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『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
《課題》江戸の古代を解明する
―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―
≪櫻田神社≫旧称・霞山稲荷神社
鎮座地 〒106-0031 港区麻布3丁目2番17号 Tel03-3405-0868
御祭神 豊宇迦能賣大神:とようかのめのおおかみ
御由緒
今を遡ること八百年余、治承四年(1180)
武蔵国の奉行渋谷庄司重国が、
霞山(現在の溜池から霞ヶ関にかけての小高くなった一帯)に
焼狩りをしようとした前夜、其の夢枕にご祭神のお使いの
白狐が現れ、狩りを行えば必ずや祟りがあるであろうと告げた。
重国はこれは正夢と、直ちに狩りを中止し、
当時東国に力を持っていた源頼朝公に事の次第を報告したところ、
同年十一月霞山稲荷明神として現在の霞ヶ関桜田門外に
社を造り祭る様命を下した。
後の文治五年(1189)秋、頼朝公は、奥州平討奉賽の祭りを行い、
神供料として三十貫の田地を寄進され、
御神田と一般の田地との境界に桜の木を植えられた。
この桜が、年毎に咲き誇り、
人々が御神田を「桜田」と讃え、
附近住民もその住地を桜田村と称するようになった。
尚、この桜は当社御遷座にあたり
「内桜田」現在皇居吹き上げの庭に移されたと伝えられる。
時は下り、文明年間(1461-86)太田道潅公は、
当社の縁起を伝え聞き、直ちに神殿を改修再興され、
地領の守護神として崇敬された。
また当時道潅公は、
太刀甲冑等を寄進され永く当社の御神宝として伝えられたが、
「青山火事」により消失した。
当社は永く霞が関に御鎮座になられたが、徳川氏入国以来、
諸大名屋敷が出来るにつれ寛永元年(1624)、
現在の地に御鎮座せられた。
当社は、明治から戦前にかけては、
当時氏子であった名将乃木希典将軍が、
お宮参りに参詣した神社として知られ、
当日着用された産着は、現在も赤坂八丁目にご鎮座になる、
乃木神社に於て社宝として保管されている(非公開)。
また戦前は、硫黄島にて玉砕された
旧男爵、西竹一帝国陸軍大佐も当社氏子であった。
戦前までの当社大祭には、
二階屋を雄に越す背丈の鳳輦(昭和20年空襲による戦火にて消失)を、
現在の新橋内幸町交差点付近(当時の氏子地)に設けられたお旅所まで
牛に引かせ、
丸二日を掛けて当社とその間を往復する盛大な神幸祭が斎として、
境内地に櫓を立て盆踊りの輪が夜更けまで続けられたが、
その後の都市化や氏子減少により衰退してしまった。
その後昭和五十年、
代宮司や氏子悲願であった社殿改築も無事終了し、現在の装いとなった。
氏子地
当社氏子区域は、
港区西麻布一丁目、二~四丁目の一部、
元麻布三丁目の一部、
六本木六~七丁目の一部
遷座前からの氏子である
港区西新橋一丁目の一部
(現西新橋一帯芝桜田の地は、旧桜田村の名残で、
現在もその一部が当社氏子となっている。
又この地にある「日本中央競馬会」正門入口にも
当社ご由緒書を掲げ、町神輿や山車等と共に展示してある。)
以上である。
櫻田神社の概要
櫻田神社の由緒
櫻田神社は、源頼朝の命により渋谷庄司重国が霞山桜田明神として霞ヶ関桜田門外に鎮座、文明年中(1461-86)大田道灌當社を再興、慶長の頃櫻田溜池の台へ遷座。寛永元年(1624)麻布へ遷座したといいます。旧地名より霞山明神・霞山神社とも称されていたといいます。明治5年村社に指定、明治28年社號を霞山稲荷神社から櫻田神社へ改めたといいます。
「東京都神社名鑑」による櫻田神社の由緒
治承四年(一一八〇)十一月源頼朝の令により、武蔵国の住人渋谷庄司重国奉行として、霞山桜田明神として霞ヶ関桜田門外に御鎮座、文明年間(一四六一-八六)、太田道灌は、当社の有難い縁起を伝え聞き、ただちに神殿を改修再興し、地領の守護神として崇敬し、太刀甲胃等を寄進し、永く当社の宝物として伝えられたが、「青山火事」により焼失したそうである。当社は永く霞ヶ関に鎮座していたが、徳川氏入国以来、諸大名屋敷ができるようになったため寛永元年(一六二四)に戦前の麻布桜田町、現在西麻布三丁目に遷られた。なお、文治五年(一一八九)秋頼朝公奥州平討の報賽の祭を行ない神供料として三十貫の田地を寄進、一般農家の田と御神田とを区別するため御神田の畔ごとに桜の木を植えた。それが春ごとに桜花が繁り、人びとが御神田を「桜田」と唱え、付近農民も住地を「桜田村」と称するようになった。(なお現西新橋一帯、芝桜田は旧桜田村の名残で、現今も当社の氏子になっており、当社の旧名をとどめていた。)(「東京都神社名鑑」より)
「麻布區史」による櫻田神社の由緒
櫻田神社(村社)櫻田町八二
祭神豊宇迦能賈神、合殿に天照大神・大宮女神・天御柱神・國御柱神・加茂大神を祀る。大祭は九月二十一日、二十二日。
古くは霞山稲荷大明神と稱し、治承四年十一月澁谷庄司重國が霞ヶ關に創立したもので、後元和に至つて溜池に遷座したことが縁起に載つてゐる。同縁起に據ると重國麻布郷に狩し諸卒を具して霞ヶ關の霞山石窟前にいたり、枯草を集めて焼きたる時、中より白狐現はれ天に向つて気を吹上ること三丈許、中に十一面観音の忽然と現じ給ふと拝して大いに愕き、これを頼朝に言上し稲荷大明神に勧請したと云ふ。その後頼朝は三十貫文の神領を寄せ、又長禄元年太田道灌は領地の守護神として崇敬した。
『江戸往古圖説』に「渋谷庄司重國勧請文明中太田道灌再興又頼朝公の時櫻田村美田五百七拾石寄附、御供田の印に櫻木多く植ゑられ又要害を構へ江戸太郎重長に守らしめ往来を改めしむと云ふ。夫よりはるか後此地を麻布へ社と共に移され今の麻布(櫻田町百姓町)是也」云々とある。現在の地に遷たのは寛永元年頃で、別當観明院には新田式部大輔義國守本尊と傳へる荼枳尼天が、本地佛として安置されてゐた。寺は明治初年神佛分離の際廢棄されてしまつた。明治五年十一月五日村社に指定され、二十八年十月十八日霞山稲荷神社の社號を現稱に改めた。社殿は破風造である。
氏子は二千七百四十餘戸、その範圍は麻布區櫻田町・霞町・笄町一部・材木町一部より芝區新櫻田町・田村町一、二丁目一部(舊櫻田久保町・善右衛門町・新櫻田町・太左衛門町の一部)・太左衛門町の地域に亘つてゐる。(「麻布區史」より)
「東京名所図会」による櫻田神社の由緒
霞山神社
霞山神社は。麻布櫻田町八十二番地に在り。道路の西畔にして石の鳥居に櫻田總鎮守の額を掲げ。表門は萱索をゆひ。下総香取きやうふう虫御守としるしたる標札あり。門を入りて左に神輿倉を認む。次に又石の鳥居あり。ここには霞山櫻田神社と扁せり。左に天満宮(舊稱を襲ふてかく記しあり宜しく菅原大神と改むべし)三峰大神の合祀。右に神楽殿あり。正面は社殿にて。素木破風造り銅瓦なり。霞山社と題する扁額は。従三位出雲(千家)尊福書と見え。奥にも櫻田大神の扁額を掲ぐ。社前には二基の銅製貯水函と。双狐兩狗の石像を配置せり。
當社もとは霞山稲荷と稱し。観明院(霞山櫻田寺と稱し天台宗なり)之が別當たり。明治更革後神官之に奉仕す。
縁起に云。當社は武蔵の國の住人澁谷庄司重國の草創なり。東鑑に云。治承五年十一月下旬。頼朝公狩場歴覧の為め。稲毛の郷に出御。晩景に及びて。野狐御馬の前へ走り出る。頼朝公矢を放ち玉ふ。千葉四郎胤信の侍笹山丹三供奉し。同時に矢を放つ。再三が矢是にあたる。次の日又麻布の郷に狩し。直に霞山の麓に至る。爰に獣の穴あり。焼狩にせんと草を集む。運ぶ者一人俄に狂亂し。神の告あるにより。頼朝是を聞し召し。自今焼狩毒流を停止あり。霞山に社を建て稲荷神と崇む。其後右大将家天下を治め給ひ。諸國に守護を置き庄園に地頭をすえ。奥州街道は隅田川を限り。霞山のふもとに要害を構へ。霞か關と名づけ。江戸太郎重長是を預り。往還を改む。時に新田式部太輔義國(足利義國なり。義家の子新田にあらず。社傳の説誤まれり)の守本尊(行基作七寸)ダキニ天の像を秩父重康内陣に安置し奉る。其頃鎌倉高の嶽神武寺の住僧義慶の弟子観明院秀慶と云有験の僧あり。彼の重國在鎌倉の時。是を尊て我領霞山にいざなひ。稲荷の別當職とし。観明院と號す。かの僧相州江の島に至り。春日の作長三尺一寸の観音の像を得たり。是源頼義の守本尊たるよし異人是を告ぐ。即り稲荷の本地佛とす。文治五年頼朝公伊達泰衡退治の時。御立願ありて今之櫻田村五百七十石の所を御寄附。御供田のしるしに櫻木を植たる故。世人櫻田といふ。文明年中大田道灌當社を再興す。慶長の頃櫻田溜池の臺へ當社を移す。寛永元年又麻布へ遷座し奉る。もと霞山櫻田より此所に遷座せしより。霞山櫻田の稲荷と號し。所を櫻田町と改むと云々。
是は舊縁起にて僧侶の手に成りしものなれば。信じ難き所あり。現在奉仕の神官に照會したれども。未だ回答に接せざるを以て。姑く之を掲げたり。(「東京名所図会」より)
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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