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『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
《課題》江戸の古代を解明する
―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―
千代田区・港区(2)
麹町(2)
天正年間までは藪野で徳川氏入国当時は矢部村といったと伝え、
草分け名主の矢部氏は二丁目に居住、
府中・江戸間の運送業者を支配して
旗本の生活物資供給を役としたという(切絵図・画報)。
<矢部氏は明治期麹区の初代区長>
愛宕山:あたごやま(港区)
港区芝愛宕町1丁目にある山。標高26㍍。
武蔵野台地末端の小丘。
江戸期は江戸に近く虎ノ門・御成門の間に位置する。
山上に愛宕神社があり~。
愛宕神社(現、港区愛宕1丁目)愛宕山に鎮座する。
祭神は火産霊命・罔象女命・日本武尊。
芝愛宕1丁目愛宕社同8年(慶長8年(1602))より当地にあり~。
永田町:ながたちょう(千代田区)
明治2年~昭和42年の町名。
皇居の西南に位置し、港区に隣接。
町名の由来は往古、
地内の日枝社門前に永田姓を名乗る家が3家あったためというが
未詳(府志料)。
江戸期は日枝社門前一帯の武家地を永田馬場と俗称。
永田馬場彦根藩邸附近には桜が井、柳が井の2名泉があり、
また、日枝社社叢をはじめ一帯は桜の名所として
江戸庶民の散策の場でもあった(江戸名所・画報)。
虎ノ門:とらのもん(港区)江戸期からの地域称。
江戸城南方の外郭門の一つで、附近の里俗称として用いられた。
由来は
「千里ゆくとも無事にて千里を帰る」
といわれる虎に因んだ説(新編江戸志)。
昔朝鮮から虎をもってきたとき、その檻が大きくてはいれないので
門柱を大きく改造して名付けた説、
門内の内藤邸内に虎の尾という種類の桜の木があり、
虎の尾門が略されたとする説(画報)。
四神思想に因む城郭の設計上、右白虎に相当する方角の門なので、
虎ノ門となったとする説(備考・画報)がある。
鳥居坂:とりいざか(港区)
港区六本木5丁目の中央を南北に通じる坂。鳥井坂とも書く。
元は麻布鳥居坂町と麻布東鳥居坂町との境をなしていた。
坂名の由来について
「砂子は慶長のころ、この土地は鳥居彦右衛門に賜いしところとなり、
よりてかく鳥居坂の名あり」とし、
画報は
「一説に麻布氷川神社むかし大社にて二の鳥居此処にありしを
もって称し来たれりと」としている。
飯倉:いいぐら(港区)
芝浦海岸に面し、国道1号に沿う。
地名の由来は3説あり、
第1は諸国に屯倉を設置した際の米殻蔵に由来するというもの
(砂子・江府神社略記、備考続編)。
第2は文武天皇の時、諸国に義蔵を設けたことによる(新編武蔵)。
第3は当地にある芝丸山古墳が飯を盛った形で、
飯座が飯倉に転訛したとする説(地名辞書)などがある。
附近には平安期の住居址が発見されていて、
古海道沿いの集落が早くから開けていたと思われる。
平安末期には伊勢神宮の御厨が置かれた。
【中世】飯倉郷、戦国期にみえる郷名。豊島郡に属す。
飯倉六本木町:いいぐらろっぽんぎちょう(港区)
江戸期~明治2年の町名。起立年代不明。
飯倉10か町のうち、寛文2年(1662)町奉行・代官両支配となる。
町名は往古、この辺りに松の大木が6本あったことに因み、」
町方支配となった時につけられたという。
百姓町〔江戸名所図絵〕霞山稲荷明神。
【割注】今麻布櫻田町、百姓町抔(など)號くるは、則櫻田より
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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