2014年5月18日日曜日
阿曇・安曇(15)筑紫と奴国
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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
阿曇・安曇(15)筑紫と奴国
◎「和名類聚抄」筑前国糟屋郡 阿曇郷・志珂郷
志珂郷 福岡市東区志賀島
阿曇郷 福岡市東区和白辺り(一般的:これまでの比定地)
阿曇「アズミ」 eš-ma₂ 〔家(屋)-船〕:屋船
◎奴国(福岡県福岡市東区・博多区)
奴「ナ」(Sk.) nau,nāva 「船」
(Grk.) ναυσ(naus) 「船」 νησ(nhs):ναυσの複数
※阿曇(eš-ma₂)族がこの地域にいたことにより、
後から渡来したインド商人たちが、
ここを「奴(船)」と呼ぶようになったもの。
「後漢書」巻一下 光武帝紀(建武中元)二年正月(紀元57年)
東夷倭奴國王遣使奉献。
[一]倭在大帯方東南大海中、依山島為國
○「漢委奴国王」金印
◎筑紫「ツクシ」「チクシ」
「筑後國風土記」逸文 筑後國號
筑後の國の風土記に云はく、
筑後の國は、本、筑前の国と合せて一つの國たりき。
昔、此の両の國の間の山に険しく狭き坂ありて、
往来の人、駕れる鞍韉(したくら)を摩り盡(つく)されき。
土人、鞍韉(したくら)盡(つく)しの坂と曰ひき。
三(つぎ)に云はく、
昔、此の堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)あり、
往来の人、半は生き、半は死にき。
其の数極く多なりき。
因りて人の命盡の神と曰ひき。
時に、筑紫君・肥君等占へて、
筑紫君等が祖甕依姫(みかよりひめ)を祝と為して祭らしめき。
爾より以降、路行く人、神に害はれず。
是を以ちて、筑紫の神と曰ふ。
四(つぎ)に云はく、其の死にし者を葬らむ為に、
此の山の木を伐りて、棺輿(ひとき)を造作りき。
玆(こ)れに因りて山の木盡(つく)さむとしき。
因りて筑紫の國と曰ひき。
後に両の國に分ちて、前と後と為す。
※この逸文に依りて「つくし」が原初的地名であったことが判明する。
但し、その地名由来のいずれも本当とは考えられない。
後に両の國に分ちて、前と後と為す。
※この逸文に依りて「つくし」が原初的地名であったことが判明する。
但し、その地名由来のいずれも本当とは考えられない。
筑紫「ツクシ」
(阿曇語/シュメル語)
tuk-ši 〔布‐光る〕「光る市」:"絹布"を表わす。
あるいは
tug-ši 〔織物‐光る〕「光る織物」:"絹織物"を表わす。
筑紫(福岡県筑紫野市の地区名) 筑紫宮が鎮座する。
「延喜式」神名帳 筑前國御笠郡 筑紫神社:名神大 「チクシ」
「全国神社名鑑」筑紫(ちくし)神社
筑紫野市原田 祭神:白日別尊・田村麿・五十猛尊・玉依姫尊
"九州を筑紫という称は白日別命の神号より起った」。
城山(筑紫野市筑紫にある山名)
筑紫神社はこの山にかってはあったと伝えられる。
「シロ」(阿曇語) sir₄ = ši 「光」、城山は「光る山の語義」
古賀(筑紫野市、城山のある筑紫の北方すぐの地区名。
古賀、上古賀に現在分かれている)
「コカ」・「コガ」(阿尼語・倭人語)
g?‐kh? 〔林‐白〕:〔白い林〕
※「光る山」「白い林」 は蠶が桑の木(林)に繭を作り、
その桑林が白く輝いてみえる様をいったもので、
この地方で倭人による養蚕が行われていたことを示している。
<古代においては桑の木に繭を作らせそれを集めていたものとみられる。
「エリュウトウ海航海記」にそのような表現がみられる>
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