2015年6月19日金曜日

ヒョウタン形土器の出現とその背景

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2013/12/19

 倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」

 ※出典:常松幹雄(福岡市教育委員会)

  ≪ヒョウタン形土器の出現とその背景≫

 「異形の土器」

  弥生時代中期、北部九州では丹塗り魔剣とよばれる器面を

 丁寧に磨いた赤い顔料を塗った土器がさかんにつくられた。

 甕、壺、高坏など様々な器物があるが、

 2000年ほど前の中期の終わり頃になると、

 それまでと系統の異なる土器が見られるようになる。

  葱坊主のようなまるい頭をもつ土器は、

 一度見たら記憶にのこる形だが、

 全体の姿は半世紀以上にわたって謎に包まれていた。

 1930年代、「原ノ辻上層式土器」の基準資料を奉告した

 鴇田忠正さんは、頂部の孔を漏斗に見立てて図示した。

  1980年代にカラカミ遺跡で出土した大きな破片は、

 頭部の孔は貫通していなかったため、

 葱坊主が上であることは確実になり、

 球形の胴部上半に楕円形の窓をもつ器形であることがわかった。

 カラカミの奉告を行なった長崎県教委の宮崎貴夫さんは、

 この時すでに「瓢箪形土器」と記している。」

  私がこの土器に関心をもったのは1990年代、

 福岡平野の大規模集落である那珂・比恵遺跡群で

 土器の頭部が相次いで見つかった頃である。

 三点すべて発掘したのは、

 現在別府大学で教鞭をとる下村智さんだ。

 「葱坊主というのも風格がないしなあ。

  竿頭形土器製品、宝珠形、瓢箪形…何と呼ぼうか。」

 発掘の合間に何度か話をしたが、

 統一された呼称は定着しなかった。

 全形の分かる資料がなかったためである。

  90年代後半、原ノ辻遺跡は

 『魏志倭人伝』に一支国の記述に該当する集落として一躍注目され、

 特別史跡の指定へ向けて大きく動き出した。

 出土するおびただしい量の弥生土器について、

 鳥栖市教委の石橋新次さんは、

 糸島地域の丹塗り土器との類似性を指摘し、

 壱岐の祭祀土器の多くは

 伊都国から運ばれたとする説を提唱した。

 一支国の土器を伊都国産とする根拠は、

 両者の地理的な位置環境だった。

 北部九州から壱岐に運ばれた土器に、

 地中海を介してローマに集積された

 赤焼きの精製土器のイメージが重なった。

  一支国と奴国の中心集落に共通する葱坊主土器に

 一定の評価を下そうと考えた筆者は、

 数年前から資料調査を始めた。

 頂部の線刻や表面の研磨など6個体の作風やサイズは

 統一されたものではなかった。

 そしてこの種の土器は、

 伊都国の領域にも存在すると確信するようになった。

 2007年春、九州大学伊都キャンパスの発掘調査を引継いだ

 私は、調査区南東の土層から突き出た葱坊主を見つけた。

 早速60年来の謎であった土器の全形復元を開始した。


  土層周辺の土器の欠片が入ったコンテナを総ざらいした結果、

 幸運にも、数日後には全形を接合することができた。

 もっとも驚いたのは、

 この土器が平底主流の弥生時代中期にあって、

 完全な丸底だったことだ。

 高さ31cm、最大の幅は22cmで、径7cmの円形の窓がある。

 なるほど手首を出し入れする窓は、

 土器を仕上げるには必要不可欠だったわけだ。

 今回の発見でこの不思議な土器が、

 古代中国の史書にいう一支国、伊都国、奴国で出揃うことになった。

 「ヒョウタン形土器出土地の一覧」

   遺跡名  頂部の穿孔 備考  文献

 1 元岡遺跡42次  〇 有窓で丸底、全形がわかる 本稿

 2 カラカミ遺跡   × 有窓で遺存度が良好 勝本町教委3集

 3 原の辻遺跡   〇 長崎県学芸文化課保管 鴇田1944 

 4 原の辻遺跡   〇 丹塗・有窓 長崎県教委124集
 
 5 那珂遺跡群23次 〇 最も大型 福岡市教委290集

 6 那珂遺跡群50次 〇 丹塗   福岡市教委518集

 7 比恵遺跡群53次 〇 最も小型 福岡市教委451集


 「ヒョウタン形土器」

  今春、葱坊主土器に興味を持った原の辻遺跡調査事務所の

 林隆広さんは、原の辻遺跡ニュースレターに資料紹介を纏めた。

 林さんは、頭部の放射状の筋(沈線)とヒョウタンの実が乾燥した

 時にできる筋と考え、「ヒョウタン形土器」である可能性を示した。

 縄文時代早期以来、遺跡から出土するヒョウタンは、

 種子が多いことから繁栄や豊穣をあらわす植物として好まれた。

 弥生時代のヒョウタンは、一般に頸長ヒョウタンだが、

 中くびれのある種類もあるという。

 まさにヒョウタン形と呼ぶにふさわしい。

  ヒョウタンやその容器を写した土器について

 愛媛大学の吉田広さんは瀬戸内に分布する土器を集成した。

 岡山や愛媛で出土するヒョウタン形土器は、

 胴部に手首が出し入れできるくらいの窓があり、

 コップを伏せたような平坦な頂部に

 窓と直交する位置に水平に孔が貫通している。

 丸底や不安定な平底をもち、墓にともなって出土する事例がある。

 吉田さんは、中くびれのヒョウタンのイメージと

 重なることを避けるため、「ひょうたん写しの土器」と命名した。

 瀬戸内の土器の時期は、弥生時代前期末から中期前葉なので、

 北部九州のヒョウタン形土器より少なくとも2世紀は古く、

 直接のモデルとはならないようだ。


 「弥生中期後半の北部九州」

  では、一連のヒョウタン形土器がつくられた

 弥生時代中期後半の北部九州は、どのような時代だったのか。

 この時期、北部九州のリーダーたちは、

 前漢との対外政策を重視した。

 その窓口となったのは、前漢の武帝が紀元前108年、

 朝鮮半島支配の拠点として

 現在の平壌付近に設置した楽浪郡だった。

 この時期を境に素環頭太刀や刀子がもたらされるようになり、

 国内の金属器は青銅から鉄素材へ転換する。

  奴国や伊都国の明主を葬った甕棺墓は、溝や墳丘で区画され、

 30面を超える多数の漢式鏡やガラス製の璧などの副葬品で

 埋め尽くされた。

 直径20cmを超える大型の草葉文鏡をはじめとする漢式鏡を

 保有する須玖岡本D地点、

 本来木棺の装飾具である金銅製四葉座金具を納めた三雲南小路遺跡。

 朝鮮半島でも類を見ない副葬品の構成は、

 北部九州の首長層が漢代の思想や文化に熱いまなざしを注ぎ、

 独自の価値観を構築したことを物語る。

  元岡遺跡

 ≪参考1≫

 倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」③

 ※出典:『日本創世記』著者「小嶋秋彦」:207~208頁

 「ひょうたん型土器」 

  アズミ族の領域奴国にも集会場はある。

 「宇賀神社」〔福岡市中央区大宮〕で「宇賀」が ukkin に依る。

 なぜそう解釈できるかの理由は同社を「高宮」といい、

 周辺に「多賀」との地称が連なるからである。

 その「タカ」は倭名抄筑前国那珂郡田来郡名を継承するもので、

 dug〔壺〕の音写に依る。

 前述した集会の際神々は酒を飲む。

 倭人伝の「性嗜酒」とある飲む酒を入れておく容器名で、

 この壺は単なる土器製の容器ではなく、

 特別なシュメルでは sakir と呼ばれた。

 現糸島市の元岡遺跡から発掘され、

 現在同市の伊都国歴史博物館に所蔵されている

 「ひょうたん型土器」 といわれている

 瓢を立てた頭部には穴(口)はなく、

 太く脹らんだ胴部に大きな穴(口)が開けられている壺である。

 この壺は高さが31、胴幅22センチメートルの大きさで、

 完全なまま出土したのはここだけで

 その外福岡市内の那珂遺跡や壱岐のカラカミ遺跡から

 破壊されたものが出土している。

 また、遠く離れた奈良県桜井市三諸山の山の辺遺跡から

 小型ながら概念を同じくする胴に

 大きめの穴が開けられた壺が出土している。

 集会の際にはこの器にお酒「御神酒」を入れ、

 細い筒〔ストロウ〕を穴に差して回し飲みにした。
 
 そうすれば、共同意識が高揚する。

 この壺〔タカdug〕が集会に用いられる sakir である。

 ≪参考2≫

 「基礎編」手焙り土器の正体

 手焙り土器

 出典:言語復原史学会・加治木義博

 
 日本人のルーツ:128頁 『言語復原史学会:加治木義博』保育社「カラーブックス」

 インド系の信仰が、どういう事情で縄文時代以後、

 日本に入り続けてきたかがわかってみると、

 29ページでみた「手焙り土器」の写真が強い印象をもちはじめる。

 その土器は日本とフィリピンに分布し、インドに達するが、

 インドでは現在でもまだ生きて使われているからである。

 考古学者がつけた「手焙り」という名は

 形が手焙りという現代の道具に似ているためで、

 正しい用途は全く不明であった。

 ところがインドの同型の土器は、

 それが金属加工用の風炉(ふうろ)であることを、

 生きた多くの実例で教えてくれたのである。

 なぜインドには弥生時代の技術がそのまま生きていたのだろう。

 インドにはまだカーストと呼ばれる身分世襲制の、

 名残があるため、父から息子へと同じ職業がうけつがれている。

 だから需要がある限りその仕事は、

 昔のままの形で永続しているのである。

 インドは生きた古代の宝庫なのだ。

 カレン人は手焙り土器は作らないし、それを使う金属細工もしない。

 弥生時代のこの土器は、やはりインドのカーストに属した技術者が、

 父祖伝来の秘伝の技術で金属加工をした際に使ったもの、

 とみる以外に考えようがない。

 これまで日本でこの土器が出土したのは

 銅鐸分布地域の中だけである。

 銅鐸を作るには鋳造用の道具がいり、

 装身具用に使われている風炉は役に立たない。

 が、どちらも金属加工であり、

 インドには今も原始的なドクラ青銅器の鋳造者などがいる。

 手焙り土器は銅鐸の謎とも無関係ではない。

 「手焙り土器:金属加工用の風炉」

 「手焙り土器」は日本とフィリピンに分布し、インドに達するが、

 インドでは現在でもまだ生きて使われているからである。

 考古学者がつけた「手焙り」という名は

 形が手焙りという現代の道具に似ているためで、

 正しい用途は全く不明であった。

 ところがインドの同型の土器は、

 それが金属加工用の風炉(ふうろ)であることを、

 生きた多くの実例で教えてくれたのである。

 なぜインドには弥生時代の技術がそのまま生きていたのだろう。

 インドにはまだカーストと呼ばれる身分世襲制の、

 名残があるため、

 父から息子へと同じ職業がうけつがれている。

 需要がある限りその仕事は、昔のままの形で永続しているのである。

 インドは生きた古代の宝庫なのだ。

 カレン人は手焙り土器は作らないし、それを使う金属細工もしない。

 弥生時代のこの土器は、

 やはりインドのカーストに属した技術者が、

 父祖伝来の秘伝の技術で金属加工をした際に使ったもの、

 とみる以外に考えようがない。

 これまで日本でこの土器が出土したのは

 銅鐸分布地域の中だけである。

 銅鐸を作るには鋳造用の道具がいり、

 装身具用に使われている風炉は役に立たない。

 が、どちらも金属加工であり、

 インドには今も原始的なドクラ青銅器の鋳造者などがいる。

 手焙り土器は銅鐸の謎とも無関係ではない。

 「インドの金属技術者」

 手焙り形土器の中の木炭を長い吹管で吹いて高熱し、

 金属を溶かして細工する。

 吹管は日本の火吹き竹と同じ性質の文化で、

 紀元前25世紀のエジプト第5王朝時代の壁面彫刻には

 すでに似たものが見られる。

 ※出典:加治木義博
     「日本人のルーツ・保育社(カラーブックス):128頁」

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱



 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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