2014年12月20日土曜日

日枝神社


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 ≪日枝神社≫ひえじんじゃ:参拝のしおり

 日枝神社

 鎮座地 東京都千代田区永田町2-10-5

 摂社  中央区日本橋茅場町1-6-16

 電話  03(3581)2471 FAX 03(3581)2077

 交通  (地下鉄)丸の内線・銀座線:赤坂見附駅

         銀座線・南北線:溜池山王駅

         千代田線:国会議事堂前駅

  日枝神社 

 御祭神

  大山咋神  おおやまくひのかみ

 相殿に鎮まります神々

  国常立神  くにのとこたちのかみ

  伊弉冉神  いざなみのかみ

  足仲彦尊  たらしなかつひこのみこと

 主祭神の神系

        ┌大國御魂神
        │
  須佐之男神─┼大年神─御年神
        │
        └大山咋神─別雷神

 『古事記』に

  「大山咋神(おおやまくひのかみ)、

   またの名は山末之大主神(やますえの大ぬしのかみ)。

   この神は近淡海(ちかつおおみ)国の日枝山に坐す。

   また葛野(かずの)の松尾に坐す。

   鳴鏑(なりかぶら)になりませる神なり」とあるように、

  近江国(今の滋賀県)の日枝山(比叡山)に

  鎮まりましたのが最初で大年神(おおとしかみ)の御子神で、

  別にその御名を山末之大主神とたたえて申しあげます。

 御神徳

  大山咋神の「咋」は「主」という意味で、

  大山の主であると共に広く地主神として崇められ、

  山・水を司り、大地を支配し

  万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う

  御神徳は広大無辺であります。


 御社格

  当神社は江戸城の鎮守として徳川家の崇敬は特に篤く、

  将軍世嗣、子女及諸大名等の社参は絶えることなく、

  毎年正月・六月には必ず使いを遣して幣を奉り、

  国家事ある時には必ず祈願を修し、

  崇敬他に異なるものがありました。

  東京遷都の後明治元年11月8日に准勅祭社に

  同2年7月2日祈年奉幣の列に入り、

  同5年5月8日府社に定められましたが、

  皇城の鎮護たる故を以て、

  同15年1月11日官幣中社に列せられ、

  大正天皇御即位にあたり、

  氏子区域内に御降誕せられたる故を以て、

  大正天皇御即位の当日、

  更に昇格して官幣大社に列せられ、

  終戦と共に社格を廃せられたが、
 
  宗教法人として都民の尊信を専らにしてかかわることなく

  今日にいたっています。

 御由緒

  当社は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として

  江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明10年(1478)

  太田道灌公が江戸の地を相して築城にするにあたり、

  鎮護の神として川越山王社を勧請し、神威赫赫として

  江戸の町の繁栄の礎を築きました。

  やがて天正18年(1590)徳川家康公が江戸に移封され、

  江戸城を居城とするに至って

  「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」として崇敬されました。

  二代秀忠の時の江戸城大改造の際、

  城内紅葉山より新たに社地を江戸城外に定め、

  社殿を新築して遷祀されました。

  世に伝える元山王と称する地は今の隼町国立劇場附近である。

  この時から別当神主を定め神社の規模は大いに備わり、

  広く一般衆庶も参拝し得る道を開きましたが、

  明暦3年(1657)の大火に社殿炎上の災に遇いましたが、

  時の将軍家綱は直ちに赤坂の溜池に臨む

  松平忠房の邸地を官収して社地に充て、

  結構善美を尽くした権現造り社殿を造営・遷祀され、

  天下泰平、万民和楽の都を守護する祈願所として崇敬されました。

   明治元年東京遷都と共に勅使奉幣が行われ、

  御西下御東幸に際しては御途中安全の御祈祷を修せしめられ、

  明治2年7月天下水患にあたり勅使祈祷も御事があり、

  宮妃御懐妊の際は御安産の御祈修せられ、

  皇室典範帝国憲法の制定を始めとして開戦及び平和克復等の

  重大事に際しては、常に勅使参向御奉告が行われ、

  畏しくも大正天皇儲宮にまします時、新しく御参拝があり、

  明治天皇は御愛蔵の御太刀一振(長光)を進献あそばされました。

   万治2年御造営の社殿は、

  江戸初期の権現造りの代表的建物として国宝に指定されていましたが、

  昭和20年5月戦禍に遭い、末社山王稲荷神社を残し

  悉く烏有に帰しましたが、氏子崇敬者の赤誠奉仕により

  「昭和御造営」の画期的な大業が企画され、

  昭和33年6月本殿遷座祭齋行、

  引続き神門・廻廊・参集殿等が逐次完成、

  更に末社改築、摂社の大修築、神庫校倉の改造等を相次いで竣工し、

  全都をあげて之を慶賀し、昭和42年6月奉祝祭が先づ齋行され、

  この間、昭和33年6月現社地御鎮座三百年祭を齋行し、

  ここに昭和24年復興後援会発祥以来10年に亘る歳月を以て

  山王台上に再び大社の偉容を拝するに至りました。

  昭和52年7月江戸城内御鎮座五百年奉賛会が結成され、

  昭和53年6月五百年を祝する式年大祭を厳修し、

  昔をしのぶ天下祭にふさわしい山王神幸祭の復元、

  尚記念事業として、「日枝神社史」の刊行、

  「宝物殿」の建築、本殿以下社殿の修繕、境内整備等が

  実施されました。

 宝物

   刀剣を主要なものとし、現在保存されてる刀剣は27口で、

  内国宝1口、重要文化財14口を数えている。

  これらは歴代の将軍及びその世子等が初宮詣で、

  或は自身が将軍宣下奉告参拝、

  或は特殊の崇敬の下に社参されたときに、

  社前に奉納されたものであることを特色とします。

   又、社蔵文書として重要な徳川歴代将軍の朱印状が、

  6代家宣7代家継及び15代慶喜のそれを除いて

  12通現存し社蔵されている。

  他に家光の手習い草紙を貼って作ったといわれる

  「獅子頭」や山王まつりの山車人形、記録文書等が所蔵されています。

 山王祭(神幸祭) 

   日本三大祭りの一つ、東都第一の祭礼に数えられ、

  昔三基の神輿は江戸城内に御渡りになり、

  時の将軍が自ら奉迎せられたと言う徳川このかた伝統の祭りは、

  「山王祭」または「天下祭」の名で広く天下に親しまれてきました。

  大津市坂本の日吉大社の御輿ぶりが有名であったのに比べ、

  当神社のそれは「山車(だし)」や練(ね)りものが特徴で、

  その台数の多い事と絢爛にして豪華な附祭(つけまつり)の風流で

  有名でありました。

  20世紀の今日と雖も

  厳かに天下祭の面影を残しております事は周知の事であります。

 旧社家・別当・社僧

   山王権現の社号を称した往時の記録で別当は天台の観理院、

  神主は日吉大膳、

  社僧に圓成院・成就院・宝蔵院・長命院・福聚院・智光院・宝船院・

  無量院・智乗院・常明院 の10坊があり、

  神職社家は小川織部・千勝主水・千勝采女・金丸靭負・宮西頼母・

  正木主膳・諸井喜内の7家、

  巫女として、左近・土佐・伊賀の3家、

  更に山王権現御旅所(萱場町)神主として諸井喜内が専任した。

  徳川時代は神仏の両部習合の法で神道に於いては

  天下泰平国家安穏の祈祷を修し、

  圓頓止観の天台にあっては唯我三密の直心を凝らしめた。

  (「江戸鹿の子巻三」「江府神社略記」「江戸砂子」)

  元禄10年5月15日山王(江戸)神主に日吉(江州坂本)の社人

  樹下民部を命じ、民部後任に日吉大膳の子息を遣さる、

  由が見え、此時より神職は樹下氏と定まったようであります。

  (改撰江戸志)

 年間の主な祭典

 大祭

  祈年祭(春の大祭)         2月17日

  例祭(隔年神幸祭)         6月15日

  新嘗祭(秋の大祭)        11月23日

 中祭
  
  若水祭(ひとり翁奉奏)       1月 1日

  歳旦祭(初神楽)          1月 1日
  
  元始祭              1月 3日

  紀元祭              2月11日

  神嘗祭             10月17日

  日本文化祭           11月 3日

  天長祭             11月23日

 小祭 

  印章御符祭(おしでまつり)     1月13日

  成人祭              1月15日

  神札焼納祭            1月15日
  
  節分祭追難式           2月節分の日

  学業成就祈願祭・絵馬まつり    3・4月中

  山王稲荷祭(末社)         4月下午の日

  天満天神祭(摂社)         5月25日

  八坂神社祭(末社)         6月 7日

  嘉祥祭(和菓子の日)        6月16日

  浅間神社祭(摂社)         7月 1日

  箸感謝祭             8月 4日

  敬老長寿祭            9月15日

  山王祖霊祭            9月秋分の日

  仲秋管弦祭            十五夜

  除夜祭             12月31日

  猿田彦神社祭           庚申の日

  朔旦祭(山王御縁日)        毎月 1日

  月次祭(山王御縁日)        毎月15日
  
 山王御祓・鎮火祭     

  夏越祓              6月中旬

  年越祓             12月31日

 
 ≪参照≫

 猫の足あと|東京都・首都圏の寺社情報サイト

  境内掲示による山王日枝神社の由緒

  鎌倉の初期秩父氏の流れ重継は江戸太郎を名乗りその館の中に

 日吉の大神を勧請した。

  降って文明年間(1478頃)足利の宰相太田道灌持資が城内に、

  更に天正18年徳川家康が入府し江戸城内の紅葉山に新社殿を造営した。

  徳川三代家光は一般市民の参拝の便を企るため半蔵門外に遷座、

  朱印地を600石に加増、四代家綱の代、

  萬冶2年振袖火事のため永田町溜池に臨む景勝の星ヶ岡に遷座、

 現在に至る。

  歴代の将軍世子の社参絶えることなく、

 都度神馬・太刀(国宝)等を献じた。(宝物殿に出陳中)

  山王日枝神社の日枝・山王まつりは、神田まつりと共に

 天下祭・御用祭として華麗豪壮、正に天下随一と称えられた。
 
  明治維新、遷都により江戸城は明治天王皇居(宮城)となり、

 当神社は皇城の鎮守神として官幣の大社に列した。

  (山王日枝神社境内掲示より)

  末社、山王稲荷神社の由緒

    祭神 倉稲魂神

    例祭4月下午の日

    稲荷の大神は生成発展・商売繁盛の守り神として全国に祀られ、

    ここ永田馬場星が岡の地主神として松平主殿頭忠房の邸内に祀られ

  特に火伏せの信仰が篤く、

    萬冶2年4月本社山王権現が麹町より移遷されるに至り、

  境内末社となった。

  末社、八坂神社の由緒

    祭神 素盛鳴神

    例祭6月7日

    日枝大山咋神の祖父神、もと京橋南伝馬町の牛頭天王として、

  三ヶ町の鎮守で大伝馬町、 小舟町と並び江戸三天王と称された。

  明治19年7月、末社猿田彦神社内に相殿神として奉斎された。

    今に祇園八坂信仰は商業・農業の守護神、病気退散の信仰が篤い。

  末社、猿田彦神社の由緒

    祭神 猿田彦神

    例祭初庚申の日

    萬冶2年、御本社山王権現と共に奉祀されたと伝えられ、

  御祭神は”道ひらきの神”として、

    また里俗の説に”山王のお使い”即ち神猿とも言われる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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