2015年6月28日日曜日

『漢書』

 『浦和レッズレディース』
 『ひねもす至福の時』
 『誕生日の花と花ことば』
 『湘南ベルマーレ』
 title="『明星院・広島県歴史&地名他』">『明星院・広島県歴史&地名他』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『madiのブログ』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2013/12/19

 倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」

 ≪漢書≫

 ※出典:古代史獺祭

 漢書 卷二十四 食貨志第四 (抜粋)

 (原文)

 布帛廣二尺二寸爲幅 長四丈爲匹

 (読み下し)

 布帛(ふはく)は廣さ二尺二寸を幅と爲し、長さ四丈を匹と爲す。


 漢書 卷二十八下 地理志第八下 燕地条

 燕地 尾箕分也 武王定殷 封召公於燕 

 其後三十六世與六國倶稱王 東有漁陽右北平遼西遼東 

 西有上谷代郡雁門 南得郡之易容城范陽 

 北新城故安縣良郷新昌及勃海之安次 皆燕分也 

 樂浪玄菟亦宜屬焉

 燕稱王十世 秦欲滅六國 

 燕王太子丹遣勇士荊軻西刺秦王不成而誅 秦遂舉兵滅燕 

 薊 南通齊趙 勃碣之間一都會也 初太子丹賓養勇士 

 不愛後宮美女 民化以爲俗 至今猶然 賓客相過以婦侍宿 

 嫁取之夕男女無別 反以爲榮 後稍頗止 然終未改 

 其俗愚悍少慮輕薄無威 亦有所長敢於急人燕丹遺風也

 上谷至遼東 地廣民希 數被胡寇 俗與趙代相類 有魚鹽棗栗之饒

 北隙烏丸夫餘 東賈真番之利

 玄菟樂浪武帝時置 皆朝鮮貉句驪蠻夷 殷道衰 箕子去之朝鮮 

 教其民以禮義田蠶織作 樂浪朝鮮民犯禁八條 相殺以當時償殺 

 相傷以穀償 相盜者男沒入爲其家奴 女子爲婢 欲自贖者 

 人五十萬 雖免爲民 俗猶羞之 嫁取無所讎 是以其民終不相盜 

 無門戸之閉 婦人貞信不淫辟 其田民飲食以豆 

 都邑頗放效吏及内郡賈人 往往以杯器食 郡初取吏於遼東 

 吏見民無閉臧 及賈人往者 夜則爲盜 俗稍益薄 今於犯禁浸多 

 至六十餘條 可貴哉 仁賢之化也

 然東夷天性柔順 異於三方之外 故孔子悼道不行 設浮於海 

 欲居九夷 有以也夫 樂浪海中有倭人 分爲百餘國 

 以歳時來獻見云

 自危四度至斗六度 謂之析木之次 燕之分也

 燕の地は尾(び)・箕(き)の分(ぶんや)なり。

 武王は殷を定め、召公を燕に封じ、

 その後三十六世にして六國と倶(とも)に王を稱す。

  東に漁陽(ぎょよう)・右北平(うほくへい)・

 遼西(りょうせい)・遼東(りょうとう)有り、

  西に上谷(じょうこく)・代郡(だいぐん)・

 雁門(がんもん)有り、南に郡(たくぐん)の易(えき)・

 容城(ようじょう)・范陽(はんよう)、

  北に新城(しんじょう)、故安(こあん)、縣(たくけん)、

 良郷(りょうごう)、新昌(しんしょう)、

 及び勃海(ぼっかい)の安次(あんじ)を得(え)、

 皆燕の分(ぶん)なり。

 樂浪(らくろう/=樂浪郡)・玄菟(げんと/=玄菟郡)

 もまた宜(よろ)しく焉(これ)に屬すべし。

 燕の王を稱して十世、秦は六國を滅さんと欲す。 

 燕王の太子丹(たん)は勇士荊軻(けいか)を遣し

 西に秦王を刺さしめるも、成らずして誅され、

 秦は遂に兵を舉げて燕を滅す。

 (史記 卷八十六 刺客列傳第二十六 より 荊軻伝)

 薊(けい)は南に齊(せい)・趙(ちょう)に通じ、

 勃・碣(けつ)の間の一都會なり。

 初め太子丹は勇士を賓養(ひんよう)し、

 後宮の美女を愛さず、民は化を以って俗と爲す。

 今に至るも猶(なお)然(しか)り。
 
 賓客相過ぐるに、婦を以って宿に侍し、嫁取の夕に男女の別無く、

 反りて以って榮と爲す。

 後に稍(やや)頗止(ひんし)するも、

 然るに終(つい)に未だ改まらず。

 その俗は愚にして悍(たけ)く、慮(りょ/=思慮)少く、

 輕薄にして威無し。

 亦(また)長(ちょう/=長所)有り、

 人の急に敢たるは、燕丹(えんたん/=燕の太子、丹)の遺風なり。

 上谷(じょうこく)より遼東に至るは、地廣く民希(すくな)く、

 數(しばしば)胡の寇を被り、俗は趙・代と相い類し、

 魚・鹽・棗・栗の饒(ぎょう)有り。

 北は烏丸・夫餘に隙(かく)し、東に真番(しんぱん)の利を賈う。

 玄菟・樂浪は武帝の時に置き、

 皆朝鮮・貉(わいばく)・句驪の蠻夷なり。

 殷の道衰え、箕子(きし)は朝鮮に去り、

 その民に禮義を以って田蠶・織作を教う。

 樂浪・朝鮮の民の禁八條を犯すに、

 相殺すは時當(まさ)に殺に償(あがな)い、

 相傷つけるは穀を以って償う。

 相盜むは、男は沒入してその家の奴と爲し、女子は婢と爲す。

 自ら贖わんと欲するは、人に五十萬。

 免れ民と爲すと雖も、俗はなおこれを羞じ、

 嫁を取るに讎(むく)う所無く、

 これをもってその民は終(つい)に相盜まず、

 門戸の閉ざす無く、婦人は貞信にして淫辟(いんひ)せず。

 その田民は豆(へんとう)を以って飲食し、

 都邑は頗る吏及び内郡の賈人に放效(なら)い、

 往往杯器を以って食す。

 郡は初め遼東に吏を取り、吏は民の閉臧(へいかん)無きを見、

 及び賈人の往く者、夜に則ち盜を爲し、俗は稍く益薄し。

 今に禁を犯すは浸(ようや)く多く、六十餘條に至る。

 貴ぶ可(べ)き哉(かな)、仁賢の化。

 然(しか)るに東夷は天性柔順、三方の外に異る。

 故に孔子は道の行なわれざるを悼(お)しみ、

 浮(ふ)を海に設け、九夷に居らんと欲す。

 ゆえ有るかな。

 樂浪海中に倭人有り、分かれて百餘國と爲し、

 歳時を以って來たり獻見すと云う。


 <参考> 論語 卷第三 公冶長第五 より
 
 子曰 道不行 乘桴浮于海 從我者其由也與 子路聞之喜 

 子曰 由也好勇過我無所取材

 子、曰く、

 「道行なわれず。

  桴に乘りて海に浮かばん。

  我に從う者は、それ由(ゆう/=子路)なるか」と。

 子路(しろ)、これを聞きて喜ぶ。

 子、曰く、

 「由や、勇を好むこと我に過ぎたり。

  材の取る所無し」と。

 <参考> 論語 卷第五 子罕第九 より

 子欲居九夷 或曰 陋如之何 子曰 君子居之 何陋之有

 子、九夷に居らんと欲す。

 或るの曰く、

 「陋(いや)しきことこれ如何(いかん)せん」と。

 子、曰く、「君子これに居らば、何の陋しきことこれ有らん」と。

 <参考> 山海經  第九 海外東經 より

 君子國在其北 衣冠帶劍 食獸 使二大虎在旁 其人好讓不爭 

 有薰華草 朝生夕死 一曰在肝楡之尸北

 君子國、その北に在り。

 衣冠帶劍し、獸を食う。

 二つの文虎(文様のある虎)を使う。

 旁に在り。 

 その人、好く讓り爭わず。 

 薰華草(くんかそう)有り、朝に生じ夕に死す。 

 一(ある)に曰く、肝楡(かんゆ)の尸(し)の北に在りと。

 危(き)の四度より、斗(と)の六度に至る、

 これを析木(せきぼく)の次(じ)と謂い、燕の分なり。

 上谷(じょうこく)より遼東に至るは、地廣く民希(すくな)く、

 數(しばしば)胡の寇を被り、

 俗は趙・代と相い類し、魚・鹽・棗・栗の饒(ぎょう)有り。

 北は烏丸・夫餘に隙(かく)し、

 東に真番(しんぱん)の利を賈う。


 玄菟・樂浪は武帝の時に置き、

 皆朝鮮・貉(わいばく)・句驪の蠻夷なり。

 殷の道衰え、箕子(きし)は朝鮮に去り、

 その民に禮義を以って田蠶・織作を教う。

 樂浪・朝鮮の民の禁八條を犯すに、

 相殺すは時當(まさ)に殺に償(あがな)い、

 相傷つけるは穀を以って償う。

 相盜むは、男は沒入してその家の奴と爲し、女子は婢と爲す。

 自ら贖わんと欲するは、人に五十萬。

 免れ民と爲すと雖も、俗はなおこれを羞じ、

 嫁を取るに讎(むく)う所無く、

 これをもってその民は終(つい)に相盜まず、

 門戸の閉ざす無く、婦人は貞信にして淫辟(いんひ)せず。

 その田民は豆(へんとう)を以って飲食し、

 都邑は頗る吏及び内郡の賈人に放效(なら)い、

 往往杯器を以って食す。郡は初め遼東に吏を取り、

 吏は民の閉臧(へいかん)無きを見、及び賈人の往く者、

 夜に則ち盜を爲し、俗は稍く益薄し。

 今に禁を犯すは浸(ようや)く多く、六十餘條に至る。

 貴ぶ可(べ)き哉(かな)、仁賢の化。

 然(しか)るに東夷は天性柔順、三方の外に異る。

 故に孔子は道の行なわれざるを悼(お)しみ、

 浮(ふ)を海に設け、九夷に居らんと欲す。

 ゆえ有るかな。樂浪海中に倭人有り、分かれて百餘國と爲し、

 歳時を以って來たり獻見すと云う。


 <参考> 論語 卷第三 公冶長第五 より

 子曰 道不行 乘桴浮于海 從我者其由也與 子路聞之喜 

 子曰 由也好勇過我無所取材

 子、曰く、

 「道行なわれず。桴に乘りて海に浮かばん。

  我に從う者は、それ由(ゆう/=子路)なるか」と。

 子路(しろ)、これを聞きて喜ぶ。

 子、曰く、

 「由や、勇を好むこと我に過ぎたり。材の取る所無し」と。

 <参考> 論語 卷第五 子罕第九 より

 子欲居九夷 或曰 陋如之何 子曰 君子居之 何陋之有

 子、九夷に居らんと欲す。

 或るの曰く、

 「陋(いや)しきことこれ如何(いかん)せん」と。

  子、曰く、

 「君子これに居らば、何の陋しきことこれ有らん」と。

 <参考> 山海經  第九 海外東經 より

 君子國在其北 衣冠帶劍 食獸 使二大虎在旁 其人好讓不爭 

 有薰華草 朝生夕死 一曰在肝楡之尸北

 君子國、その北に在り。

 衣冠帶劍し、獸を食う。

 二つの文虎(文様のある虎)を使う。

 旁に在り。

 その人、好く讓り爭わず。

 薰華草(くんかそう)有り、朝に生じ夕に死す。

 一(ある)に曰く、肝楡(かんゆ)の尸(し)の北に在りと。

 危(き)の四度より、斗(と)の六度に至る、

 これを析木(せきぼく)の次(じ)と謂い、燕の分なり。


 漢書 卷二十八下 地理志第八下 呉地条

 呉地 斗分也 今之會稽 九江 丹陽 豫章 廬江 廣陵 六安

 臨淮郡 盡呉分也

 殷道既衰 周大王亶父興梁之地 長子大伯 次曰仲雍 少曰公季

 公季有聖子昌 大王欲傳國焉 大伯仲雍辭行采藥 遂奔荊蠻

 公季嗣位 昌爲西伯 受命而王 故孔子美而稱曰

 大伯 可謂至也已矣 三以天下讓 民無得而稱焉 謂 虞仲夷逸

 隱居放言 身中清 廢中權

 大伯初奔荊蠻 荊蠻歸之 號曰句呉 大伯卒 仲雍立 

 至曾孫周章 而武王克殷 因而封之 又封周章弟中於河北 

 是爲北呉 後世謂之虞 十二世爲晉所滅 

 後二世而荊蠻之呉子壽夢盛大稱王 其少子則季札 有賢材 

 兄弟欲傳國 札讓而不受 自壽夢稱王六世 闔廬舉伍子胥 

 孫武爲將 戰勝攻取 興伯名於諸侯 至子夫差 誅子胥 用宰 爲

 粤王句踐所滅

 呉粤之君皆好勇 故其民至今好用劍 輕死易發

 粤既并呉 後六世爲楚所滅 後秦又撃楚 徙壽春 至子爲秦所滅

 壽春 合肥受南北湖皮革 鮑 木之輸 亦一都會也 

 始楚賢臣屈原被讒放流 作離騷諸賦以自傷悼 後有宋玉 

 唐勒之屬慕而述之 皆以顯名 漢興 高祖王兄子於呉 

 招致天下之游子弟 枚乘 鄒陽 嚴夫子之徒興於文 景之際 

 而淮南王安亦都壽春 招賓客著書 而呉有嚴助 朱賈臣 

 貴顯漢朝 文辭並發 故世傳楚辭 其失巧而少信 

 初淮南王異國中民家有女者 以待游士而妻之 故至今多女而少男

 本呉粤與楚接比 數相并兼 故民俗略同

 呉東有海鹽章山之銅 三江五湖之利 亦江東之一都會也 

 豫章出黄金 然菫菫物之所有 取之不足以更費 江南卑 

 丈夫多夭

 會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云

 呉の地は、斗(と)の分(ぶんや)なり。

 今の會稽(かいけい)、九江(きゅうこう)、丹陽(たんよう)、

 豫章(よしょう)、廬江(ろこう)、廣陵(こうりょう)、

 六安(りくあん)、臨淮(りんわい)郡は盡(ことごと)く

 呉の分なり。

 殷の道既に衰え、周の大王亶父(たんぽ)、

 梁(きりょう)の地に興(おこ)る。

 長子を大伯(たいはく)、

 次を仲雍(ちゅうよう)と曰い、少を公季(こうき)と曰う。

 公季に聖子昌(しょう)有り、大王、國を傳えんと欲す。

 大伯・仲雍は采藥辭行して、遂に荊蠻(けいばん)に奔(はし)る。

 公季位を嗣ぎ、昌を西伯(せいはく)と爲し、命を受けて王となる。

 故に孔子、美(ほめ)て稱(たた)えて曰く、

 「大伯、至(德)と謂うべきなるかな。

  三たび以って天下を讓るも、民は稱え得る無し」と。

 謂(おもえ)らく

 「虞仲(ぐちゅう=仲雍)・夷逸(いいつ)は

  隱居放言して身は清なること中、權(けん)を廢すること中」と。


 漢書 卷二十八下 地理志第八下 粤地条

 粤地 牽牛 女之分也 今之蒼梧 鬱林 合浦 交阯 九真 

 南海 日南 皆粤分也

 其君禹後 帝少康之庶子云 封於會稽 文身斷髮 以避蛟龍之害 

 後二十世 至句踐稱王 與呉王闔廬戰 敗之雋李 夫差立 

 句踐乘勝復伐呉 呉大破之 棲會稽 臣服請平 後用范蠡 

 大夫種計 遂伐滅呉 兼并其地 度淮與齊 晉諸侯會 致貢於周

 周元王使使賜命爲伯 諸侯畢賀 後五世爲楚所滅 子孫分散

 君服於楚 後十世 至君搖 佐諸侯平秦 漢興 復立搖爲越王

 是時 秦南海尉趙佗亦自王 傳國至武帝時 盡滅以爲郡云

 處近海 多犀 象 毒冒 珠 銀 銅 果 布之湊

 中國往商賈者多取富焉 番禺 其一都會也

 自合浦徐聞南入海 得大州 東西南北方千里 

 武帝元封元年略以爲耳 珠郡 民皆服布如單被 穿中央爲貫頭

 男子耕農 種禾稻紵麻 女子桑蠶織績 亡馬與虎 民有五畜

 山多麈 兵則矛 盾 刀 木弓弩 竹矢 或骨爲鏃 自初爲郡縣

 吏卒中國人多侵陵之 故率數歳壹反 元帝時 遂罷棄之

 自日南障塞 徐聞 合浦船行可五月 有都元國 又船行可四月

 有邑盧沒國 又船行可二十餘日 有諶離國 歩行可十餘日

 有夫甘都盧國 自夫甘都盧國船行可二月餘 有黄支國

 民俗略與珠相類 其州廣大 戸口多 多異物 自武帝以來皆獻見

 有譯長 屬黄門 與應募者倶入海市明珠 璧流離 奇石異物

 齎黄金雜繒而往 所至國皆稟食爲 蠻夷賈船 轉送致之 亦利交易

 剽殺人 又苦逢風波溺死 不者數年來還 大珠至圍二寸以下

 平帝元始中 王莽輔政 欲燿威德 厚遺黄支王 令遣使獻生犀牛

 自黄支船行可八月 到皮宗 船行可二月 到日南 象林界云

 黄支之南 有已程不國 漢之譯使自此還矣

 粤(えつ)の地は、牽牛、女(ぶじょ)の分(ぶんや)なり。

 今の蒼梧(そうご)、鬱林(うつりん)、合浦(ごうほ)、

 交阯(こうし)、九真、南海、日南は皆粤の分なり。

 その君は禹(う)の後(すえ)にして、帝少康の庶子と云う。

 會稽に封ぜられ、文身斷髮し、以って蛟龍の害を避く。

 後二十世、句踐(こうせん)の王を稱すに至り、

 呉王闔廬(こうりょ)と戰い、これを雋李(すいり)に敗る。

 夫差(ふさ)立つ。

 句踐、勝に乘じ復た呉を伐つも、呉は大いにこれを破る。

 會稽に棲み、臣服し平を請う。

 後に范蠡(はんれい)、大夫種(しょう)の計を用い、

 遂に呉を伐ちて滅し、その地を兼并す。

 淮(わい)を度り齊・晉の諸侯と會し、貢を周に致す。

 周の元王は使をして命を賜わしめ伯と爲し、

 諸侯は畢(ことごと)く賀す。

 後五世にして楚の滅する所と爲し、子孫は分散し、君は楚に服す。

 後十世、君(びんくん)搖(よう)に至り、諸侯を佐け秦を平らぐ。

 漢興(お)こり、また搖を立て越王と爲す。

 この時に、秦の南海尉(=官名)趙佗(ちょうた)」
 
 また自ら王となし、傳國して武帝に至りし時に、

 盡く滅し以って郡と爲すと云う。

 處は海に近く、犀、象、毒冒(たいまい)、珠(しゅき)、

 銀、銅、果、布の湊多く、中國より往く商賈の者は多く富を取る。

 番禺(ばんぐう)は、その一都會なり。 

 合浦の徐聞より南に海に入り、大州を得たり。

 東西南北方千里にして、武帝の元封元年に略し以って耳(たんじ)、

 珠(しゅがい)郡と爲す。

 民は皆布を服(き)るに單被の如く、中央を穿ち貫頭と爲す。

 男子は耕農し、禾稻・紵麻を種え、女子は桑蠶織績す。

 馬と虎亡く、民に五畜有り。

 山に麈・(けい)多し。

 兵は則ち矛、盾、刀、木弓弩、竹矢、或は骨を鏃と爲す。

 初め郡縣と爲してより、吏卒の中國人にこれに侵陵さること多し、

 故に率は數歳に壹たび反す。

 元帝の時、遂にこれを罷棄す。 

 日南の障塞、徐聞、合浦より船行五月ばかりにして、都元國有り。

 また船行四月ばかりにして、邑盧沒國(ゆうろぼつこく)有り。

 また船行二十餘日ばかりにして、諶離國(しんりこく)有り。

 歩行十餘日ばかりにして、夫甘都盧國(ふかんとろこく)有り。

 夫甘都盧國より船行二月餘ばかりにして、

 黄支國(こうしこく)有り。

 民の俗は略そ珠と相類す。

 その州は廣大、戸口多く、異物多く、武帝より以來皆獻見す。

 譯長有り、黄門に屬す。

 應募の者と倶(とも)に海に入り明珠、璧流離(へきるり)、

 奇石異物を市し黄金・雜繒を齎(もたら)して往きたり。

 至る所の國は皆食を稟(さず)け(ぐう=連れ立つ)を爲し、

 蠻夷の賈船、轉送しこれを致す。

 また交易に利し、人を剽殺す。

 また風波に逢い溺死するに苦しみ、しからずは數年に來還す。

 大珠は圍二寸を以って下るに至る。

 平帝の元始中、王莽(おうもう)は政を輔け、

 威德を燿(かがや)かさんと欲し、黄支王に厚く遺し、

 使を遣し生きたる犀牛を獻ぜしむ。

 黄支より船行八月ばかりにして、皮宗に到る。

 船行二月ばかりに、日南の象林(しょうりん)の界に到ると云う。

 黄支の南に、已程不國(いていふこく)有り、

 漢の譯使は此(ここ)より還る。


 大伯の初めて荊蠻(けいばん)に奔(はし)るや、荊蠻之に歸し、

 號して句呉(こうご)と曰う。

 大伯卒し、仲雍(ちゅうよう)立つ。

 曾孫の周章(しゅうしょう)に至りて武王は殷に克(か)ち、

 因って之を封ず。

 又、周章の弟の中(ちゅう)を河北に封ず。

 是を北呉と爲し、後世之を虞と謂い、

 十二世にして晉の滅す所と爲(な)る。

 二世の後に荊蠻の呉子壽夢(ごしじゅぼう)盛大にして王を稱す。

 其の少子則ち季札(きさつ)は賢材有り。

 兄弟は傳國を欲するも、札は讓りて受けず。

 壽夢の王を稱してより六世、

 闔廬(こうりょ)は伍子胥(ごししょ)を舉げ、

 孫武(そんぶ)を將と爲し、戰勝攻取して諸侯に伯名を興すも、

 子の夫差(ふさ)に至りて子胥を誅し、

 宰(さいひ)を用いて粤(えつ)王句踐(こうせん)の

 滅す所と爲る。

 呉・粤(えつ)の君は皆勇を好む。

 故にその民は今に至るも好く劍を用い、死を輕んじ發し易し。 

 粤は既に呉を并わせ、後六世にして楚の滅す所と爲る。

 後に秦はまた楚を撃つ。

 壽春に徙(うつ)り、子に至り秦の滅す所と爲る。

 壽春、合肥は南北の湖の皮革、鮑、木の輸を受け、また一都會なり。

 始め楚の賢臣屈原は讒せられ放流し、

 『離騷』諸賦を作り、以って自ら傷悼(しょうとう)す。

 後に宋玉(そうぎょく)・唐勒(とうろく)の屬有り、

 慕いてこれを述べ、皆以って名を顯(あら)わす。

 漢興(おこ)り、高祖は兄の子(ひ)を呉の王とし、

 天下の游(ぐゆう)の子弟を招致し、枚乘(まいじょう)、

 鄒陽(すうよう)、嚴夫子の徒文、景の際に興る。

 而して淮南王安(あん)もまた壽春に都し、賓客を招き書を著す。

 而して呉に嚴助、朱賈臣有り、漢朝に貴顯して、文辭並び發ち、

 故に世に『楚辭』を傳う。

 その失は巧にして信少し。

 初め淮南王は國中民家の女(むすめ)有るを異とし、

 以って游士を待しこれに妻す。

 故に今に至りて女多く男少し。

 もと呉・粤と楚は接比し、數(しばしば)相并兼し、

 故に民俗は略(ほぼ)同じ。 

 呉の東に海鹽・章山の銅、三江五湖の利有り、

 また江東の一都會なり。

 豫章は黄金を出す。

 然して物の所有は菫菫たり、これを取るも以って更費に足らず。

 江南は卑(ひしつ)にして、丈夫多く夭す。

 會稽の海外に東鯷人(とうていじん)有り、

 分かれて二十餘國と爲す。

 歳時を以って來たり獻見すと云う。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

0 件のコメント:

コメントを投稿