『浦和レッズレディース』 猶本光サポーターズサイト
『ひねもす至福の時』
『誕生日の花と花ことば』
『湘南ベルマーレ』
《明星院・広島県(歴史&地名)他》
『広島・明星院』
『広島・明星院』
『madiのブログ』
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
Matのジオログ
さいたま朝日WEB
『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
セブンネット
歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2013/12/19
倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」
※出典:古代史獺祭
≪隋書≫
魏徴(580~643)等 撰。
7世紀後半の成立。
隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 倭國
注意:隋書は「倭國」を「俀國」とする。
卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 倭國
俀國在百濟新羅東南水陸三千里 於大海之中依山嶋而居
魏時譯通中國三十餘國皆自稱王
夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海
其地勢東高西下都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里 在會稽之東與耳相近
漢光武時遣使入朝 自稱大夫
安帝時又遣使朝貢 謂之奴國
桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無主 有女子名彌呼 能以道惑衆
於是國人共立爲王 有男弟佐彌理國 其王有侍婢千人 罕有見其面者
唯有男子二人給王飲食通傳言語 其王有宮室樓觀城柵 皆持兵守衛
爲法甚嚴 自魏至于齊梁代與中國相通
開皇二十年王姓阿毎字多利思比孤號阿輩彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗
使者言 王以天爲兄以日爲弟
天未明時出聽政跏趺座日出便停理務云委我弟
高祖曰 此太無義理於是訓令改之
王妻號彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利
無城郭
内官有十二等
一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智
次大信次小信 員無定數
有軍尼一百二十人 猶中國牧宰 八十戸置一伊尼翼 如今里長也
十伊尼翼屬一軍尼
其服飾男子衣襦其袖微小履如形漆其上繋之於脚 人庶多跣足
不得用金銀爲飾
故時衣横幅結束相連而無縫 頭亦無冠但垂髪於兩耳上
至隋其王始制冠 以錦綵爲之以金銀鏤花爲飾
婦人束髪於後亦衣襦裳 皆有 竹爲梳
編草爲薦 雜皮爲表 縁以文皮
有弓矢刀弩斧 漆皮爲甲骨爲矢鏑 雖有兵無征戦
其王朝會必陳設儀杖奏其國樂
戸可十萬
其俗殺人強盗及姦皆死盗者計贓酬物無財者没身爲奴 自餘輕重或流或杖
毎訊究獄訟不承引者以木壓膝或張強弓以弦鋸其項
或置小石於沸湯中令所競者探之云理曲者即手爛
或置蛇中令取之云曲者即螫手矣
人頗恬静罕争訟少盗賊
樂有五弦琴笛
男女多黥臂點面文身 没水捕魚
無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字
知卜筮尤信巫覡
毎至正月一日必射戲飲酒 其餘節與華同
好博握槊樗蒲之戲
氣候温暖草木冬青 土地膏腴水多陸少
以小環挂項令入水捕魚日得百餘頭
俗無盤爼藉以葉食用手餔之
性質直有雅風
女多男少
婚嫁不取同姓 男女相悦者即爲婚 婦入夫家必先跨犬乃與夫相見
婦人不婬妬
死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服
貴人三年殯於外庶人卜日而 及葬置屍船上陸地牽之或以小
有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祭
有如意寶珠 其色青大如卵 夜則有光云魚眼精也
新羅百濟皆以爲大國多珎物並敬仰之恒通使往來
大業三年其王多利思北孤遣使朝貢
使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法
其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云 帝覧之不悦
謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞
明年上遣文林郎裴清使於國 度百濟行至竹南望羅國經都斯麻國迥在大海中
又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏
以爲夷州疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於
王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎
後十日又遣大禮哥多従二百余騎郊勞 既至彼都
其王與清相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國 故遣朝貢
我夷人僻在海隅不聞禮義 是以稽留境内不即相見 今故清道飾館以待大使
冀聞大國惟新之化 清答曰皇帝德並二儀澤流四海
以王慕化故遣行人來此宣諭
既而引清就館 其後清遣人謂其王曰朝命既達 請即戒塗
於是設宴享以遣清復令使者隨清來貢方物 此後遂絶
俀國は百濟・新羅の東南に在り、水陸三千里。
大海の中に於いて山嶋に依りて居す。
魏の時、譯の中國に通ずるもの三十餘國。
皆、自ら王を稱す。
夷人は里數を知らず、但だ日を以って計る。
其の國境は東西五月行、南北三月行、各々海に至る。
其の地勢は東に高く西に下る。
邪靡堆に都す。
則ち魏志の所謂る邪馬臺なる者也。
古に云う、樂浪郡境及び帯方郡を去ること並びに一萬二千里。
會稽の東に在りて、耳に相い近し、と。
漢の光武の時、使を遣して入朝す。自ら大夫と稱す。
安帝の時、又、使を遣して朝貢す。之を奴國と謂う。
桓靈の間、其の國大いに亂れ、遞(たが)いに相攻伐して歴年主無し。
女子有り、名を彌呼という。能く道を以って衆を惑わす。
是に於いて國人共に立てて王と爲す。
男弟有り、彌を佐(たす)け國を理(おさ)む。
其の王に侍婢千人有り。
其の面を見る者罕(まれ)に有り。
唯だ男子二人有りて王に飲食を給し、言語を通傳す。
其の王に宮室・樓觀・城柵有り。
皆な兵を持して守衛す。
法を爲すこと甚だ嚴なり。
魏より齊・梁に至り代々中國に相通ず。
開皇二十年、王、姓は阿毎、字は多利思比孤、號は阿輩彌、
使を遣して闕に詣る。
上、所司に其の風俗を訪わしむ。
使者言う「王は天を以って兄と爲し、日を以って弟と爲す。
天未だ明けざる時、出でて政を聽き、跏趺して座し、
日出ずれば便ち理務を停め、云う、我弟に委ねん」と。
高祖曰く「これ太いに義理無し」と。
是に於て訓して之を改めしむ。
王の妻、號は彌。
後宮に女六、七百人有り。
太子は名を利歌彌多弗利と爲す。
城郭無し。
内官に十二等有り。
一に曰く大德、次を小德、次を大仁、次を小仁、次を大義、次を小義、
次を大禮、次を小禮、次を大智、次を小智、次を大信、次を小信。
員に定數無し。
一百二十人の軍尼有り。
猶お中國の牧宰のごとし。
八十戸に一伊尼翼を置く。
今の里長の如き也。
十伊尼翼は一軍尼に屬す。
其の服飾、男子の衣は襦(くんじゅ)にして、其の袖は微小、
履は形の如く、其の上に漆り、之を脚に繋く。
人庶、多くは跣足。金銀を用いて飾と爲すを得ず。
故時、衣は横幅にして、結束して相連ね縫うこと無し。
頭には亦た冠無く、但だ髪を兩耳の上に垂らす。
隋に至り、其の王、始めて冠を制す。
錦綵(きんさい)を以って之を爲し、
金銀を以って花を鏤(ちりば)め飾りと爲す。
婦人は髪を後ろに束ね、亦た衣は襦(くんじゅ)、裳。
皆な(ちんせん)有り。竹を梳と爲す。
草を編んで薦と爲す。雜皮を表と爲し、縁を文皮を以ってす。
弓・矢・刀・(さく)・弩・(さん)・斧有り。
皮を漆りて甲と爲し、骨を矢鏑と爲す。
兵有りと雖も征戦無し。
其の王、朝會に必ず儀杖を陳設し、其の國の樂を奏す。
戸は十萬可り。
其の俗、殺人・強盗・姦は皆な死し、
盗む者は贓(ぞう)を計り物を酬いしめ、
財無き者は身を没し奴と爲す。
自餘は輕重もて或は流し、或は杖す。
獄訟を訊究する毎に、承引せざる者は木を以って膝を壓し、
或は強弓を張り、弦を以って其の項を鋸す。
或は小石を沸湯の中に置き、競う所の者に之を探らしめ、云う、
理、曲なる者は即ち手爛(ただ)ると。
或は蛇を中(おうちゅう)に置き、之を取らしむ。
云う、曲なる者は即ち手螫(ささ)ると。
人、頗(すこぶ)る恬静(てんせい)にして、
争訟罕(まれ)に、盗賊少し。
樂に五弦の琴・笛有り。
男女多く臂に黥し、面に點し、身に文す。
水に没し魚を捕う。
文字は無く、唯だ木を刻み繩を結ぶ。
佛法を敬し、百濟に於いて佛經を求め得て、始めて文字有り。
卜筮を知り、尤も巫覡を信ず。
正月一日に至る毎に、必ず射戲・飲酒す。
其の餘の節は、ほぼ華と同じ。
博・握槊・樗蒲の戲を好くす。
氣候は温暖にして、草木は冬も青し。
土地は膏腴にして水多く陸少し。
小環を以っての項に挂け、
水に入りて魚を捕えしめ、日に百餘頭を得。
俗、盤爼無く、藉くに葉を以ってし、食するに手を用いて之を餔う。
性質は直にして、雅風有り。
女多く男少し。
婚嫁に同姓を取らず。
男女相悦ぶ者は即ち婚を爲す。
婦、夫家に入るに必ず先ず犬を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ。
婦人は婬妬せず。
死者は棺槨を以って斂め、親賓は屍に就いて歌舞し、
妻子兄弟は白布を以って服を製す。
貴人は三年外に殯し、庶人は日を卜して(うず)む。
葬に及び屍を船上に置き、陸地之を牽くに、或は小を以ってす。
阿蘇山有り。
其の石は故無くて火起り天に接する者、俗以って異と爲し、
因って祭を行う。
如意寶珠有り。
其の色青く、大いなること卵の如し。
夜に則ち光有り、云う、魚の眼精也、と。
新羅・百濟は皆を以って大國にして珎物多しと爲す。
並びに之を敬仰して、恒に使を通じて往來す。
大業三年、其の王、多利思北孤、使を遣し朝貢す。
使者曰う、
「海西の菩薩天子、重ねて佛法を興すと聞く。
故に遣して朝拜せしめ、兼ねて沙門數十人、來りて佛法を學ぶ」と。
其の國書に曰く、
「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや云云」と。
帝、之を覧て悦ばず。
鴻臚卿に謂いて曰く、
「蠻夷の書無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ」と。
明年、上、文林郎裴清を遣し國に使せしむ。
百濟を度り、行きて竹に至り、南に羅國を望み、都斯麻國を經て、
迥かに大海の中に在り。
又、東に一支國に至り、又、竹斯國に至り、又、東に秦王國に至る。
其の人華夏に同じ。
以って夷州と爲すも、疑うらくは明らかにする能わざる也。
又、十餘國を經て、海岸に達す。
竹斯國より以東は、皆なに附庸す。
王、小德阿輩臺を遣し、數百人を従え、
儀仗を設け、鼓角を鳴らし來りて迎えしむ。
後十日、又、大禮哥多を遣し、二百余騎を従え郊を勞せしむ。
既に彼の都に至る。
其の王、清と相見(まみ)え、大いに悦びて曰く、
「我、海西に大隋禮義の國有りと聞く。
故に遣して朝貢す。
我は夷人にして海隅に僻在し、禮義を聞かず。
是を以って境内に稽留し、即ち相見(まみ)えず。
今、故(ことさら)に道を清め館を飾り、
以って大使を待つ。
冀(ねがわく)は大國惟新の化を聞かん」と。
清、答えて曰く、
「皇帝の德は二儀に並び、澤は四海に流る。
王、化を慕うを以って、故に行人を遣して來りて此に宣諭す」と。
既に清を引きて館に就(つ)かしむ。
其の後、清、人を遣して其王に謂いて曰く、
「朝命既に達す。請う、即ち塗(みち)を戒めよ」と。
是において宴享(えんきょう)を設け以って清を遣し、
復た使者を清に隨いて來らしめ方物を貢ず。
此の後、遂に絶えたり。
0 件のコメント:
コメントを投稿