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『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
《課題》江戸の古代を解明する
―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―
「愛宕下町一丁目」(現)港区新橋三丁目
明治5年(1872)に成立した町で、烏森町の南にあたる。
幕末には上野伊勢崎藩酒井家上屋敷・御所院番頭大島家屋敷・
御小姓番頭水野家屋敷が置かれていた。
江戸期を通して武家地で、寛永年間(1624-44)より毛利長門守下屋敷・
大島茂平屋敷をはじめ五家の屋敷地として割られていた。
元禄(1688-1704)以降能勢・大島・高木の三家の屋敷地となり、
大島家以外は拝領主の変更はあるが
屋敷割は幕末まで変わらなかった(寛永江戸図・沿革図書)
愛宕下とは愛宕山の麓の意で愛宕の下ともいう。
愛宕山の北東、新(あたら)シ橋の南にあたる武家地、
藪小路・三斉小路・佐久間小路・田村小路・秋田小路・
鎧小路辺りから烏森辺りまでを愛宕下と呼んだ
(語府内備考・再訂江戸惣鹿子新増大全)。
また愛宕下町の西を南北に通る大通りを愛宕下大名小路という。
江戸の町には大名小路とよばれた所がいくつかあり、
ほかと区別するために愛宕下を冠りした。
明治以降には赤煉瓦通ともよばれていた(芝区誌)。
明治維新後は華族の保科家や同池田家の邸宅があった。
(東京府志料)。
「愛宕下町二丁目」(現)港区新橋三-四丁目
明治5年(1872)に成立した町で、愛宕下町一丁目の南にあたる。
愛宕下大名小路の東、日陰町通の西に位置し、
幕末には長門清末藩毛利家上屋敷・備前岡山藩松平家添屋敷・
近江水口藩加藤家中屋敷・交代寄合本堂家屋敷・
御先鉄砲頭本多家屋敷が置かれていた。
寛永江戸図に本堂伊勢・大島久三郎らの屋敷がみられる。
以後も大名・旗本の屋敷地が置かれ、幕末まで武家地であった。
(沿革図書)
明治維新後華族本堂家の邸宅や勧学義塾など置かれていた。
大名小路は明治以降赤煉瓦通とよばれており、
当町に建設された赤煉瓦造の勤工場に由来するという
(芝家具の百年始史・芝区誌)。
田村町に接する西側は明治に入ると洋家具の製造が盛んとなった
芝家具とよばれ広く知られている。
日陰町通側は明治維新前より
伽羅湯・書籍・毛抜・剃刀・古着屋・剣術道具・錦絵などを
商う店が多く、維新後も洋服店・古着屋などが軒を連ねる裏小路であった
(「芝区誌」「港区史」など)。
「愛宕下町三丁目」(現)港区新橋四-五丁目
明治5年(1872)に成立した町で、愛宕下町二丁目の南に続く。
愛宕下大名小路の東側一角を占め、幕末には常陸下妻藩井上家上屋敷・
寄合大久保家屋敷・御目付遠山家屋敷などが置かれていた。
寛永江戸図では本多因幡、寛文新版江戸図絵では
掘飛騨・桑山修理の屋敷が割られている。
以降も大名・旗本などの屋敷が置かれ、
江戸期を通して武家地であった。
天保元年(1830)の図以降北東部にみえる遠山金四郎は
講談等で名奉行として知られる遠山景元(沿革図書・屋敷書抜など)。
明治維新後は華族井上家邸・鳴門学舎などが置かれている。
愛宕下町二丁目と同様に洋家具製造が盛んであった
(「芝区誌」「港区史」など)。
「愛宕下町四丁目」(現)港区新橋五-六丁目
明治5年(1872)に成立した町で、愛宕下三丁目の南にあたる。
増上寺の南、愛宕下大名小路の東側に位置し、
幕末には陸奥仙台藩伊達家中屋敷・大和柳生藩柳生家上屋敷・
信濃小諸藩牧野家上屋敷が置かれていた。
江戸期を通して武家地で、
寛永江戸図には「正宗中やしき」(仙台藩中屋敷)と
「毛利長門守下やしき」(長門萩藩下屋敷)がみえる。
仙台藩中屋敷は幕末まで当地に置かれているが、
萩藩下屋敷は寛文新版江戸絵図ではみられず、
松平帯刀と伊達兵部少輔の屋敷地となっている。
松平屋敷地は宝永年間(1704-11) に豊後藩中川家中屋敷となり、
天保7年(1836)柳生家が拝領し上屋敷とした。
伊達兵部少輔屋敷地は延宝3年(1675)に収公され
仙台藩下屋敷となるが、
元禄8年(1695)相対替により越前丸岡藩有馬家上屋敷となる。
同上屋敷は文久2年(1862)に八代洲河岸(現千代田区)へ移転し、
跡地は陸奥泉藩本多家が上屋敷に拝領するが同3年に収公され、
小諸藩上屋敷となった(屋敷書抜・年録・沿革図書など)。
仙台藩中屋敷内には塩竃神社があった。
四代藩主伊達綱村が元禄8年陸奥国一宮塩竃神社の分霊を
藩邸鎮守のため芝の邸内に勧請したのが始まりで、
安政3年(1856)に中屋敷に移した。
同年夏より毎月10日に一般の参詣を許したという
(武江年表・港区史・新撰東京名所図会)。
明治維新後には桜川学校(後の桜川小学校)、
東京美術倶楽部などがあった。
昭和5年(1930)塩竃神社に付随して造られた
塩竃公園(現港区立塩釜公園)は
開園当時区内唯一の町立公園であった(芝区誌)。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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