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『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
《課題》江戸の古代を解明する
―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―
※出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
≪草加・江戸・品川≫
《東京都》
江戸
中世末期の地名。中世は郷名。近世は城名。
城下名として用いられ幕末まで続く。
地名の由来は諸説あるが、地形的に入江(日比谷の入江)の
門戸に当たっていたことによる。
【中世】地名の初見は弘長元年(1261年)10月21日平長重書状
弘長(1261-1264)
「武蔵国豊島郡江戸之内前嶋村」 (前=幸 śaci:力・Indra 神)
弘安4年4月15日平重政譲状(佐賀県深江家文書)
弘安(1278-1288)
「江戸郷柴崎村」(1281年)=邪波節句
日比谷-比比谷‐
戦国期みえる地名。
豊島郡の内 比々谷本郷、比々谷郷、比々谷村
小田原北条氏の臣、江戸衆の大胡氏(牛込氏)の所領
「六拾七貫七百八拾文、同(江戸)比々谷本郷」
赤坂
江戸時代以来の江戸城西南方にあった地域の称で、
明治11年府内15区の1区名として採用された。
中世以前にはみられなかった地名
四谷
江戸期以来の汎称地名。
地名の由来はかって4ヵ所の谷があったためとする説(砂子)と
梅屋、木屋、茶屋、布屋の4軒の茶屋があったため
四ッ谷と称し、後四谷と記すようになった説
市ヶ谷、市谷
地名の由来は、
長延寺、別称市ヶ谷と称する大きな谷があったことによる
(改撰江戸志・備考)
延文2年12月22日の足利基氏御教書によれば、
元和元年鶴岡八幡宮に寄進された
「武蔵国金曽木彦三郎、市谷孫四郎等跡」
延文(1356-61<北朝>)
桜田
戦国期にみえる地名
「和名類聚抄」荏原郡桜田郷に由来する地名か
現在の千代田区南部を中心とする
広域称となっていた推定される
芝
東京湾に臨み、中世から芝浦と総称されていた。
地名の由来は古くから芝の生えた地があったとされる。
芝村 戦国期にみえる郷村名。荏原郡に属す。
天文23年7月12日 小田原北条氏虎印判状(1555年)
芝崎村(千代田区)
鎌倉期にみえる村名。豊島郡江戸郷の内 柴崎とも書く。
幸町(中央区)
江戸期~昭和6年の町名。
古くは寺地で、後に武家地となり、元禄3年三武家を収公。
ここに幸橋門外の幸町の町屋を移して町名を継承
幸町(港区)
江戸期の町名。幸橋のそばで幸町といったものか
元禄4年北八丁堀に移され、
幕府薬草植付所の拝借地となる。
現行の新橋1丁目13番地。 元禄(1688-1704)
江戸郷
平安末~鎌倉初期
「円覚寺文書」
応永26年(1419)12月17日
足利持氏御教書「江戸前嶋内森木村」
江戸郷内に前嶋村があり、円覚寺領となっていた。
前嶋村と本郷台地の延長部の半島状で
微高地(大手町、丸の内、新橋に続く)に位置した
1ヵ村であったと推定されている。
永田町
明治2年~昭和42年の町名
町名の由来は、往古、地内の日枝社門前に
永田姓を名乗る家が3家あったためという未詳(府志料)
江戸期は日枝社門前一帯の武家地を永田馬場と俗称。
日枝山王社太田道潅が武蔵川越の仙波から勧請。
はじめ江戸城内地にあった。
桜川
琴平の南、愛宕山に至る間を西久保桜町とする。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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