2015年1月31日土曜日

浅草神社・浅草寺の起源伝承③

 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/01/08

 課題:浅草と墨田〔東京都〕の由来
    ―「山谷」は本来何と称すべきか―

 ≪浅草神社・浅草寺の起源伝承≫

 出典:浅草神社と三社祭:

    編者・森田新太郎、発行者・浅草神社・矢野泰良

 浅草神社と三社祭:
 浅草神社

 2.社殿、神輿、その他

  ◎社殿

   今の社殿は徳川三代将軍家光が慶安2年(1649)12月に

   1,129両1分の費用にて建立寄進したもので、

   徳川初期の代表的建築で、本殿並びに幣殿と拝殿とを

   渡廊下でつないだ、権現造り風の社殿である。

   境内地に1,452坪9合1勺、社殿建坪45坪7合8勺。

    本殿 三間社流造

    幣殿 桁行3間、梁間1間

    拝殿 桁行7間、梁間3間

   尚、昭和21年に国宝建造物に、

   更に昭和26年重要文化財に指定され、国家の保護を受けている。

 ◎修復

  記録に残っている社殿の修理は大体次の如くである。

   明治5年 天明元年 文化12年 天保6年

   明治8年 天明26年 大正2年 大正6年

 ◎神輿

  戦前にあった神輿は同じく家光により、

  寛永14年に建造寄進されたもので、

  3百年間かつぎぬかれた見事なもので、

  昭和2年依頼保存され、新しく3基の神輿を新調したが、

  戦災により四の宮(明治初年田町で新調した東照宮の神輿)とも

  新旧7基全部惜しくも消失してしまった。


  現在の神輿は一の宮、二の宮が昭和25年に、三の宮が昭和28年に

  四十四ヶ町の氏子によって奉納されたもので、

  宮本神輿店の製作である。

  但し昔の神輿より胴が細く、わらび手が大きく、近代的ではあるが、

  古風な味は失われた。
 
  神輿の形一つにも時代の流れが感じられる。

 ◎「三社大権現」の額は公遵親王の筆であったが、

  改称後は越前の太守松平春嶽が書いた「浅草神社」の額が

  拝殿の正面に掲げられている。

  名高い浅草神社の古楽面は現在でも無事保存され、

  一番古いものには「元久」の銘があり、

  何れも古色蒼然たる逸品揃いである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年1月12日月曜日

浅草神社・浅草寺の起源伝承②


 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/01/08

 課題:浅草と墨田〔東京都〕の由来
    ―「山谷」は本来何と称すべきか―

 ≪浅草神社・浅草寺の起源伝承≫

 出典:浅草神社と三社祭:

    編者・森田新太郎、発行者・浅草神社・矢野泰良

 浅草神社と三社祭:
 浅草神社

 1.神社の沿革

  ◎祭神

   祭神は

    土師真中知命(ハジノマツチノミコト)

    檜前浜成命(ヒノクマハマナリノミコト)

    檜前竹成命(ヒノクマタケナリノミコト)

   の三神を主座神とし、徳川家康と大国主命を合祀する。

  ◎社名

    昔は俗に三社権現と云われていたが、

   明治元年に三社明神社と改められ、

   同5年10月11日に郷社に昇格し、

   更に翌6年2月浅草神社と改められた。

    当社の社紋の三つ網の紋は土師氏並びに檜前氏の家紋、

   葵は東照宮即ち徳川家の家紋である。


  ◎起源

    浅草神社の起源については、明確な資料がなく、

   その創建時代を確定することは不可能であるが、

   権現思想との関係から、本地垂述説が流行しだした、

   平安から鎌倉時代以降ともみられ、

   網野宥俊氏もその著『浅草神社の今昔』(昭和38年刊)の

   中に於いて

   「今より650年から700年前の創建と推考することにおいて

    一応異論はない様に思われる」と云われている。

  ◎由来

    神社関係の古述としては『藤原煌窩文集』や

   『本浅神社考』(林羅山著)の二書に、

   三社権現に関する記述があり徳川時代の書物は

   大体この書の伝承をそのまま伝えているが

   これは浅草寺縁起に

   見える浅草権現示現の伝承とほぼ一致している。

   即ち推古天皇の36年3月18日(陽暦4月30日)、

   春日うららかなる朝まだき、猟師の檜前浜成、竹成兄弟が、

   浅草浦(今の隅田川)で漁労に精を出していたが、

   その日に限り一匹の漁もなく、

   投網にかかるのはただ人型の像だけで、

   始め兄弟は観音像であることを知らず、

   幾度か像を海中に投げ捨て、

   何度場所を替えて網を打ってもかかるのは

   不思議と人型の像だけなので、

   最後には兄弟も不思議に思い、

   その尊像を奉持して今の駒形から上陸し、

   エンジュの切株に安置して、

   当時郷士の文化人であった土師真中知に

   この日の出来事を語り、

   一見を請うたところ、これぞ聖観世音菩薩の尊像にして、

   自らも帰依の念深仏体であることを告げて、

   諄々との功徳、おはたらきにつき説明する所があった。

   兄弟の者は始めてきく観音の現世利益仏であることを知り、

   何となく信心のもようされて、深く観音を念じ、名号を唱え、

   吾ら猟師なれば、

   漁労なくしてはその日の生活にも困る者ゆえ、

   明日はよろしく大漁を得さしめたまへ、と厚く祈念して、

   翌19日再び網を浦々に打てば、

   願いの如く船中に魚くづ満ちて、

   大漁を得、土師真中知は間もなく剃髪して沙門となり、

   自宅を改めて新構の寺となし、さきの観音像を奉安して、

   供養護持のかたわら郷民の教化に

   生涯を捧げたというのが、

   『浅草寺縁起』伝承の起こりとなっている。

   『承応縁起』による真中知の没した

    (舒明天皇の11年(639)3月18日)後、
  
   間もなくその嫡子が観世音の夢告を蒙り、

   「汝らの親は我を海中より上げて薫護せり、

    故に慈悲を万民に施し今日に及びしが、

    その感得供養の力は賞すべきなり。

    即ち観音堂の傍らに神ととして親達を鎮守主すべし、

    名づけて三社権現と正氏、いつき祀らば、

    その子孫、土地と共に繁栄せしむべし」

   といった意味の告示があって、

   ここに三社権現社が創建された様になっている。

   これによると三社の創建は

   今を去る1357年にの昔と云うことになるが、

   これは少々無理の様で、文中に見える「権現」の初見すら、

   既に承平年中(923~937)であり、

   『応永縁起』に於いて土師真中知を阿弥陀如来の化現とし、

   檜前浜成を観世音菩薩、檜前竹成を勢至菩薩の

   夫々化現としている事からも平安末期から鎌倉へかけて

   仏教普及の一つの方便として、

   仏が本であり、神は仏が権(か)りに姿を現じたものである、

   とする権現思想が流行し出した以後に於いて、

   上記の三氏の末孫が宗祖のあまり郷土神として

   祀ったものであろうと推定される。

  ◎社家

    三社権現の祭神の子孫は代々僧形で、

   浅草寺及び浅草神社に奉仕し、

   いわゆる社僧として三社の社務を分掌していた。

   土師氏の子孫は専当坊、浜成の子孫は斎当坊、

   竹成の子孫は常当坊と称し、世に浅草寺三譜代と唱え

   明治維新にまで至ったが、

   折りしも神仏分離の政策に当たり、

   専当坊長夷は復飾して土師内膳と改め、

   純然たる三社の神職となった。

   現宮司の矢野泰良氏はこの土師氏62代に当たる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年1月9日金曜日

浅草神社・浅草寺の起源伝承①


 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/01/08

 課題:浅草と墨田〔東京都〕の由来
    ―「山谷」は本来何と称すべきか―

 ≪浅草神社・浅草寺の起源伝承≫

 浅草神社:東京都台東区浅草

  「社伝」推古天皇36年に檜前浜成、竹成の兄弟が

   隅田川投網を用いて漁をしていたところ、

   網に人型像が何度かかかって上がってきた。
 
   そこで土師真仲知(あるいは真中知)にみせたところ、

   聖観音菩薩像と判ったので、土師真仲知が沙門に入り、

   自宅を寺として像を安置することとしたのが浅草寺で、

   後になって真仲知の子孫が夢のお告げにより、

   土師真仲知、檜前浜成、竹成を奉祀し

   三社権現と称するようになった。

  〇土師氏は推古天皇の時代(6世紀後半)に

   ここにいたことを示している。

  〇「檜前」は奈良県高市郡明日香村檜前と同名、

   その周辺に見瀬、呉原など百済の呉人に係わる地名がある。

   また、同地区に於美阿志神社が鎮座し、

   漢人(あやびと)に係わっており、百済系の渡来人の足跡がある。

  『日本書紀』欽明天皇元年(593年)の8月条
  
   「集秦人・漢人等諸蕃投化者、安置国郡、編貫戸籍。

    秦人戸数総七千五十三戸、以大蔵掾為秦伴造」

  『日本書紀』天智天皇5年(666年)条

   「この冬百済(くだら)男女2千余人を以て東国に居らしむ」

  〇久伊豆神社(さいたま市岩槻区宮町)の創建由来

   欽明天皇の御代(539~571)土師氏が出雲から渡来して開創

  ※遅くとも6世紀の前期後半には秦氏族は

   東国に移り始めていたと推測される。

 三社祭(5月17日・18日/第3日曜日)神輿渡御

  輿(こし):כֶסתֶל,KISTL,kestel,箱、(Grk.)kasten

  掛け声「ソイ・ヤー、ソイ・ヤー」

   :סִַ יַה,SI YH,sai yah,「行け神よ」

  ※<ヨシュア記>

 第3章 ヨルダン川を渡る

 3:1 ヨシュアは、朝早く起き、

   イスラエルの人々すべてと共にシティムを出発し、

   ヨルダン川の岸に着いたが、川を渡る前に、そこで野営した。

 3:2 三日たってから、民の役人は宿営の中を巡り、

 3:3 民に命じた。

   「あなたたちは、あなたたちの神、

    主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、
 
    今いる所をたって、その後に続け。

 3:4  契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、

    それ以上近寄ってはならない。

    そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、

    あなたたちの行くべき道は分かる。」

 3:5 ヨシュアは民に言った。

   「自分自身を聖別せよ。

    主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる。」

 3:6 ヨシュアが祭司たちに、

   「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じると、

   彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。

 3:7 主はヨシュアに言われた。

   「今日から、全イスラエの見ている前であなたを大いなる者にする。

    そして、わたしがモーセと共にいたように、

    あなたと共にいることを、すべての者に知らせる。

 3:8  あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、

    ヨルダン川の水際に着いたら、

    ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい。」

 3:9 ヨシュアはイスラエルの人々に、

   「ここに来て、あなたたちの神、主の言葉を聞け」と命じ、

 3:10 こう言った。

   「生ける神があなたたちの間におられて、

    カナン人、ヘト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、

    アモリ人、エブス人をあなたたちの前から

    完全に追い払ってくださることは、

    次のことで分かる。

 3:11 見よ、全地の主の契約の箱が

    あなたたちの先に立ってヨルダン川を渡って行く。

 3:12 今、イスラエルの各部族から一人ずつ、計十二人を選び出せ。

 3:13 全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足が

    ヨルダン川の水に入ると、

    川上から流れてくる水がせき止められ、

    ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。」

 3:14 ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき、

    契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、

 3:15 ヨルダン川に達した。春の刈り入れの時期で、

    ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、

    箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、

 3:16 川上から流れてくる水は、

    はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。

    そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、

    民はエリコに向かって渡ることができた。

 3:17 主の契約の箱を担いだ祭司たちが

    ヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、

    全イスラエルは干上がった川床を渡り、

    民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部


 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年1月8日木曜日

浅草と墨田〔東京都〕の由来―「山谷」は本来何と称すべきか―


 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/01/08

 課題:浅草と墨田〔東京都〕の由来
    ―「山谷」は本来何と称すべきか―

 1.浅草神社・浅草寺の起源伝承

 2.土師真仲知・檜前兄弟の出自

 3.檜前名の由来〔奈良県:明日香村檜前〕

 4.於美阿志神社〔明日香村檜前〕

 5.伊都〔和歌山県橋本市〕の墨田と真土

 6.「マッチ〔真土〕」「スミタ〔墨田〕」の語義

 7.「アサクサ〔浅草〕」の語義と「聖天宮」

 8.「イマト〔今戸:聖天宮の隣り〕」の語義と「土師」

 9.檜前兄弟の職業(漁師)と「山谷」〔江戸名所図会の山谷堀〕

 10.日本堀(現在)の本義と呼称

 11.浅草神社の御神輿渡御祭事〔三社祭〕での

   掛声「ソイヤー・ソイヤー」

 12.「上野」の本義


  日本の古代史には謎が多く秘められています。

  特に5世紀以前の歴史にはそれが顕著です。

 当講座はそのような不明のままになっている謎を

 『古事記』『日本書紀』など日本の古代史料は元より、

 神社の由緒、神名また地名さらに

 中国、インド、メソポタミア、ギリシアなどの古代史料をも参照しつつ

 解明すべく努力しています。

  よって当講座は古代の秘密のヴェールを切り裂く

 独特の研究成果となっています。

  21世紀に入った今日、

 東京都内で外国人観光客が最も集まっているのは

 浅草寺の雷門からの参道周辺で、いつも人で溢れています。

  その「浅草」の語義は正確に知られているのでしようか。

  確かに浅草寺、浅草神社の創建伝承はよく知られています。

  しかし、

 「土師(はじ・つち)氏」や「檜前(ひのくま)」の由来が

 知られているとはいえません。

  「アサクサ」の語義は

 彼等の来歴を考察することによって明白となります。

  漢字「浅‐草」が示す「丈の低い草の原」などでは全くありません。

  そして

 三社祭の御神輿渡御(おみこしとぎょ)の際の掛け声「ソイヤー」や

 「聖天宮(せいてんきゅう)」の「聖火」こそ

 その来歴の証明となります。

  その深遠な来歴を明確にご説明申し上げます。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年12月31日水曜日

大鳥神社縁起(目黒のお酉さま)


 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 【大鳥神社縁起】(目黒のお酉さま)

 大鳥神社 

 JR山手線目黒駅西口下車徒歩7分

 山手通りと目黒通りの交差点です。

 お祓いを受けられる方の駐車場有り 。

 住所:目黒区下目黒3-1-2

 Tel : 03(3494)0543 

 *電話受付時間 9:00~17:00

  厄除けのお祓いを受けて、一年を無事に過ごしましょう。

  男性は数え年で、25歳・42歳・61歳。

  平成27年は、平成3年生まれ・昭和49年生まれ・昭和30年生まれの方。

  女性は、数え年で、19歳・33歳・37歳。

  平成9年生まれ・昭和58年生まれ・昭和54年生まれの方です。

  尚、その前後が前厄・後厄の年であり、厄年は3年間と考えます。

  厄よけのお祓いをご希望の方は、電話でお申込みください。

  電話 03-3494-0543

 御祭神

  主祭神 日本武尊やまとたけるのみこと 

  相殿神 国常立尊くにのとこたちのみこと

       ※日本の国開きの神様です。

      弟橘媛命おとたちばなひめのみこと

       ※日本武尊のお妃さまです。

 由緒

  景行天皇の御代、当所に国常立尊を祀った社やしろがありました。

 日本武尊は景行天皇の皇子であり、天皇の命令で熊襲を討ち、

 その後に東国の蝦夷を平定されました。

 この東夷平定の折、当社(大鳥神社)に立寄られ、

 東夷を平定する祈願をなされ、

 また部下の「目の病」の治らん事をお願いされたところ、

 首尾よく東夷を平定し、部下の目の病も治って、

 再び剣を持って働く事ができるようになったので、

 当社を盲神めくらがみと称え、

 手近に持って居られた十握剣とつかのつるぎを

 当社に献って神恩に感謝されました。

 この剣を天武雲剣と申し、当社の神宝となっております。

  当社の社伝によると、

 「尊の霊みたまが当地に白鳥としてあらわれ給い、

  鳥明神とりみょうじんとして祀る」とあり、

 大同元年には、社殿が造営されました。

 当社の社紋が鳳凰ほうおうの紋を用いているのはこのためです。

  また、江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に

 当社は鳥明神と記載されております。

 尚、この江戸図に記載される社は九社しかなく、

 当社は江戸九社の一つにかぞえられております。

 江戸名所図会より大鳥神社の図

 酉の市

  酉の市は毎年11月のとりの日に行われる市のことであり、

  とりの日とは暦の中で十二支のとりの日のことです。

  「酉の市とは、現在は稲荷神社などでも行われている例もありますが、

   本来は、大鳥神社で行われる特殊行事です。」

  当社の酉の市の起源はとても古く、

  浅草の酉の市と並ぶ、江戸時代に始まります。

  神事では、御神前に「八つ頭の芋」と「熊手」をたてまつります。

  「八つ頭」は日本武尊が東征の時、

  八族の各頭目を平定された御功業を具象化したものです。

  「熊手」は尊が焼津で焼討ちの御難に遭われた時、

  薙ぎ倒した草を当時武器でもあった熊手を持ってかき集めさせ、

  その火を防ぎ、向火むかえびをもって賊を平らげ、

  九死に一生を得た事を偲び奉るためのものです。

  ここから、古来より、

  「頭の芋」とも呼ばれる「八つ頭」は

  人の頭に立つように出世できるという縁起と結びつき、

  「熊手」は家の内に宝を掃き込むとか掻き込むという意味で

  縁起物として広く信仰を集めました。

  また、「熊手」をもって火を防いだという御由緒から、

  火難除けの神様と伝えられ、

  現在も江戸消防記念会が酉の市に参拝祈願をされております。 

  更に、大鳥神社の社名

  「おおとり」は、「大取」に通ずる為、

  宝物を大きく取り込むという商売繁盛開運招福の神様として、

  多くの人達の信仰を集めております。

  尚、酉の市当日は、社殿において、

  この縁起のもとになる「開運熊手守」が授与されます。

 大鳥神社 1200年祭

  大鳥神社は平成18年(2006年)に、

  鎮座1200年を迎えました。

  社伝によると、

  「日本武尊の御霊が当地に白鳥としてあらわれ給い、

   鳥明神として祀る。」とあり、

  大同元年(806年)社殿が造営されました。

  ここから数えて1200年となります。

  大鳥神社は、主祭神が日本武尊さまであり、

  相殿神(あいどののかみ)として、

   国常立尊(国開きの神様)と

   弟橘媛命(日本武尊さまの妃)をお祀りしています。

  ご存知の通り、日本武尊は景行天皇の皇子であり、

  九州の熊襲を討ち、その後に東国の蝦夷(えみし)を平定されました。

  日本武尊にまつわる伝説は各地に残りますが、

  大鳥神社もその一つです。

  古くから目黒の総鎮守として崇敬されて来ました。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年12月25日木曜日

江戸総鎮守:神田明神


 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 《江戸総鎮守:神田明神》

 【神田祭】江戸東京を代表する賑やかで壮観な祭礼

   天下祭と呼ばれ、日本三大祭の一つとしても有名です。

   江戸の昔より、徳川幕府・江戸っ子の厚い崇敬を受けたことから

  天下祭・御用祭と称えられ、神田・日本橋を中心とする町々より

  36本の勇壮な山車が出され、それに加え仮装行列などの

  附祭(つけまつり)も加わり江戸城内に参入して

  徳川将軍の上覧にあずかった由緒ある祭礼でした。

   今日の神田祭は、当社の鳳輩・神輿をはじめとする

  平安絵巻さながらの祭礼行列が、神田・日本橋・秋葉原・

  大手町・丸の内の広大な氏子108ヶ町を一日がかりで

  巡行する神幸祭と、各氏子の町神輿約200基が町を練り歩き

  神社へ迫力ある宮入をする神輿宮入を中心に、2年に1度、

  賑やかに行われております。

  また陰祭の年には、

  当社の宮神輿が氏子中により担がれて渡御いたします。

 【ご祭神】東京都心108ヶ町の総氏神さま

   一の宮 大己貴命(だいこく様)

   二の宮 少彦名命(えびす様)

   三の宮 平将門命(まさかど様)

  正式名称、神田神社。

  神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場

  など108ヶ町会の総氏神様です。

  家庭円満、縁結び、商売繁昌、事業繁栄、厄徐開運、医薬健康など、

  多くのご神徳をお持ちの神々です。

  大己貴命、少彦名命は、ともに力を合わせ日本の国づくりをなされ、

  農耕漁業をすすめて日本人の生活の基礎をお築きになられました。

  平将門命は、悪政に苦しむ庶民たちを

  自らの命を投げ打って守られた東国の英雄です。

 【お守り】数多くの御神徳をもつ明神様の40種以上ものお守り

   徳川家康公が天下分け目の関が原の合戦に臨む際、

  当社より勝守(かちまもり)を授与し勝利を得たことから

  縁起の良いお守りとして、今日まで多くの方々に授与しております。

  その他、40種以上ものお守りを、当社では授与しております。

 【ご由緒】江戸東京で最も歴史ある神社

   社伝によると、天平2年(730)のご創建とあり、

  約1300年の歴史を持つ江戸東京の神社の中で

  最も古い神社の一つです。
 
  はじめは現在の千代田区大手町・将門塚周辺に鎮座していました。

  その後、延慶2年(1309)に東国の英雄として庶民に仰がれた

  平将門公をご祭神としてお祀りいたしました。

   慶長8年(1603)徳川家康公が江戸に幕府を開き

  江戸城が拡張されたとき、

  当社は社地を江戸城から表鬼門の位置に当たる現在の地へ遷り

  幕府よりご社殿が造営されました。

  以後江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として幕府はもちろんのこと

  江戸庶民にいたるまで多くの人々の崇敬を受けました。

   明治時代に入り准勅祭社・東京府社として

  東京の守護神と仰がれました。

  明治7年(1874)、茨城県・大洗磯前神社より

  少彦名命をお迎えいたしました。

  さらに同年、明治天皇が親しくご参拝なされました。

 【境内のご案内】東京の真ん中にある江戸きっての名所

   昭和9年、

  神社建築としては画期的な権現造の

  鉄骨鉄コンクリート・総漆朱塗の御社殿が、

  約10年の歳月と巨額の浄財により完成。

  東京大空襲にも耐えたこの御社殿は、

  平成15年に国の登録文化財に指定されました。

   隋神門は、総檜・入母屋造で左右に隋神像を安置しております。

  昭和51年に建立。

  御屋根の両端に鳳凰をあしらった鳳凰殿は、

  神札授与所・参拝者待合室・休憩所を兼ねた建物で、

  平成17年に建立されました。

   その他、

  境内には石造では日本一の大きさを誇るだいこく様ご尊像、

  波間よりイルカやカメといった海の仲間たちに

  守られていらっしゃる姿した、えびす様ご尊像をはじめ、

  銭形平次の碑や文化財指定の獅子山などがございます。

   また、明神会館は神前結婚式をあげられて

  新郎新婦の披露宴会場として連日賑わい、

  また各種会議・宴席などにもご利用いただいております。

  社殿に向って左脇には資料館もあり、
  
  江戸文化や神田祭を伝える貴重な資料の数々が

  展示されております。

 神田明神
 神田明神

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年12月20日土曜日

日枝神社


 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 ≪日枝神社≫ひえじんじゃ:参拝のしおり

 日枝神社

 鎮座地 東京都千代田区永田町2-10-5

 摂社  中央区日本橋茅場町1-6-16

 電話  03(3581)2471 FAX 03(3581)2077

 交通  (地下鉄)丸の内線・銀座線:赤坂見附駅

         銀座線・南北線:溜池山王駅

         千代田線:国会議事堂前駅

  日枝神社 

 御祭神

  大山咋神  おおやまくひのかみ

 相殿に鎮まります神々

  国常立神  くにのとこたちのかみ

  伊弉冉神  いざなみのかみ

  足仲彦尊  たらしなかつひこのみこと

 主祭神の神系

        ┌大國御魂神
        │
  須佐之男神─┼大年神─御年神
        │
        └大山咋神─別雷神

 『古事記』に

  「大山咋神(おおやまくひのかみ)、

   またの名は山末之大主神(やますえの大ぬしのかみ)。

   この神は近淡海(ちかつおおみ)国の日枝山に坐す。

   また葛野(かずの)の松尾に坐す。

   鳴鏑(なりかぶら)になりませる神なり」とあるように、

  近江国(今の滋賀県)の日枝山(比叡山)に

  鎮まりましたのが最初で大年神(おおとしかみ)の御子神で、

  別にその御名を山末之大主神とたたえて申しあげます。

 御神徳

  大山咋神の「咋」は「主」という意味で、

  大山の主であると共に広く地主神として崇められ、

  山・水を司り、大地を支配し

  万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う

  御神徳は広大無辺であります。


 御社格

  当神社は江戸城の鎮守として徳川家の崇敬は特に篤く、

  将軍世嗣、子女及諸大名等の社参は絶えることなく、

  毎年正月・六月には必ず使いを遣して幣を奉り、

  国家事ある時には必ず祈願を修し、

  崇敬他に異なるものがありました。

  東京遷都の後明治元年11月8日に准勅祭社に

  同2年7月2日祈年奉幣の列に入り、

  同5年5月8日府社に定められましたが、

  皇城の鎮護たる故を以て、

  同15年1月11日官幣中社に列せられ、

  大正天皇御即位にあたり、

  氏子区域内に御降誕せられたる故を以て、

  大正天皇御即位の当日、

  更に昇格して官幣大社に列せられ、

  終戦と共に社格を廃せられたが、
 
  宗教法人として都民の尊信を専らにしてかかわることなく

  今日にいたっています。

 御由緒

  当社は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として

  江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明10年(1478)

  太田道灌公が江戸の地を相して築城にするにあたり、

  鎮護の神として川越山王社を勧請し、神威赫赫として

  江戸の町の繁栄の礎を築きました。

  やがて天正18年(1590)徳川家康公が江戸に移封され、

  江戸城を居城とするに至って

  「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」として崇敬されました。

  二代秀忠の時の江戸城大改造の際、

  城内紅葉山より新たに社地を江戸城外に定め、

  社殿を新築して遷祀されました。

  世に伝える元山王と称する地は今の隼町国立劇場附近である。

  この時から別当神主を定め神社の規模は大いに備わり、

  広く一般衆庶も参拝し得る道を開きましたが、

  明暦3年(1657)の大火に社殿炎上の災に遇いましたが、

  時の将軍家綱は直ちに赤坂の溜池に臨む

  松平忠房の邸地を官収して社地に充て、

  結構善美を尽くした権現造り社殿を造営・遷祀され、

  天下泰平、万民和楽の都を守護する祈願所として崇敬されました。

   明治元年東京遷都と共に勅使奉幣が行われ、

  御西下御東幸に際しては御途中安全の御祈祷を修せしめられ、

  明治2年7月天下水患にあたり勅使祈祷も御事があり、

  宮妃御懐妊の際は御安産の御祈修せられ、

  皇室典範帝国憲法の制定を始めとして開戦及び平和克復等の

  重大事に際しては、常に勅使参向御奉告が行われ、

  畏しくも大正天皇儲宮にまします時、新しく御参拝があり、

  明治天皇は御愛蔵の御太刀一振(長光)を進献あそばされました。

   万治2年御造営の社殿は、

  江戸初期の権現造りの代表的建物として国宝に指定されていましたが、

  昭和20年5月戦禍に遭い、末社山王稲荷神社を残し

  悉く烏有に帰しましたが、氏子崇敬者の赤誠奉仕により

  「昭和御造営」の画期的な大業が企画され、

  昭和33年6月本殿遷座祭齋行、

  引続き神門・廻廊・参集殿等が逐次完成、

  更に末社改築、摂社の大修築、神庫校倉の改造等を相次いで竣工し、

  全都をあげて之を慶賀し、昭和42年6月奉祝祭が先づ齋行され、

  この間、昭和33年6月現社地御鎮座三百年祭を齋行し、

  ここに昭和24年復興後援会発祥以来10年に亘る歳月を以て

  山王台上に再び大社の偉容を拝するに至りました。

  昭和52年7月江戸城内御鎮座五百年奉賛会が結成され、

  昭和53年6月五百年を祝する式年大祭を厳修し、

  昔をしのぶ天下祭にふさわしい山王神幸祭の復元、

  尚記念事業として、「日枝神社史」の刊行、

  「宝物殿」の建築、本殿以下社殿の修繕、境内整備等が

  実施されました。

 宝物

   刀剣を主要なものとし、現在保存されてる刀剣は27口で、

  内国宝1口、重要文化財14口を数えている。

  これらは歴代の将軍及びその世子等が初宮詣で、

  或は自身が将軍宣下奉告参拝、

  或は特殊の崇敬の下に社参されたときに、

  社前に奉納されたものであることを特色とします。

   又、社蔵文書として重要な徳川歴代将軍の朱印状が、

  6代家宣7代家継及び15代慶喜のそれを除いて

  12通現存し社蔵されている。

  他に家光の手習い草紙を貼って作ったといわれる

  「獅子頭」や山王まつりの山車人形、記録文書等が所蔵されています。

 山王祭(神幸祭) 

   日本三大祭りの一つ、東都第一の祭礼に数えられ、

  昔三基の神輿は江戸城内に御渡りになり、

  時の将軍が自ら奉迎せられたと言う徳川このかた伝統の祭りは、

  「山王祭」または「天下祭」の名で広く天下に親しまれてきました。

  大津市坂本の日吉大社の御輿ぶりが有名であったのに比べ、

  当神社のそれは「山車(だし)」や練(ね)りものが特徴で、

  その台数の多い事と絢爛にして豪華な附祭(つけまつり)の風流で

  有名でありました。

  20世紀の今日と雖も

  厳かに天下祭の面影を残しております事は周知の事であります。

 旧社家・別当・社僧

   山王権現の社号を称した往時の記録で別当は天台の観理院、

  神主は日吉大膳、

  社僧に圓成院・成就院・宝蔵院・長命院・福聚院・智光院・宝船院・

  無量院・智乗院・常明院 の10坊があり、

  神職社家は小川織部・千勝主水・千勝采女・金丸靭負・宮西頼母・

  正木主膳・諸井喜内の7家、

  巫女として、左近・土佐・伊賀の3家、

  更に山王権現御旅所(萱場町)神主として諸井喜内が専任した。

  徳川時代は神仏の両部習合の法で神道に於いては

  天下泰平国家安穏の祈祷を修し、

  圓頓止観の天台にあっては唯我三密の直心を凝らしめた。

  (「江戸鹿の子巻三」「江府神社略記」「江戸砂子」)

  元禄10年5月15日山王(江戸)神主に日吉(江州坂本)の社人

  樹下民部を命じ、民部後任に日吉大膳の子息を遣さる、

  由が見え、此時より神職は樹下氏と定まったようであります。

  (改撰江戸志)

 年間の主な祭典

 大祭

  祈年祭(春の大祭)         2月17日

  例祭(隔年神幸祭)         6月15日

  新嘗祭(秋の大祭)        11月23日

 中祭
  
  若水祭(ひとり翁奉奏)       1月 1日

  歳旦祭(初神楽)          1月 1日
  
  元始祭              1月 3日

  紀元祭              2月11日

  神嘗祭             10月17日

  日本文化祭           11月 3日

  天長祭             11月23日

 小祭 

  印章御符祭(おしでまつり)     1月13日

  成人祭              1月15日

  神札焼納祭            1月15日
  
  節分祭追難式           2月節分の日

  学業成就祈願祭・絵馬まつり    3・4月中

  山王稲荷祭(末社)         4月下午の日

  天満天神祭(摂社)         5月25日

  八坂神社祭(末社)         6月 7日

  嘉祥祭(和菓子の日)        6月16日

  浅間神社祭(摂社)         7月 1日

  箸感謝祭             8月 4日

  敬老長寿祭            9月15日

  山王祖霊祭            9月秋分の日

  仲秋管弦祭            十五夜

  除夜祭             12月31日

  猿田彦神社祭           庚申の日

  朔旦祭(山王御縁日)        毎月 1日

  月次祭(山王御縁日)        毎月15日
  
 山王御祓・鎮火祭     

  夏越祓              6月中旬

  年越祓             12月31日

 
 ≪参照≫

 猫の足あと|東京都・首都圏の寺社情報サイト

  境内掲示による山王日枝神社の由緒

  鎌倉の初期秩父氏の流れ重継は江戸太郎を名乗りその館の中に

 日吉の大神を勧請した。

  降って文明年間(1478頃)足利の宰相太田道灌持資が城内に、

  更に天正18年徳川家康が入府し江戸城内の紅葉山に新社殿を造営した。

  徳川三代家光は一般市民の参拝の便を企るため半蔵門外に遷座、

  朱印地を600石に加増、四代家綱の代、

  萬冶2年振袖火事のため永田町溜池に臨む景勝の星ヶ岡に遷座、

 現在に至る。

  歴代の将軍世子の社参絶えることなく、

 都度神馬・太刀(国宝)等を献じた。(宝物殿に出陳中)

  山王日枝神社の日枝・山王まつりは、神田まつりと共に

 天下祭・御用祭として華麗豪壮、正に天下随一と称えられた。
 
  明治維新、遷都により江戸城は明治天王皇居(宮城)となり、

 当神社は皇城の鎮守神として官幣の大社に列した。

  (山王日枝神社境内掲示より)

  末社、山王稲荷神社の由緒

    祭神 倉稲魂神

    例祭4月下午の日

    稲荷の大神は生成発展・商売繁盛の守り神として全国に祀られ、

    ここ永田馬場星が岡の地主神として松平主殿頭忠房の邸内に祀られ

  特に火伏せの信仰が篤く、

    萬冶2年4月本社山王権現が麹町より移遷されるに至り、

  境内末社となった。

  末社、八坂神社の由緒

    祭神 素盛鳴神

    例祭6月7日

    日枝大山咋神の祖父神、もと京橋南伝馬町の牛頭天王として、

  三ヶ町の鎮守で大伝馬町、 小舟町と並び江戸三天王と称された。

  明治19年7月、末社猿田彦神社内に相殿神として奉斎された。

    今に祇園八坂信仰は商業・農業の守護神、病気退散の信仰が篤い。

  末社、猿田彦神社の由緒

    祭神 猿田彦神

    例祭初庚申の日

    萬冶2年、御本社山王権現と共に奉祀されたと伝えられ、

  御祭神は”道ひらきの神”として、

    また里俗の説に”山王のお使い”即ち神猿とも言われる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ