2014年11月7日金曜日

大江戸:塩土老翁(塩椎神)の鎮座地(3)


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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 ※出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪大江戸:塩土老翁(塩椎神)の鎮座地(3)≫

  インドラ神はさらに遠い東方の守護に当たる。

 その鎮座地が関東の江戸である。

 ただし、その信仰は狭い江戸に限られておらず、

 関東一円に広がっている。

 ここではかって武蔵といわれた

 東京都の東部と神奈川県の北部にその痕跡を探っていく。

  「江戸」が史料にみられるのは平安末期が初見である。

 弘長元年(1261年)10月21日付の平長重書状に

 「武蔵國豊島郡江戸之内前嶋村」とある。

 弘長四年(1264年)4月15日付 

 平重政譲状(佐賀県深江家文書)には、

 この古名江戸は、

 その縁をインドラ神にあると察する。

 江戸はまた大江戸とも通称する。

 これは māh-endra のことで māh- が「大きい」で、

 endra が、江戸と転訛したのである。

 同語は māh-endra 同語である。

 猿田彦神の原語をサンスクリット語にみた際

 sur-endra (神々の首長)を紹介したが、

 indra が合成語となる場合にendra に変化するのである。

  延喜式神名帳 武蔵國荏原郡に「薭田(ひえた)神社」が載る。

 現在東京都大田区蒲田三丁目の同社号の神社である。

 この神社名について神名帳の版木によっては

 「浦田」に表記されたものがある。

 地区名蒲田(かまた)は本来「ホタ」で

 「蒲桃」「浦田」と同じで「薭田」と音訓同祖と考えられる。

 つまり、

 薭田神社は伊勢市の猿田彦神を祀っていたと考えられるのである。

 すぐ近くの蒲田二丁目には猿田彦神の別称とされる椿神社もある。

 「蒲桃」「浦田」は 

 jambhu-dvipa 贍浮堤洲の「浮堤」でもあるが、

 蒲田地区内の志茂田はその転訛とみられる。

 蒲田の南の六郷(ろくごう) は

 サンスクリット語の六(sat)と近似する

 śata (百:勢田) の応用で、ここもインドラ神の神地である。

 多摩川を渡った神奈川県川崎市幸町は「サチ」で śaci であり、

 インドラ神名に係わる。

 蒲田の東にある糀谷(こうじや)は麹谷とも表記されたが、

 インドラ神の別称 kauśika の転訛で、

 漢音写では憍戸迦などとされた。

  神名帳 多磨郡には「布多天神社」が載る。

 同社は現在調布市調布ヶ丘に鎮座する同名社である。

 その近郊に布田地名が

 多摩川を挟んだ川崎市多摩区にも広がってみられる。

 多摩区の布田の東の中野島は贍浮堤洲の意味を持つ地名である。

 布多天神社には木綿に係わる伝承がある。

 昔、広福長者が同社に参籠し、

 神のお告げに依り布を多摩川で晒して調え朝廷に献上したが、

 それが本朝の木綿の初めというものである。

 しかし、綿については、既に紀元3世紀の魏書倭人章に

 「倭人の風俗は規律正しく、男子は皆冠を被ぶらず

  木綿で頭を巻いている」とあり、

 また正始四年(243年)の記録には、帛布(絹布) とともに

 綿衣を魏の皇帝に献上したとの記述もある。

 同社の本朝初めてとの伝承は当たらない。

 但し、綿の原産地がインド亜大陸で、
 
 紀元前3千年頃から既に栽培が始められたもので、

 紀元前内には日本へも

 その栽培方法、糸つむぎ、職布の技術が
 
 もたらされていたと考えられる。

 布多天神社の伝承は

 インドの木綿の技術を持った集団が

 ここに住みついたとの証しであろう。

 因みに「布多」はサンスクリット語の「布」を表わす

 paṭṭa の音写である。

 調布市と大田区との間にあるのが世田谷区である。

 多摩川に近い瀬田は

 勢田、勢多、世田と書かれた古い地名である。

 和名類聚抄武蔵國多摩郡に「勢多」とある。

 これも伊勢市の勢田と同じく祖語を śata とする同語である。

 その東の中町も伊勢市の中之切などのナカと同義である。

 野毛(のげ)はその同類ではあるが、

 naka (天界) の転訛であろう。

 用賀について角川地名辞典は「梵語の喩伽」と述べている。

 瑜伽はつまり yoga で

 同地の用賀神社は医薬の施供を行っていたとすることもできる。

 区名世田谷も「勢田、勢多」とその語源を同じくするだろう。

  ヨガである用賀とも関係する

 医方明に係わる地名について考察する。

 それは「荏原郡」で、現在品川区にその遺称が多い。

 荏原名は万葉集にも登場する古地名である。

 新編武蔵風土記が

 「荏(エゴマ)の繁茂する所」との見解を出しているように

 「荏」は荏胡麻のことで、

 その栽培が広く行われたことによる地名が「荏原」と考えられる。

 エゴマの種は搾って油を作る。

 これらトウゴマ(唐胡麻)から搾ってヒマシ油とし

 下剤として薬用に用いられると同様、薬用にされたとみられる。

 その原産地は日本ではなく、

 中国南部やインドなどの熱帯性植物である。

 この地方へは木綿と同じくインドからの知識を得た集団が

 持ち込んだと考えられる。

 胡麻油(蓖麻子油)はインドの医方明の四種含消薬の一つ

 taila である。

 品川区内の平塚の「平」がそれに係わり、

 隣接する「大崎」は「搾油者」を意味する 

 osika あるいは同義の auṣtrika を祖語とする。

 また、山台、後地は和名類聚抄で

 御田郷と記されている名称に比定されいるが、

 薬草を表わす aṣadhi ないし ausadhi に係わる。

 そして、区名でもある「品川」は「油脂」を意味する

 サンスクリット語の sneha を祖語とする。

 本来

 「油を含むこと、もの」「油脂の多いこと、もの」の語義で

 油、脂肪を表わし、エゴマをここでは指す。

 「シナカワ」を敢えて結びつければ、

 「油脂の多い、油でぬるぬるする」の

 snehavat となる。

 品川郷名は平安末期から史料に現れた地名である。

 この地域に現在、薬科・医科大学や製薬会社の工場が

 あることは因縁のあることである。

《参考》


 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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