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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
セブンネット
歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2013/12/19
倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」
『祭壇はあっても宮殿はない』
※出典:「吉野ヶ里弥生集落の変遷」
吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の前期~後期までを通じて、
ムラからクニの中心集落-みやこ-へと発展していく過程が
明らかになった遺跡です。
「弥生時代前期の集落」
H11年(1999)の発掘で、
遺跡南端の丘陵上において
吉野ヶ里遺跡最古の環壕らしい跡の一部が発見され、
縄文時代晩期の水田農耕の伝来からまもなく、
周辺の小規模農村の上に立つ環壕(※2)を巡らせた
吉野ヶ里の草分け的な集落が形成された可能性が出てきました。
この集落は、弥生時代前期に2.5ha規模の環壕集落へと発展し、
環壕跡内部からは、
大量の土器や石器、有明海産のカキ・アカニシ・テングニシ・
サルボウなど多数の貝殻や、
イヌ・シカ・イノシシ類等の獣骨とともに、
青銅器鋳造に用いた鞴(ふいご)の羽口や
取り瓶などが出土しました。
弥生時代前期のうちに、青銅器鋳造が始まったと考えられます。
「弥生時代前期の集落」
青銅器造具
▲青銅器造具 土器片
▲土器片 ブタ?の骨
▲ブタ?の骨 獣骨
▲獣骨
「弥生時代中期の集落」
弥生時代中期には南部の丘陵をすっぽり囲む
推定20ha規模以上の環壕集落へと発展したと考えられています。
内部では、多くの竪穴建物跡や穴倉(貯蔵穴)跡が発掘されており、
居住域と倉庫域が区別されていたとも判明しました。
また、環壕跡内部からは、大量の土器や石器が出土し、
低地からは外洋航行船を模したと思われる
船形木製品等が出土しています。
また、竪穴建物跡等からは
青銅製の耳飾り(もしくは指輪)2点(一対)や、
数点の朝鮮系無文土器(片)も出土しました。
「弥生時代中期の集落」
木製の容器類
▲木製の容器類 木製の農具
▲木製の農具 木製の祭祀具
▲木製の祭祀具
「弥生時代後期の集落」
弥生時代後期になると、集落は北方へと規模を拡大して、
ついには40haを超す国内最大規模の環壕集落へと発展します。
内部には物見櫓を備え、
大型の祭殿をもつ首長の居住や祭祀の場と考えられる北内郭や、
高い階層の人々の居住区と考えられる南内郭等、
内環壕によって囲まれた空間が設けられ、
西方には、吉野ヶ里のクニの物資を集積し、
市の可能性もある高床倉庫群が設けられました。
環壕、城柵、物見櫓等の防御施設で堅固に守られた内部に
多くの人々が集まり住み、
その祭政の中枢である南内郭・北内郭が存在し、
祭壇など祭祀の場を備え、
青銅器や鉄器、木器、絹布や大麻布などの手工業生産や、
各地の手工業産品や人々が集う交易の市が推定され、
まさに弥生都市とも呼べるような
クニの中心集落へと発展した姿を見ることが出来ます。
吉野ヶ里歴史公園は、
「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」を
復元整備対象時期としています。
大切な遺構を壊さず土で保護した上に、
弥生時代後期後半に同時期に建てられていたと考えられる建物を、
当時あった場所の真上に復元整備しており、
この地が最も栄えたクニの姿を体感することができます。
「弥生時代後期の集落」
南内郭
▲南内郭 北内郭
▲北内郭 北墳丘墓
▲北墳丘墓
『弥生時代の吉野ヶ里-集落の誕生から終焉まで-』
※出典:佐賀県教育委員会編2008転載
吉野ヶ里遺跡では「環壕」の「壕」は
さんずいの「濠」と区別して標記される。
これまでの調査から
水が張られていた痕跡が認められないためである。
※出典:「吉野ヶ里遺跡の紹介」
「南内郭 ~王や支配者層が住んでいた場所~」
吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落をはじめ、
周りのムラを治めていた王やリーダー層の人々が
住んでいた場所と考えられています。
周囲を環壕と城柵で囲まれ、
敵を見張ると同時に吉野ヶ里集落の権威を示す
シンボル的役割を持っていた物見櫓と考えられる
建物跡が見つかっていること、
人々が住む竪穴住居が中心であること、
当時としては極めて貴重な一部の有力者しか
持つことができなかったと言われている
鉄製品が数多く見つかっていることなどから、
このように考えられます。
「南内郭の居住者達の性格」
南内郭の居住者達は祭司者的性格を持ち、
かつ政治・行政を司った者たちであったと想定されます。
南内郭の近辺からは青銅器鋳型が発見されており、
青銅器や玉などの祭具の制作や調達を
担っていた可能性が考えられます。また、
最高政治権者(王)は祭司者の統括者としての役割も
担っていたと考えられます。
「北内郭 ~まつりごとの場所~」
吉野ヶ里集落だけでなく、
吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって
最も重要な場所であったと考えられています。
田植えや稲刈りの日取りを決めたり、
季節ごとのお祭りの日を決めたり、
また大きな「市」を開く日取りを決めるなど、
吉野ヶ里を中心とするクニ全体の重要な物事についての
儀礼的な話し合いと祖先への祀りが行われていた場所と
考えられています。
また当時は、重要な物事が話し合いでは決まらない時には
最高司祭者
(祖先・神の声を聞くことができる特殊な能力を持った人)に
祖先の声を聞いてもらい、
その声に従って決定していったと考えられています。
「北墳丘墓 ~歴代の王の墓~」
吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている
特別なお墓と考えられています。
このお墓は人工的に造られた丘で、
違う種類の土を何層にも積み重ね、
しっかりと突き固められて造られており、
とても丈夫な構造になっています。
中からは14基の甕棺が見つかり、
ガラス製の管玉や有柄把頭飾銅剣が
一緒に収められているものもありました。
このお墓は弥生時代の中頃、紀元前1世紀のものですが、
その後はお墓としては使われなくなり、
その代わり祖先の霊が眠る場所として
人々から大切にされていたようです。
「甕棺墓列 ~一般の人々の墓地~」
甕棺[かめかん]とは北部九州に特有の棺のことです。
大型の素焼きの土器に亡くなった人の手足を折り曲げて入れ、
土の中に埋める埋葬方法で、弥生時代中頃のおよそ200年の間、
盛んに使われていたようです。
吉野ヶ里では丘のいろいろな場所にまとまって埋葬されており、
想定では15,000基を超える数が埋められていると考えられます。
中でも、墳丘墓の北側には、
真ん中に道
(お参りするための道であるとも、
左右に埋められている人々の身分の違いを表すための
区別の線とも考えられている)が設けられていて、
その両側に全部で2,000基を超す甕棺が長さ600mにわたって
整然と並べられています。亡くなった人に対する
当時の人々の想いを偲ぶことができます。
「中のムラ ~祭り・政治・儀礼などの道具を作る場所~」
吉野ヶ里の最も重要な場所である北内郭で行われる
祭りや儀式、政事に使ういろいろなものを神に仕える
司祭者たちが作っていた場所と考えられています。
神に捧げるお酒を造ったり、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、
絹の織物を作ったり、
さらには祭りに使う道具なども作られていたと考えられています。
なお、現地にはありませんが、
こうした作業に携わる司祭者たちが住んでいた住居も
この近くにあったものと考えられます。
「倉と市 ~倉庫群、市も開かれていた~」
海外との交易品や日本各地のクニグニの特産品などが集まり、
盛大な市が開かれたり、
市で取引される品々が保管されていたと考えられる
倉庫群などが集まった、
吉野ヶ里を支える重要な場所であると考えられています。
レンガなどに描かれた古代中国の市の様子と
よく似た構造をしており、
また当時の交易の重要な交通手段と考えられている
「舟」が利用できる大きな川がすぐ近くを流れていたこと、
さらにはこの地域全体が大きな壕で厳重に
囲まれていることなどが、こうした考え方の基になっています。
西方倉庫群は平成11年度の調査で
大きく四郡に分かれるさらに
多くの高床倉庫群や竪穴建物が発見され、その配置などから、
現在のところ具体的な遺構は指摘できませんが、
「クニ」の倉、「廷閣」としての機能の他に
『魏志』倭人伝にみえる「市」的な施設空間が
存在した可能性があります。
「南のムラ ~一般の人々の居住地~」
弥生時代の吉野ヶ里集落の一般の人々が
住んでいた地域と考えられています。
北内郭や南内郭と違い、
この区域を囲むような壕などの特別な施設がないこと、
竪穴住居3~4棟に対し共同の高床倉庫1棟が付くという、
日本全国で見つかっている一般的な集落のあり方と
良く似ていること、
北が上位で南が下位という古代中国の考え方に
影響を受けて作られていると見られる吉野ヶ里集落全体の中で
一番南に位置していること、
などがこうした考え方の基になっています。
≪参考1≫
倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」①
※出典:『日本創世記』著者「小嶋秋彦」:200~201頁
≪集会〔會同〕≫
倭人伝を注意深く読むと倭人及びその社会の性格がみえてくる。
まず「風俗不淫」とある。
これを東洋文庫は「倭人の風俗は規律正しい」と読み下している。
確かに大漢和辞典が「淫」字の語義として「みだれる、みだす」と
上げているので、その否定として「みだれない」となり、
その品性が公正であると説いていると理解できる。
また「婦人不淫不妬不盗」とある。
こちらの「淫」は性的な品行をいい
「婦人はみだらでなく嫉妬もしない」との意味だが、
「不妬」はあまり信じられない。
重要なのは「不盗」とある記述で「盗難がない」と理解される。
この「品行公正」「不盗」は完全でないにしても現代20世紀まで
日本人が公明正大との社会通念として体現してきた気風であった。
21世紀に入った今日、そのような風潮は危機に瀕している。
更に重要な記述がある。
「其會同座起父子男女無別人性嗜酒」と
述べられていることである。
紀元前後には倭では社会習慣として
「集会〔會同〕」が行われていたのである。
本書第2章(9)の「(b)弥奴国」で
吉野ヶ里遺跡には祭壇と大きな建屋はあっても、
それは「王宮」ではないと説明したように、
国々は住民による会合を行っていて
大きな建屋はそのためのものであったとみられる。
「会同」とは現代中国でも常用している「共同する」との用語で、
倭人伝の文面からすると、それは「集会」である。
東洋文庫はそこを
「集会では座席の順序や立ちふるまいに
父子や男女による区別はない」と読み下している。
この部分の解釈については、
倭は未だ未熟(未開)な社会だから
出鱈目に座ったり振る舞っただけでだとする向きが
これまでの見方としてあるが、それは妥当としない。
その一般生活の習慣として、
「大人所敬〔大人(有力者)に対して尊敬を示す法〕」や
「下戸興大人相遥道路~
〔下戸(下級の者)が大人と道で出会った場合〕」の
作法との説明があり、
この「集会」においての仕方は全く独特であり、
極めて特筆に値する。
そこに指摘されている内容は「男女の差別がない」
「父子といった社会的序列もない」という。
座る者〔参加者〕は一切「平等」という仕様である。
≪参考2≫
『吉野ヶ里遺跡』
三韓が倭国の拡大発展から生まれた地方自治体だったことは、
ほぼご納得戴けたと思うが、それがどんな風に進行したか、
そして魏の楽浪・帯方2郡ができるとどうなったか、
という記録が『魏書・韓章』には、
よくわかるように記録されている。
短く要点だけお話ししよう。
「桓霊(後漢の2帝)の末(170~180年代)、
韓・濊(ワイ)は強盛。
郡県は制御できず、多くの民が韓に流入した。
建安(~220年)中、
公孫康は屯有(トンユウ)県以由の荒地を分けて帯方郡にして、
公孫摸と張敞(ショウ)を派遣、
遺民を集めて兵を興し韓・濊(ワイ)を伐(う)つ、
……倭・韓はついに帯方に属す」。
214年に靺鞨(マカラ)が
南鮮を荒らしたという記事はこのことである。
そして公孫たちはまだ後漢の臣下で帯方郡も後湊の領土である。
その時代には倭国も三韓も、その帯方郡の支配下にあったと、
ここに明記してあるのである。
後漢の衰えとともに倭人は半島へ勢力を拡げて行った。
しかし公孫軍の反撃に敗れて九州までが
「帯方郡」の中に入れられてしまった。
それが後漢滅亡後、公孫氏の私物化していた。
卑弥呼時代の倭人連邦は公孫氏の勢力下にあったのだ。
『魏書東夷傳倭人章』では三国時代の歴史以外は省略されて
「倭国乱れ、相攻伐 歴年」としか書いてないが、
『後漢書』はそれを「桓霊の間 倭国大乱」と明記している。
卑弥呼が女王に共立された当時は、
公孫氏の帯方、
のちの『燕(エン)』国の支配下にあったのである。
その公孫氏の『燕』もこのあとに書くように
景初2年、魏に奇襲されて滅んでしまった。
燕は「エン」、中国訛りでは「エヌ」。
これに日本で当て字すると「吉野(エヌ)」。
いま邪馬台国の遺跡だと称している佐賀県吉野ガ里(り)は、
その町村表示が「里(り)」という中国~半島様式で、
邪馬壹国や旁国の「国」でないことはもちろん、
ラマヤナの倭国様式でもないから、
間違いなく「燕」に関連のある漢人または半島人による遺跡で、
公孫氏時代の役所所在地の跡か、
あるいは燕の難民居住地遺跡かのどちらかである。
そこから出土した家屋遺構も小さな村落ていどのもので、
大屋が数万戸もあった女王国の首都の痕跡ではない。
そこは『魏書東夷傳倭人章』の地理条件にも全く合わないし、
また旁国との位置関係も全然一致するものがない。
ただ1つ確実な遺物はその地名だが、
それが「燕」を指し、
中国~半島様式の「里(り)」という村落名を
今だに名乗っているのは、
そこが特殊な歴史をもつ外人村落だったから、
千数百年、手付かずで
「吉野」と「里」が残されたのだと考えるしかない。
ところがこの吉野ガ里に至っては、
そうした知的根拠は全くない。
※出典:加治木義博「大学講義録34:3・4頁」
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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