2014年12月9日火曜日

千代田区・港区(3)


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 千代田区・港区(3)

 六本木町:ろっぽんぎちょう(港区)

  【近代】明治2年~昭和42年の町名。

  ~松の木が6本あったことから付けられた龍土六本木町・飯倉六本木町 
  の名称を継承。

 龍土:りゅうど(港区)

  元海に面した芝愛宕西久保辺りに漁師が多く居住した猟人(りょうど)村
 
  があったが、元和年間猟人村が御料地となり、

  麻布領内に代地を拝領し移住した際

  移住先の村名を龍土と改めたと伝える(新編武蔵)。

 麻布:あざぶ(港区)

  阿佐布(役帳)、安座部(江戸名所記)、浅布(江戸雀)、

  浅生、麻生(再校砂子)とも書く。

  白金台北方の台上と周辺に位置し、

  由来は

  麻が生えていたから麻生、

  麻布を生産したため、

  浅茅生が浅生となったという説などがある

  (砂子・新編江戸志・温故名跡志など)。

  「麻布」の初出は元禄3年(1690)の「江戸図鑑網目」であるが、

  「書上」は正徳3年(1713)頃麻布と書き換えたという。

  【中世】戦国期にみえる地名。豊島郡白金郷に属す。

  初見は永禄年間(1558~70)の「役帳」で、

  小田原北条氏の家臣御馬廻衆の狩野大膳亮の

  所領「五拾三貫弐百文 江戸阿佐布」とみえ、

  他に江戸衆の島津孫四郎

  「三拾八貫百五拾文 飯倉内桜田 善福寺分」とある。

  【近世】阿佐布村 江戸初期の村名。

 渋谷区:しぶやく

  金王社と渋谷氏、渋谷区3丁目の金王(こんのう)八幡社は

  渋谷八幡宮とも別称され、寛治6年(1092)源義家が、

  後三年の役を平定して凱旋の途上に勧請したという

  (金王八幡神社社記)。

  金王八幡と称するのは、

  武蔵渋谷氏の祖と伝える渋谷金王丸の氏神であったところに

  由来し(文政寺社書上)、

  同社は金王丸の館址の遺構の一部という(江戸砂子)。

  金王八幡宮の別当寺東福寺の梵鐘の銘によれば、

  平安末期にはこの地域に谷盛荘(やもりのしょう)があり、

  その7郷の一つに渋谷郷がみえるが明らかではない。

 谷盛荘:やもりのしょう(渋谷区)

  【近世】「新編武蔵」にみえる荘名。荏原郡渋谷郷のうち。

  上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村、渋谷宮盛町在方、

  上豊沢村、中豊沢村、下豊沢村、隠田(おんでん)村を

  含む(新編武蔵)。

  中世以来、矢盛七郷といわれ、

  渋谷氏が支配した土地である(東京都の歴史)。

  荘内には四谷上水、三田用水が貫流、今の渋谷区東部一帯を占める。


 芝:芝(港区)

  柴とも書く(武文)。

  東京湾に臨み、海岸に沿って東海道が通り、

  中世から芝浦と総称されていた。

  地名の由来は古くから芝の生えた地であったことによる

  という説がある(地名辞書)。

  永享6年(1434)の古文書に芝原とみえ、

  文明年間(1469~87)の「平安紀行」に、芝という所に過ぐるとて

  「つゆしげき道のしばふをふみちらし駒にまかする明くれの宝」、

  「廻国雑記」には

  「芝の浦といえる所にいたりければ、

   塩屋の煙うち靡きてものさびしきに塩木 運ぶ船どもを見て、

   やりぬよりもしほの煙名にぞたつ舟にこりつむ芝の浦人」

  と記している。

  中世では江戸湾の重要な港の一つであった。



  【中世】柴村 戦国期にみえる郷村名。荏原郡に属す。

  永禄年間(1558~70)の役帳には見えず、

  天文23年7月12日、小田原北条氏は虎印判状をもって、

  柴金曽木(しばかなすぎ)の船持中に宛てて、

  舟方条目を出し、船の売買を禁じ、~。

 三田:みた(港区、目黒区)

  御田、箕多、美田、美多、弥陀などとも書く。

  目黒川河流の北東岸に位置する。

  地名の由来は、朝廷の直轄領としての屯倉説や、

  伊勢神宮の御田としての神田説、

  一般に公田を御田というとする公田説などがある。

  古代の荏原郡9郷の1(和名類聚抄)。

  【中世】三田郷、戦国期にみえる郷村名。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年12月6日土曜日

千代田区・港区(2)


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 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 千代田区・港区(2)

 麹町(2)

  天正年間までは藪野で徳川氏入国当時は矢部村といったと伝え、

  草分け名主の矢部氏は二丁目に居住、

  府中・江戸間の運送業者を支配して

  旗本の生活物資供給を役としたという(切絵図・画報)。

  <矢部氏は明治期麹区の初代区長>

 愛宕山:あたごやま(港区)

  港区芝愛宕町1丁目にある山。標高26㍍。

  武蔵野台地末端の小丘。

  江戸期は江戸に近く虎ノ門・御成門の間に位置する。

  山上に愛宕神社があり~。

  愛宕神社(現、港区愛宕1丁目)愛宕山に鎮座する。

   祭神は火産霊命・罔象女命・日本武尊。

   芝愛宕1丁目愛宕社同8年(慶長8年(1602))より当地にあり~。

 永田町:ながたちょう(千代田区)

  明治2年~昭和42年の町名。

  皇居の西南に位置し、港区に隣接。

  町名の由来は往古、

  地内の日枝社門前に永田姓を名乗る家が3家あったためというが

  未詳(府志料)。

  江戸期は日枝社門前一帯の武家地を永田馬場と俗称。

  永田馬場彦根藩邸附近には桜が井、柳が井の2名泉があり、

  また、日枝社社叢をはじめ一帯は桜の名所として

  江戸庶民の散策の場でもあった(江戸名所・画報)。

 虎ノ門:とらのもん(港区)江戸期からの地域称。

  江戸城南方の外郭門の一つで、附近の里俗称として用いられた。

  由来は

  「千里ゆくとも無事にて千里を帰る」

  といわれる虎に因んだ説(新編江戸志)。

  昔朝鮮から虎をもってきたとき、その檻が大きくてはいれないので

  門柱を大きく改造して名付けた説、

  門内の内藤邸内に虎の尾という種類の桜の木があり、

  虎の尾門が略されたとする説(画報)。

  四神思想に因む城郭の設計上、右白虎に相当する方角の門なので、

  虎ノ門となったとする説(備考・画報)がある。

 鳥居坂:とりいざか(港区)

  港区六本木5丁目の中央を南北に通じる坂。鳥井坂とも書く。

  元は麻布鳥居坂町と麻布東鳥居坂町との境をなしていた。

  坂名の由来について

  「砂子は慶長のころ、この土地は鳥居彦右衛門に賜いしところとなり、

   よりてかく鳥居坂の名あり」とし、

  画報は

  「一説に麻布氷川神社むかし大社にて二の鳥居此処にありしを

   もって称し来たれりと」としている。 

 飯倉:いいぐら(港区)

  芝浦海岸に面し、国道1号に沿う。

  地名の由来は3説あり、

  第1は諸国に屯倉を設置した際の米殻蔵に由来するというもの

  (砂子・江府神社略記、備考続編)。

  第2は文武天皇の時、諸国に義蔵を設けたことによる(新編武蔵)。

  第3は当地にある芝丸山古墳が飯を盛った形で、

  飯座が飯倉に転訛したとする説(地名辞書)などがある。

  附近には平安期の住居址が発見されていて、

  古海道沿いの集落が早くから開けていたと思われる。

  平安末期には伊勢神宮の御厨が置かれた。

  【中世】飯倉郷、戦国期にみえる郷名。豊島郡に属す。

 飯倉六本木町:いいぐらろっぽんぎちょう(港区) 

  江戸期~明治2年の町名。起立年代不明。

  飯倉10か町のうち、寛文2年(1662)町奉行・代官両支配となる。

  町名は往古、この辺りに松の大木が6本あったことに因み、」

  町方支配となった時につけられたという。

 百姓町〔江戸名所図絵〕霞山稲荷明神。

  【割注】今麻布櫻田町、百姓町抔(など)號くるは、則櫻田より

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
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2014年12月4日木曜日

千代田区・港区(1)


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     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 千代田区・港区(1)

 「和名類聚抄」武蔵国荏原郡(日本歴史地名大系)

  美田郷:「和名抄」所載の郷。

   同書東急本には「御田」とあり、高山寺本は訓を「三多」と訓じる。

   武蔵国国分寺瓦に「三田」とヘラ書したものがある。

   現港区三田および現目黒区三田を遺称地とし、目黒区三田、

   現品川区大崎、港区三田にかけての一帯を郷域としたと

   推察される。

   御田・美田の由来について朝廷の直轄領地である屯倉説や

   伊勢神宮の神田説、公領を意味する公田説などが説かれている。

  木田郷:「和名抄」所載の郷。

   同書高山寺本に「支太」、東急本に「木多」、名博本に「キタ」と訓じる。

   武蔵国国分寺瓦に「木田」とヘラ書されたものがある。

   当郷の有力者が国分寺(現国分寺市)へ

   献納する瓦を焼かせて」いたのであろう。

   「風土記稿」は

   現世田谷区域の上北沢・下北沢の北が

   遺称地名に係わるとする説を紹介し、おぼつか無しとしている。

   「大日本地名辞書」は「和名抄」において

   美田郷の次に記載されていることを根拠に、美田の北郷と解釈し、

   現目黒区、現港区高輪、白金にかけての辺りに推測しているが、

   依拠ありとはいえない。

  桜田郷:「和名抄」所載の郷。 

   同書高山寺本と「左久良多」、東急本に「左久良太」、

   名博本に「サクラタ」と訓じる。

   戦国期にみえる桜田が遺称地名で、現千代田区の南部に当たる。

   江戸城の外郭門である桜田門もこの地名に係わる名称である。

 霞坂:かすみさか(港区)港区西麻布1・3丁目の境をなす坂。

  高速3号の下を西南にくだる。

  元の麻布霞町の中央部を通る坂であった。

 霞の関:かすみのせき(新宿区)【近世】江戸期の俗称地名。

  豊島郡野方領千駄谷村北部一帯の地名。

  古くは霞村といい、奥州街道の関屋があったのに因む。

  旭の関ともいったが、その由来は不詳。現行の霞岳町一帯。

  現在の国立競技場の地に霞の松、また遊女の松と称した名木があった。

 霞岳町:かすみがおかまち(新宿区)

  【近代】明治24年~現在の町名。明治44年まで四谷を冠称。

  もとは千駄谷村霞ヶ丘、川向、甲賀町。

 霞ヶ関:かすみがせき(千代田区)

  【近代】明治5年~昭和42年の町名。

  地名の由来は江戸期以前荏原郡の東境にあった

  奥州街道の関名によるといい、日本武尊が蝦夷に備えて設けたもので

  雲霞を隔てる眺望の地であったことからつけられたよいう

  伝説がある(武蔵野地名考)。

  藤原為世の

  「おなじくは空に霞の関もがな雲路の雁しばしとどめむ」(続千載集)の

  歌をはじめ、宗祇は「霞が関は西より流れたり」(名所方角抄)と記し、
 
  「秋の寝覚」には「霞ヶ関、さくら、呼ぶ鳥、雁」とあるなど

  歌枕の地として多くの和歌に詠まれた。

 霞山:かすみやま(千代田区)〔江戸名所図絵〕霞山、霞山稲荷神社

 麹町:こうじまち(新宿区、千代田区)

  【近世~近代】江戸期~現在の町名。

  小路町、糀町とも書いた。

  江戸期は西は半蔵門外の内濠から外濠を挟んで

  四谷・赤坂見附に及ぶ地域で、町域の中央を甲州街道(新宿通り)が

  東西に貫通。

  地名の由来は麹製造業者が多かったためとも(江戸方角註解・府志料)。

  「東西髪の如」き小路町の意とも(江戸繁昌記・麹街略誌稿)。

  武蔵国府(府中市)と江戸湊を結ぶ街道上の町で、

  国府路町の転化とも(府志料)いう。
 
《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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 高床式神殿
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2014年11月29日土曜日

木田郷:藪(矢部)・虎・鳥居・麻布・六本木


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 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 木田郷:藪(矢部)・虎・鳥居・麻布・六本木

 藪野「やぶの」戦国時代天正年間までの麹町付近の呼称。

  矢部氏・矢部村(徳川入国時には矢部村)

   矢部氏はそれ以前よりの郷士で、江戸時代は名主。
 
   明治維新になって初代の麹町区長を務めた。

  藪「やぶ」=矢部「ヤブ(ベ)」

   「ヤブ」(Heb.),יִפֻי,YPVY,yipuy 美しいこと、美化、装飾

   「ヤベ」(Heb.),יַפֶה,YFH,yafeh 美しい、きれい、見事な

   これらヘブライ語の「美しい」「きれい」「装飾」「見事な」は

   霞山の広い地域に桑が植えられ、その桑畑で蚕が飼われ、

   枝々に繭が架けられた状況を形容したもの。

   つまり、矢部氏はヘブライ語を理解していた。

 虎「トラ」(虎ノ門の「虎」)〔港区〕

  「トラ」(Heb.),תָלִַַת,TVLIT,tolaiat 虫、毛虫、つまり「蚕の虫」

    ◎蚕(かいこ)は小さな幼虫の時、毛がある。

 鳥居「トリイ」(鳥居坂:港区六本木)

  「トリイ」(Heb.),תָלִת,TVLIT,tolit  虫、毛虫、つまり「虎」と同根の転訛。

 麻布(港区)

  阿佐布(役帳)、安座部(江戸名所記)、浅府(江戸雀)、

  浅生・浅府(再校砂子)

  「アサブ」「アサフ」

  (Heb.),ִַסַה,IsH,iasah 

   雌蛾、つまり「蚕のサナギからかえった(孵化した)蛾の雌」

  (Heb.),ִַסה,Ish,iash 蛾、-Hが添えられることにより、

       その語義が女性名あるいは雌となる。

  ※雌蛾は「蚕」を増やすに与って卵を生んでくれる大事な「虫」である。

 六本木(港区)<かって大きな松の木が6本あった。一本松の地もあった>

  「ロッポン・木」

  (Heb.),לָוָנ,LVN,lovon 

   白い、白色の、つまり「六本木」は「白い木」にして「白木」

  (Heb.),לָוֶנ,LVN,loven 白色、白
 
 飯倉(港区麻布台の字名、中世戦国期飯倉郷)

  「イイクラ」

  (Heb.),ִיכהר,AYkhR,iykhr 農夫、百姓

  江戸時代 麻布百姓町、麻布桜田町の近辺〔江戸名所図絵〕

 渋谷(渋谷区、平安時代末期の谷盛荘のうちに渋谷郷)

  「シブヤ」

  (Heb.),תסֶוִיַה,TsVYIH,tseviyah 染色、色付け、着色

  (Heb.),תסַבִַ,TsBI,tsabai 染色師

  (Heb.),תסֶוִַ,TsVI,tsevai 染料、着色剤、色

  (Heb.תסַוִַ,TsVI,tsavai 染める、着色する、色を塗る

   ※この地域の渋谷川(古川)を利用して緜帛布の染色をしていた

    職工たちがいたのである。

    (現在、渋谷はファッションの街として好かれている。

     伝統が生きている)

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2014年11月27日木曜日

木田郷:麹町・霞・千代田・永田


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     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 木田郷:麹町・霞・千代田・永田

 木田郷「支太」(高山寺本)、「木多」(東急本)、「キタ」(名博本)

 ※同郷の記載順は美田郷と櫻田郷の間である。

  よって同郷の地域は現在の港区三田と千代田区霞ヶ関の皇居に面する

  桜田門あるいは桜田濠周辺との中間か、

  それより幾分西側の辺りと想定される。

 木田「キタ」(Sk.)kita 昆虫【漢訳】虫、蟻、蛇

  ◎桜田・御田両郷の祖語がSk.に由来するので、

   この、「キタ」が同じくSk.が祖語であることに相違ない。

  ※「キタ」は実は「蠶・蚕・かいこ」を通称したもので、

   この一帯で、愛宕山(神社)を奉祭した倭人の系譜の人々が

   養蚕を行っていたとの証左となる。

   kita-ja 絹、

   kiti-ja 絹絲、

   これらの用語から「北野(きたの)京都市北区」が生まれた。

   同地は秦氏の本拠地太秦(うずまさ)に近く、

   西陣職に係わる繭の産地と考えられる。

 麹町「コウジ」(倭語<和語>)

       kho-si 〔白い-木〕あるいは〔白い-林〕白林

  ※古代においては、絹を得るための養蚕は天蚕、

   つまり「かいこ」を桑の木または桑林(畑)に直接放し飼いし、

   小さな幼虫が桑の葉を食べ、次第に成長し、

   白い繭を作って「さなぎ」になる頃には、

   緑の桑葉はほとんど無くなり、桑木は白い繭ばかりとなる。

   これを「白木」と称することができるし、

   また桑は1本だけであるはずもなく、

   いわゆる「林」状態であるから「白林」となる。

   よって、麹町周辺ではそのような天蚕が本来行われていたのである。

   (Sk.)kośa 繭、

      kauśa 絹の、
    
      kauśika 絹の、絹、絹の布帛なたは衣服

      kauśeya 絹の、絹の衣服

   【漢訳】虫衣

 霞「カスミ」(霞ヶ関、霞山、霞坂、霞村/霞岳)

 (和語/倭語)

  kho-sj-mehe-su-me]:[白い-木-帛]白木の帛(絹の布・真緜)

  霞ヶ関・霞山(千代田区の同地名、虎ノ門、永田町、千代田[皇居]辺り)

  霞坂(港区西麻布1・3丁目辺り)、


  霞村/霞岳(新宿区)とこの地域の広い」丘陵地帯で天


  蚕により繭あるいは帛布(真緜)を採取していたのである。

  ※平安時代「霞」という関所があった。

  ある伝によると日本武尊の東征に係わるという。


 千代田・永田(千代田区)

  「田」は「田圃」(水田)ではなく「畑」で「はた」を表わす。

   永田「ナガ・田」輝く畑<繭で白く光る畑>

    (Heb.),נַגַהֻ,NGH,nagahu 光、輝き、光輝

   千代田「チヨ・田」輝く畑<繭で白く光る畑>

    (Heb.),זִיֻ,ZYV,ziyu 光、輝き、光輝、栄光

    (Heb.),זָהֶר,ZVHR,zoher 輝く、ぴかぴか光る。

  ※「千代田」とは蚕が作った繭によって

   桑畑(桑林)が白く光輝いている様子をいったもの。

  ※霞山:帛(繭)で白く輝いている桑の木が多くある山

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2014年11月26日水曜日

愛宕③


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 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 「愛宕下町一丁目」(現)港区新橋三丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、烏森町の南にあたる。

 幕末には上野伊勢崎藩酒井家上屋敷・御所院番頭大島家屋敷・

 御小姓番頭水野家屋敷が置かれていた。

 江戸期を通して武家地で、寛永年間(1624-44)より毛利長門守下屋敷・

 大島茂平屋敷をはじめ五家の屋敷地として割られていた。

 元禄(1688-1704)以降能勢・大島・高木の三家の屋敷地となり、

 大島家以外は拝領主の変更はあるが

 屋敷割は幕末まで変わらなかった(寛永江戸図・沿革図書)

 愛宕下とは愛宕山の麓の意で愛宕の下ともいう。

 愛宕山の北東、新(あたら)シ橋の南にあたる武家地、

 藪小路・三斉小路・佐久間小路・田村小路・秋田小路・

 鎧小路辺りから烏森辺りまでを愛宕下と呼んだ

 (語府内備考・再訂江戸惣鹿子新増大全)。

 また愛宕下町の西を南北に通る大通りを愛宕下大名小路という。

 江戸の町には大名小路とよばれた所がいくつかあり、

 ほかと区別するために愛宕下を冠りした。

 明治以降には赤煉瓦通ともよばれていた(芝区誌)。

 明治維新後は華族の保科家や同池田家の邸宅があった。

 (東京府志料)。


 「愛宕下町二丁目」(現)港区新橋三-四丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、愛宕下町一丁目の南にあたる。

 愛宕下大名小路の東、日陰町通の西に位置し、

 幕末には長門清末藩毛利家上屋敷・備前岡山藩松平家添屋敷・

 近江水口藩加藤家中屋敷・交代寄合本堂家屋敷・

 御先鉄砲頭本多家屋敷が置かれていた。

 寛永江戸図に本堂伊勢・大島久三郎らの屋敷がみられる。

 以後も大名・旗本の屋敷地が置かれ、幕末まで武家地であった。

 (沿革図書)

 明治維新後華族本堂家の邸宅や勧学義塾など置かれていた。

 大名小路は明治以降赤煉瓦通とよばれており、

 当町に建設された赤煉瓦造の勤工場に由来するという
 
 (芝家具の百年始史・芝区誌)。

 田村町に接する西側は明治に入ると洋家具の製造が盛んとなった

 芝家具とよばれ広く知られている。

 日陰町通側は明治維新前より

 伽羅湯・書籍・毛抜・剃刀・古着屋・剣術道具・錦絵などを

 商う店が多く、維新後も洋服店・古着屋などが軒を連ねる裏小路であった

 (「芝区誌」「港区史」など)。


 「愛宕下町三丁目」(現)港区新橋四-五丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、愛宕下町二丁目の南に続く。

 愛宕下大名小路の東側一角を占め、幕末には常陸下妻藩井上家上屋敷・

 寄合大久保家屋敷・御目付遠山家屋敷などが置かれていた。

 寛永江戸図では本多因幡、寛文新版江戸図絵では

 掘飛騨・桑山修理の屋敷が割られている。

 以降も大名・旗本などの屋敷が置かれ、

 江戸期を通して武家地であった。

 天保元年(1830)の図以降北東部にみえる遠山金四郎は

 講談等で名奉行として知られる遠山景元(沿革図書・屋敷書抜など)。

 明治維新後は華族井上家邸・鳴門学舎などが置かれている。

 愛宕下町二丁目と同様に洋家具製造が盛んであった

 (「芝区誌」「港区史」など)。



 「愛宕下町四丁目」(現)港区新橋五-六丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、愛宕下三丁目の南にあたる。

 増上寺の南、愛宕下大名小路の東側に位置し、

 幕末には陸奥仙台藩伊達家中屋敷・大和柳生藩柳生家上屋敷・

 信濃小諸藩牧野家上屋敷が置かれていた。

 江戸期を通して武家地で、

 寛永江戸図には「正宗中やしき」(仙台藩中屋敷)と

 「毛利長門守下やしき」(長門萩藩下屋敷)がみえる。

 仙台藩中屋敷は幕末まで当地に置かれているが、

 萩藩下屋敷は寛文新版江戸絵図ではみられず、

 松平帯刀と伊達兵部少輔の屋敷地となっている。

 松平屋敷地は宝永年間(1704-11) に豊後藩中川家中屋敷となり、

 天保7年(1836)柳生家が拝領し上屋敷とした。

 伊達兵部少輔屋敷地は延宝3年(1675)に収公され

 仙台藩下屋敷となるが、

 元禄8年(1695)相対替により越前丸岡藩有馬家上屋敷となる。

 同上屋敷は文久2年(1862)に八代洲河岸(現千代田区)へ移転し、

 跡地は陸奥泉藩本多家が上屋敷に拝領するが同3年に収公され、

 小諸藩上屋敷となった(屋敷書抜・年録・沿革図書など)。



  仙台藩中屋敷内には塩竃神社があった。

 四代藩主伊達綱村が元禄8年陸奥国一宮塩竃神社の分霊を

 藩邸鎮守のため芝の邸内に勧請したのが始まりで、

 安政3年(1856)に中屋敷に移した。

 同年夏より毎月10日に一般の参詣を許したという

 (武江年表・港区史・新撰東京名所図会)。

 明治維新後には桜川学校(後の桜川小学校)、

 東京美術倶楽部などがあった。

 昭和5年(1930)塩竃神社に付随して造られた

 塩竃公園(現港区立塩釜公園)は

 開園当時区内唯一の町立公園であった(芝区誌)。
 
《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年11月24日月曜日

愛宕②


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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 「琴平町」(現)港区虎ノ門一丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、北は今入町。

 虎門・新(あたら)シ橋の南にあたり、

 東は愛宕下通、南は藪小路を限り、西には外堀が巡る。

 古くからの武家地で、讃岐丸亀藩京極家(上屋敷)・

 豊後日出藩木下家(上屋敷)・肥後人吉藩相良家(上屋敷)・

 旗本谷家などは延宝年間(1673-81)から当地に居を構えている。

 幕末にはこの四家に加え

 北西の堀端二千三五九坪が勘定奉行役宅となっている(沿革図書など)。

 京極家上屋敷内には金刀比羅(ことひら)宮があり、

 1月10日を初金刀比羅として毎月10日が縁日であった。

 同宮は万治元年(1658)京極高知が領内の

 金刀比羅大神(現香川県琴平町)の分霊を三田の藩邸に勧請したもので、

 延宝7年に屋敷地が虎御門外へ移された際社地も移転した。

 一般の人々に参詣を許すようになったのは文化年間(1804-18)の末、

 金刀比羅大権現として創建してからのことで、

 同宮に禁酒を誓うという風習は

 江戸時代から行われていたという(港区史)。

 「東都歳時記」によると縁日には近鄙より多くの参詣人が訪れ、

 植木などの諸商人が市を開いていた。

 明治維新後は同宮への参詣者を当込み飲食店や雑貨商が増え、

 一種の新生門前町の様相を呈した。

 明治7年に読売新聞社の前身である日就社が創業を始めている(港区史)。


 「西久保桜川町」(現)港区虎ノ門一丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、琴平町の南にある。

 虎門外の南、愛宕下および西久保にあたる。

 町名は町の中ほどと東方に流れる

 桜川が流れることに由来するという(新撰東京名所図絵)。

 当所は古くから武家地として整備され、

 延宝年間(1673-82)には既に肥後宇土藩細川家屋敷地をはじめ

 大名・旗本の屋敷地となっている。

 その後拝領主・屋敷割などには変化はみられるが、

 江戸時代を通して武家地として変ることはなかった。

 幕末には

 当所北西の愛宕下通沿い、北は藪小路、南は三齋小路までの地所には

 近江水口藩加藤家上屋敷、愛宕下通沿いの三齋小路南には

 信濃松代藩真田家中屋敷、その西隣には信濃松本藩松平家中屋敷、

 北側下部小路通沿いの西から二軒目には

 駿河沼津藩水野家下屋敷が置かれ、

 その他旗本・御家人の屋敷が置かれていた(沿革図書)。

 藪小路は既に「紫の一本」にみえ、

 細川丹後守行孝(宇土藩初代藩主)屋敷地に

 わずかな竹薮があったことに由来し、

 将軍家秘蔵の鷹がこの藪で死んだことから竹を切らかなかったいう。

 三齋小路は加藤家上屋敷が

 かって細川三齋(細川忠興)屋敷地であったことによるという。

 南側には鎧(えい)小路があるが、名称の由来は不明(御府内備考)。



 「西久保明船町」(現)港区虎ノ門二丁目

  明治2年(1869)に成立した町で、西久保桜川町の西に位置する。

 虎門外の南、西久保通沿いの西側、藪小路の南にあたる。

 当所は古くから武家地で、

 延宝年間(1673-81)には既に幕臣の屋敷地となっていた。

 幕末は丹波篠山藩青山家下屋敷のほかは中奥御番能勢家・

 小普請組支配奥田家・御使番土方家・天守番頭増田家・内藤家・

 交代寄合竹中家・書院番仙石家・同伊奈家と

 すべて旗本の屋敷地となっている。

 能勢家・奥田家・土方家・内藤家・竹中家の屋敷地は

 延宝年間から存続していた沿革図書)。

 慶應3年(1867)7月、

 鉄砲洲(現中央区)を外国人居留地とした際に用地になった

 明石町・船松町二丁目が当所へ移転、

 明治維新後幕臣が去ると芝車町・伊皿子七軒町・

 三田功雲寺門前・三田台町一丁目などの代地となり、

 明治2年に明石町・船松町の町名より一字ずつをとって

 町名を明船町とした。

 同5年には近隣の旧武家地も合併した。

 船松町からとった町名であるため「明船町」であるはずであり、

 「東京府志料」にも同様に記されるが、

 古い戸籍簿には「明舟町」となっている。

 文字を改め時期・理由などは不明(港区史)。

 
 
 「西久保巴町」(現)港区虎ノ門三丁目 

  明治2年(1869)に設立した町で、

 江戸見坂の東側、西久保明船町の南に位置し、

 東は芝愛宕町一丁目。

 古くは一円武家地で、延宝年間(1673-81)の図では

 牧野家・朽木家・石尾家・林家などの屋敷地が置かれていた。

 元禄10年(1697)南北に通る西久保通沿いの

 牧野家・朽木家屋敷跡に下谷町・車坂町(現台東区)が代地を与えられた。

 両町の西は牧野老之助や敷地、

 以下…略…。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ