2014年11月12日水曜日

草加・江戸・品川②

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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 ※出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪草加・江戸・品川≫

 《東京都》

 江戸

  中世末期の地名。中世は郷名。近世は城名。

  城下名として用いられ幕末まで続く。

  地名の由来は諸説あるが、地形的に入江(日比谷の入江)の

  門戸に当たっていたことによる。

  【中世】地名の初見は弘長元年(1261年)10月21日平長重書状

   弘長(1261-1264) 

  「武蔵国豊島郡江戸之内前嶋村」 (前=幸 śaci:力・Indra 神)

  弘安4年4月15日平重政譲状(佐賀県深江家文書)

   弘安(1278-1288)  

  「江戸郷柴崎村」(1281年)=邪波節句

 日比谷-比比谷‐

  戦国期みえる地名。

  豊島郡の内 比々谷本郷、比々谷郷、比々谷村

  小田原北条氏の臣、江戸衆の大胡氏(牛込氏)の所領

  「六拾七貫七百八拾文、同(江戸)比々谷本郷」

 赤坂 

  江戸時代以来の江戸城西南方にあった地域の称で、

  明治11年府内15区の1区名として採用された。

  中世以前にはみられなかった地名

 四谷

  江戸期以来の汎称地名。

  地名の由来はかって4ヵ所の谷があったためとする説(砂子)と

  梅屋、木屋、茶屋、布屋の4軒の茶屋があったため

  四ッ谷と称し、後四谷と記すようになった説

 市ヶ谷、市谷

  地名の由来は、

  長延寺、別称市ヶ谷と称する大きな谷があったことによる

  (改撰江戸志・備考)

  延文2年12月22日の足利基氏御教書によれば、

  元和元年鶴岡八幡宮に寄進された

  「武蔵国金曽木彦三郎、市谷孫四郎等跡」 

  延文(1356-61<北朝>)

 桜田

  戦国期にみえる地名

  「和名類聚抄」荏原郡桜田郷に由来する地名か

  現在の千代田区南部を中心とする

  広域称となっていた推定される

 芝
  
  東京湾に臨み、中世から芝浦と総称されていた。

  地名の由来は古くから芝の生えた地があったとされる。

  芝村 戦国期にみえる郷村名。荏原郡に属す。

  天文23年7月12日 小田原北条氏虎印判状(1555年)

 芝崎村(千代田区)

  鎌倉期にみえる村名。豊島郡江戸郷の内 柴崎とも書く。

 幸町(中央区)

  江戸期~昭和6年の町名。

  古くは寺地で、後に武家地となり、元禄3年三武家を収公。

  ここに幸橋門外の幸町の町屋を移して町名を継承

 幸町(港区)

  江戸期の町名。幸橋のそばで幸町といったものか

  元禄4年北八丁堀に移され、

  幕府薬草植付所の拝借地となる。

  現行の新橋1丁目13番地。 元禄(1688-1704)

 江戸郷

  平安末~鎌倉初期

  「円覚寺文書」

   応永26年(1419)12月17日

   足利持氏御教書「江戸前嶋内森木村」

   江戸郷内に前嶋村があり、円覚寺領となっていた。

   前嶋村と本郷台地の延長部の半島状で

   微高地(大手町、丸の内、新橋に続く)に位置した

   1ヵ村であったと推定されている。

 永田町

  明治2年~昭和42年の町名

  町名の由来は、往古、地内の日枝社門前に

  永田姓を名乗る家が3家あったためという未詳(府志料)

  江戸期は日枝社門前一帯の武家地を永田馬場と俗称。

  日枝山王社太田道潅が武蔵川越の仙波から勧請。

  はじめ江戸城内地にあった。

 桜川

  琴平の南、愛宕山に至る間を西久保桜町とする。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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