2015年6月28日日曜日

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2013/12/19

 倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」

 ≪史記≫

 ※出典:古代史獺祭

 史記 卷二 夏本紀 第二 (抜粋)

 帝舜薦禹於天 爲嗣 十七年而帝舜崩 三年喪畢 

 禹辭辟舜之子商均於陽城 天下諸侯皆去商均而朝禹 

 禹於是遂即天子位 南面朝天下 國號曰夏后 姓氏

 帝禹立而舉皋陶薦之 且授政焉 而皋陶卒 封皋陶之後於英六 

 或在許 而后舉益 任之政十年 帝禹東巡狩 至于會稽而崩 

 以天下授益 三年之喪畢 益讓帝禹之子啓 而辟居箕山之陽

 禹子啓賢 天下屬意焉 及禹崩 雖授益 益之佐禹日淺 天下未洽
 
 故諸侯皆去益而朝啓 曰 吾君帝禹之子也 於是啓遂即天子之位

 是爲夏后帝啓 

 夏后帝啓 禹之子 其母塗山氏之女也

 有扈氏不服 啓伐之 大戰於甘 將戰 作甘誓 乃召六卿申之 

 啓曰 嗟 六事之人 予誓告女 有扈氏威侮五行 怠棄三正 

 天用勦絶其命 今予維共行天之罰 左不攻于左 右不攻于右 

 女不共命 御非其馬之政 女不共命 用命 賞于祖 不用命 

 于社 予則帑女  遂滅有扈氏 天下咸朝

 夏后帝啓崩 子帝太康立 帝太康失國 昆弟五人 須于洛 

 作五子之歌

 太康崩 弟中康立 是爲帝中康 帝中康時 羲、和湎淫 廢時亂日 

 胤往征之 作胤征

 中康崩 子帝相立 帝相崩 子帝少康立 帝少康崩 子帝予立 

 帝予崩 子帝槐立 帝槐崩 子帝芒立 帝芒崩 子帝泄立 

 帝泄崩 子帝不降立 帝不降崩 弟帝立 帝崩 子帝立 

 帝崩 立帝不降之子孔甲 是爲帝孔甲 帝孔甲立 好方鬼神 

 事淫亂 夏后氏德衰 諸侯畔之

  帝舜(しゅん)は禹(う)を天に薦し嗣と爲す。

 十七年にして帝舜崩ず。

 三年の喪畢(おわ)り、

 禹は舜の子商均(しょうきん)を辟(さ)け

 陽城(ようじょう/地名・山西省)に辭す。

 天下の諸侯は皆商均を去りて禹に朝す。

 禹は是に遂に天子の位に即(つ)き、南面して天下に朝す。

 國號を夏后(かこう)と曰う。

 姓は(じ)氏。

 帝禹立ちて皋陶(こうとう/人名)を舉げて之を薦し、

 且(まさ)に政(せい=まつりごと)を授けんとす。

 而して皋陶卒す。

 皋陶の後(すえ)を英六(えいろく/地名)に封ず。

 或は許(きょ/地名・河南省)に在り。

 而して后に益(えき/人名)を舉げ、之を政に任ずること十年。

 帝禹は東に巡狩し、會稽(かいけい/地名・浙江省)に至りて崩ず。

 以って天下を益に授く。

 三年の喪畢り、益は帝禹の子啓(けい)に讓りて、

 箕山(きざん/地名・河南省)の陽(みなみ)に辟居す。

 禹の子啓は賢にして、天下意を屬す。

 禹崩ずるに及び、益に授くと雖も、

 益は禹を佐(たす)くるに日淺く、天下未だ洽(うるお)わず。

 故に諸侯は皆益を去りて啓に朝す。

 曰く、「吾が君は帝禹の子也」と。

 是に啓は遂に天子の位に即く。

 是を夏后帝啓と爲す。

 夏后帝啓は禹の子。

 其の母は塗山(とざん)氏の女(むすめ)也。

 有扈(ゆうぐ)氏服さず、啓之を伐つ。

 大いに甘(かん/地名・陜西省)に戰う。

 將に戰わんとして『甘誓(かんせい)』を作り、

 乃ち六卿を召し之に申す。

 啓曰く、「嗟(ああ)、六事の人。

 予は女(なんじ)らに誓告す。

 有扈氏は五行を威侮(いぶ)し、

 三正(=天・地・人の正道)を怠棄(たいき)す。

 天は用(も)って其の命を勦絶(そうぜつ)す。

 今、予は維(も)って共(つつし)みて天の罰を行う。

 左は左を攻(おさ)めず、右は右を(おさ)めずは、

 女(なんじ)ら命を共(つつし)まず。

 御、其の馬を政むるに非ざるは、

 女(なんじ)ら命を共(つつし)まず。

 命を用いるは、祖に賞し、命用いずは、社に(りく)し、

 予則ち女(なんじ)が帑(ど=妻子)を(りく)さん」と。

 遂に有扈氏を滅し、天下咸(ことごと)く朝す。

 夏后帝啓(けい)崩じ、子の帝太康(たいこう)立つ。

 帝太康は國を失い、昆弟(こんてい=兄弟)五人、

 洛(らくぜい=洛水の北岸)に須(ま)ち、

 『五子の歌』を作る。

 太康崩じ、弟中康(ちゅうこう)立つ。

 是を帝中康と爲す。

 帝中康の時、

 羲(ぎ=羲氏/天文四時を司る家系)・

 和(わ=和氏/同前)、淫に湎(おぼ)れ、時を廢し日を亂す。

 胤(いん/人名)往きて之を征ち、『胤征』を作る。

 中康崩じ、子の帝相(しょう)立つ。

 帝相崩じ、子の帝少康(しょうこう)立つ。

 帝少康崩じ、子の帝予(よ)立つ。

 帝予崩じ、子の帝槐(かい)立つ。

 帝槐崩じ、子の帝芒(ぼう)立つ。

 帝芒崩じ、子の帝泄(えい)立つ。

 帝泄崩じ、子の帝不降(ふこう)立つ。

 帝不降崩じ、弟の帝(けい)立つ。

 帝崩じ、子の帝(きん)立つ。

 帝(きん)崩じ、帝不降の子の孔甲(こうこう)立つ。

 是を帝孔甲と爲す。

 帝孔甲立ち、鬼神の方(ほう=わざ・まつり)を好み、

 淫亂を事とす。

 夏后氏の德は衰え、諸侯之に畔(そむ)く。


 史記 卷四 周本紀第四 (抜粋)

 (原文)

 古公有長子曰太伯 次曰虞仲 太姜生少子季歴 季歴娶太任 

 皆賢婦人 生昌 有聖瑞 古公曰 我世當有興者 其在昌乎 

 長子太伯 虞仲知古公欲立季歴 以傳昌 乃二人亡如荊蠻 

 文身斷髪 以讓季歴

 (読み下し)

 古公(ここう)に長子有り太伯(たいはく)と曰う。

 次を虞仲(ぐちゅう)と曰う。

 太姜(たいきょう)は少子季歴(きれき)を生む。

 季歴は太任(たいじん)を娶る。

 皆、賢婦人。

 昌(しょう)を生む。

 聖瑞有り。

 古公曰く「我が世、當に興る者有らば、其の昌に在らんか」と。

 長子太伯と虞仲は、

 古公の季歴を立て以って昌に傳えんと欲するを知りて、

 乃ち二人荊蠻に亡(のが)れ如(ゆき)て、

 文身斷髪し、以って季歴に讓る。


 史記 卷六 秦始皇本紀第六 始皇帝二十八年 (抜粋1)

 (原文)

 齊人徐市等上書言 海中有三神山 名曰蓬莱 方丈 瀛洲 

 僊人居之 請得齋戒 與童男女求之 於是遣徐市發童男女數千人 

 入海求僊人

 (読み下し)

 齊人徐市(じょふつ)等上書して言う

 「海中に三神山有り。

  名を蓬莱(ほうらい)、

  方丈(ほうじょう)、

  瀛洲(えいしゅう)、と曰う。

  僊人(せんじん=仙人)之に居す。

  請う齋戒を得て、童男女と之を求めんことを」。

 是に於て徐市を遣わし、童男女數千人を發(つか)わして、

 海に入りて僊人を求む。


 史記 卷六 秦始皇本紀第六 始皇帝三十五年 (抜粋2)

 (原文)

 徐市等費以巨萬計 終不得藥 徒姦利相告日聞

 (読み下し)

 徐市ら費(つい)え以って巨萬を計るも終に藥を得ず。

 徒(た)だ姦利と相い告ぐるを日に聞く。

 (メモ)

 徐市(徐福)ら方士たちが不老不死の薬を探すと言って

 巨万の費用を要求しながら一向に成果をあげる様子が無いことに、

 「連中はただ利益をむさぼるだけの奸物だという噂も

  日ごとに耳に入ってくるぞ!」

  と始皇帝が怒って言った言葉。

 獺祭主人独白:「『不老不死の薬を探せ』などと、

  どだいムチャなことを命令するあんたが悪い。

  普通の頭で、ちょっと考えればわかりそうなものなのに…」


 史記 卷六 秦始皇本紀第六 始皇帝三十七年 (抜粋3)

 (原文)

 方士徐市等入海求神藥 數歳不得 費多 恐譴 乃詐曰  

 蓬莱藥可得 然常爲大鮫魚所苦 故不得至 願請善射與倶 

 見則以連弩射之 始皇夢與海神戰 如人状 問占夢 博士曰 

 水神不可見 以大魚蛟龍爲候 今上祠備謹 而有此惡神 

 當除去 而善神可致 乃令入海者齎捕巨魚具 

 而自以連弩候大魚出射之 自瑯邪北至榮成山 弗見 至之罘 

 見巨魚 射殺一魚

 (読み下し)

 方士徐市(じょふつ)ら海に入りて神藥を求む。

 數歳得ず。

 費(つい)え多し。

 譴(けん=譴責)を恐れ、すなわち詐(いつわ)りて曰く、

 「蓬莱の藥得べし。

  然れども常に大いなる鮫魚の苦しめる所と爲す。

  故に至るを得ず。

  願わくば善射を請いて與(とも)に倶(とも)せんことを。

  見れば則ち連弩を以って之を射ん」と。

 始皇夢に海神と戰う。

 人の状の如し。

 占夢(せんむ=夢占いの博士)に問う。

 博士曰く、

 「水神は見るべからず、以って大魚・蛟龍を以って

  候(こう=きざし)と爲す。

  今、上は祠(とうし=祈祷と祭祀)を備え謹しむ。

  而(しか)るに此の惡神有り。

  當(まさ)に除き去るべし。而らば善神致るべし」と。

 すなわち海に入る者に巨魚を捕うる具を齎(あた)えしめ、

 而(しか)して自ら連弩を以って大魚の出ずるを候(うかが)い

 之を射る。

 瑯邪(ろうや)より北の榮成山(えいせいざん)に至る。

 見ず。

 之罘(しふ)に至る。

 巨魚を見て、一魚を射殺す。


 史記 卷六 秦始皇本紀第六 始皇帝三十七年 九月 (抜粋4)

 (原文)

 九月 葬始皇山 始皇初即位 穿治山 及并天下 

 天下徒送詣七十餘萬人 穿三泉 下銅而致槨 

 宮觀百官奇器珍怪徙臧滿之

 令匠作機弩矢 有所穿近者輒射之 以水銀爲百川江河大海 

 機相灌輸 上具天文 下具地理 以人魚膏爲燭度不滅者久之

 二世曰 先帝后宮非有子者 出焉不宜 皆令從死 死者甚

 葬既已下 或言 工匠爲機 臧皆知之 臧重即泄 大事畢 已臧 

 閉中羨 下外羨門 盡閉工匠臧者 無復出者 樹草木以象山

 (読み下し)

 九月、始皇を山(りざん)に葬る。

 始皇初めて即位して山(りざん)を穿治す。

 天下を并(あわ)せるに及び、

 天下の徒七十餘萬人を送詣して三泉を穿ち、銅を下に槨を致す。

 宮・觀、百官、奇器、珍怪、臧(ぞう)を徙し之を滿たす。

 匠に機弩矢(きどし)を作らしめ、

 穿ちて近づく者有れば輒(すなわ)ち之を射る。

 水銀を以ちて百川・江河・大海と爲し、

 機もて相い灌輸(かんゆ)す。

 上は天文を具(そな)え、下は地理を具(そな)う。

 人魚の膏を以ちて燭と爲し、久しく之を滅せざるに度る。

 二世曰く、

 「先帝の后宮に子有らざる者は、

  出(いだ)すは宜(よろ)しからず。

  皆從いて死なしめん」と。

 死ぬ者甚だ(おお)し。

 既に葬り已に下す。

 或は言う、

 「工匠機を爲し、臧皆之を知る。

  臧は重く即ち泄(も)れなば大事畢(おわ)る」と。

 已に臧し、中に羨(せん)を閉ざし、外に羨門を下ろして、

 盡く工匠の臧せる者を閉ざして復た出ずる者無し。

 樹、草木を以ちて山を象(かたど)る。

 (意訳)

  九月、始皇帝を山(りざん)に葬った。

 始皇帝は即位してすぐに山(りざん)に深い穴を掘ったが、

 天下を統一すると、

 天下の人々(あるいは「罪人」か)七十餘萬人を山に送り、

 地下深くの水脈に達するまで掘削させ、

 下に銅を敷いて

 槨(墳墓の中で棺を収める空間。またはその囲い)を設けた。

 さらに宮殿や望楼、多くの役人(たちの席)、

 珍奇な器物、珍しい不思議な物などを運び込ませここを充満させた。

 工匠に機械じかけの弩矢(ゆみや)を作らせ、

 穴を掘ってここに近づく者があれば、

 これを自動的に射つようにしかけた。

 水銀で多くの川、入江、大河、大海をつくり、

 機械じかけで自動的にこれを満たすようにした。

 上には天の星辰を配し、下は地上の地形そのままを配した。

 人魚の膏(あぶら)をもって燭(あかり)にし、

 いつまでも消えないように工夫した。

 二世皇帝(=胡亥/こがい)が言うには、

 「先帝の後宮の者で子供がない者を

  後宮から出すのはよろしくない。皆殉死させよ」と言った。

 そこで大勢の人が死んだ。

 埋葬が終ると、或る者が言うには、

 「工匠は機械を作り、埋蔵の様子を皆よく知っております。

  埋蔵のことはたいへん重要なことなので、

  これが世に伝わると大事は終ってしまいます」と言った。

 そこで先帝の棺を下ろして埋葬し終わると、

 中の羨(『羨道』。

 墳墓の入り口から、棺を納める玄室に至るまでの道。

 またはそこに設けた門)を閉ざし、

 外の羨門を下ろして、

 埋蔵に関係した工匠を盡く閉じ込めたので

 再び外に出られた者は無かった。

 樹や草木を植えて山のようによそおった。


 史記 列傳 卷一百一十五 朝鮮列傳第五十五

 前漢の武帝のとき衛氏朝鮮を滅ぼし、

 いわゆる漢四郡を置いた経緯を記す。

 このときにも半島から多勢の人々が

 列島へ難を逃れて来たと推測されるが…。

 朝鮮王滿者 故燕人也 自始全燕時嘗略屬眞番・朝鮮 爲置吏 

 築鄣塞 秦滅燕 屬遼東外徼 漢興 爲其遠難守 復修遼東故塞 

 至水爲界 屬燕 燕王盧綰反 入匈奴 滿亡命 聚黨千餘人 

 魋結蠻夷服而東走出塞 渡水 居秦故空地上下鄣 

 稍役屬眞番・朝鮮蠻夷及故燕・齊亡命者王之 都王險

 會孝惠・高后時天下初定 遼東太守即約滿爲外臣 保塞外蠻夷 

 無使盜邊 諸蠻夷君長欲入見天子 勿得禁止 以聞 上許之 

 以故滿得兵威財物侵降其旁小邑 眞番・臨屯皆來服屬 方數千里

 傳子至孫右渠 所誘漢亡人滋多 又未嘗入見 

 眞番旁衆國欲上書見天子 又擁閼不通 元封二年 漢

 使渉何譙諭右渠 終不肯奉詔 何去至界上 臨水 

 使御刺殺送何者朝鮮裨王長 即渡 馳入塞 遂歸報天子曰 

 殺朝鮮將 上爲其名美 即不詰 拜何爲遼東東部都尉 朝鮮怨何 

 發兵襲攻殺何

 天子募罪人擊朝鮮 其秋 遣樓船將軍楊僕從齊浮渤海 兵五萬人

 左將軍荀彘出遼東 討右渠 右渠發兵距險 

 左將軍卒正多率遼東兵先縱 敗散 多還走 坐法斬 

 樓船將軍將齊兵七千人先至王險 右渠城守 窺知樓船軍少 

 即出城擊樓船 樓船軍敗散走 將軍楊僕失其衆 遁山中十餘日 

 稍求收散卒 復聚 左將軍擊朝鮮水西軍 未能破自前

 天子爲兩將未有利 乃使衞山因兵威往諭右渠 右渠見使者頓首謝 

 願降 恐兩將詐殺臣 今見信節 請服降 遣太子入謝 

 獻馬五千匹 及饋軍糧 人衆萬餘 持兵 方渡水 

 使者及左將軍疑其爲變 謂太子已服降 宜命人毋持兵 

 太子亦疑使者左將軍詐殺之 遂不渡水 復引歸 山還報天子 

 天子誅山

 左將軍破水上軍 乃前 至城下 圍其西北 樓船亦往會 居城南

 右渠遂堅守城 數月未能下

 左將軍素侍中 幸 將燕代卒 悍 乘勝 軍多驕 樓船將齊卒

 入海 固已多敗亡 其先與右渠戰 因辱亡卒 卒皆恐 將心慚 

 其圍右渠 常持和節 左將軍急擊之 

 朝鮮大臣乃陰閒使人私約降樓船 往來言 尚未肯決 

 左將軍數與樓船期戰 樓船欲急就其約 不會 

 左將軍亦使人求閒郤降下朝鮮 朝鮮不肯 心附樓船 

 以故兩將不相能 左將軍心意樓船前有失軍罪 

 今與朝鮮私善而又不降 疑其有反計 未敢發 天子曰將率不能 

 前及使衞山諭降右渠 右渠遣太子 山使不能剸決 

 與左將軍計相誤 卒沮約 今兩將圍城 又乖異 以故久不決 

 使濟南太守公孫遂往征之 有便宜得以從事 遂至 左將軍曰 

 朝鮮當下久矣 不下者有状 言樓船數期不會 具以素所意告遂 
 
 曰 今如此不取 恐爲大害 非獨樓船 又且與朝鮮共滅吾軍 

 遂亦以爲然 而以節召樓船將軍入左將軍營計事 

 即命左將軍麾下執捕樓船將軍 并其軍 以報天子 天子誅遂

 左將軍已并兩軍 即急擊朝鮮

 朝鮮相路人・相韓陰・尼谿相參・將軍王相與謀曰 始欲降樓船 

 樓船今執 獨左將軍并將 戰益急 恐不能與戰 王又不肯降 

 陰・・路人皆亡降漢 路人道死 元封三年夏 

 尼谿相參乃使人殺朝鮮王右渠來降 王險城未下 

 故右渠之大臣成巳又反 復攻吏 

 左將軍使右渠子長降・相路人之子最告諭其民 誅成巳 

 以故遂定朝鮮 爲四郡 封參爲清侯 陰爲荻苴侯 爲平州侯 

 長爲幾侯 最以父死頗有功 爲温陽侯

 左將軍徴至 坐爭功相嫉 乖計 棄市 樓船將軍亦坐兵至洌口 

 當待左將軍 擅先縱 失亡多 當誅 贖爲庶人


 太史公曰

 右渠負固 國以絶祀 渉何誣功 爲兵發首 樓船將狹 及難離咎 

 悔失番禺 乃反見疑 荀彘爭勞 與遂皆誅 兩軍倶辱 將率莫侯矣


 史記 卷百一十八 淮南衡山列傳 第五十八 (抜粋)

 (原文)

 又使徐福入海求神異物 還爲偽辭曰 臣見海中大神 言曰 

 汝西皇之使邪 臣答曰 然 汝何求 曰 願請延年益壽藥 

 神曰 汝秦王之禮薄 得觀而不得取 即從臣東南至蓬山 

 見芝成宮闕 有使者銅色而龍形 光上照天 於是臣再拜問曰 

 宜何資以獻 海神曰 以令名男子若振女與百工之事 即得之矣 

 秦皇帝大説 遣振男女三千人 資之五穀種種百工而行 

 徐福得平原廣澤 止王不來 於是百姓悲痛相思 欲爲亂者十家而六

 (読み下し)

 又、徐福をして海に入りて神異の物を求めしむ。

 還りて偽りの辭を爲して曰く、

 「臣、海中の大神を見る。言いて曰く、

  『汝は西皇の使いか』と。

   臣答えて曰く、『然り』。

  『汝は何をか求むる』。曰く、

  『願わくは延年益壽の藥を請わん』と。

  神曰く『汝が秦王の禮薄し。

  觀ることを得れども取ることを得ず』。

  即ち臣を從えて東南蓬山に至り芝成の宮闕を見る。

  使者有り、銅色にして龍形、光り上り天を照らす。

  是に於いて臣再拜して問いて曰く、

  『宜しく何を資して以って獻ずべき』。

  海神曰く、

  『令名の男子、若しくは振女と百工の事を以ちて即ち之を得ん』

   と」。

 秦の皇帝大いに説(よろこ)びて、振男女三千人を遣わし、

 之に五穀の種種と百工とを資して行かしむ。

 徐福、平原廣澤を得たり。

 止まり王となりて來たらず。

 是に於いて百姓悲痛し相い思いて、亂を爲さんと欲する者、

 十家にして六。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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