2015年8月7日金曜日

志賀島

 『浦和レッズレディース』 猶本光サポーターズサイト
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 『誕生日の花と花ことば』
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《明星院・広島県(歴史&地名)他》
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 『広島・明星院』
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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》
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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫志賀島

 ※志賀島(東区)
  「地図」志賀島

  島の大部分は「平尾花崗閃緑岩」を主体とする深成岩類からなり、

  2系統の断層により、ほぼ平行四辺形の一種の地塁となる。

  史跡に富む景勝地で、島全体を神域とし、

  『万葉集』以来歌枕として著名。

  地名の由来は「近島」の転訛だという『続風土記』。

  古代は粕屋郡に中世・近世は那珂郡に属したが、

  明治15年再び粕屋郡に属した。

  志賀海神社の神殿の後の山を「勝山」といい、

  これに続く御笠山・衣笠山を志賀三山という。

  島中が神功皇后の伝説で覆われている。

  産土神は志賀海神社。

  志賀海神社の歩射祭・山ほめ祭・神幸祭はよく古式を伝えている。

  〔閃緑岩:(シュメル語)esi:(日本語)"いし"〕

 「古代」

  志賀島は奈良期からみえる地名。

  筑前国粕屋郡のうち。

  『釈日本紀』の引く『筑前国風土記』逸文に

  「粕屋の郡、資珂島」とみえ、

  気長足(そなかたらし)姫尊(神功皇后)がこの島に宿泊した時、

  火を求めにやった小浜という陸続きが

  此の島と打昇の浜と近く相連接けり。

  殆ど同じき地と謂ふべし。

  と報告したことにより近島と名付け、

  それが訛って「資珂島」となったという地名説話を載せている。

  天明4年当地で金印が発掘されたことは著名。

  発見場の叶が崎には現在金印公園があり、記念碑が建つ。

  『日本書紀』神功摂政前紀には「磯鹿海人」がみえるが、

  海の中道製塩遺跡は製塩・漁業を中心とする志賀海人の集落跡。

  ―志賀の白水郎をはじめ半島のことについては

  『万葉集』に

  「志賀乃白水郎」

  「四可能白水郎」

  「之賀之安麻」

  「壮鹿海部」

  「志賀万山」

  「志賀村」

  などとみえ、以後種々の歌集に散見する。

 ※勝馬(東区)

  地名の由来は、

  神功皇后が当地に凱旋したことによるという『続風土記』。

  古くから漁業は行なわず農業のみに従事した。

  産土神は近世まで勝馬神社(沖津宮)。

  明治期頃からは志賀海神社。

  海岸の磯を俗に「お膝本」または「磯良ヶ崎」といい、通船の難所。

  近世、勝馬村、於止の神は乳師ともいい、

  乳汁の乏しい婦女がこの神に祈れば効験があり、

  報賽に柄杓を奉納するという。

  牧谷社は牧ノ内ともいい、香椎明神が馬を飼った所といい、

  太刀打社は香椎宮の太刀を作ったところという(続風土記付録)。

  ほかに、

  志賀明神の旧跡という中津宮・御雷玉神社および禅宗西福寺が

  あった(続風土記)。

 ※宇美:うみ(宇美町)

  古くは「蚊田(かだ)邑」といった。

  宇美の地名は神功皇后が

  この土地で応神天皇を産んだという伝説に由来する。

  その産んだ地が宇美に八幡宮のある所としている。

  従って、宇美八幡宮のは安産の神で、

  その創建は6世紀後半と伝える戦国期の文書があるが不詳。

  「古代」

   奈良期からみえる地名。

  『古事記』に神功皇后が

  「筑紫国に渡りまして、其の御子は阿礼座しつ。

   故、其の御子の生れましし地を號けて宇美と謂ふ」とあり、

  『日本書紀』は「宇瀰」、

  『筑前国風土記』逸文は「宇温野」とする。

  この地名説話は以後、

  『釈日本紀』『皇代記』『日本紀略』などにも受け継がれ、

  『源平盛衰記』43巻にもみえている。

 ※須恵(須恵町:すえ)

  地名は古代の須恵器生産に由来すると考えられており、

  若杉山中腹に8世紀のものとみられる

  須恵器窯跡が見つかっている。

  中世、須恵荘南北朝からみえる荘園名。

 ※蚊田:かだ(宇美町)

 「古代」

  蚊田、平安期にみえる地名。筑前国のうち。

  『先代旧事本紀』応神天皇条に

  神功皇后が「討新羅元年歳次庚辰冬十二月生筑紫之蚊田」とあり、

  『日本紀略』や「皇代記」(郡書3)も同様の記述を踏襲している。

  記述にみえる神功皇后出産地の宇美は粕屋郡宇美町宇美に鎮座する

  宇美宮に比定されており、

  宇美の地が蚊田と呼ばれていたことが知られる。

 ※香住ヶ丘(東区)

  もとは福岡市浜男、唐原の各一部、町名の由来は

  この付近の字名霞ヶ丘と香山にちなむ。

 ※糟屋郡:かすやぐん

  糟屋郡、糟屋、糟谷、滓屋とも記される。

  古代~現在の郡名。

  筑前国及び福岡県の郡の一つ。

  「和名類聚抄」では「加須也」と記しており、

  その訓は「かすや」であろう。

  京都妙心寺の梵鐘銘に

  「戊戌年(698)四月十三日壬寅収糟屋評造春米連鋳鐘」

  とあるのが郡名の初見。

 〔古代〕

  「和名類聚抄」の郷は

  香椎、志珂、厨戸、大村、池田、阿曇、柞原、勢門の9郷。

  当郡須恵付近に夷守駅があったらしい(延喜式)。

  式内社香椎宮は仲哀天皇を祀ったものといわれるが、

  古来祭神は神功皇后とされ、

  新羅との関係が悪化するごとに朝廷から奉幣便が派遣された。

  神門の前の神、木綾杉は神功皇后が朝鮮出兵から帰還し、

  鎧の袖の杉枝を挿したのが生長したという。

  古代創建を伝える寺社は

  他に志賀海神社、宇美八幡宮、勝馬神社、武内宿禰社、

  若杉神社、天降神社、独鈷寺、清滝寺などがある。

 ※志賀海神社

  祭神は底津綿津見神、中津綿津見神、表津綿津見神。

  海の中道から志賀島へ渡った入口にある

  集落の奥まった山手に位置する。

  付近には縄文時代の遺蹟も存在し、

  当地は古来北九州の海上一帯を中心に「海人」を支配し、

  全国的に活動の跡がみられる「阿曇氏の本拠地」でもあり。

  祭神はこの阿曇氏の祖神とも奉斎神ともされており、

  今日の神主家もこの一族である。

  志賀島大明神を宗像大菩薩御縁起(神道大系神社編宗像)や

  八幡愚童訓(思想大系)は神功皇后の三韓出兵の舵取りをしたと記す。

2015年8月6日木曜日

綿津見と豊玉彦

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 ≪アズミ族の正体≫綿津見と豊玉彦

 綿津見神・少童神「ワタツミ」

 『古事記』綿津見神

 『日本書紀』少童神

 『延喜式』神名帳

 対馬島 上縣郡 和多都美神社【名神大】、和多都美御子神社【名神大】

     下縣郡 和多都美神社【名神大】、和多都美神社【ワタツミノ】

 綿・和多「ワタ」

  (Grk.)βνθοs「buthos」(海の)深み、(一般に)深み、底

               ※zikum-engurに対応

  (Grk.)βνθιοs「buthios」海の、水中の、沈んだ、深い所にある

  (Sk.)pāthas 水、 (Sk.)ud 水

 ※「ワタ」は「深海」あるいは「海」と解釈される。

 津見・都美「ツミ」

  (Sk.)dhaman住居(神々の)領土。

  この用語は「住者」とも解釈される。

  (Sk.)dyu-dhāman「天上の住者」つまり「神」として用いられる。

  (Sk.)toya-dhāman「海の住者」つまり「海神」である。

 ※これは「豊玉トヨタマ」の祖語である。

 ※「ワタツミ」は

   (Grk.)buthios

   (Sk.)pāthasとdhāmanの合成語で

  「海神」を表す。

  ただし、これは後から合成された用法で原初は

  阿曇語によって始まったものと考えられる。

  つまり、dhāmanには、

  『日本書紀』少童神、

  『万葉集』海若と表記された「童」「若」の概念が無い。

 「ツミ」は阿曇語のdumu「子供」を祖語する。

 しかし、阿曇語の「海」に係わる用語は

 上記のengurあるいはa-ab-ba「海」に限られ

 「ワタ」に対応する用語は無い。

 和多は「カタ」と訓むことができる。

  「カタ」kit「葦むしろ(マット)」。

  勝山、御笠山、衣笠山の「カツ」「カサ」

  「カタツミ」kit-dim₃「葦むしろ(マット)作り工」、

  船用の葦むしろ(マット)を作る職工を表す。

  あるいは

  kit dim

  「葦むしろ(マット)-帆柱(マスト)」:

  「帆柱の葦むしろ」=kit dim「葦むしろ-柱)」

 ※阿曇族の祖先は葦を用い船や家屋を作って生活に用いた。

  つまり、豊葦原や中津葦原の概念に結びつく背景がある

  (シュメル時代の生活様式)。

  Ki-en-gi「土地-の-葦=葦原=シュメルを表している」

 ※阿曇族(eš-ma₂)はシュメル人の後裔である。

  「カタツミ」とは、

  そのような阿曇族の祖先が葦船に頼って生活していたことの

  伝承に従い、葦船を神聖視し、崇拝する信仰から始まったもである。

  牧往社(神社)【牧ノ内ともいう】勝馬にある。

  牧の神大明神(福岡市西区能古島)、牧神社(壱岐島郷ノ浦町)

  「マキ」ma₂-gi「船-葦」葦船 勝馬「kit-ma₂」と同義。

 ※文法的にはgi-ma₂「葦-船」

  能古(のこ)島(志賀島の南方、博多湾の島)

  「ノコ」nu5-gur葦の容器、葦船を指す「籠」。

  Gi-ma₂「葦-船」=kit-ma₂「勝馬」「勝間」

  『古事記』上巻神代(海幸彦と山幸彦)火遠理命の海神の宮訪問

  爾に監椎神、「我、汝命の為に善き議を作さむ。」と云ひて、

  即ち无間勝間(まなしかつま)の小船を造り、其の船に載せて、

  教へて曰ひしく、

  「我、其の船を押し流さば、差暫し往でませ、味し御船有らむ。

   乃ち其の道に乗りて往でまさば、魚鱗の如造れる宮室、

   其れ綿津見神の宮ぞ。

   其の神の御門に到りましなば、

   傍の井の上に湯津香木(かつら)有らむ。

   故、其の木の上に座さば、

   其の海神の女、見て相議らむぞ。」といひき。

 『日本書紀』神代下・一書

  老翁の曰さく

  「復な憂へましそ。吾当に汝の為に計らむ」とまうして、

  乃ち無目籠を作りて、彦火火出見尊を籠の中に内れて、

  海に沈む、即ち自然に可伶小汀有り。是に籠を棄てて遊行でます。

  旬に海神の宮に至りたまふ。

  籠「カゴ」gur-gi「容器-葦」、gi-gur「葦の容器」

 ※仁位(豊玉町)

  地名の由来は、

  美しい玉を意味する瓊(に)から仁位になったといわれている

  (津島記事)。

  地内の堂ノ内、貝吹壇、仁位浜などに

  弥生時代~古墳時代の遺蹟がある。

  西の天神山は古代に烽が置かれ、天神神社があった。

  仁位浦の西岸に、

  式内社の和多都美神社に比定される和多都美神社があり、

  社叢は昭和51年県天然記念物に指定された。


 ※鹿見:ししみ(上県町)

  鹿見湾は韓神埼の内側に北向きに開口した良港で、

  西海岸屈指の泊地として知られる。
 
  地名の由来は

  深い山中に鹿が郡をなして満ちていることを訛っていったとか。

  鹿火の意味によるかと伝えられる(津島記事)

  zikum

   「トヨタマ」toya(Sk.)水 〔漢訳〕水、海、蒼溟
    ║    (Sk.)pāthos 水 (Sk.)ud 水
  和多都津見「ワタツミ」 
       dyu-dhāman 天上の住者、神=dyu-dhāma
       dhāma〔超人的存在の一種〕
       toya-dhāman 海の住者、海神〔海に住む神〕=toya-dhāma

  「ワタ」(Grk.)βυθοζ(buthios) 〔海の〕深み、
        ※zikum,engurに対応 ◎渤海

  「ツミ」(シュメル語) dumu 子供、童、少童

  「ワタツミ」海の童、buthios-dumu

 「粕屋郡:かすやぐん」

 粕屋郡、糟屋、糟谷、滓屋とも記される。古代~現在の郡名。

 筑前国および福岡県の郡の一つ。

 『和名類聚抄』では「加須也」と記しており、

 その訓は「かすや」であろう。

 京都・妙心寺の梵鐘銘に

 「戌戌年(698)四月十三日壬寅収糟屋評造春米連広国鋳鐘」

 とあるのが初見。

 「古代」『和名類聚抄』の郷は香椎、志珂、厨戸、大村、池田、

 阿曇:あづみ、柞原、勢門:せと、敷梨の九郷。

 当郡須恵付近に夷守駅があったらしい『延喜式』。

 式内社香椎宮は仲哀天皇を祀ったものといわれるが、

 古来祭神は神功皇后とされ、

 新羅との関係が悪化するごとに朝廷から奉幣使が派遣された。

 神門の前の神・木綾杉は神功皇后が朝鮮出兵から帰還し、

 鎧の袖の杉枝を挿したのが生長したという。

 古代創建を伝える寺社は他に

 志賀海神社、宇美八幡宮、勝馬神社、武内宿祢社、

 若杉神社、天降神社、独鈷寺、清滝寺などがある。

 「志賀海神社

 祭神は底津綿津見神、中津綿津見神、表津綿津見神。

 海の中道から志賀島へ渡った入口にある集落の奥まった山手に位置する。

 付近には縄文時代の遺跡も存在し、

 当地は古来北九州の海上一帯を中心に海人を支配し、

 全国的に活動の跡がみられる阿曇氏の本拠地でもある。

 祭神はこの阿曇氏の祖神とも奉斎神ともされており、

 今日の神主家もこの一族である。

 志賀島大明神を宗像大菩薩御縁起(神道大系神社編宗像)や

 八幡愚童訓(思想大系)は神功皇后の三韓出兵の舵取りをしたと記す。

 「仁位(豊田町)」

 地名の由来は、

 美しい意味する(瓊に)から仁位になったといわれている(津島紀事)。

 地内の堂ノ内、貝吹壇、仁位浜などに弥生時代~古墳時代の遺跡がる。

 西の天神山は古代に烽火が置かれ、天神神社があった。

 仁位浦の西岸に、

 式内社の和多都美神社に比定される和多都美神社があり、

 その社叢は昭和51年県天然記念物に指定された。

 「鹿見:ししみ(上県町)」

 鹿見湾は韓神崎の内側に北向に閉口した良港で、

 西海岸屈指の泊地として知られる。

 地名の由来は深い山中に鹿が群れをなして

 満ちていることを訛っていったとか、

 鹿火の意味によるかと伝えられる(津島紀事)。Zikum


 「トヨタマ」 toya(sk.)水 [漢訳]水、海、滄溟(sk.)pa-thos 水(sk.)ud

 和多都美       dyu-dha-man 天上の住者、神=dyu・dha-ma
       
 ワタツミ       dha-ma[超人的存在の一種]

        toya-dha-man 海の住者、海神[海に住む神]=toya-dha-ma

 「ワタ」(ギリシャ語)βυθοs(buthios) [海の]深み、[一般に]深み
                     ※zikum,engurに対応◎渤海

 「ツミ」(シュメル語) dumu 子供、童、少童

 「ワタツミ」 海の童 buthios・dumu=pa-thos・dumu

2015年8月5日水曜日

志賀島・志賀海神社

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 ≪アズミ族の正体≫志賀島・志賀海神社

 志賀島・志賀海神社

 「延喜式」神名帳:筑前国糟屋郡

   志加海神社三座【並名神大】「ウミノ」

 (現)「全国神社名鑑」志賀海神社(お志賀さま)「しかうみ」
     
    福岡県福岡市東区志賀島勝山577

 祭神 底津綿津見神、表津綿津見神、仲津綿津見神

 古事記上巻に伊邪那岐命が

 筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原で禊払いされたとき、

 降臨された神が祭神の綿津見三神である。

 延喜式神名帳下に、

 筑前糟屋郡志賀海神社三座「並名神大」とある。

 創建は不詳であるが、

 景行天皇12年に、是時禱神は則志賀神とみえているので、

 その当時すでに鎮座されたことを示している。

 万葉集に

 「千早振る鐘の岬を過ぎぬともわれは忘れじ志賀の皇神」

 と詠まれている。

 また神功皇后が征韓の際には、この三神が船を守り、

 海上の風波をしずめるなど特別の神功があった。

 宮司 阿曇磯興、権禰宜 阿曇磯和

 「シカウミ」 zikum 天空:【□の中に米】:engur 深海、水深 

 【シカミ】

  (Heb.)תִֻכֻמ,THVM,tuikum 地中の深い所、地下水、深淵

 ※「阿曇語」としては「シカウミ」は

  「深海」「深淵」として用いられてもいる。

 「筑前国続風土記」

  此志賀の御神も住吉大神と同時に伊弉諾尊、

  檍が原にて祓除したまひし時、化生の神にして、

  底津少童命、中津少童命、表津少童命の三神なり。

  此三神は三所に跡を垂給ふ。

  底津少童命は則今の志賀の町の北なる本社也。

 ※中津少童命は志賀島の西北勝馬と云う所の濱、

  勝馬明神の社より南に、

  小なる山ありて、中津明神と云う社あり、是也。

  表津少童命は中津明神の社より北一町余に、

  勝馬明神の社あり、是也。

  此三神は阿曇連等が斎祭る神なりと、

  日本紀神代上巻にしるせり。

 ※社は志賀の里より北の方なる山のふもとの高き所にあり。

  石階をのぼりゆく。

  宮所東の方海に臨める高岸にて、其下は則海なり。

  中殿底津少童命、古殿神功皇后、左殿表津少童命。

  神殿の背なる山を勝山といふ。

  是は、皇后三韓より帰らせたまふ時、

  此島に至り、

  異国に打勝つたまふ事を悦ひし故に名つくと云う。

  御笠山、衣笠山とて、勝山のつつきにあり。

  「志賀島 志賀明神祠」

 ※志賀島全体に聖所が配されている。

  志賀島の「シカ」sug、suku 神域

  「志賀島」は「神域の島」

  勝山 「カツ」kit 葦のむしろ(マット)

  【船の帆として用いられた】

  御笠山「ミカサ」 ma₂-kit

  「船―葦のむしろ」【葦のむしろで作った船】

  衣笠山「エ(イ)カサ」 e-kit「家(屋)―葦のむしろ」
         
  【葦のむしろで作った家、ここでは葦のむしろで作った屋船】

  勝馬(古事記神代に「勝間」とある)「カツマ」kit-ma

  「葦のむしろ―船」で「葦船」を表す。

  阿曇「安曇」「アズミ」 eš-ma₂「家(屋)―船」:屋船

   船を住み処として生活している人々の船

 「延喜式」祝詞・大殿祭

   瑞の御殿【古語にあうかといふ】汐屋船の命に奇し護言を

   手らけく安らけく護りまつる神の御名を曰さく、

   屋船くくちの命【こは木の霊なり】、

   屋船豊うけ姫の命と~。

2015年8月4日火曜日

『古事記』&『日本書紀』の「アズミの記載」

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 ≪アズミ族の正体≫『古事記』&『日本書紀』の「アズミの記載」

 『古事記』

 伊邪那伎大神詔りたまひし「~」て、

 竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に至りまして、

 禊(みそ)ぎ祓(はら)いたまひき。

 ~初めて中つ瀬に堕り迦豆伎て滌(すす)ぎたまふ時、

 成り坐せる神の名は、~。

 次に水の底に滌ぐ時に、成れる神の名は、底津綿上津見神、

 次に底筒之男神、中に滌ぐ時に、成れる神の名は、中津綿上津見神、

 次に中筒之男神、水の上に滌ぐ時に、成れる神の名は、

 上津綿上津見神【上を訓みて宇閇と云ふ】、

 次に上筒之男神、此の三柱の綿津見神は、

 阿曇連等の祖神と以ち伊都久(いつく)神なり。

 故、阿曇連等は、其の綿津見神の子、

 宇都志日金折(うつしひかねさく)命の子孫なり、
 
 『日本書紀』

 伊弉諾命、~即ち往きて筑紫の日向の小戸の橘の

 檍(あはき)原にいたりまして、

 禊ぎ除(はら)へたまふ、遂に身の~。

 又海の底に沈(かづ)き濯(そそ)ぐ。

 因りて神を、號けて底津少童命と曰す。

 次に底筒男命、又潮の中に潜(かづ)き濯ぐ。

 因りて生める神を號けて中津少童命と曰す。

 次に中筒男命、又潮の中に浮き濯ぐ。

 因りて生める神を號けて表津少童命と曰す。

 次に表筒男命、凡(すべ)て九の神有す。

 其の底筒男命、中筒男命、表筒男命は、是即ち住吉大神なり。

 底津少童命・中津少童命・表津少童命は、是阿曇連等が所祭る神なり。

 一書曰、伊弉諾尊と伊弉冉尊と共に大八州国を生みたまふ。

 然して後に~、

 又生めし海神等を少童命と號す。山神等を山祇と號す。

 (上記はこの後段)

 ○神功皇后(摂政前期)氣長足姫尊

  九年秋九月の庚午の朔己卯に、

  諸国に令して、般舶を集へて兵甲を練らふ。

  ~又磯鹿(しか)の海人、名は草を遣わして親しむ。

  日を敷して還りて曰さく。

  「西北に山有り。帯雲にして、横に絚(わた)れり、

   蓋し国有らむか」とまうす。

  愛に吉日を卜へて、臨發むとすること日有り。

 ○応神天皇 誉田天皇 三年の十一月

  処処の海人、訕牻めきて命に従はず。

  【訕牻】、此を佐麼売玖(さばめく)と云ふ。

  即ち阿曇連の祖大濱宿宿禰を遣して、訕牻を平ぐ、

  因りて海人の宰とす。

  故、俗人の諺に曰く、

  「佐麼阿摩(さばあま)」といふは、其れの縁なり。

 ※阿曇「安曇」アズミ eś-ma[家(屋)―船]屋船

  綿津見「少童、海童など」ワタツミ

  ワタ(Sk.)pā-thas 水 ud 水

  (Grk.)

   βνθιοs「buthiosブトス」海の、水中の

   βνθοs「buthosブトス」(海の)深み、(一般に)深み、表

  (Eng.) bottom 底 ○渤海の「ボッ」

  ツミ(Sk.)         

   dhā-man、dhā-ma超人的存在、dhaman住居、(神々の)領土

   dyu・dha-man/dyu・dha-ma天上の住者・神

   dumu(阿曇語・シュメル語)子供

  ワタ・ツミ

  「海の住者」海神:海の深みいる神>海童:海の深みにいる子供

  豊玉トヨタマ
 
  (Sk.) toya-dhāma/toya・dhaman 海の住者、海神、toya 海、海の

  志賀海シカウミ/シカミ(阿曇語) zikum 天空

 【□の中に米】=engur深海、水深>深海、深淵

  阿曇磯良

  イソラ

   「イソ」esi(阿曇語)閃緑岩
   
   「志賀島はこの岩石により形成されている」(日本語)”いし”

  「ラ」la (阿曇語)鱗うろこ、魚鱗

   「古事記神代”海神の宮訪問”魚鱗の如造れる宮室」龍宮

   イソラ「石―鱗」鱗の石

  「対馬の和多都美神社の渚にある磐石」この磐石を「エビス」という。

  エベス(阿曇語) as-su 海、地下水

  草:クサ(阿曇語) kusa 両棲類

2015年8月3日月曜日

『アズミ族の正体』③出雲〔島根県〕

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 ※出典: 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦 190~195頁

 ≪アズミ族の正体≫③出雲〔島根県〕

  「出雲」名は es-mah〔家-大きい(高い)〕と理解できる。

 『古事記』の国譲り伝承の段にある

 「多岐志〔現出雲市武志〕」 は du-gis〔邸宅(屋敷)-木〕で

 「木の神殿を表わす」。

 この建造に当たるのが「久那斗神」で

 ku-nata〔立てる-柱〕に依り、

 「柱を立てる」ことは「家を建てる」仕事で、

 それをサンスクリット表記した名称が「建御名方富神」名となる。

 「建」は「建設」を担う表示で、

 「ミナカタ」は mana-kartt〔建設工、建築工〕と

 「棟梁」といった呼称である。

 「富」はシュメル語の dum〔大工〕で、

 出雲市の東隣り斐伊川を挟んだ斐川町の「富村」 名に由来する。

 同地の富神社には久那斗神が祀られている。

 「御名方神」名は『古事記』の国譲りの段のみで外にはない。

 しかし意義を同じくする神名はまだある。

 「水戸神」名は

 minati〔(柱)を建てる、建設する、建立する、固定する〕の

 音写である。

 これをさらにギリシャ語で表記したのが、

 「秋津日子命」名の「アキツ」で

 ArXi-Tekton〔建築家、棟梁〕の転訛である。

 同語は英語で arktechter〔箱の技工〕の祖語である。

 久那斗神一族の名称としては足長神、手長神また稲田姫とある。

 それぞれ

 es-nagar〔家-大工〕、du-nagar〔屋敷-大工〕、

 i-nata〔高くする-柱〕で、大工の属類名である。

  しかし、「イズモ」にはまた重要なアズミ族の事蹟がある。

 『古事記』に登場する「大穴持命」に係る。

 つまり is-maha〔穴-大きい〕がその源語で

 「シマネ:嶋根」名と関係する。

 「出雲国風土記」が

 「嶋根と號くる所以は國引きましし

  八束臣津野命の詔りたまひて、名を負せ給ひき。

  故、嶋根といふ」と述べている。

 「島根」〔現県名〕の由来がそこにはある。

 「シマネ」と「ツノ:津野」は同義である。

 「島」は「鹿児島」名の説明で挙げた「シマ」と同義で、

 za-ma〔国〕に依る。

 そして「ツ:津」はその za の音写でここでは同義である。

 そして「根:ネ」及び「野」は

 同じくシュメル語での na〔石〕の音写で、

 双方ともその語義は「国・石」で、

 ここが「石の国」であるといっている。

 現在、島根町は松江市の北側日本海に面してある。

 そこに最近まで国石神社はあった。

 しかし、同名社は前記の風土記にもなかったことから

 改名されてしまった。

 『古事記』やその風土記がどういう勢力によって

 編纂されたかを知ればその理由も解かるが、

 現名と「国石」とどちらが重要か理解できるはずである。

 「シマネ」は「国石」の別称なのである。

 さて「根」は「石」の語義とした na とは発音が異なる。

 「根」は ne である。

 しかしその背景は重要である。

 Ne は「赤い」で、

 その「石類」が「赤い石」であることを示唆している。

 「赤石」は「銅」を表わす。

 つまり、この地域で銅が産出されていたのである。

 和名類聚抄楯縫郡に「治田」名がある。

 「ハルタ」は hur-te〔山-銅〕で「銅山」である。

 「大穴」とはその坑道をいったものである。

 出雲が強い勢力に成長したのはその銅のお陰である。

 島根町内の地名「大芦(蘆)」は「大穴:is」に依り

 「加賀」もKVK〔洞〕に依る。

 両方の地域にある「木の山神社」名は「金山」である。

2015年8月2日日曜日

『アズミ族の正体』②伊勢〔三重県〕

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 ※出典: 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦 190~195頁

 ≪アズミ族の正体≫②伊勢〔三重県〕

  「イセ」 名はシュメル語の es で、

 発音は「家」 を表わす用語と同じであるが、

 こちらは「涙水」にして「天の涙」で「雨」を表わす。

 伊勢にたくさん奉祭されている

 「大水上神」系譜がその信仰の広がりを示している。

 「アメ:雨」は

 a-mah〔水-上(高い)〕で「空にある水」との意義である。

  また伊勢神宮の摂社に係わる「客人社」 で

 「マロウド社」というが、 mar-du〔作る-屋敷〕で

 「神の坐す屋敷を作る」語義で、

 遷宮式においての神殿建造の主祭神である。

 式典において

 「屋船神」と奉している神で「アズミ」名での語義であり、

 その大工、

 特に諏訪の大工勢力がその役目にあったことを証している。

2015年8月1日土曜日

『アズミ族の正体』①諏訪〔長野県〕

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 ※出典: 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦 195~196頁

 ≪アズミ族の正体≫①諏訪〔長野県〕

  この二つの漢字で

 「スワ」を表記するようになったのはそう古いことではない。

 その字義は

 「言葉を受け取ったり放ったり」で「会話」「相談」である。

 シュメル語で

 それを sa-bal〔真中・交わる〕の「交換する」の概念である。

 ただし、『古事記』に「須波」とあるのは

 サンスクリット語の svar〔suvar:天〕に依る。

 諏訪湖から流れ出す天竜川名は、その「天」に依る。

 和名類聚抄信濃国諏訪郡の郷名「土武」は

 シュメル語の dum〔大工〕また「佐補」 は

 同 za-ab〔地下水〕に依る。

 前者は諏訪大社の最古の奉祭氏族「守屋」「守宅」と表記される

 mar-e〔作る-神殿〕名であり、

 「千勝、千鹿頭」 は the-du〔柱・建てる〕で

 同大社の大祭「御柱祭り」の起源名である。

 また主要氏族名「神氏」の「ジン」は

 gin 及び茅野市名の「チノ」 tun と同一で

 双方とも「斧」を基としている。

 古代においては大工の最も重要で技術のいる道具であった。

 漢字「茅野」は「茅」が「葦」で

 「葦野」は ki-en-gi〔土地-の-葦〕とした

 シュメルの古代名で同地に「葦原」の人たちが

 移転してきたことを示している。

 また後者の郷名「佐補」は

 諏訪市内の「有賀:アルカ」が ar-ka〔地面を掘る-口〕で

 「井戸を掘る」を意味する。

  因みにそこの地名「県:アガタ」は

 サンスクリット語の agada で「井、泉」である。

 「蟻」を「アリ」というのは彼等が地面に穴を掘るからである。

 「モリヤ」を「洩矢」とする理由は mar-e〔作る-井・泉〕に依る。

 「洩」は「水が湧き出る」の意義である。

 その洩矢氏が大事にしてきた秘法のうちに

 「蟇目神事法」 なるものがある。

 春の初め、諏訪大社上社近くの川床の地中から

 冬眠中の「蛙」を獲ってきて神に奉るという神事である。

 「蟇目」とは「蟇蛙」のことで、

 あのアプカッルあるいはアダハ名に係り、

 諏訪の一族はメソポタミアに関係している。

 茅野市内に「阿久」との地称があるが、

 これは uh〔蛙〕の音写である。

 阿久遺跡からはその蛙の意匠をつけた縄文土器が出土している。

 つまりシュメルの人々がここに入ってきたのは

 紀元前縄文時代晩期の終末期といえる。

 郷土史研究家の藤森成吉氏が

 縄文期に農業があったとの見解を発表されているが、

 多分その渡来して来た人々によって

 栗などを意図して植え始めたものと推測される。