2014年12月6日土曜日

千代田区・港区(2)


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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 千代田区・港区(2)

 麹町(2)

  天正年間までは藪野で徳川氏入国当時は矢部村といったと伝え、

  草分け名主の矢部氏は二丁目に居住、

  府中・江戸間の運送業者を支配して

  旗本の生活物資供給を役としたという(切絵図・画報)。

  <矢部氏は明治期麹区の初代区長>

 愛宕山:あたごやま(港区)

  港区芝愛宕町1丁目にある山。標高26㍍。

  武蔵野台地末端の小丘。

  江戸期は江戸に近く虎ノ門・御成門の間に位置する。

  山上に愛宕神社があり~。

  愛宕神社(現、港区愛宕1丁目)愛宕山に鎮座する。

   祭神は火産霊命・罔象女命・日本武尊。

   芝愛宕1丁目愛宕社同8年(慶長8年(1602))より当地にあり~。

 永田町:ながたちょう(千代田区)

  明治2年~昭和42年の町名。

  皇居の西南に位置し、港区に隣接。

  町名の由来は往古、

  地内の日枝社門前に永田姓を名乗る家が3家あったためというが

  未詳(府志料)。

  江戸期は日枝社門前一帯の武家地を永田馬場と俗称。

  永田馬場彦根藩邸附近には桜が井、柳が井の2名泉があり、

  また、日枝社社叢をはじめ一帯は桜の名所として

  江戸庶民の散策の場でもあった(江戸名所・画報)。

 虎ノ門:とらのもん(港区)江戸期からの地域称。

  江戸城南方の外郭門の一つで、附近の里俗称として用いられた。

  由来は

  「千里ゆくとも無事にて千里を帰る」

  といわれる虎に因んだ説(新編江戸志)。

  昔朝鮮から虎をもってきたとき、その檻が大きくてはいれないので

  門柱を大きく改造して名付けた説、

  門内の内藤邸内に虎の尾という種類の桜の木があり、

  虎の尾門が略されたとする説(画報)。

  四神思想に因む城郭の設計上、右白虎に相当する方角の門なので、

  虎ノ門となったとする説(備考・画報)がある。

 鳥居坂:とりいざか(港区)

  港区六本木5丁目の中央を南北に通じる坂。鳥井坂とも書く。

  元は麻布鳥居坂町と麻布東鳥居坂町との境をなしていた。

  坂名の由来について

  「砂子は慶長のころ、この土地は鳥居彦右衛門に賜いしところとなり、

   よりてかく鳥居坂の名あり」とし、

  画報は

  「一説に麻布氷川神社むかし大社にて二の鳥居此処にありしを

   もって称し来たれりと」としている。 

 飯倉:いいぐら(港区)

  芝浦海岸に面し、国道1号に沿う。

  地名の由来は3説あり、

  第1は諸国に屯倉を設置した際の米殻蔵に由来するというもの

  (砂子・江府神社略記、備考続編)。

  第2は文武天皇の時、諸国に義蔵を設けたことによる(新編武蔵)。

  第3は当地にある芝丸山古墳が飯を盛った形で、

  飯座が飯倉に転訛したとする説(地名辞書)などがある。

  附近には平安期の住居址が発見されていて、

  古海道沿いの集落が早くから開けていたと思われる。

  平安末期には伊勢神宮の御厨が置かれた。

  【中世】飯倉郷、戦国期にみえる郷名。豊島郡に属す。

 飯倉六本木町:いいぐらろっぽんぎちょう(港区) 

  江戸期~明治2年の町名。起立年代不明。

  飯倉10か町のうち、寛文2年(1662)町奉行・代官両支配となる。

  町名は往古、この辺りに松の大木が6本あったことに因み、」

  町方支配となった時につけられたという。

 百姓町〔江戸名所図絵〕霞山稲荷明神。

  【割注】今麻布櫻田町、百姓町抔(など)號くるは、則櫻田より

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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