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『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
《課題》江戸の古代を解明する
―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―
「愛宕神社」(現)港区愛宕一丁目
愛宕山に鎮座する。
祭神は火産霊命・罔象女命・日本武尊。旧村社。
本地仏は行基彫刻と伝える勝軍地蔵。
天正10年(1582)本能寺の変に際し、
徳川家康が堺(現大阪府堺市)を出発して
大和路から近江紫香楽(現滋賀県信楽町)に入り、
多良尾四郎衛門の屋敷に宿泊して時に地蔵を献上されたという。
慶長8年(1603)家康に供奉して勝軍の法を修めた僧春音の撰によって
桜田の藤六郎の山に仮殿を建て、
同10年本社・幣殿・拝殿が建てられた。
元和3年(1617)社領100石を豊島郡王子村(現北区)に与えられた。
別当は真言宗円福寺で、寺中に金剛殷院など5院を抱える
(寺社書上・「再校江戸砂子」など)。
円福寺は御府内八十八ヶ所の第十九番札所。
当社は江戸の火防の守護神として信仰を集め、
また山頂からの眺望で知られた(江戸名所図会)。
境内東側には門前町屋(芝愛宕門前)がある(寺社書上)。
万延元年(1860)大老井伊直弼を襲撃した
水戸浪士たちの集合場所とされた(東京市史稿・港区史)。
現在の祭礼は例大祭が9月23日・24日。
6月23日・24日には千日詣(ほうずき市)がある。
当社には男坂(おとこさか)と女坂(おんなさか)があり、
江戸時代は男坂は長さ京間15間余り、幅3間、石段68段
女坂は長さ24間余り、幅4間・下幅2間、石段96段
であったが(寺社書上)、
明治時代以降改造されたようで男坂86段・女坂107段となった
(新撰東京名所図会)。
境内は明治19年(1886)に公園と定められ、
昭和22年(1947)東京都の布告により指定が解除されるまで
愛宕山公園となった。(現放送博物館)ができたのが大正14年(1925)、
愛宕山トンネルが開通したのが昭和7年である芝区誌・東京市稿)。
「芝愛宕町一丁目」 (現)港区愛宕一-二丁目
明治5年(1872)に起立した町で、愛宕下通沿い、
鎧小路の南、青龍寺の北にあたり、町の東側には桜川が流れる。
当所は江戸期を通して愛宕社・円福寺・真福寺(現真言宗智山派)・
青松寺(現曹洞宗)などの寺社地と武家地であった。
青松寺は慶長5年(1600)、愛宕社は同8年より当地にあり、
円福寺は同社の別当寺。
真福寺は天正19年(1591)
照海が鉄砲洲(現中央区)に置いた草庵から始まり、
同10年当地に社地を与えられて堂宇を建立。
江戸時代には智山派の触当を勤めていた(寺社書上)。
御府内八十八ヶ所の第り六七番札所。
同寺の西隣、鎧小路沿いの地所は古くから武家地で、
延宝年間(1673-81)には
大久保一郎右衛門・阿部壱岐守の屋敷地となっている。
その後拝領主・屋敷割に変更がみられるが、
幕末には大久保家・山本家・小暮家・市川家・山田家ら
旗本・御家人の屋敷地が置かれていた(沿革図書)。
明治2年芝愛宕門前を芝愛宕町と改名し、
同5年に前述の寺社地と武家地を合併して芝愛宕町一丁目とした。
「芝愛宕町二丁目」 (現)港区西新橋三丁目
明治5年(1873)に成立した町で、芝愛宕町一丁目の東、
田村町の南にあたる。
愛宕下町通沿い、薬師小路の南にあたる。
幕末には武家地。愛宕下通沿い南端の大和小泉潘片桐家上屋敷は
延宝年間(1673-82)にはすでにみられ、
通り北側の越後長岡潘牧野家中屋敷は正徳3年(1713)からみられる。
同中屋敷東隣には延宝年間から石河家屋敷があったが、
文政一二年(1829)以降取払われ、牧野家の屋敷地と合併した。
秋田小路沿い南側の地所は延宝頃松平若狭守・本多美作守・藤縣采女・
青木甲斐守らの屋敷地が置かれていた。
藤縣家屋敷は幕末まで存続している。
秋田小路沿い東角には正徳年間より備中生坂藩池田家上屋敷があり、
幕末まで変わらず。
当地南西の青木甲斐守屋敷は元禄5年(1692)7月に内藤丹後守、
翌年4月には石川主人の屋敷地となり、
北に隣接する青木右衛門屋敷を囲い込んだ。
正徳3年5月、石川家屋敷の南の方、ならびに東に隣接する
川勝家屋敷が召上げられ広道となった。
川勝家跡地のうち北側は松平左兵衛督代地となる。
享保3年(1718)2月には当地南に位置する松平左兵衛・長谷川周防守・
松平主税頭
(正徳3年の図では石川家屋敷地の地所。同年6月拝領という)
らの屋敷が召上られ、一円火除地となった。
火除地は年月は不明であるが馬場となり、
享保13年の図よりみられる(沿革図書)。
明治5年武家地を合併して芝愛宕町二丁目が成立、
翌年南側に隣接する馬場も合わせた。
明治期には陸軍省練兵場官庁地や七番大隊屯営鎮台、
東京府病院などがあり(明治東京全図)、
同15年には慈恵会病院(現慈恵医科大学)が創設されている(港区史)。
「芝愛宕町三丁目」 (現)港区新橋五-六丁目
明治5年(1872)に成立した町で、芝愛宕町二丁目の東にある。
愛宕下大名工事沿い西側、薬師小路の南側にあたる。
江戸期を通して武家地で、延宝年間(1673-81) には
内藤家・神尾家・溝口家・平野家などの屋敷地があり、
正徳3年(1713)以降北部に
陸奥三春藩秋田家上屋敷が置かれ幕末まで存続した。
幕末には同上屋敷のほか出羽長瀞藩米津家上屋敷・
大和高取藩植村家中屋敷・交代寄合井上家屋敷、
御使番仁木家・井上家が置かれていた沿革図書)。
明治19年から大正12年(1923)まで芝区役所が置かれていた。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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