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『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
《課題》江戸の古代を解明する
―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―
千代田区・港区(3)
六本木町:ろっぽんぎちょう(港区)
【近代】明治2年~昭和42年の町名。
~松の木が6本あったことから付けられた龍土六本木町・飯倉六本木町
の名称を継承。
龍土:りゅうど(港区)
元海に面した芝愛宕西久保辺りに漁師が多く居住した猟人(りょうど)村
があったが、元和年間猟人村が御料地となり、
麻布領内に代地を拝領し移住した際
移住先の村名を龍土と改めたと伝える(新編武蔵)。
麻布:あざぶ(港区)
阿佐布(役帳)、安座部(江戸名所記)、浅布(江戸雀)、
浅生、麻生(再校砂子)とも書く。
白金台北方の台上と周辺に位置し、
由来は
麻が生えていたから麻生、
麻布を生産したため、
浅茅生が浅生となったという説などがある
(砂子・新編江戸志・温故名跡志など)。
「麻布」の初出は元禄3年(1690)の「江戸図鑑網目」であるが、
「書上」は正徳3年(1713)頃麻布と書き換えたという。
【中世】戦国期にみえる地名。豊島郡白金郷に属す。
初見は永禄年間(1558~70)の「役帳」で、
小田原北条氏の家臣御馬廻衆の狩野大膳亮の
所領「五拾三貫弐百文 江戸阿佐布」とみえ、
他に江戸衆の島津孫四郎
「三拾八貫百五拾文 飯倉内桜田 善福寺分」とある。
【近世】阿佐布村 江戸初期の村名。
渋谷区:しぶやく
金王社と渋谷氏、渋谷区3丁目の金王(こんのう)八幡社は
渋谷八幡宮とも別称され、寛治6年(1092)源義家が、
後三年の役を平定して凱旋の途上に勧請したという
(金王八幡神社社記)。
金王八幡と称するのは、
武蔵渋谷氏の祖と伝える渋谷金王丸の氏神であったところに
由来し(文政寺社書上)、
同社は金王丸の館址の遺構の一部という(江戸砂子)。
金王八幡宮の別当寺東福寺の梵鐘の銘によれば、
平安末期にはこの地域に谷盛荘(やもりのしょう)があり、
その7郷の一つに渋谷郷がみえるが明らかではない。
谷盛荘:やもりのしょう(渋谷区)
【近世】「新編武蔵」にみえる荘名。荏原郡渋谷郷のうち。
上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村、渋谷宮盛町在方、
上豊沢村、中豊沢村、下豊沢村、隠田(おんでん)村を
含む(新編武蔵)。
中世以来、矢盛七郷といわれ、
渋谷氏が支配した土地である(東京都の歴史)。
荘内には四谷上水、三田用水が貫流、今の渋谷区東部一帯を占める。
芝:芝(港区)
柴とも書く(武文)。
東京湾に臨み、海岸に沿って東海道が通り、
中世から芝浦と総称されていた。
地名の由来は古くから芝の生えた地であったことによる
という説がある(地名辞書)。
永享6年(1434)の古文書に芝原とみえ、
文明年間(1469~87)の「平安紀行」に、芝という所に過ぐるとて
「つゆしげき道のしばふをふみちらし駒にまかする明くれの宝」、
「廻国雑記」には
「芝の浦といえる所にいたりければ、
塩屋の煙うち靡きてものさびしきに塩木 運ぶ船どもを見て、
やりぬよりもしほの煙名にぞたつ舟にこりつむ芝の浦人」
と記している。
中世では江戸湾の重要な港の一つであった。
【中世】柴村 戦国期にみえる郷村名。荏原郡に属す。
永禄年間(1558~70)の役帳には見えず、
天文23年7月12日、小田原北条氏は虎印判状をもって、
柴金曽木(しばかなすぎ)の船持中に宛てて、
舟方条目を出し、船の売買を禁じ、~。
三田:みた(港区、目黒区)
御田、箕多、美田、美多、弥陀などとも書く。
目黒川河流の北東岸に位置する。
地名の由来は、朝廷の直轄領としての屯倉説や、
伊勢神宮の御田としての神田説、
一般に公田を御田というとする公田説などがある。
古代の荏原郡9郷の1(和名類聚抄)。
【中世】三田郷、戦国期にみえる郷村名。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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