数道里 可得略載 次斯馬國 次巴百支國 次伊邪國

 安西南海行一日 有伊邪分國 無布帛 以革爲衣 盖伊耶國也

 中元之際 紫綬之榮 漢書地志曰 夫餘樂浪海中 有人 分爲百餘國

 以歳時獻見 後漢書 光武中元年二 倭國奉貢朝賀 使人自稱大夫

 光武賜以印綬 安帝初元年 王師升等獻主口百六十 景初之辰

 恭文錦之獻 槐志曰 景初三年 女王遣大夫難升未利等 獻男生口四人

 女生六人 布二疋二尺 詔以爲新魏倭王 假金印紫綬 正始四年

 倭王復遣大夫伊聲耆振邪拘等八人 上獻生口也


 翰苑 卷第卅 蕃夷部 より 倭國 

 倭國

 憑山負海 鎭馬臺以建都 後漢書曰 倭在韓東南大海中 依山島爲居

 凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使譯通於漢者卅餘國 國皆稱王

 其大倭王治邪馬臺 樂浪郡徼去其國万二千里 其地大較在會稽東

 与珠崖儋耳相近 魏志曰 倭人在帯方東南 參問倭地 絶在海中

 洲島之山 或絶或連 周旋可五千餘里 四面倶

 (←「抵」の異体字。あるいは「極」かもしれない)海 自營州東南

 經新羅 至其國也 分軄命官 統女王而列部 魏略曰 從帯方至倭

 循海岸水行 歴韓國到拘耶韓國 七千餘里 始度一海 千餘里至對馬國

 其大官曰卑拘 副曰卑奴 無良田 南北市糴 南度海至一支國

 置官同對馬 地方三百里 又度海千餘里 至末盧國 人善捕魚

 能浮沒水取之 東南五百里 至伊都國 戸万餘 置官曰爾支

 副曰洩渓觚柄渠觚 其國王皆属女王也 卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒

 方諧衆望 後漢書曰 安帝永初元年 有倭面上國王師升至 桓靈之間

 倭國大乱 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑弥呼 死更立男王

 國中不服 更相誅(←これは「煞」の異体字) 復立卑弥呼宗女臺與

 年十三 爲王 國中遂定 其國官有伊支馬 次曰弥馬升 次曰弥馬獲

 次曰奴佳鞮之也 文身鯨面 猶稱太伯之苗 魏略曰 女王之南

 又有狗奴國 以男子爲王 其官曰拘古智卑狗 不属女王也

 自帯方至女王國 万二千餘里 其俗男子皆鯨面文身 聞其舊語

 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害

 今倭人亦文身 以厭水害也 阿輩雞弥 自表天兒之稱 宋死弟

 (←この3文字意味不明。衍か?)

 宋書曰 永初中 倭國有王 曰讃 至元嘉中 讃死弟珎立

 自稱使持節都督安東大將軍倭國王 順帝時 遣使上表云 自昔祢

 東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國 今案

 其王姓阿毎 國号爲阿輩雞弥 華言天兒也 父子相傅王

 有宮女六七百人 王長子号和(←または「利」か)哥弥多弗利

 華言太子 因禮義而標袟 即智信以命官 括地志曰 倭國其官有十二等

 一曰麻卑(←「兜」)吉寐 華言大徳 二曰小徳 三曰大仁 四曰小仁

 五曰大義 六曰小義 七曰大礼 八曰小礼 九曰大智 十曰小智

 十一曰大信 十二曰小信 邪屆伊都 傍連斯馬 廣志曰

 倭國東南陸行五百里 到伊都國 又南至邪馬臺國 自女王國以北

 其戸数道里 可得略載 次斯馬國 次巴百支國 次伊邪國

 案倭西南海行一日 有伊邪分國 無布帛 以革爲衣 盖伊耶國也

 中元之際 紫綬之榮 漢書地理志曰 夫餘樂浪海中 有倭人

 分爲百餘國 以歳時獻見 後漢書曰 光武中元二年 倭國奉貢朝賀

 使人自稱大夫 光武賜以印綬 安帝永初元年

 倭王師升等獻生口百六十人 景初之辰 恭文錦之獻 魏志曰 景初三年

 倭女王遣大夫難升未利等 獻男生口四人 女生口六人 斑布二疋二丈

 詔以爲親魏倭王 假金印紫綬 正始四年

 倭王復遣大夫伊聲耆振邪拘等八人 上獻生口也

 
 倭國

 山に憑き海を負い 馬臺に鎭し以って都を建つ 後漢書に曰く。

 倭は韓の東南大海の中に在り。

 山島に依り居を爲す。

 凡そ百餘國。

 武帝の朝鮮を滅してより、使譯の漢に通ずる者卅餘國。

 國は皆王を稱す。

 その大倭王は邪馬臺に治す。

 樂浪郡徼はその國を去ること万二千里。

 その地は大較(おおむね)會稽の東に在り。

 珠崖・儋耳と相い近し。

 魏志に曰く。

 倭人は帯方東南に在り。

 倭地を參問するに絶えて海中洲島の山に在り。

 或いは絶え或いは連なり、周旋五千餘里可(ばか)り。

 四面は倶(とも)に海に抵(あた)る。

 營州より東南、新羅を經てその國に至る。

 軄を分かち官を命じ 女王に統べて部を列す 魏略に曰く。

 帯方より倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、

 韓國を歴て拘耶韓國に到る。

 七千餘里にして始めて一海を度る。

 千餘里にして對馬國に至る。

 その大官を卑拘と曰い、副を卑奴と曰う。

 良田無く、南北に市糴す。

 南に海を度り一支國に至る。

 官を置くは對馬に同じ。

 地の方は三百里。

 また海を度ること千餘里。

 末盧國に至る。

 人、善く魚を捕らえ、能く水に浮沒してこれを取る。

 東南五百里。

 伊都國に至る。

 戸は万餘。

 官を置き爾支と曰う。

 副を洩渓觚・柄渠觚と曰う。

 その國王は皆女王に属す。

 卑弥娥(ひみが)は惑翻して群情に叶う

 臺與は幼齒にして方(まさ)に衆望に諧(かな)う 後漢書に曰く。

 安帝の永初元年、倭面上國王師升の至ること有り。

 桓・靈の間、倭國大いに乱れ、更に相攻伐して歴年主無し。

 一女子有り。

 名を卑弥呼と曰う。

 死して更に男王を立てしも國中服さず。

 更に相誅煞(ちゅうさつ)す。

 また卑弥呼の宗女臺與年十三なるを立てて王と爲し、國中遂に定まる。

 その國の官に伊支馬有り。

 次を弥馬升と曰い、次を弥馬獲と曰い、次を奴佳鞮と曰う。

 文身鯨面 猶太伯の苗と稱す 魏略に曰く。

 女王の南にまた狗奴國有り。

 男子を以って王と爲す。

 その官を拘古智卑狗と曰う。

 女王に属さず。

 帯方より女王國に至ること万二千餘里。

 その俗は男子は皆鯨面文身す。

 その舊語を聞くに自ら太伯の後と謂う。

 昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ断髪文身し以って蛟龍の害を避く。

 今、倭人また文身し、以って水害を厭わす。

 阿輩雞弥(あはけみ) 自ら天兒の稱を表す 宋死弟

 (←この3文字意味不明。衍か?)

 宋書に曰く。

 永初中、倭國に王有り。

 讃と曰う。

 元嘉中に至り、讃死し弟の珎立つ。

 自ら使持節都督安東大將軍倭國王を稱す。

 順帝の時、使を遣わし上表して云う、

 『昔、祢より東に毛人五十五國を征し、

 西に衆夷六十六國を服し、渡りて海北九十五國を平らぐ』と。

 今案ずるに、その王の姓は阿毎。

 國号を阿輩雞弥と爲す。

 華言の天兒なり。

 父子、王を相傅す。

 宮女六七百人有り。

 王の長子を和(←または「利」か)哥弥多弗利と号(なづ)く。

 華言の太子なり。

 禮義に因(より)て袟(ちつ)を標(あらわ)す

 即ち智信を以って官を命ず 括地志に曰く。

 倭國はその官に十二等有り。

 一を麻卑兜吉寐(まひときみ)と曰う。

 華言の大徳なり。

 二を小徳と曰い、三を大仁と曰い、四を小仁と曰い、五を大義と曰い、

 六を小義と曰い、七を大礼と曰い、八を小礼と曰い、九を大智と曰い、

 十を小智と曰い、十一を大信と曰い、十二を小信と曰う。

 邪は伊都に屆(とど)き 傍ら斯馬に連なる 廣志に曰く。

 倭國、東南陸行五百里にして伊都國に到る。

 また南に邪馬臺國に至る。

 女王國より以北はその戸数道里を略載するを得るべし。

 次に斯馬國、次に巴百支國、次に伊邪國。

 案ずるに倭の西南海行一日に伊邪分國有り。

 布帛無く、革を以って衣と爲す。

 盖(けだ)し伊耶國なり。

 中元の際 紫綬の榮あり 漢書地理志に曰く。

 夫餘・樂浪の海中に倭人有り。

 分かれて百餘國を爲す。

 歳時を以って獻見す。

 後漢書に曰く。

 光武の中元二年、倭國奉貢朝賀し使人自ら大夫と稱す。

 光武、賜うに印綬を以ってす。

 安帝の永初元年、倭王師升等、生口百六十人を獻ず。

 景初の辰 文錦の獻を恭ず 魏志に曰く。

 景初三年 倭の女王、大夫難升未利等を遣わし、

 男生口四人・女生口六人・斑布二疋二丈を獻ず。

 詔して以って親魏倭王と爲し、金印紫綬を假す。

 正始四年、倭王また大夫伊聲耆振邪拘等八人を遣わし生口を上獻す。


 おまけ

 …と、いうよりむしろ先にこちらをお読みいただいた

 ほうがよろしいかも…

 ●『翰苑』豆知識

 『翰苑』 は唐の時代の 張楚金が撰し、雍公叡が注した「類書」。

 「類書」とは、多くの書物の中からその内容を分類収録した、

  いわば百科事典のようなもの。

 『翰苑』 は中国にも現存せず、

 9世紀ころ平安初期の書写とみられる 蕃夷部 のみが、

 わが国の大宰府天満宮に伝存しています。

 世界中のどこにも他に写本が存在せず、

 「天下の孤書」 と称されています。

 大宰府天満宮といえば菅原道真がすぐに連想されますが、

 この 『翰苑』 も元はその菅原家に伝わり、

 のちに大宰府天満宮に移されたものと考えられています。

 大宰府天満宮所蔵 『翰苑』冒頭部

 昭和五十二年五月 (株)吉川弘文館 発行

 竹内理三 校訂解説 「翰苑」より転載

 (赤丸は管理人の獺祭主人によるものです)

 蕃夷部は一般に翰苑の第三十巻といわれていますが、

 実は原本には上図に示したとおり

 ちょうどその卷の数字の部分が欠落していて、

 たしかなことはわかりません。

 第三十巻というのは 

 ① 『舊唐書』の

 列傳/卷一百八十七上/列傳第一百三十七上/忠義上/張道源/族子楚金に

 「楚金…(中略)…著翰苑三十卷」 との記述がある こと、

 ② この蕃夷部の末尾には 後敍(いわば 「あとがき」 にあたる) 
 が付随しているため、

 この卷が全体の最末尾の卷であろうと考えられる ことの2点から

 推定して称しているにすぎません。

 蕃夷部はこの冒頭書き出しの部分を見れば

 匈奴・烏桓・鮮卑・夫餘・三韓・高驪・新羅・百済・粛愼・倭国・

 南蛮・西南夷・両越・西羌・西域・後敍 から構成されています。

 ところが本文には 西羌 に該当する記述が見あたらず、

 書写がくりかえされるうちに脱漏したものかもしれません。

 下図はその倭国条の冒頭部分です。

 ご覧のように本文を大書しそれに割注を付す体裁となっています。

 当サイトのページではこの雰囲気をあらわすよう表示に

 工夫をしてみたのですが成功していますかどうか。

 フォントサイズの指定を失敗したんじゃありませんからね、念のため…

 大宰府天満宮所蔵 『翰苑』より 倭国 冒頭部 

 では次に、試みに本文のみを抜き出してその内容を見てみますと、

 たったこれだけになります。

 翰苑 卷第卅 蕃夷部 より 倭國 本文のみ

 倭國

 憑山負海 鎭馬臺以建都 分軄命官 統女王而列部 卑弥娥惑翻叶群情

 臺與幼齒 方諧衆望 文身點面 猶稱太伯之苗 阿輩雞弥 自表天兒之稱

 因禮義而標袟 即智信以命官 邪屆伊都 傍連斯馬 中元之際 紫綬之榮

 景初之辰 恭文錦之獻


 倭國

 山に憑き海を負い、馬臺に鎭し以って都を建つ。

 軄を分かち官を命じ、女王に統(す)べて部を列す。

 卑弥娥は惑翻(わくほん)して群情(ぐんじょう)に叶う。

 臺與は幼齒にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。

 文身點(鯨)面し、猶(なお)太伯の苗と稱す。

 阿輩雞弥は、自ら天兒の稱を表す。

 禮義に因りて袟を標す。

 即ち智信を以って官を命ず。

 邪は伊都に屆き、傍ら斯馬に連なる。

 中元の際、紫綬の榮あり。

 景初の辰、文錦の獻を恭ず。


 こうして注をとり除いて本文だけにしてみると、

 その文脈はとぎれとぎれで前後のつながりも説明もなく、

 雍公叡 の注がなければ何をいっているのかさっぱりわかりません。

 突如 「女王」 といい、そのあとに続く

 「卑弥娥」・「臺與」 とは何者なのか何の説明もありません。

 かと思えば唐突に 「阿輩雞弥」 と言い出し、

 記述の順も時代のあとさきと関係なくむちゃくちゃです。

 しかも 張楚金 は 「邪馬臺」 ではなく、

 どうやら 「邪・馬臺」 だと思っているようです。

 それというのも、「馬臺に鎭し以って都を建つ」 とは、

 「(「倭国の中の」、または「邪国の中の」)馬臺という所に都がある」
 という意味にとれますし、

 「邪は伊都に屆き、傍ら斯馬に連なる」 とは 

 「邪(国)の(国)境は伊都(国)に届き、

 一方では斯馬(国)に連なる」 と読めるからです。

 どうも倭国に関する 張楚金 の理解と現代の私たちの理解とでは

 かなり食い違ったものがあるよう思えます。

  ただしこれは今本が本来の原本とおりに

 正確に書写されているということが前提であることは

 いうまでもありません。

 ところがここに見るように今本の実態はそうではないと考えられ、

 脱漏や誤字により文意の通じないところがたくさんあります。

 専門の学者による研究が少ないのも、

 労多くして功少ないことがあきらかなので

 敬遠されているのかもしれません。

 なぜこれほどまでに脱漏や誤字が多いのかを考えてみると、

 何度か書写が繰り返される途中に

 ①よほど悪筆の人物がいて、

 次に書写した人がもとの文字が何なのか判別できなかったとか、

 あるいは

 ②漢文に通ぜず文意を理解しないまま機械的に文字を

 書き移した人物を経由したとか、そんなところではないかと思います。

 したがって、たしかに天下の孤本ではあるし、

 また 雍公叡 の注が散逸した

 『魏略』 を引用しているなどがあり貴重なものではあるものの、

 本文そのものは史料として参考になるようなものではないと思います。


 最後に獺祭的校正釈文について少し説明しておきます。

 雍公叡 の注が引用している他書を列挙すると 

 『後漢書』・『魏志』・『魏略』・『宋書』・『括地志』・『廣志』・

 『漢書/地理志』 などがあげられます。

 これらのすべてを私が読んでいるわけではありませんし、

 またこの程度の知識で校正などと

 おこがましいことができるとも思えません。

 よって、あくまでも私的にして試的なものとご理解ください。

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