2014年5月6日火曜日

阿曇・安曇(6)筑紫と奴国-1


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ
 『《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》 
 
 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 阿曇・安曇(6)筑紫と奴国-1

 筑紫:筑紫(ちくしのし)「ちくし」とも呼んだ(続風土記拾遺)。

  地名の由来は鞍韉を摩りつくす険しい坂があったためとも、

  人の命をつくす神がいたことによるとも、

  その死者を葬る棺を作るため

  山の木を切りつくしたことによるともいう(筑紫風土記逸文)。

  筑紫倉吉遺跡(弥生時代~古墳時代)、名越古墳、兄弟塚古墳、

  筑紫氏居館跡、薬水墓、筑紫神社がある。

 筑紫神社(筑紫野市)筑紫野市原田字森本にある神社。

  延喜式内社、祭神は筑紫神(白日別命)、坂上田村麻呂、宝満神。

  「筑紫国風土記」は筑紫国・筑紫神の名の由来についての説話を記し、

  元来、ものを尽くすという意味の「ツクシ」が始まりであるという。

  また同書によれば、

  古代の豪族である筑紫君と肥君が祭祀に係わっており、

  この神社の起源が極めて古いことを示しているが、

  創建の時期は不明。

  「三代実録」に依れば、

  貞観元年(859)従五位下に、元慶3年(879)には従四位上に叙されいる。

  「延喜式」神名帳の筑紫国御笠郡に「筑紫神社名神大」と見える。

  天元2年(979)2月14日の太政官符(宗像郡誌)によれば、

  住吉、香椎、筥崎、竉門などの筑前国の有力神社と同様、

  大宮司職の存在が確認され、

  中世を通じても少弐氏庶流筑紫氏が社司となり、

  多くの神官・社僧を擁して勢力を誇っていたらしいが、

  筑紫氏の没落とともに衰微して近世に至った。

  例祭日10月20日。

 筑紫野(筑紫野市)背振山地と三郡山地に挟まれて位置する。

  中央部に平野があり、鷺田川、高尾川が北流して御笠川に注ぎ、

  背振山地に源を発した山口川は

  三郡山地に源を発した宝満川に注いで南流する。

  古くから交通の要衝として開けた所で、

  筑紫の地名の起源ともいわれる式内社筑紫神社が原田に鎮座し、

  その付近には装飾古墳の吾郎山古墳がある。

  武蔵には7世紀の寺院跡、塔原寺の塔心礎があり、

  「万葉集」にも詠われた武蔵温泉がある。

  武蔵温泉

 武蔵:むさし(武蔵野市)背振山地東端天秤山の東麓に位置する。

  原口遺跡、大刀洗町遺跡など弥生時代の遺跡が多く、

  ほかに八隅古墳、原口古墳、武蔵寺経塚郡・武蔵寺跡がある。

  湯町は古くから温泉で知られ

  (一説に白鳳12年<672>に湯が出始めたという)。

  古くは吹田(すいた)の湯と言った。

  筑紫氏の城であった天拝山古城址がある(続風土記拾遺)。

  天拝山は、菅原道真が

  7日間籠って無実を天に訴えた場所であると伝え(太宰菅内誌)。

  文明12年宗祇の記した「筑紫道記」に

  「天拝ヶ岳をはるかにみて、なを御神の名残も浅からず」と

  みえる(郡書18) 

  [中世]武蔵村 戦国期にみえる村名。筑前国御笠郡のうち、

  「正任記」所引の文明10年(1478)10月10日の渋川教直書状案に、

  少弐政資の残党が武蔵に籠っていることが記されている(博多史料2)。

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