2015年7月4日土曜日

『後漢書』②

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2013/12/19

 倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」

 ≪後漢書≫

 ※出典:古代史獺祭


 卷八十五 東夷列傳第七十五 濊

 後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (濊)

 濊 北與高句驪・沃沮 南與辰韓接 東窮大海 西至樂浪

 濊及沃沮・句驪 本皆朝鮮之地也 昔武王封箕子於朝鮮

 箕子教以禮義田蠶 又制八條之教 其人終不相盜 無門戸之閉

 婦人貞信 飲食以籩豆 其後四十餘世 至朝鮮侯準 自稱王 

 漢初大亂 燕・齊・趙人往避地者數萬口

 而燕人衞滿擊破準而自王朝鮮 傳國至孫右渠 元朔元年

 濊君南閭等畔右渠 率二十八萬口詣遼東内屬

 武帝以其地爲蒼海郡 數年乃罷 至元封三年 滅朝鮮 

 分置樂浪・臨屯・玄菟・真番四郡 至昭帝始元五年 

 罷臨屯・真番 以并樂浪・玄菟 玄菟復徙居句驪 

 自單單大領已東 沃沮・濊貊悉屬樂浪 後以境土廣遠 

 復分領東七縣 置樂浪東部都尉 自内屬已後 風俗稍薄 
 
 法禁亦浸多 至有六十餘條 建武六年 省都尉官 遂棄領東地

 悉封其渠帥爲縣侯 皆歳時朝賀

 無大君長 其官有侯・邑君・三老 耆舊自謂與句驪同種

 言語法俗大抵相類 其人性愚愨 少嗜欲 不請 男女皆衣曲領

 其俗重山川 山川各有部界 不得妄相干渉 同姓不昏 多所忌諱

 疾病死亡 輒捐棄舊宅 更造新居 知種麻 養蠶 作緜布

 曉候星宿 豫知年歳豐約 常用十月祭天 晝夜飲酒歌舞

 名之爲 舞天 又祠虎以爲神 邑落有相侵犯者 輒相罰 

 責生口牛馬 名之爲責禍 殺人者償死 少寇盜 能歩戰 

 作矛長三丈 或數人共持之 樂浪檀弓出其地 又多文豹 

 有果下馬 海出班魚 使來皆獻之

 濊(わい)。

 北は高句驪・沃沮と、南は辰韓と接し、東は大海に窮まり、

 西は樂浪に至る。

 濊および沃沮・句驪は、もと皆な朝鮮の地なり。

 昔、武王(=周の武帝)は箕子(きし/殷の公子)を

 朝鮮に封ず(=箕子朝鮮)。

 箕子は禮義を以って田蠶(でんそう)を教え、

 また八條の教を制し、その人は終(つい)に相い盜まず、

 門戸の閉ざす無く、

 婦人は貞信にして飲食は籩豆(へんとう)を以ってす。

 その後四十餘世、朝鮮侯の準(じゅん)に至り、自ら王を稱す。

 漢の初め大いに亂れ、

 燕・齊・趙の人の往きて地を避ける者は數萬口。

 而して燕人の衞滿(えいまん)は準を擊破し、

 而して自ら朝鮮に王たり(=衞氏朝鮮)。

 傳國して孫の右渠(うきょ)に至る。

 元朔元年。

 濊君の南閭(なんりょ)等、右渠に畔(そむ)き、

 二十八萬口を率い遼東に詣(いた)り内屬す。

 武帝(=前漢の武帝)はその地を以って蒼海郡と爲し、

 數年にしてすなわち罷(や)む。

 元封三年に至り、朝鮮を滅ぼし、

 分かちて樂浪(らくろう)・臨屯(りんとん)・

 玄菟(げんと)・真番(しんぱん)の四郡を置く。

 昭帝の始元五年に至り、

 臨屯・真番を罷(や)め、以って樂浪・玄菟に并(あわ)す。
 
 玄菟はまた徙(わた)りて句驪に居す。

 單單大領(ぜんぜんたいりょう=現在の「長白山脈」)より

 已東(=以東)、沃沮・濊貊は悉く樂浪に屬す。

 後に境土(きょうど)の廣遠(こうえん)なるを以って、

 また領東の七縣を分かち、

 樂浪東部都尉(らくろう とうぶ とい)を置く。

 内屬より已後(=以後)、風俗は稍(ようや)く薄く、

 法禁また浸(ようや)く多く六十餘條有るに至る。

 建武六年、都尉の官を省(はぶ)き、遂に領東の地を棄て、

 悉くその渠帥(きょすい)を封じて縣侯と爲す。

 皆な歳時に朝賀す。

 大君長は無く、その官に侯・邑君・三老有り。

 耆舊(ききゅう=耆老に同じ。老人のこと)自ら謂う

 「句驪と同種なり」と。

 言語・法俗は大抵(おおむね)相い類す。」

 その人の性は愚愨(ぐかく)にして嗜欲

 (しよく)少なく請(せいこう)せず。

 男女は皆な曲領を衣(き)る。

 その俗は山川を重んじ、山川は各(おのおの)部界有り、

 妄りに相い干渉することを得ず。

 同姓は昏せず、忌諱(きき)する所多し。

 疾病・死亡するに、すなわち舊宅を捐棄し、更に新居を造る。

 麻を種(う)え、蠶(さん=かいこ)を養(か)うを知り、

 緜布を作る。

 星宿(しゅくせい)を候(うかが)うに曉(あか)るく、

 年歳の豐約を豫知す。

 常に十月を用て天を祭り、晝夜飲酒し歌舞す。

 これを名づけて「舞天」と爲す。

 また虎を祠(まつ)り以って神と爲す。

 邑落に相い侵犯する者有れば、すなわち相い罰し、

 生口・牛馬を責む。

 これを名づけて「責禍」と爲す。

 人を殺すは死に償(あが)ない、寇盜(こうとう)少なし。

 歩戰を能くし、矛の長さ三丈なるを作り、

 或いは數人共にこれを持つ。

 樂浪の檀弓(だんきゅう=マユミの弓)はその地に出ず。

 また文豹(もんひょう=模様のあるヒョウ)多く

 果下馬(かかば=背のたかいウマ)有り。

 海は班魚を出だす。

 使の來たるに皆なこれを獻ず。


 卷八十五 東夷列傳第七十五 三韓

 後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (三韓) (原文)

 韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰 馬韓在西 

 有五十四國 其北與樂浪 南與倭接 辰韓在東 十有二國 

 其北與濊貊接 弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接

 凡七十八國 伯濟是其一國焉 大者萬餘戸 小者數千家

 各在山海閒 地合方四千餘里 東西以海爲限 皆古之辰國也

 馬韓最大 共立其種爲辰王 都目支國 盡王三韓之地

 其諸國王先皆是馬韓種人焉

 馬韓人知田蠶 作緜布 出大栗如梨 有長尾雞 尾長五尺 

 邑落雜居 亦無城郭 作土室 形如冢 開戸在上 不知跪拜

 無長幼男女之別 不貴金寶錦罽 不知騎乘牛馬 唯重瓔珠

 以綴衣爲飾 及縣頸垂耳 大率皆魁頭露紒 布袍草履 其人壯勇

 少年有築室作力者 輒以繩貫脊皮 縋以大木 嚾呼爲健

 常以五月田竟祭鬼神 晝夜酒會 羣聚歌舞

 舞輒數十人相隨蹋地爲節 十月農功畢 亦復如之

 諸國邑各以一人主祭天神 號爲 天君 又立蘇塗

 建大木以縣鈴鼓 事鬼神 其南界近倭 亦有文身者

 辰韓 耆老自言秦之亡人 避苦役 適韓國 馬韓割東界地與之

 其名國爲邦 弓爲弧 賊爲寇 行酒爲行觴 相呼爲徒 有似秦語

 故或名之爲秦韓 有城柵屋室 諸小別邑 各有渠帥 大者名臣智

 次有儉側 次有樊秖 次有殺奚 次有邑借 土地肥美 宜五穀

 知蠶桑 作縑布 乘駕牛馬 嫁娶以禮 行者讓路 國出鐵

 濊・倭・馬韓並從市之 凡諸貿易 皆以鐵爲貨

 俗憙歌舞飲酒鼓瑟 兒生欲令其頭扁 皆押之以石

 弁辰與辰韓雜居 城郭衣服皆同 言語風俗有異 其人形皆長大

 美髮 衣服絜清 而刑法嚴峻 其國近倭 故頗有文身者

 初 朝鮮王準爲衞滿所破 乃將其餘衆數千人走入海 攻馬韓

 破之 自立爲韓王 準後滅絶 馬韓人復自立爲辰王 建武二十年

 韓人廉斯人蘇馬諟等詣樂浪貢獻 光武封蘇馬諟爲漢廉斯邑君

 使屬樂浪郡 四時朝謁 靈帝末 韓・濊並盛 郡縣不能制

 百姓苦亂 多流亡入韓者

 馬韓之西 海嶋上有州胡國 其人短小 頭 衣韋衣 有上無下

 好養牛豕 乘船往來 貨市韓中



 卷八十五 東夷列傳第七十五 倭(付 論・贊)

 後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (倭)

 「倭の奴國、奉貢朝賀す…光武、印綬を以って賜う」

 倭在韓東南大海中 依山爲居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮

 使驛通於漢者三十許國 

 國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國

 樂浪郡徼 去其國萬二千里

 去其西北界拘邪韓國七千餘里

 其地大較在會稽・東冶之東 與朱崖・儋耳相近 故其法俗多同

 土宜禾稻・麻紵・蠶桑 知織績爲縑布 出白珠・青玉 其山有丹

 土氣温 冬夏生菜茹 無牛馬虎豹羊鵲

 其兵有矛・楯・木弓・竹矢 或以骨爲鏃

 男子皆黥面文身 以其文左右大小別尊卑之差

 其男衣皆橫幅結束相連 女人被髮屈紒 衣如單被 貫頭而著之

 並以丹朱身 如中國之用粉也

 有城柵屋室 父母兄弟異處 唯會同男女無別 飲食以手

 而用籩豆 俗皆徒跣 以蹲踞爲恭敬 人性嗜酒 多壽考

 至百餘歳者甚衆 國多女子 大人皆有四五妻 其餘或兩或三

 女人不淫不妒 又俗不盜竊 少爭訟 犯法者沒其妻子

 重者滅其門族

 其死停喪十餘日 家人哭泣 不進酒食 而等類就歌舞爲樂

 灼骨以卜 用決吉凶

 行來度海 令一人不櫛沐 不食肉 不近婦人 名曰 持衰

 若在塗吉利 則雇以財物 如病疾遭害 以爲持衰不謹 便共殺之

 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也

 光武賜以印綬

 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

 桓・靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子名曰卑彌呼

 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王 侍婢千人

 少有見者 唯有男子一人給飲食 傳辭語 居處宮室・樓觀・城柵

 皆持兵守衞 法俗嚴峻

 自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王

 自女王國南四千餘里至朱儒國 人長三四尺

 自朱儒東南行船一年 至裸國・黑齒國 使驛所傳 極於此矣


 會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國

 又有夷洲及澶洲

 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海 求蓬萊神仙不得

 徐福畏誅不敢還 遂止此洲 丗丗相承 有數萬家

 人民時至會稽市 會稽東冶縣人有入海行遭風 流移至澶洲者

 所在絶遠 不可往來



 論曰 昔箕子違衰殷之運 避地朝鮮 始其國俗未有聞也

 及施八條之約 使人知禁 遂乃邑無淫盜 門不夜扃

 回頑薄之俗 就寬略之法 行數百千年 故東夷通以柔謹爲風

 異乎三方者也 苟政之所暢 則道義存焉 仲尼懷憤

 以爲九夷可居 或疑其陋 子曰 君子居之 何陋之有

 亦徒有以焉爾 其後遂通接商賈 漸交上國 而燕人衞滿擾雜其風

 於是從而澆異焉 老子曰 法令滋章 盜賊多有 

 若箕子之省簡文條而用信義 其得聖賢作法之原矣


 贊曰 宅是嵎夷 曰乃暘谷 巣山潛海 厥區九族 嬴末紛亂

 燕人違難 雜華澆本 遂通有漢 眇眇偏譯 或從或畔

 倭は韓の東南、大海の中にあり、山に依りて居を爲す。

 凡そ百餘國。

 武帝の朝鮮を滅してより使譯漢に通ずる者三十許國。

 國、皆王を稱し丗丗統を傳う。其大倭王は邪馬臺國に居す。

 樂浪郡徼 (きょう) はその國を去ること萬二千里。

 その西北界拘邪韓國を去ること七千餘里。

 その地はおおむね會稽・東冶の東に在り、

 朱崖・擔耳と相い近し。

 故にその法俗、多くは同じ。

 土は禾稻・麻紵・蠶桑に宜 (よろ) しく、織績を知り、

 縑布 (けんぷ) と爲す。

 白珠・青玉を出し、

 その山には丹有り。土氣は温 (おんどん) にして

 冬夏菜茹を生ず。

  牛・馬・虎・豹・羊・鵲無し。

 その兵には矛・楯・木弓・竹矢有り。

 或いは骨を以って鏃と爲す。

 男子は皆、黥面文身し、

 その文の左右・大小を以って尊卑の差を別つ。

 その男衣は皆橫幅、結束して相連ね、女人は被髪屈紒し、

 衣は單被の如く頭を貫きてこれを著る。

 並に丹朱を以って身をすること中國の粉を用いるが如きなり。

 城柵・屋室有りて父母兄弟處を異にす。

 唯、會同に男女の別無し。

 食飲は手を以ってし籩豆を用う。

 俗、皆徒跣。

 蹲踞を以って恭敬と爲す。

 人性酒を嗜む。

 多く壽考にして百餘歳に至る者、甚だ衆(おお)し。

 國に女子多く、大人は皆四・五妻を有し、その餘も或は兩、

 或は三。

 女人、淫せず妒せず。

 又、俗は盜竊せず爭訟少なし。

 法を犯す者はその妻子を没し、重き者はその門族を滅す。

 その死には喪に停まること十餘日。

 家人哭泣し酒食を進めず。

 而して等類就いて歌舞し樂を爲す。

 骨を灼 (や) いて以って卜し、吉凶を決するに用う。

 行來・度海には一人をして櫛沐 (せつもく) せず

 食肉せず婦人を近づけず、名を「持衰」という。

 若し塗 (みち) に在りて吉利なれば則ち雇するに

 財物を以ってし、如し病疾・害に遭えば、

 以って持衰謹まずと爲し、便ち共に之を殺す。

 建武中元二年【西暦57年】、倭の奴國、奉貢朝賀す。

 使人、自ら大夫と稱す。倭國の極南界なり。

 光武、印綬を以って賜う。

 安帝【後漢の第六代皇帝】の永初元年【西暦107年】、

 倭國王帥升等、生口百六十人を獻じ、

 見 (まみ) ゆるを請願す。

 桓・靈

 【桓帝/後漢の第十一代皇帝・霊帝/後漢の第十二代皇帝】

 の閒(=間)、倭國大いに亂れ更に相攻伐し、歴年主無し。

 一女子有り、名を卑彌呼という。

 年長ずるも嫁せず。

 鬼神の道を事とし、能く妖を以って衆を惑わす。

 是に於いて共立して王と爲す。

 婢千人を侍し、見る者少しく有り。

 ただ男子一人有りて、飲食を給し、辭語を傳う。

 居處・宮室・樓觀・城柵、皆兵を持して守衞し法俗嚴峻たり。

 女王國より東に海を度ること千餘里にして拘奴國に至る。

 皆倭種と雖も、女王に屬さず。

 女王國より南に四千餘里にして侏儒國に至る。

 人の長、三・四尺。

 侏儒より東南に行船すること一年にして裸國・黒齒國に至る。

 使譯の傳うる所、此に於いて極まる。

 會稽の海外に東鯷 (とうてい) 人有り。

 分れて二十餘國を爲す。

 又夷洲・澶 (せん) 洲有り。

 傳え言う、秦の始皇【始皇帝】、

 方士徐福を遣し、童男女數千人を将 (ひき) いて海に入り

 蓬莱・神仙を求むれども得ず。

 徐福、誅を畏れ敢て還らず。

 遂に此の洲に止まる。

 丗丗相い承 (う) け、數萬家有り。

 人民、時に會稽に至り市す。

 會稽・東冶の縣人、海に入りて行くに風に遭い、

 流移して澶 (せん) 洲に至る者有り。

 所在、絶遠にして往來すべからず。



 論に曰く、昔箕子(きし)は衰えし殷の運を違(さ)り、

 地を朝鮮に避く。

 始めその國の俗は未だ聞(ぶん)有らず。

 八條の約を施すに及び、人をして禁を知らしむ。

 遂にすなわち邑に淫盜無く、門は夜に扃(とざ)さず。

 頑薄(がんはく)の俗を回(めぐ)らし、

 寬略(かんりゃく)の法に就(つ)け、行うこと數百千年。

 故に東夷は通じ柔謹を以って風と爲し、三方に異る者なり。

 苟(いやし)くも政(まつりごと)の暢(の)ぶる所、

 すなわち道義存す。

 仲尼(ちゅうじ)は憤(いきどおり)を懷(いだ)き、

 以爲(おもえらく)「九夷に居る可(べ)し」と。

 或(ある)いはその陋(いや)しきを疑う。

 子曰く、

 「君子これに居らば、何ぞ陋(いや)しきこれ有らん」と。

 また徒(ただ)に以(ゆえ)有る爾(のみ)。

 その後、遂(つい)に商賈(しょうか)に通接し、

 漸(ようや)く上國に交わり、

 而して燕人衞滿(えいまん)はその風を擾雜(じょうざつ)し、

 是に於いて從いて澆異(ぎょうい)す。

 老子曰く、

 「法令滋章(じしょう)にして盜賊多く有り」と。
 
 箕子の文條を省簡にして信義を用うるが若(ごと)きは、

 それ聖賢の作法の原(みなもと)を得たり。


 贊に曰く、この嵎夷(ぐうい)に宅し、

 すなわち暘谷(ようこく)と曰う。

 山に巣し、海に潛(ひそ)み、厥(そ)の區は九族。

 嬴(えい)の末の紛亂に、燕人は難を違(さ)り、

 華を雜(まじ)え本を澆(うす)くし、遂に有漢に通ず。

 眇眇(びょうびょう)たる偏譯(へんえき)、

 或いは從い或いは畔(そむ)く。


 卷八十六 南蠻西南夷列傳第七十六(冒頭部分抜粋)

 後漢書 卷八十六 南蠻西南夷列傳第七十六 (冒頭部分を抜粋)

 昔高辛氏有犬戎之寇 帝患其侵暴 而征伐不剋 乃訪募天下

 有能得犬戎之將呉將軍頭者 購黄金千鎰 邑萬家 又妻以少女

 時帝有畜狗 其毛五采 名曰槃瓠 下令之後

 槃瓠遂銜人頭造闕下 羣臣怪而診之 乃呉將軍首也 帝大喜 

 而計槃瓠不可妻之以女 又無封爵之道 議欲有報而未知所宜

 女聞之 以爲帝皇下令 不可違信 因請行 帝不得已

 乃以女配槃瓠 槃瓠得女 負而走入南山 止石室中 所處險絶

 人跡不至 於是女解去衣裳 爲僕鑒之結 著獨力之衣 帝悲思之

 遣使尋求 輒遇風雨震晦 使者不得進 經三年 生子一十二人

 六男六女 槃瓠死後 因自相夫妻 織績木皮 染以草實

 好五色衣服 製裁皆有尾形 其母後歸 以状白帝

 於是使迎致諸子 衣裳班蘭 語言侏離 好入山壑 不樂平曠

 帝順其意 賜以名山廣澤 其後滋蔓 號曰蠻夷 外癡内黠

 安土重舊 以先父有功 母帝之女 田作賈販 無關梁符傳

 租税之賦 有邑君長 皆賜印綬 冠用獺皮 名渠帥曰精夫

 相呼爲徒 今長沙武陵蠻是也

 昔、

 高辛氏(こうしんし)に犬戎(けんじゅう)の寇(こう)有り。

 帝、その侵暴を患(うれ)え、而して征伐するも剋(か)たず。

 すなわち天下に訪募すらく、

 能く犬戎の將の呉將軍の頭を得る者有れば、

 黄金千鎰(いつ)・邑萬家に購(あがな)い、

 また少(すえ)の女(むすめ)を以って妻とせんと。

 時に帝に畜(か)える狗(いぬ)有り。

 その毛は五采にして、名を槃瓠(ばんこ)と曰う。

 令を下して後に、

 槃瓠、遂に人の頭を銜(くわ)え闕下に造(いた)る。

 羣臣怪みてこれを診るに、すなわち呉將軍の首なり。

 帝、大きに喜ぶ。

 而して計るに槃瓠は女(むすめ)を以って

 この妻とするべからず。

 また封爵の道も無し。

 議して報有らんと欲すれども、

 而して未だ所の宜しきを知らず。

 女(むすめ)これを聞き、以爲(おもえら)く、

 帝皇の令を下すや信に違(たが)うべからずと。

 因りて行うを請う。

 帝、已(や)むを得ず。

 すなわち女(むすめ)を以って槃瓠に配す。

 槃瓠は女(むすめ)を得、負いて南山に走り入り、

 石室の中に止む。

 處する所は險絶にして人跡至らず。

 ここに女(むすめ)は衣裳を解き去り、

 僕鑒(ぼくかん)の結を爲し、

 獨力の衣を著(つ)けたり

 (「僕鑒の結」・「獨力の衣」ともに未詳)。

  帝これを悲しみ思い、使を遣わし尋ね求むるに、

 すなわち風雨の震晦(しんかい)なるに遇い、

 使者は進むを得ず。

 三年を經て子一十二人を生む。

 六男六女なり。

 槃瓠の死して後に、因りて自ら相い夫妻となる。

 木の皮を織績し、草の實を以って染め、五色の衣服を好み、

 製裁するに皆な尾の形有り。

 その母後に歸り、以って状を帝に白(もう)す。

 ここに諸子を迎致せしむるに、衣裳は班蘭(はんらん)、

 語言は侏離(しゅり)、山壑(さんこく)に入るを好み、

 平曠を樂しまず。

 帝その意に順(したが)い、名山・廣澤を以って賜う。

 その後滋蔓(じまん)し號(なづ)けて「蠻夷」と曰う。

 外には癡(ち)にして内は黠(かつ)なり。

 土に安んじ舊を重んず。

 先父には功有り、母は帝の女(むすめ)なるを以って、

 田作賈販するに關梁の符傳・租税の賦無し。

 邑の君長有り、皆な印綬を賜う。

 冠には獺の皮を用う。

 渠帥(きょすい)を名づけて「精夫」と曰い、

 相い呼ぶを徒(おうと)と爲す。

 今の長沙の武陵蠻これなり。


 卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十 烏桓

 後漢書 卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十 (烏桓) (原文)

 烏桓者 本東胡也 漢初 匈奴冒頓滅其國 餘類保烏桓山

 因以爲號焉 俗善騎射 弋獵禽獸爲事 隨水草放牧 居無常處

 以穹廬爲舍 東開向日 食肉飲酪 以毛毳爲衣 貴少而賤老

 其性悍塞 怒則殺父兄 而終不害其母 以母有族類

 父兄無相仇報故也 有勇健能理決訟者 推爲大人 無世業相繼

 邑落各有小帥 數百千落自爲一部 大人有所召呼 則刻木爲信

 雖無文字 而部衆不敢違犯 氏姓無常 以大人健者名字爲姓

 大人以下 各自畜牧營産 不相傜役 其嫁娶則先略女通情

 或半歳百日 然後送牛馬羊畜 以爲娉幣 隨妻還家 妻家無尊卑

 旦旦拜之 而不拜其父母 爲妻家僕役 一二年閒

 妻家乃厚遣送女 居處財物一皆爲辦 其俗妻後母 報寡嫂

 死則歸其故夫 計謀從用婦人 唯戰之事乃自決之

 父子男女相對踞蹲 以頭爲輕便 婦人至嫁時乃養髮 分爲髻

 著句決 飾以金碧 猶中國有簂歩搖 婦人能刺韋作文繡織

 男子能作弓矢鞍勒 鍛金鐵爲兵器 其土地宜穄及東牆

 東牆似蓬草 實如穄子 至十月而熟 見鳥獸孕乳 以別四節

 俗貴兵死 斂屍以棺 有哭泣之哀 至葬則歌舞相送 肥養一犬

 以彩繩纓牽 并取死者所乘馬衣物 皆燒而送之 言以屬累犬

 使護死者神靈歸赤山 赤山在遼東西北數千里

 如中國人死者魂神歸岱山也 敬鬼神

 祠天地日月星辰山川及先大人有健名者 祠用牛羊 畢皆燒之

 其約法 違大人言者 罪至死 若相賊殺者 令部落自相報

 不止 詣大人告之 聽出馬牛羊以贖死 其自殺父兄則無罪

 若亡畔爲大人所捕者 邑落不得受之 皆徙逐於雍狂之地

 沙漠之中 其土多蝮蛇 在丁令西南 烏孫東北焉

 烏桓自爲冒頓所破 衆遂孤弱 常臣伏匈奴 歳輸牛馬羊皮

 過時不具 輒沒其妻子 及武帝遣驃騎將軍霍去病擊破匈奴左地

 因徙烏桓於上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東五郡塞外

 爲漢偵察匈奴動靜 其大人歳一朝見 於是始置護烏桓校尉

 秩二千石 擁節監領之 使不得與匈奴交通

 昭帝時 烏桓漸強 乃發匈奴單于冢墓 以報冒頓之怨 匈奴大怒

 乃東擊破烏桓 大將軍霍光聞之 

 因遣度遼將軍范明友將二萬騎出遼東邀匈奴 而虜已引去 

 明友乘烏桓新敗 遂進擊之 斬首六千餘級 獲其三王首而還

 由是烏桓復寇幽州 明友輒破之 宣帝時 乃稍保塞降附

 及王莽簒位 欲擊匈奴 興十二部軍 

 使東域將嚴尤領烏桓・丁令兵屯代郡 皆質其妻子於郡縣

 烏桓不便水土 懼久屯不休 數求謁去 莽不肯遣 遂自亡畔

 還爲抄盜 而諸郡盡殺其質 由是結怨於莽

 匈奴因誘其豪帥以爲吏 餘者皆羈縻屬之

 光武初 烏桓與匈奴連兵爲寇 代郡以東尤被其害 居止近塞

 朝發穹廬 暮至城郭 五郡民庶 家受其辜 至於郡縣損壞

 百姓流亡 其在上谷塞外白山者 最爲強富

 建武二十一年 遣伏波將軍馬援將三千騎出五阮關掩擊之

 烏桓逆知 悉相率逃走 追斬百級而還 烏桓復尾擊援後

 援遂晨夜奔歸 比入塞 馬死者千餘匹

 二十二年 匈奴國亂 烏桓乘弱擊破之 匈奴轉北徙數千里

 漠南地空 帝乃以幣帛賂烏桓 二十五年

 遼西烏桓大人郝旦等九百二十二人率衆向化 詣闕朝貢

 獻奴婢牛馬及弓虎豹貂皮

 是時四夷朝賀 絡驛而至 天子乃命大會勞饗 賜以珍寶 

 烏桓或願留宿衞 於是封其渠帥爲侯王君長者八十一人

 皆居塞内 布於縁邊諸郡 令招來種人 給其衣食 遂爲漢偵候

 助擊匈奴・鮮卑 時司徒掾班彪上言 烏桓天性輕黠 好爲寇賊

 若久放縱而無總領者 必復侵掠居人 但委主降掾史 恐非所能制

 臣愚以爲宜復置烏桓校尉 誠有益於附集 省國家之邊慮 帝從之

 於是始復置校尉於上谷甯城 開營府 并領鮮卑 賞賜質子

 歳時互市焉

 及明・章・和三世 皆保塞無事 安帝永初三年夏

 漁陽烏桓與右北平胡千餘寇代郡・上谷 秋 鴈門烏桓率衆王無何

 與鮮卑大人丘倫等 及南匈奴骨都侯 合七千騎寇五原

 與太守戰於九原高渠谷 漢兵大敗 殺郡長吏

 乃遣車騎將軍何熙・度遼將軍梁慬等擊 大破之 無何乞降

 鮮卑走還塞外 是後烏桓稍復親附 拜其大人戎朱廆爲親漢都尉

 順帝陽嘉四年冬 烏桓寇雲中 遮截道上商賈車牛千餘兩

 度遼將軍耿曄率二千餘人追擊 不利 又戰於沙南 斬首五百級

 烏桓遂圍曄於蘭池城 於是發積射士二千人 度遼營千人

 配上郡屯 以討烏桓 烏桓乃退 永和五年

 烏桓大人阿堅・羌渠等與南匈奴左部句龍吾斯反畔

 中郎將張耽擊破斬之 餘衆悉降 桓帝永壽中

 朔方烏桓與休著屠各並畔 中郎將張奐平之 延熹九年夏

 烏桓復與鮮卑及南匈奴寇縁邊九郡 倶反 張奐討之 皆出塞去



 靈帝初 烏桓大人上谷有難樓者 衆九千餘落 遼西有丘力居者

 衆五千餘落 皆自稱王 又遼東蘇僕延 衆千餘落 自稱峭王 右北平烏延

 衆八百餘落 自稱汗魯王 並勇建而多計策 中平四年 前中山太守張純畔

 入丘力居衆中 自號彌天安定王 

 遂爲諸郡烏桓元帥 寇掠青・徐・幽・冀四州 五年 以劉虞爲幽州牧

 虞購募斬純首 北州乃定

 獻帝初平中 丘力居死 子樓班年少 從子蹋頓有武略 代立 總攝三郡

 衆皆從其號令 建安初 冀州牧袁紹與前將軍公孫瓚相持不決

 蹋頓遣使詣紹求和親 遂遣兵助擊瓚 破之

 紹矯制賜蹋頓・難樓・蘇僕延・烏延等 皆以單于印綬

 後難樓・蘇僕延率其部衆奉樓班爲單于 蹋頓爲王

 然蹋頓猶秉計策 廣陽人閻柔 少沒烏桓・鮮卑中 爲其種人所歸信

 柔乃因鮮卑衆 殺烏桓校尉邢舉而代之 袁紹因寵慰柔 以安北邊

 及紹子尚敗 奔蹋頓 時幽・冀吏人奔烏桓者十萬餘戸 尚欲憑其兵力

 復圖中國 會曹操平河北 閻柔率鮮卑・烏桓歸附 操即以柔爲校尉

 建安十二年 曹操自征烏桓 大破蹋頓於柳城 斬之 首虜二十餘萬人

 袁尚與樓班・烏延等皆走遼東 遼東太守公孫康並斬送之

 其餘衆萬餘落 悉徙居中國云


 卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十  鮮卑(付 論・贊)

 後漢書 卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十 (鮮卑)

 「倭人は善く網もて捕うと聞く。ここに東に倭人國を擊つ」

 鮮卑者 亦東胡之支也 別依鮮卑山 故因號焉

 其言語習俗與烏桓同 唯婚姻先頭 以季春月大會於饒樂水上

 飲讌畢 然後配合 又禽獸異於中國者 野馬・原羊・角端牛

 以角爲弓 俗謂之角端弓者 又有貂・・鼲子 皮毛柔蝡

 故天下以爲名裘

 漢初 亦爲冒頓所破 遠竄遼東塞外 與烏桓相接 未常通中國焉

 光武初 匈奴強盛 率鮮卑與烏桓寇抄北邊 殺略吏人 無有寧歳

 建武二十一年 鮮卑與匈奴入遼東 遼東太守祭肜擊破之

 斬獲殆盡 事已具肜傳 由是震怖 及南單于附漢 北虜孤弱

 二十五年 鮮卑始通驛使

 其後都護偏何等詣祭肜求自効功 因令擊北匈奴左伊育訾部

 斬首二千餘級 其後偏何連歳出兵擊北虜

 還輒持首級詣遼東受賞賜 三十年

 鮮卑大人於仇賁・滿頭等率種人詣闕朝賀 慕義内屬

 帝封於仇賁爲王 滿頭爲侯 時漁陽赤山烏桓歆志賁等數寇上谷

 永平元年 祭肜復賂偏何擊歆志賁 破斬之

 於是鮮卑大人皆來歸附 並詣遼東受賞賜

 青徐二州給錢歳二億七千萬爲常 明章二世 保塞無事

 和帝永元中 大將軍竇憲遣右校尉耿夔擊破匈奴 北單于逃走

 鮮卑因此轉徙據其地 匈奴餘種留者尚有十餘萬落 皆自號鮮卑

 鮮卑由此漸盛 九年 遼東鮮卑攻肥如縣 太守祭參坐沮敗

 下獄死 十三年 遼東鮮卑寇右北平 因入漁陽 漁陽太守擊破之

 延平元年 鮮卑復寇漁陽 太守張顯率數百人出塞追之

 兵馬掾嚴授諫曰 前道險阻 賊埶難量 宜且結營

 先令輕騎偵視之 顯意甚鋭 怒欲斬之 因復進兵 遇虜伏發

 士卒悉走 唯授力戰 身被十創 手殺數人而死 顯中流矢

 主簿衞福・功曹徐咸皆自投赴顯 倶歿於陣 鄧太后策書褒歎

 賜顯錢六十萬 以家二人爲郎 授・福・咸各錢十萬 除一子爲郎

 安帝永初中 鮮卑大人燕茘陽詣闕朝賀 鄧太后賜燕茘陽王印綬

 赤車參駕 令止烏桓校尉所居城下 通胡市 因築南北兩部質館

 鮮卑邑落百二十部 各遣入質 是後或降或畔

 與匈奴・烏桓更相攻擊

 元初二年秋 遼東鮮卑圍無慮縣 州郡合兵固保清野 鮮卑無所得

 復攻扶黎營 殺長吏 四年 遼西鮮卑連休等遂燒塞門 寇百姓

 烏桓大人於秩居等與連休有宿怨 共郡兵奔擊 大破之

 斬首千三百級 悉獲其生口牛馬財物 五年秋

 代郡鮮卑萬餘騎遂穿塞入寇 分攻城邑 燒官寺 殺長吏而去

 乃發縁邊甲卒・黎陽營兵 屯上谷以備之 冬 鮮卑入上谷

 攻居庸關 復發縁邊諸郡・黎陽營兵・積射士歩騎二萬人

 屯列衝要 六年秋 鮮卑入馬城塞 殺長吏

 度遼將軍鄧遵發積射士三千人 及中郎將馬續率南單于

 與遼西・右北平兵馬會 出塞追擊鮮卑 大破之

 獲生口及牛羊財物甚衆 又發積射士三千人 馬三千匹

 詣度遼營屯守

 永寧元年 遼西鮮卑大人烏倫・其至鞬率衆詣鄧遵降 奉貢獻

 詔封烏倫爲率衆王 其至鞬爲率衆侯 賜綵繒各有差

 建光元年秋 其至鞬復畔 寇居庸 雲中太守成嚴擊之 兵敗散

 功曹楊穆以身捍嚴 與倶戰歿 鮮卑於是圍烏桓校尉徐常於馬城

 度遼將軍耿夔與幽州刺史龐參發廣陽・漁陽・涿郡甲卒

 分爲兩道救之 常夜得潛出 與夔等并力並進 攻賊圍 解之

 鮮卑既累殺郡守 膽意轉盛 控弦數萬騎 延光元年冬

 復寇鴈門・定襄 遂攻太原 掠殺百姓 二年冬

 其至鞬自將萬餘騎入東領候 分爲數道 攻南匈奴於曼柏

 薁鞬日逐王戰死 殺千餘人 三年秋 復寇高柳 擊破南匈奴

 殺漸將王

 順帝永建元年秋 鮮卑其至鞬寇代郡 太守李超戰死 明年春

 中郎將張國遣從事將南單于兵歩騎萬餘人出塞 擊破之

 獲其資重二千餘種 時遼東鮮卑六千餘騎亦寇遼東玄菟

 烏桓校尉耿曄發縁邊諸郡兵及烏桓率衆王出塞擊之

 斬首數百級 大獲其生口牛馬什物

 鮮卑乃率種衆三萬人詣遼東乞降 三年 四年

 鮮卑頻寇漁陽・朔方 六年秋 耿曄遣司馬將胡兵數千人

 出塞擊破之 冬 漁陽太守又遣烏桓兵擊之 斬首八百級

 獲牛馬生口 烏桓豪人扶漱官勇健 毎與鮮卑戰 輒陷敵

 詔賜號 率衆君

 陽嘉元年冬 耿曄遣烏桓親漢都尉戎朱廆率衆王侯咄歸等

 出塞抄擊鮮卑 大斬獲而還 賜咄歸等已下爲率衆王・侯・長

 賜綵繒各有差 鮮卑後寇遼東屬國

 於是耿曄乃移屯遼東無慮城拒之 二年春

 匈奴中郎將趙稠遣從事將南匈奴骨都侯夫沈等 出塞擊鮮卑

 破之 斬獲甚衆 詔賜夫沈金印紫綬及縑綵各有差 秋 

 鮮卑穿塞入馬城 代郡太守擊之 不能克 後其至鞬死

 鮮卑抄盜差稀

 桓帝時 鮮卑檀石槐者 其父投鹿侯 初從匈奴軍三年

 其妻在家生子 投鹿侯歸 怪欲殺之 妻言嘗晝行聞雷震

 仰天視而雹入其口 因呑之 遂身 十月而産 此子必有奇異

 且宜長視 投鹿侯不聽 遂之 妻私語家令收養焉 名檀石槐

 年十四五 勇健有智略 異部大人抄取其外家牛羊

 檀石槐單騎追擊之 所向無前 悉還得所亡者 由是部落畏服

 乃施法禁 平曲直 無敢犯者 遂推以爲大人

 檀石槐乃立庭於彈汗山歠仇水上 去高柳北三百餘里

 兵馬甚盛 東西部大人皆歸焉 因南抄縁邊 北拒丁零

 東卻夫餘 西擊烏孫 盡據匈奴故地 東西萬四千餘里

 南北七千餘里 網羅山川水澤鹽池

 永壽二年秋 檀石槐遂將三四千騎寇雲中 延熹元年

 鮮卑寇北邊 冬 使匈奴中郎將張奐率南單于出塞擊之

 斬首二百級 二年 復入鴈門 殺數百人 大抄掠而去

 六年夏 千餘騎寇遼東屬國 九年夏 遂分騎數萬人入縁邊九郡

 並殺掠吏人 於是復遣張奐擊之 鮮卑乃出塞去 朝廷積患之

 而不能制 遂遣使持印綬封檀石槐爲王 欲與和親

 檀石槐不肯受 而寇抄滋甚 乃自分其地爲三部

 從右北平以東至遼東 接夫餘・濊貊二十餘邑爲東部

 從右北平以西至上谷十餘邑爲中部

 從上谷以西至敦煌・烏孫二十餘邑爲西部 各置大人主領之

 皆屬檀石槐

 靈帝立 幽・并・涼三州縁邊諸郡無歳不被鮮卑寇抄

 殺略不可勝數 熹平三年冬 鮮卑入北地

 太守夏育率休著屠各追擊破之 遷育爲護烏桓校尉 五年

 鮮卑寇幽州 六年夏 鮮卑寇三邊 秋 夏育上言 鮮卑寇邊

 自春以來 三十餘發 請徴幽州諸郡兵出塞擊之 一冬二春

 必能禽滅 朝廷未許 先是護羌校尉田晏坐事論刑被原

 欲立功自効 乃請中常侍王甫求得爲將

 甫因此議遣兵與育并力討賊 帝乃拜晏爲破鮮卑中郎將

 大臣多有不同 乃召百官議朝堂 議郎蔡邕議曰



  書戒猾夏 易伐鬼方 周有獫狁・蠻荊之師

 漢有闐顏・瀚海之事 征討殊類 所由尚矣 然而時有同異

 埶有可否 故謀有得失 事有成敗 不可齊也

  武帝情存遠略 志闢四方 南誅百越 北討強胡 西伐大宛

 東并朝鮮 因文・景之蓄 藉天下之饒 數十年閒 官民倶匱

 乃興鹽鐵酒榷之利 設告緡重税之令 民不堪命 起爲盜賊

 關東紛擾 道路不通 繡衣直指之使 奮鈇鉞而並出 既而覺悟

 乃息兵罷役 封丞相爲富人侯 故主父偃曰 夫務戰勝 窮武事

 未有不悔者也 夫以世宗神武 將相良猛 財賦充實 所拓廣遠

 猶有悔焉 況今人財並乏 事劣昔時乎

  自匈奴遁逃 鮮卑強盛 據其故地 稱兵十萬 才力勁健

 意智益生 加以關塞不嚴 禁網多漏 精金良鐵 皆爲賊有

 漢人逋逃 爲之謀主 兵利馬疾 過於匈奴 昔段熲良將

 習兵善戰 有事西羌 猶十餘年 今育・晏才策 未必過熲

 鮮卑種衆 不弱于曩時 而虚計二載 自許有成 若禍結兵連

 豈得中休 當復徴發衆人 轉運無已 是爲耗竭諸夏 并力蠻夷

 夫邊垂之患 手足之蚧搔 中國之困 胸背之瘭疽

 方今郡縣盜賊尚不能禁 況此醜虜而可伏乎

  昔高祖忍平城之恥 呂后慢書之詬 方之於今 何者爲甚

  天設山河 秦築長城 漢起塞垣 所以別内外 異殊俗也

 苟無蹙國内侮之患則可矣 豈與蟲螘狡寇計爭往來哉 雖或破之

 豈可殄盡 而方令本朝爲之旰食乎

  夫專勝者未必克 挾疑者未必敗 衆所謂危 聖人不任

 朝議有嫌 明主不行也 昔淮南王安諫伐越曰 天子之兵

 有征無戰 言其莫敢校也 如使越人蒙死以逆執事廝輿之卒

 有一不備而歸者 雖得越王之首 而猶爲大漢羞之

 而欲以齊民易醜虜 皇威辱外夷 就如其言 猶已危矣

 況乎得失不可量邪 昔珠崖郡反 孝元皇帝納賈捐之言

 而下詔曰 珠崖背畔 今議者或曰可討 或曰之 朕日夜惟思

 羞威不行 則欲誅之 通于時變 復憂萬民

 夫萬民之飢與遠蠻之不討 何者爲大 宗廟之祭 凶年猶有不備

 況避不嫌之辱哉 今關東大困 無以相贍 又當動兵

 非但勞民而已 其罷珠崖郡 此元帝所以發德音也 夫卹民救急

 雖成郡列縣 尚猶之 況障塞之外 未嘗爲民居者乎 守邊之術

 李牧善其略 保塞之論 嚴尤申其要 遺業猶在 文章具存

 循二子之策 守先帝之規 臣曰可矣



 帝不從 遂遣夏育出高柳 田晏出雲中

 匈奴中郎將臧旻率南單于出鴈門 各將萬騎 三道出塞二千餘里

 檀石槐命三部大人各帥衆逆戰 育等大敗 喪其節傳輜重

 各將數十騎奔還 死者十七八 三將檻車徴下獄 贖爲庶人

 冬 鮮卑寇遼西 光和元年冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒

 種衆日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行

 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之

 聞倭人善網捕 於是東擊倭人國 得千餘家 徙置秦水上

 令捕魚以助糧食

 光和中 檀石槐死 時年四十五 子和連代立 和連才力不及父

 亦數爲寇抄 性貪淫 斷法不平 衆畔者半 後出攻北地

 廉人善弩射者射中和連 即死 其子騫曼年小 兄子魁頭立

 後騫曼長大 與魁頭爭國 衆遂離散 魁頭死 弟歩度根立

 自檀石槐後 諸大人遂世相傳襲



 論曰 四夷之暴 其埶互彊矣 匈奴熾於隆漢 西羌猛於中興

 而靈獻之閒 二虜迭盛 石槐驍猛 盡有單于之地 蹋頓凶桀

 公據遼西之土 其陵跨中國 結患生人者 靡世而寧焉

 然制御上略 歴世無聞 周・漢之策 僅得中下 將天之冥數

 以至於是乎



 贊曰 二虜首施 鯁我北垂 道暢則馴 時薄先離

 鮮卑(せんぴ)はまた東胡の支(わかれ)なり。

 別れて鮮卑山に依る。

 故に因りて號(なづ)く。

 その言語・習俗は烏桓(うがん)と同じ。

 唯(ただ)婚姻には先ず頭(こんとう)し、

 季春(りしゅん)の月を以って饒樂水(じょうらくすい)の

 上(ほとり)に大いに會す。

 飲讌(いんえん)畢(おわ)り、然る後に配合す。

 また禽獸の中國に異なるは、野馬・原羊・角端牛。

 (角端牛は)角を以って弓と爲し、

 俗にこれを『角端弓』と謂う。

 また貂(ちょう)・(だつ)・鼲子(こんし)有り。

 皮毛柔蝡(じゅうぜん)にして、

 故に天下は以って名裘(めいきゅう)と爲す。

 漢の初め、

 また冒頓(ぼくとつ=匈奴の冒頓單于/ぼくとつぜんう)の

 破る所と爲し、遠く遼東の塞外に竄(のが)れ、

 烏桓と相接す。

 未だ常に中國に通ぜず。

 光武の初め、匈奴強盛にして鮮卑と烏桓を率(ひき)い

 北邊を寇抄(こうしょう)す。

 吏人を殺略し、寧歳(ねいさい=平穏で安寧な年)有る無し。

 建武二十一年、鮮卑と匈奴は遼東に入る。

 遼東太守の祭肜(さいゆう)はこれを擊破し、

 斬獲して殆ど盡す。

 事已(すで)に『肜傳(ゆうでん)』

 (=後漢書 卷二十 銚期王霸祭遵列傳)に具(つぶさ)なり。

 これにより震怖(しんぷ)す。

 南單于(みなみぜんう)、

 漢に附すにおよび北虜(ほくりょ)

 孤弱(こじゃく=孤立して勢力を弱めた)なり。

 二十五年、鮮卑始めて驛使を通ず。

 その後、都護(とご)の偏何(へんか)等、

 祭肜(さいゆう/前出の遼東太守)に詣(いた)り

 自ら功を効(いた)さんことを求む。

 因りて北匈奴の左伊育訾部(さいいくしぶ)を擊たしむ。

 斬首二千餘級。

 その後、偏何は連歳出兵し北虜を擊ち、

 還りて輒(すなわ)ち首級を持ち遼東に詣り賞賜を受く。

 三十年、
 
 鮮卑大人の於仇賁(おきゅうふん)・滿頭(まんとう)等

 種人を率い闕に詣りて朝賀し、義を慕いて内屬す。

 帝、封じて於仇賁を王と爲し、滿頭を侯と爲す。

 時に漁陽の赤山烏桓(せきざんうがん)の

 歆志賁(きんしふん)等、數(しばしば)上谷に寇す。

 永平元年、祭肜また偏何(前出/都護の偏何)に賂(わい)し、

 歆志賁(きんしふん)を擊ち、破りてこれを斬る。

 ここに鮮卑の大人皆な來たり歸して附し、

 並びに遼東に詣り賞賜を受く。

 青・徐の二州は錢を給すること歳に二億七千萬を常と爲す。

 明・章の二世、保塞に事無し。

 和帝の永元中、大將軍の竇憲(こうけん)は

 右校尉の耿夔(こうき)を遣わし匈奴を擊破し、

 北單于逃走す。

 鮮卑はこれに因りて轉(てん)じ徙(うつ)りて

 その地に據(よ)る。

 匈奴の餘種の留まる者なお十餘萬落有り、皆な自ら鮮卑を號す。

 鮮卑、これに由り漸(ようや)く盛んなり。

 九年、遼東の鮮卑、肥如縣(ひじょけん)を攻め、

 太守の祭參(さいさん)は沮敗(そはい)に坐し、

 獄に下り死す。

 十三年、遼東の鮮卑は右北平に寇し、因りて漁陽に入る。

 漁陽太守これを擊破す。

 延平元年、鮮卑また漁陽を寇す。

 太守の張顯(ちょうけん)、

 數百人を率い塞を出でてこれを追う。

 兵馬掾(へいばえん/辺境の軍事をあずかる役職名)の

 嚴授(げんじゅ)諫(いま)しめて曰く、

「前道險阻にして賊埶(ぞくせい)量り難し。

 宜しく且(しばら)く營を結び、

 先ず輕騎をしてこれを偵視せしめん」と。

 顯、意は甚だ鋭く、怒りてこれを斬らんと欲す。

 因りてまた兵を進めるに虜伏の發るに遇い、士卒悉く走る。

 ただ授のみ力戰し、身に十創を被り、

 手ずから數人を殺して死す。

 顯は流矢に中(あた)り、

 主簿(しゅぼ/郡の庶務担当官)の

 衞福(えいふく)・功曹(こうそう/郡の人事担当官)の

 徐咸(じょかん)は皆な自ら投じて顯に赴(つ)き、

 倶(とも)に陣に歿(=没)す。

 鄧太后

 (とうたいごう/後漢書 本紀 卷十上 皇后紀第十上

  和熹鄧皇后)、

 策書して褒め歎き、

 賜うに顯に錢六十萬、家の二人を以って郎と爲し、

 授・福・咸に各錢十萬、一子を除して郎と爲す。

 安帝の永初中、

 鮮卑大人の燕茘陽(えんれいよう)、闕に詣り朝賀す。

 鄧太后、燕茘陽に王の印綬・赤車參駕(せきしゃさんが)を

 賜い、烏桓校尉(うがんこうい)の居す所の

 城(ねいじょう)の下に止め、胡市(こし)を通ぜしむ。

 因りて南北兩部の質館を築く。

 鮮卑の邑落百二十部、各(おのおの)入りて質を遣わす。

 この後、或いは降(くだ)り或いは畔(そむ)き、

 匈奴と烏桓は更に相い攻擊す。

 元初二年秋、

 遼東の鮮卑は無慮縣(むりょけん)を圍(かこ)む。

 州・郡、兵を合わせ保(ほ/砦)を固め、

 野を清め(=周辺の穀物や財物を接収して、

 からっぽにしてしまうこと)鮮卑は得る所無し。

 また扶黎營(ふれいえい)を攻め、長吏を殺す。

 四年、遼西の鮮卑の連休(れんきゅう)等、遂に塞門を燒き、

 百姓を寇す。

 烏桓大人の於秩居(おちつきょ)等と

 連休は宿怨(しゅくおん)有り。

 郡兵と共に奔りて擊ち、大いにこれを破る。

 斬首千三百級。

 悉くその生口・牛馬・財物を獲る。

 五年秋、代郡の鮮卑萬餘騎は遂に塞を穿ち入寇す。

 分かれて城邑を攻め、官寺を燒き、長吏を殺して去る。

 すなわち縁邊の甲卒と黎陽(れいよう)の營兵を發し、

 上谷に屯し以ってこれに備う。

 冬、鮮卑、上谷に入り居庸關(きょようかん)を攻む。

 また縁邊の諸郡と黎陽の營兵・積射の士・歩騎二萬人を發し、

 衝要(しょうよう/要衝の場所)に列して屯す。

 六年秋、鮮卑は馬城(=地名/馬城縣)の塞に入り長吏を殺す。

 度遼將軍の鄧遵(とうじゅん)は積射の士三千人を發し、

 及び中郎將の馬續(ばしょく)は南單于を率い、

 遼西と右北平の兵馬を會し、塞を出て鮮卑を追擊し、

 大いにこれを破る。

 生口及び牛羊財物を獲ること甚だ衆(おお)し。

 また積射の士三千人・馬三千匹を發し、度遼營に詣り屯守す。

 永寧元年、

 遼西の鮮卑大人の烏倫(うりん)・其至鞬(きしけん)は

 衆を率い鄧遵(とうじゅん)に詣り降り、貢獻を奉ず。

 詔して封ずるに烏倫を率衆王と爲し、其至鞬を率衆侯と爲し、

 綵繒(さいそう/彩色の絹布)を賜うに各差有り。

 建光元年秋、其至鞬(きしけん)また畔き、

 居庸(きょよう)を寇す。

 雲中太守の成嚴(せいげん)はこれを擊つも、兵は敗散す。

 功曹(役職名)の楊穆(ようぼく)は

 身をもって嚴を捍(ふせ)ぎ、與倶(とも)に戰歿す。

 鮮卑、ここにおいて烏桓校尉の徐常(じじょう)を馬城に圍む。

 度遼將軍の耿夔(こうき)と幽州刺史の龐參(ほうさん)は

 廣陽・漁陽・涿郡(たくぐん)の甲卒を發し、

 分かれて兩道と爲しこれを救う。

 常(=烏桓校尉の徐常)は夜潛(ひそか)に出でるを得て、

 夔(=度遼將軍の耿夔)等と力を并せ並進し、

 賊の圍みを攻めこれを解く。

 鮮卑は既に郡守を累殺し、膽意(たんい)は

 轉(うたた)盛んにして控弦(こうげん)數萬騎。

 延光元年冬、また鴈門(がんもん)・定襄(ていじょう)を

 寇し、遂に太原を攻め百姓を掠殺す。

 二年冬、其至鞬(きしけん)自ら萬餘騎を將い東領候に入り、

 分かれて數道と爲し、南匈奴を曼柏(まんはく)に攻む。

 薁鞬日逐王(いくけんにっちくおう)戰死し、千餘人を殺す。

 三年秋、また高柳に寇し、
 
 南匈奴を擊破し漸將王(ざんしょうおう)を殺す。


 順帝の永建元年秋、鮮卑の其至鞬(きしけん)は代郡に寇し、

 太守の李超(りちょう)戰死す。

 明年春、中郎將の張國(ちょうこく)は

 從事を遣わし南單于の兵の歩騎萬餘を將(ひき)い塞を出で、

 これを擊破せしめ、その資重二千餘種を獲る。

 時に遼東の鮮卑六千餘騎また遼東・玄菟に寇す。

 烏桓校尉の耿曄(こうよう)は縁邊諸郡の兵を發し、

 および烏桓の率衆王は塞を出でてこれを擊つ。

 斬首數百級。

 その生口・牛・馬・什物を大いに獲る。

 鮮卑すなわち種衆三萬人を率い遼東に詣り降を乞う。

 三年・四年、鮮卑、頻りに漁陽・朔方に寇す。

 六年秋、

 耿曄(こうよう)は司馬を遣わし胡兵數千人を將いて

 塞を出でてこれを擊破せしむ。

 冬、漁陽太守また烏桓兵を遣わしこれを擊つ。

 斬首八百級。

 牛・馬・生口を獲る。

 烏桓豪人の扶漱官(ふしゅうかん)は

 勇健にして鮮卑と戰う毎にすなわち敵を陷(くだ)す。

 詔して『率衆君』の號を賜う。

 陽嘉元年の冬、耿曄(しゅうか)は

 烏桓親漢都尉の戎朱廆(じゅうしゅかい)・率衆王侯の

 咄歸(とつき)等を遣わし塞を出て鮮卑を抄擊せしめ、

 大いに斬獲して還る。

 咄歸(とつき)等已下(=以下)に賜いて

 率衆王・侯・長と爲す。

 綵繒(さいそう)を賜うこと各差有り。

 鮮卑は後に遼東屬國に寇す。

 ここに耿曄はすなわち移りて遼東の無慮城に屯しこれを拒む。

 二年春、
 
 匈奴中郎將の趙稠(ちょうしゅう)は從事を遣わし

 南匈奴の骨都侯(こつとこう)夫沈(ふちん)等を

 將(ひき)い、塞を出でて鮮卑を擊たしめ、これを破る。

 斬獲甚だ衆し。

 詔して夫沈に金印紫綬及び縑綵(けんさい)を

 賜うこと各差有り。

 秋、鮮卑は塞を穿ち馬城に入る。

 代郡太守はこれを擊つも克つこと能(あたわ)ず。

 後に其至鞬(きしけん)死し、

 鮮卑の抄盜すること差(や)や稀(まれ)なり。

 桓帝の時、鮮卑の檀石槐(だんせきかい)なる者。

 その父の投鹿侯(とうかこう)は、

 初め匈奴の軍に從い三年たり。

 その妻、家に在りて子を生む。

 投鹿侯、歸り、これを怪しみ殺さんと欲す。

 妻の言いしく、

 「嘗て晝に行き雷震を聞く。

  天を仰ぎ視るに而して雹(あられ)その口に入る。

  因りてこれを呑むに、遂に身(にんしん)す。

  十月にして産まれたり。

  この子に必ず奇異有らん。

  且(しばら)く宜(よろ)しく長ずるを視ん」と。

 投鹿侯、聽(ゆる)さず。

 遂にこれを(す/=棄)てる。

 妻、私(ひそか)に家に語り收めて養いしむ。

 檀石槐(だんせきかい)と名づく。

 年十四五にして、勇健にして智略有り。

 異部の大人、その外家の牛羊を抄取す。

 檀石槐、單騎これを追擊し、向う所前無し。

 悉く亡(な)くす所の者を還し得たり。

 これに由り部落畏服す。

 すなわち法禁を施き、曲直を平らげ、敢て犯す者無し。

 遂に推して以って大人と爲す。

 檀石槐、すなわち庭(てい)を

 彈汗山(たんかんざん)歠仇水(せっきゅうすい)の上に

 立てたり。

 高柳を去ること北に三百餘里。

 兵馬甚だ盛んなり。

 東西部の大人は皆な焉(これ)に歸す。

 因りて南に縁邊を抄(かす)め、北に丁零(ていれい)を拒み、

 東に夫餘を卻(しりぞ)け、西に烏孫を擊ち、

 盡く匈奴の故地に據(よ)る。

 東西は萬四千餘里、南北は七千餘里。

 山川・水澤・鹽池を網羅す。

 永壽二年秋、

 檀石槐は遂に三四千騎を將い雲中に寇す。

 延熹元年、鮮卑は北邊に寇す。

 冬、使匈奴中郎將の張奐(ちょうかん)は

 南單于を率い塞を出でてこれを擊ち斬首すること二百級。

 二年、また鴈門に入り數百人を殺し、大いに抄掠して去る。

 六年夏、千餘騎が遼東の屬國に寇す。

 九年夏、遂に騎數萬人を分かち縁邊九郡に入り、

 並びに吏人を殺掠す。

 ここにまた張奐を遣わしこれを擊つ。

 鮮卑はすなわち塞を出でて去りたり。

 朝廷、

 これに患(うれい)を積むも而して制すること能(あた)わず。

 遂に使を遣わし印綬を持し、

 封じて檀石槐を王と爲し和親せんと欲す。

 檀石槐は受けることを肯(がえん)ぜず、

 而して寇抄すること滋(いよ)よ甚だし。

 すなわち自らその地を分かち三部と爲す。

 右北平以東より遼東に至る

 夫餘・濊貊に接する二十餘邑を東部と爲し、

 右北平以西より上谷に至る十餘邑を中部と爲し、

 上谷以西より敦煌・烏孫に至る二十餘邑を西部と爲し、

 おのおの大人を置きこれを主領せしめ、

 皆な檀石槐に屬せしむ。

 靈帝立ち、

 幽・并・涼の三州の縁邊諸郡に鮮卑の寇抄を被らざる歳無し。

 殺略すること勝(あ)げて數うべからず。

 熹平三年の冬、鮮卑北地に入る。

 太守の夏育(かいく)は

 休著屠各(きゅうちょちょかく)を率い追擊してこれを破る。

 遷(うつ)して育を護烏桓校尉と爲す。

 五年、鮮卑は幽州に寇す。

 六年の夏、鮮卑は三邊に寇す。

 秋、夏育上言すらく、

 「鮮卑の邊に寇すること、春より以來三十餘發す。

  請う幽州諸郡の兵を徴し塞を出でてこれを擊たんことを。

  一冬二春にして必ず能く禽(とら)え滅ぼさん」と。

 朝廷未だ許さず。

 これより先に護羌校尉の田晏(でんあん)は

 事に坐して刑を論ぜらるも原(ゆる)され、

 功を立て自ら効(いた)さんと欲す。

 すなわち中常侍の王甫(おうほ)に請い

 將と爲るを得んことを求む。

 甫、これに因りて兵を遣わし育と力を并わせ賊を討たんことを

 議す。

 帝すなわち晏を拜して破鮮卑中郎將と爲す。

 大臣の同ぜざる多く有り。

 すなわち百官を召し朝堂に議す。

 議郎の蔡邕(さいゆう)議して曰く、

  『書(=書経)』に夏を猾(みだ)すを戒しめ、

 『易(=易経)』に鬼方を伐つ。

 周に獫狁(けんじゅう)・蠻荊(ばんけい)の師有り、

 漢に闐顏(てんがん)・瀚海(かんかい)の事有り。

 殊類を征討すること由る所尚(ひさ)し。

 然れども而して時に同異有り、埶(せい/=勢)に可否有り。

 故に謀に得失有り、事に成敗有り。

 齊(ひとし)くすべからざるなり。

  武帝、情は遠略に存り、志は四方を闢き、南に百越を誅し、

 北には強胡を討ち、西に大宛を伐ち、東は朝鮮を并わす。

 文・景の蓄(たくわえ)に因り天下の饒(ゆたか)なるに

 藉(か)るも、數十年閒、官民倶に匱(とぼ)し。

 すなわち鹽鐵・酒榷の利を興し、

 告緡(こくびん)・重税の令を設け、民は命に堪(た)えず、

 起(た)ちて盜賊と爲し、關東紛擾し道路通ぜず。

 繡衣(しゅうい)直指(ちょくし)の使、

 鈇鉞(ふえつ/=斧鉞)を奮いて並び出ず。

 既にして覺悟し、すなわち兵を息(やす)め役を罷(や)め、

 丞相を封じて富人侯と爲す。

 故に主父(しゅほ)の偃(えん)の曰く、

 「夫れ戰勝に務め、武事を窮めて、未だ悔いざる者有らず」と。

 夫れ世宗の神武、將相の良猛を以って、財賦は充實し、

 拓(ひら)く所は廣遠にしてすら、なお悔ゆること有り。

 況んや今は人財並びに乏しく、事は昔の時に劣れるをや。

 匈奴の遁逃してより鮮卑は強盛にして、

 その故地に據り兵十萬を稱す。

 才力は勁健(けいけん)にして意智は益(ますま)す生ず。

 加以(しかのみにあらず)關塞は嚴しからず、

 禁網は漏るること多し。

 精金・良鐵は皆な賊の有と爲し

、漢人は逋逃(ほとう)してこれの謀主と爲す。

 兵利(するど)く馬疾(はや)きこと匈奴に過ぎたり。

 昔、段熲(だんけい)は良將にして兵を習い

 戰に善(すぐれ)しも、西羌に事有ることなお十餘年。

 今、育・晏の才策は未だ必ずしも熲(けい)を過ぎず。

 鮮卑の種衆は曩(さき)の時よりも弱からず。

 而して虚しく二載を計り自ら成す有るを許すに、

 若(も)し禍を結び兵の連なれば豈(あに)中休を得んや。

 當に復た衆人を徴發し、轉運已(や)むこと無し。

 これ諸夏を耗竭(もうかつ)し力を蠻夷に并すと爲す。

 それ邊垂(へんすい)の患は手足の蚧搔(かいそう)にして

 中國の困は胸背の瘭疽(ひょうそ)。

 まさに今、郡縣の盜賊なお禁ずること能わず。

 況(いわ)んやこの醜虜にして伏すべきや。

  昔、高祖は平城の恥を忍び、

 呂后は慢書の詬(はじ)を(す/=棄)てたり。

 これを今に方(くら)べ、何をか甚(はなはだ)しと爲さん。

  天は山河を設け、秦は長城を築き、

 漢は塞垣(さいえん)を起て、内外を別(わか)ち、

 殊俗の異る所以(ゆえん)なり。

 苟(いやし)くも國を蹙(ちぢ)め

 内に侮(あなどり)の患無ければ則ち可なり。

 豈(あに)蟲螘(ちゅうぎ)狡寇(こうこう)と

 計爭(けいそう)往來せんや。

 或いはこれを破ると雖も、

 豈(あに)殄(ほろぼ)し盡くすべけんや。

 而して方(まさ)に本朝をして

 これが爲に旰食(かんしょく)せしむるをや。

  それ勝つを專(もは)らする者は未だ必ずしも克たず。

 疑いを挾む者は未だ必ずしも敗れず。

 衆の危うしと謂う所は、聖人は任ぜず。

 朝議に嫌有るを明主は行わざるなり。

 昔、淮南王の安は越を伐つを諫(いまし)めて曰く、

 「天子の兵は、征有るも戰無し。

  その敢えて校(むくゆ)る莫(な)きを言うなり。

  如(も)し越人をして死を蒙(おか)し

  以って執事の廝輿(しよ)の卒を逆(むか)えしめ、

  一の備わらずして歸る者有らば、

  越王の首を得ると雖も、

  而してなお大漢の爲にこれを羞ず」と。

 而るに齊民を以って醜虜に易(か)え、

 皇威を外夷に辱しめんと欲す。

 就(たと)えその言の如きも、なお已(すで)に危うし。

 況んや得失を量るべからざるをや。

 昔、珠崖郡の反くに、孝元皇帝は賈捐(かよう)の言を納れ、

 而して詔を下して曰く、

 「珠崖背畔す。

  今、議者は或いは討つべしと曰い、

  或いはこれを(す)てんと曰う。

  朕、日夜惟思するに、

  威の行なわれざるを羞じ則ちこれを誅せんと欲し、

  時變に通じてはまた萬民を憂う。

  それ萬民の飢えたると遠蠻の討たざると、

  何をか大と爲さん。

  宗廟の祭すら凶年にはなお備えざる有り。

  況んや不嫌の辱を避けるをや。

  今、關東は大いに困し、

  以って相い贍(た)らすこと無し。

  また、當(まさ)に兵を動かすべくは、

  ただ民を勞すのみに非ず。

  それ珠崖郡を罷(や)めよ」と。

 これ元帝の德音を發する所以(ゆえん)なり。

 それ民を卹(あわ)れみ急を救うには、

 成郡・列縣と雖も尚(な)お猶(な)おこれを(す)てる。

 況んや障塞の外に

 未(いま)だ嘗(かつ)て民居と爲らざる者をや。

 守邊の術は李牧(りぼく)その略に善く、

 保塞の論は嚴尤(げんゆう)その要を申し、

 遺業はなお在り、文章は具(つぶ)さに存す。

 二子の策に循(したが)い先帝の規を守るを臣は可と曰わん。


 帝、從わず。

 遂に夏育(かいく)を遣わし高柳に出さしめ、

 田晏(でんあん)をして雲中に出さしめ、

 匈奴中郎將の臧旻(ぞうびん)をして

 南單于を率い鴈門に出さしむ。

 おのおの萬騎を將(ひき)い三道より塞を出ずること二千餘里。

 檀石槐は三部の大人に命じ、

 おのおの衆を帥(ひき)い逆戰せしむ。

 育等大いに敗れ、

 その節傳(せつでん)・輜重(しちょう)を喪(うし)ない、

 おのおの數十騎を將い奔り還る。

 死者は十に七八。

 三將は檻車(かんしゃ)に徴(め)され獄に下り、

 贖(あがな)いて庶人となる。

 冬、鮮卑は遼西に寇す。

 光和元年冬、また酒泉に寇す。

 縁邊の毒(おか)されざる莫(な)し。

 種衆は日に多く、田畜・射獵するも食を給するに足らず。

 檀石槐すなわち自ら徇行(じゅんこう)し、

 烏侯秦水(うしゅうしんすい)の廣從(こうじゅう)數百里に、

 水の停(とど)まり流れざるを見る。

 その中に魚有るも、これを得ること能(あた)わず。

 倭人は善く網もて捕うと聞く。

 ここに東に倭人國を擊ち、

 千餘家を得て、秦水の上(ほと)りに徙(うつ)し置き、

 魚を捕らえ以って糧食を助けしむ。

 光和中、檀石槐死す。 時に年四十五。

 子の和連(われん)代りて立つ。

 和連の才力は父に及ばずも、

 また數(たびたび)寇抄(こうしょう)を爲す。 

 性は貪淫にして、法を斷ずるに平らかならず、

 衆の畔く者半ばなり。

 後に出でて北地を攻む。

 廉人の善く弩を射る者、射て和連に中(あ)て、すなわち死す。

 その子の騫曼(さいまん)は年小にして、

 兄の子の魁頭(かいとう)立つ。

 後に騫曼長大なるに魁頭と國を爭そい、衆は遂に離散す。

 魁頭死し弟の歩度根(ほどこん)立つ。

 檀石槐の後より、諸大人の遂に世に相い傳襲す。


 論に曰く。 

 四夷の暴、その埶(せい=勢)互いに彊(つよ/=強)し。

 匈奴は隆漢に熾(さか)んにして、西羌は中興に猛し。

 而して靈・獻の閒、二虜は迭(たが)いに盛んなり。

 石槐は驍猛(ぎょうもう)にして盡く單于の地を有し、

 蹋頓(とうとん)は凶桀にして遼西の土に公據す。

 その中國を陵跨(りょうこ)し、

 生人に患(わざわい)を結ぶは世にして

 寧(やす)きこと靡(な)し。

 然るに制御の上略を歴世に聞くこと無し。

 周・漢の策は僅(わず)かに中下を得たり。

 將(まさ)に天の冥數(めいすう)、

 以ってここに至るか。


 贊に曰く。

 二虜は首施し、我が北垂に鯁(こう)たり。

 道暢(の)ぶれば則ち馴れ、時薄ければ先んじて離る。

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