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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
セブンネット
≪中国の正史25史≫
中国の正史25史は、
それぞれの当時としては最高の条件下に編まれた官選史で、
情報源は政府を中心にしているだけに、
その資料記事も学識者の手になり、
充分な知見に基ずいているとせねばならない。
そのうちでも『隋書』、『旧唐書』、『新唐書』は、
遣唐使の往来が復活し、
交流も記事内容も魏志よりさらに充実して、
はるかに謎の部分が少ない、とされてきたものである。
にもかかわらず、
その『旧唐書』の日本関係記事の標題は二本だてになっていて
「倭国」と「日本国」になっているのである。
なぜそうなっているかは記事中に説明がある。
「日本国は倭国の別種なり」とある。
はっきり、日本と倭とは別の国であったことを明記しているのである。
私たちはこれまで倭と書いてあっても日本と書いてあっても、
一緒くたに「ヤマト」と読むように習慣づけられてきた。
しかし、この記事は、それが全く別の二カ国であり、
二つの国が併立していた時代のあったことを教えているのである。
それはさらに
「日本はもと小国であったが、倭国を併合した」と説明している。
この記事がほぼ事実であることは、
5世紀の終りごろに書かれた『宋書』が説明している。
そこでは倭の武王が、
先祖代々、東と西と北の国々を次第に征服した、
と中国へ上表した文章が記録に残っているからである。
11世紀後半に書かれた『新唐書』には、
さらに詳しく天御中主命に初まる歴代天皇の名を、
所々中国の年代と対照しながら
58代光孝天皇(9世紀末)まであげてあり、
その中で、持統天皇と文武天皇の間に、
次のように国号を改めた理由などを挟んでいる。
「中国語を習った結果倭という名は悪いと考え日本と改めた。
使者の説明では国の位置が日の出る所に近いためだとか、
日本は小さな国で倭が併合したため、
その名をとって用いたのだとか答えるが、
使者はどこか、
よそよそしくて云うことも疑がわしい。
またむやみに日本を誇り都は数千里四方もあるという。
南と西は海に至り、東と北は大山に限られていて、
その向うは毛人国であると云うことである」
お気づきの通り、
『旧唐書』とは逆に、倭が日本を合併したとある。
これだと『宋書』に一致することになる。
また都が数千里四方もあるというと疑っているが、
それは倭人里を中国里と誤解しているためである。
また都というのが
邪馬臺国式のものであるのを、
先方は中国式の城壁で囲まれたものと
誤解していることも明瞭である。
『新・旧両唐書』が日本国の大きさを
「東西五月行、南北三月行」と書き、
また『旧唐書』では更に
「日本人の入朝者がまた云うのによると、
日本は東西南北各数千里、
西も南も境は皆大海に至り、
東と北の境界には大山があって、
その山の向うが毛人之国である」と附記している。
これも後半は『新唐書』と一緒であることがわかる。
倭人伝とちがって、
これらの情報はすべて
日本からの使節から直接に得たものであることが
明記されているのである。
決してまた聞きや、想像ではないことに留意しておいて戴きたい。
「表:中国正史一覧(本書関係分10史)」(加治木原図)
正史名 関係伝条各 内容年代 編時 編者名(没年)
西歴B.C.年 年頃 年
後漢書 東夷・倭 140~188 440 范嘩 ~445
三国志 魏書・東夷・倭人 110~266 290 陳寿 ~297
晋書 東夷・倭人 238~266 640 房玄齢~648
宋書 夷蛮・倭国 421~478 500 沈約 ~513
南斉書 東南夷・倭国 170~478 530 蕭子顕~537
梁書 東夷・倭 178~478 630 姚思廉~637
北史 四夷・倭 178~570 700? 李延寿 ?
隋書 東夷・倭国 57~608 640 魏徴 ~643
旧唐書 東夷・倭国・日本 57~839 940 劉昫887~946
新唐書 東夷・日本 神代~884 1050 宋祁998~1061
※出典:加治木義博 邪馬臺国の言葉:61・62頁
※中国の「正史」の日本語訳
※中国正史一覧
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