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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
セブンネット
歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2013/12/19
倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」
≪後漢書≫
※出典:古代史獺祭
南朝宋 范曄(398~445) 撰。
後漢(25~220)の歴史を記した史書。
卷一下 光武帝紀第一下 中元二年 (付 論・賛)
「倭奴國王、使を遣わす」。
この翌月に光武帝は崩御する。
倭奴國王の遣使は光武帝の生涯にぎりぎり間にあったのだった。
後漢書 卷一下光武帝紀第一下 より 中元二年 抜粋 (原文)
(中元)
二年春正月辛未 初立北郊 祀后土 東夷倭奴國王遣使奉獻
二月戊戌 帝崩於南宮前殿 年六十二 遺詔曰 朕無益百姓
皆如孝文皇帝制度 務從約省 刺史・二千石・長吏皆無離城郭
無遣吏及因郵奏
初 帝在兵閒 久厭武事 且知天下疲秏 思樂息肩 自隴・蜀平後
非儆急未嘗復言軍旅 皇太子嘗問攻戰之事 帝曰 昔衞靈公問陳
孔子不對 此非爾所及 毎旦視朝 日側迺罷
數引公卿・郎・將講論經理 夜分迺寐 皇太子見帝勤勞不怠
承閒諫曰 陛下有禹湯之明 而失黄老養性之福 願頤愛精神
優游自寧 帝曰 我自樂此 不爲疲也 雖身濟大業 兢兢如不及
故能明慎政體 總攬權綱 量時度力 舉無過事 退功臣而進文吏
戢弓矢而散馬牛 雖道未方古 斯亦止戈之武焉
論曰 皇考南頓君初爲濟陽令 以建平元年十二月甲子夜生光武於縣舍
有赤光照室中 欽異焉 使卜者王長占之 長辟左右曰 此兆吉不可言
是歳縣界有嘉禾生 一莖九穗 因名光武曰秀 明年 方士有夏賀良者
上言哀帝 云漢家歴運中衰 當再受命 於是改號爲太初元年
稱陳聖劉太平皇帝 以厭勝之 及王莽簒位 忌惡劉氏 以錢文有金刀
故改爲貨泉 或以貨泉字文爲 白水眞人
後望氣者蘇伯阿爲王莽使至南陽 遙望見舂陵郭 唶曰 氣佳哉
鬱鬱蔥蔥然 及始起兵還舂陵 遠望舍南 火光赫然屬天
有頃不見 初 道士西門君惠・李守等亦云 劉秀當爲天子
其王者受命 信有符乎 不然 何以能乘時龍而御天哉
贊曰 炎正中微 大盜移國 九縣飆回 三精霧塞 人厭淫詐
神思反德 光武誕命 靈貺自甄 沈幾先物 深略緯文 尋邑百萬
貔虎爲羣 長轂雷野 高鋒彗雲 英威既振 新都自焚 虔劉庸代
紛紜梁趙 三河未澄 四關重擾 神旌乃顧 遞行天討 金湯失險
車書共道 靈慶既啓 人謀咸贊 明明廟謨 赳赳雄斷 於赫有命
系隆我漢
卷五 孝安帝紀第五 永初元年
「倭國、使を遣わし奉獻す」
後漢書 卷五孝安 帝紀第五 より 永初元年 抜粋 (原文)
永初元年春正月癸酉朔 大赦天下 蜀郡徼外羌内屬 戊寅
分犍爲南部爲屬國都尉 稟司隸兗・豫・徐・冀・并州貧民
二月丙午 以廣成游獵地及被災郡國公田假與貧民 丁卯 分清河國
封帝弟常保爲廣川王 庚午 司徒梁鮪薨
三月癸酉 日有食之 詔公卿内外衆官・郡國守相
舉賢良方正・有道術之士 明政術・達古今・能直言極諫者
各一人 己卯 永昌徼外僥種夷貢獻内屬 甲申 葬清河孝王
贈龍旗・虎賁
夏五月甲戌 長樂衞尉魯恭爲司徒 丁丑
詔封北海王睦孫壽光侯普爲北海王 九眞徼外夜郎蠻夷舉土内屬
六月戊申 爵皇太后母陰氏爲新野君 丁巳 河東地陷
壬戌 罷西域都護 先零種羌叛 斷隴道 大爲寇掠
遣車騎將軍鄧騭・征西校尉任尚討之 丁卯
赦除諸羌相連結謀叛逆者罪
秋九月庚午 詔三公明申舊令 禁奢侈 無作浮巧之物 殫財厚葬
是日 太尉徐防免 辛未 司空尹勤免 癸酉 調揚州五郡租米
贍給東郡・濟陰・陳留・梁國・下邳・山陽 丁丑 詔曰
自今長吏被考竟未報 自非父母喪無故輒去職者
劇縣十歳・平縣五歳以上 乃得次用 壬午
詔太僕・少府減黄門鼓吹 以補羽林士 廐馬非乘輿常所御者
皆減半食 諸所造作 非供宗廟園陵之用 皆且止 丙戌
詔死罪以下及亡命贖 各有差 庚寅 太傅張禹爲太尉
太常周章爲司空
冬十月 倭國遣使奉獻 辛酉 新城山泉水大出
十一月丁亥 司空周章密謀廢立 策免自殺 戊子
敕司隸校尉・冀并二州刺史 民訛言相驚 弃捐舊居 老弱相攜
窮困道路 其各敕所部長吏 躬親曉諭 若欲歸本郡
在所爲封長檄 不欲勿強
十二月乙卯 潁川太守張敏爲司空
是歳 郡國十八地震 四十一雨水 或山水暴至 二十八大風 雨雹
卷八十五 東夷列傳第七十五 序文
「濊・貊・倭・韓は萬里朝獻す」
後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (序文)
王制云 東方曰夷 夷者柢也 言仁而好生 萬物柢地而出
故天性柔順 易以道御 至有君子不死之國焉 夷有九種
曰畎夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷
故孔子欲居九夷也
昔堯命羲仲宅嵎夷 曰暘谷 蓋日之所出也 夏后氏太康失德
夷人始畔 自少康已後 世服王化 遂賓於王門 獻其樂舞 桀爲暴虐
諸夷内侵 殷湯革命 伐而定之 至于仲丁 藍夷作寇 自是或服或畔
三百餘年 武乙衰敝 東夷寖盛 遂分遷淮・岱 漸居中土
及武王滅紂 肅慎來獻石砮・楛矢 管・蔡畔周 乃招誘夷狄
周公征之 遂定東夷 康王之時 肅慎復至 後徐夷僭號
乃率九夷以伐宗周 西至河上 穆王畏其方熾 乃分東方諸侯
命徐偃王主之 偃王處潢池東 地方五百里 行仁義
陸地而朝者三十有六國 穆王後得驥騄之乘 乃使造父御以告楚
令伐徐 一日而至 於是楚文王大舉兵而滅之 偃王仁而無權
不忍闘其人 故致於敗 乃北走彭城武原縣東山下 百姓隨之者以萬數
因名其山爲徐山 厲王無道 淮夷入寇 王命虢仲征之 不克
宣王復命召公伐而平之 及幽王淫亂 四夷交侵 至齊桓修霸
攘而卻焉 及楚靈會申 亦來豫盟 後越遷琅邪 與共征戰
遂陵暴諸夏 侵滅小邦
秦并六國 其淮・泗夷皆散爲民戸 陳渉起兵 天下崩潰
燕人衞滿避地朝鮮 因王其國 百有餘歳 武帝滅之
於是東夷始通上京 王莽簒位 貊人寇邊 建武之初 復來朝貢
時遼東太守祭肜威讋北方 聲行海表
於是濊・貊・倭・韓萬里朝獻 故章・和已後 使聘流通 逮永初多難
始入寇鈔 桓・靈失政 漸滋曼焉
自中興之後 四夷來賓 雖時有乖畔 而使驛不絶 故國俗風土
可得略記 東夷率皆土著 憙飲酒歌舞 或冠弁衣錦 器用俎豆
所謂中國失禮 求之四夷者也 凡蠻・夷・戎・狄總名四夷者
猶公・侯・伯・子・男皆號諸侯云
『王制』(=『禮記(らいき)・王制偏』)に云う、
「東方を夷(い)と曰う」と。
「夷」とは「柢(てい/「根」のこと)」なり。
仁にして好生(末尾「注1」を参照)、
萬物は地に柢して(=根をしっかりと張って)出ずと言う。
故に天性柔順、道をもって御(ぎょ)し易し。
君子・不死の國有るに至る。
(参照:「山海經」)
夷に九種有り。 畎夷(けんい)・于夷(うい)・方夷(ほうい)・
黄夷(こうい)・白夷(はくい)・赤夷(せきい)・
玄夷(げんい)・風夷(ふうい)・陽夷(ようい)と曰う。
故に孔子は九夷に居らんと欲せしなり。
昔、堯(ぎょう)は羲仲(ぎちゅう)に命じ
嵎夷(ぐうい)に宅せしむ。 暘谷(ようこく)と曰う。
蓋(けだ)し日の出ずる所なり。
夏后氏の太康は德を失ない、夷人始めて畔(そむ)く。
少康(=夏后少康)已後(いご/以後)より
世に王化に服し遂に王門に賓(ひん)し、その樂舞を獻ず。
桀(けつ/夏の桀王)は暴虐を爲し、諸夷は内に侵す。
殷の湯(とう/殷の湯王)は命を革(あらた)め、
伐ちてこれを定む。 仲丁(ちゅうてい)に至り、
藍夷(らんい)は寇を作(な)す。
これより或いは服し或いは畔(そむ)き、三百餘年。
武乙は衰敝し、東夷は寖(ようや)く盛んなり。
遂に分かちて淮(わい)・岱(たい)に遷(うつ)り、
漸(ようや)く中土に居す。
武王(=周の武王)、紂(=殷の紂王)を滅ばすに及び、
肅慎(しゅくしん)來り石砮(せきど)・楛矢(こし)を獻ず。
管・蔡(=武王の弟の管叔と蔡叔)、周に畔き、
すなわち夷狄(いてき)を招誘す。
周公これを征し、遂に東夷を定む。
康王の時、肅慎また至る。
後に徐夷(じょい)僭號(せんごう)し、
すなわち九夷を率い以って宗周を伐ち、
西に河(=黄河)の上(ほとり)に至る。
穆王(ぼくおう)、そのまさに熾(さかん)なるを畏れ、
すなわち東方諸侯を分かち、
徐の偃王(えんおう)に命じてこれに主たらしむ。
偃王は潢池(こうち)の東に處す。
地の方は五百里。
仁義を行ない、陸地にして朝する者は三十有六國。
穆王、後に驥騄(きりょく)の乘を得たり。
すなわち造父(ぞうほ)をして御さしめ、
以って楚に告げて徐を伐たしむ。
一日にして至る。
ここに楚の文王は大いに兵を舉げてこれを滅す。
偃王は仁なれども權無く、その人と闘うに忍びず。
故に敗を致す。
すなわち彭城武原縣の東山の下に北走(のが)る。
百姓のこれに隨う者、以って萬を數えたり。
因りてその山の名を徐山と爲す。
厲王は無道にして、淮夷(わいい)入寇す。
王、虢仲(かくちゅう)に命じてこれを征たしむるも克たず。
宣王、また召公に命じ伐たしめてこれを平らぐ。
幽王の淫亂なるに及び、四夷は交(こもごも)侵す。
齊桓(=春秋五覇の一人、齊の桓公)の霸を修むるに至り、
攘(はら)いてこれを卻(しりぞ)く。
楚靈(=楚の靈王)、申(しん)に會するに及び、
また來り盟に豫(あずか)る。
後に越は琅邪(ろうや)に遷り、與共(とも)に征戰し、
遂に諸夏を陵暴(りょうぼう)し、小邦を侵し滅ぼす。
秦は六國を并せ、その淮(わい)・
泗(し)の夷は皆な散じて民戸と爲す。
陳渉(=陳勝)兵を起こし、天下崩潰す(=陳勝呉広の乱)。
燕人衞滿(えいまん)は地を朝鮮に避け、
因りてその國に王たりて(=衞氏朝鮮)百有餘歳。
武帝(=漢の武帝)はこれを滅ぼし、
ここに東夷は始めて上京に通ず。
王莽(おうもう)、簒位するや貊人(はくじん)は邊を寇す。
建武の初め、また來たり朝貢す。
時に遼東太守の祭肜(さいゆう)は、
威を北方に讋(おそ)れしめ、聲は海表に行なわれたり。
ここに濊(わい)・貊(はく)・倭(わ)・韓(かん)は
萬里朝獻す。
故に章・和(=後漢の章帝・和帝)已後(=以後)、
使聘(しへい)流通す。
永初の多難に逮(およ)び、始めて入りて寇鈔す。
桓・靈(=後漢の桓帝・靈帝)失政し、
漸(ようや)く滋曼(じまん)せり。
中興(=後漢の光武帝により漢王朝が復興された)の後より、
四夷來賓す。
時に乖畔(かいはん)有りと雖ども、而して使驛は絶えず。
故に國俗風土を略記するを得る可し。
東夷は率(おおむね)皆な土著(どちょ/土地につく=定住)にして
飲酒・歌舞を憙(この)み、或いは弁(べん)を冠り錦を衣る。
器に俎豆(そとう)を用う。
所謂(いわゆる)、中國、禮を失なわば、
これを四夷に求むる者なり。
凡そ蠻(ばん=南蠻)・夷(い=東夷)・戎(じゅう=西戎)・
狄(てき=北狄)を總(すべ)て「四夷」と名づくるは、
なお公・侯・伯・子・男を皆な「諸侯」と號すがごとしと云う。
卷八十五 東夷列傳第七十五 序文
「濊・貊・倭・韓は萬里朝獻す」
漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (序文)
王制云 東方曰夷 夷者柢也 言仁而好生 萬物柢地而出
故天性柔順 易以道御 至有君子不死之國焉 夷有九種
曰畎夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷
故孔子欲居九夷也
昔堯命羲仲宅嵎夷 曰暘谷 蓋日之所出也 夏后氏太康失德
夷人始畔 自少康已後 世服王化 遂賓於王門 獻其樂舞 桀爲暴虐
諸夷内侵 殷湯革命 伐而定之 至于仲丁 藍夷作寇 自是或服或畔
三百餘年 武乙衰敝 東夷寖盛 遂分遷淮・岱 漸居中土
及武王滅紂 肅慎來獻石砮・楛矢 管・蔡畔周 乃招誘夷狄
周公征之 遂定東夷 康王之時 肅慎復至 後徐夷僭號
乃率九夷以伐宗周 西至河上 穆王畏其方熾 乃分東方諸侯
命徐偃王主之 偃王處潢池東 地方五百里 行仁義
陸地而朝者三十有六國 穆王後得驥騄之乘 乃使造父御以告楚
令伐徐 一日而至 於是楚文王大舉兵而滅之 偃王仁而無權
不忍闘其人 故致於敗 乃北走彭城武原縣東山下 百姓隨之者以萬數
因名其山爲徐山 厲王無道 淮夷入寇 王命虢仲征之 不克
宣王復命召公伐而平之 及幽王淫亂 四夷交侵 至齊桓修霸
攘而卻焉 及楚靈會申 亦來豫盟 後越遷琅邪 與共征戰
遂陵暴諸夏 侵滅小邦
秦并六國 其淮・泗夷皆散爲民戸 陳渉起兵 天下崩潰
燕人衞滿避地朝鮮 因王其國 百有餘歳 武帝滅之
於是東夷始通上京 王莽簒位 貊人寇邊 建武之初 復來朝貢
時遼東太守祭肜威讋北方 聲行海表 於是濊・貊・倭・韓萬里朝獻
故章・和已後 使聘流通 逮永初多難 始入寇鈔 桓・靈失政
漸滋曼焉
自中興之後 四夷來賓 雖時有乖畔 而使驛不絶 故國俗風土
可得略記 東夷率皆土著 憙飲酒歌舞 或冠弁衣錦 器用俎豆
所謂中國失禮 求之四夷者也 凡蠻・夷・戎・狄總名四夷者
猶公・侯・伯・子・男皆號諸侯云
『王制』(=『禮記(らいき)・王制偏』)に云う、
「東方を夷(い)と曰う」と。
「夷」とは「柢(てい/「根」のこと)」なり。
仁にして好生(末尾「注1」を参照)、
萬物は地に柢して(=根をしっかりと張って)出ずと言う。
故に天性柔順、道をもって御(ぎょ)し易し。
君子・不死の國有るに至る。
(参照:「山海經」) 夷に九種有り。
畎夷(けんい)・于夷(うい)・方夷(ほうい)・
黄夷(こうい)・白夷(はくい)・赤夷(せきい)・
玄夷(げんい)・風夷(ふうい)・陽夷(ようい)と曰う。
故に孔子は九夷に居らんと欲せしなり。
昔、堯(ぎょう)は羲仲(ぎちゅう)に命じ
嵎夷(ぐうい)に宅せしむ。
暘谷(ようこく)と曰う。
蓋(けだ)し日の出ずる所なり。
夏后氏の太康は德を失ない、夷人始めて畔(そむ)く。
少康(=夏后少康)已後(いご/以後)より
世に王化に服し遂に王門に賓(ひん)し、その樂舞を獻ず。
桀(けつ/夏の桀王)は暴虐を爲し、諸夷は内に侵す。
殷の湯(とう/殷の湯王)は命を革(あらた)め、
伐ちてこれを定む。
仲丁(ちゅうてい)に至り、藍夷(らんい)は寇を作(な)す。
これより或いは服し或いは畔(そむ)き、三百餘年。
武乙は衰敝し、東夷は寖(ようや)く盛んなり。
遂に分かちて淮(わい)・岱(たい)に遷(うつ)り、
漸(ようや)く中土に居す。
武王(=周の武王)、紂(=殷の紂王)を滅ばすに及び、
肅慎(しゅくしん)來り石砮(せきど)・楛矢(こし)を獻ず。
管・蔡(=武王の弟の管叔と蔡叔)、周に畔き、
すなわち夷狄(いてき)を招誘す。
周公これを征し、遂に東夷を定む。
康王の時、肅慎また至る。
後に徐夷(じょい)僭號(せんごう)し、
すなわち九夷を率い以って宗周を伐ち、
西に河(=黄河)の上(ほとり)に至る。
穆王(ぼくおう)、そのまさに熾(さかん)なるを畏れ、
すなわち東方諸侯を分かち、
徐の偃王(えんおう)に命じてこれに主たらしむ。
偃王は潢池(こうち)の東に處す。
地の方は五百里。
仁義を行ない、陸地にして朝する者は三十有六國。
穆王、後に驥騄(きりょく)の乘を得たり。
すなわち造父(ぞうほ)をして御さしめ、
以って楚に告げて徐を伐たしむ。
一日にして至る。
ここに楚の文王は大いに兵を舉げてこれを滅す。
偃王は仁なれども權無く、その人と闘うに忍びず。
故に敗を致す。
すなわち彭城武原縣の東山の下に北走(のが)る。
百姓のこれに隨う者、以って萬を數えたり。
因りてその山の名を徐山と爲す。
厲王は無道にして、淮夷(わいい)入寇す。
王、虢仲(かくちゅう)に命じてこれを征たしむるも克たず。
宣王、また召公に命じ伐たしめてこれを平らぐ。
幽王の淫亂なるに及び、四夷は交(こもごも)侵す。
齊桓(=春秋五覇の一人、齊の桓公)の霸を修むるに至り、
攘(はら)いてこれを卻(しりぞ)く。
楚靈(=楚の靈王)、
申(しん)に會するに及び、また來り盟に豫(あずか)る。
後に越は琅邪(ろうや)に遷り、與共(とも)に征戰し、
遂に諸夏を陵暴(りょうぼう)し、小邦を侵し滅ぼす。
秦は六國を并せ、その淮(わい)・泗(し)の夷は
皆な散じて民戸と爲す。
陳渉(=陳勝)兵を起こし、天下崩潰す(=陳勝呉広の乱)。
燕人衞滿(えいまん)は地を朝鮮に避け、
因りてその國に王たりて(=衞氏朝鮮)百有餘歳。
武帝(=漢の武帝)はこれを滅ぼし、
ここに東夷は始めて上京に通ず。
王莽(おうもう)、簒位するや貊人(はくじん)は邊を寇す。
建武の初め、また來たり朝貢す。
時に遼東太守の祭肜(さいゆう)は、
威を北方に讋(おそ)れしめ、聲は海表に行なわれたり。
ここに濊(わい)・貊(はく)・倭(わ)・韓(かん)は
萬里朝獻す。
故に章・和(=後漢の章帝・和帝)已後(=以後)、
使聘(しへい)流通す。
永初の多難に逮(およ)び、始めて入りて寇鈔す。
桓・靈(=後漢の桓帝・靈帝)失政し、
漸(ようや)く滋曼(じまん)せり。
中興(=後漢の光武帝により漢王朝が復興された)の後より、
四夷來賓す。
時に乖畔(かいはん)有りと雖ども、而して使驛は絶えず。
故に國俗風土を略記するを得る可し。
東夷は率(おおむね)皆な
土著(どちょ/土地につく=定住)にして
飲酒・歌舞を憙(この)み、或いは弁(べん)を冠り錦を衣る。
器に俎豆(そとう)を用う。
所謂(いわゆる)、中國、禮を失なわば、
これを四夷に求むる者なり。
凡そ蠻(ばん=南蠻)・夷(い=東夷)・戎(じゅう=西戎)・
狄(てき=北狄)を總(すべ)て「四夷」と名づくるは、
なお公・侯・伯・子・男を皆な「諸侯」と號すがごとしと云う。
卷八十五 東夷列傳第七十五 夫餘
後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (夫餘) (原文)
夫餘國 在玄菟北千里 南與高句驪 東與挹婁 西與鮮卑接
北有弱水 地方二千里 本濊地也
初 北夷索離國王出行 其侍兒於後身 王還 欲殺之 侍兒曰
前見天上有氣 大如雞子 來降我 因以有身 王囚之 後遂生男
王令置於豕牢 豕以口氣嘘之 不死 復徙於馬蘭 馬亦如之
王以爲神 乃聽母收養 名曰東明 東明長而善射 王忌其猛
復欲殺之 東明奔走 南至掩水 以弓擊水 魚鼈皆聚浮水上
東明乘之得度 因至夫餘而王之焉 於東夷之域 最爲平敞 土宜五穀
出名馬・赤玉・貂 大珠如酸棗 以員柵爲城 有宮室・倉庫・牢獄
其人麤大彊勇而謹厚 不爲寇鈔 以弓矢刀矛爲兵 以六畜名官
有馬加・牛加・狗加 其邑落皆主屬諸加 食飲用俎豆 會同拜爵洗爵
揖讓升降 以臘月祭天 大會連日 飲食歌舞 名曰 迎鼓
是時斷刑獄 解囚徒 有軍事亦祭天 殺牛 以占其吉凶 行人無晝夜
好歌吟 音聲不絶 其俗用刑嚴急 被誅者皆沒其家人爲奴婢
盜一責十二 男女淫皆殺之 尤治惡妒婦 既殺 復尸於山上
兄死妻嫂 死則有椁無棺 殺人殉葬 多者以百數 其王葬用玉匣
漢朝常豫以玉匣付玄菟郡 王死則迎取以葬焉
建武中 東夷諸國皆來獻見 二十五年 夫餘王遣使奉貢
光武厚荅報之 於是使命歳通 至安帝永初五年
夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪 殺傷吏民 後復歸附 永寧元年
乃遣嗣子尉仇台詣闕貢獻 天子賜尉仇台印綬金綵 順帝永和元年
其王來朝京師 帝作黄門鼓吹・角抵戲以遣之 桓帝延熹四年
遣使朝賀貢獻 永康元年 王夫台將二萬餘人寇玄菟
玄菟太守公孫域擊破之 斬首千餘級 至靈帝熹平三年
復奉章貢獻 夫餘本屬玄菟 獻帝時 其王求屬遼東云
卷八十五 東夷列傳第七十五 挹婁
後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (挹婁)
挹婁 古肅慎之國也 在夫餘東北千餘里 東濱大海 南與北沃沮接
不知其北所極 土地多山險 人形似夫餘 而言語各異 有五穀・麻布
出赤玉・好貂 無君長 其邑落各有大人 處於山林之閒 土氣極寒
常爲穴居 以深爲貴 大家至接九梯 好養豕 食其肉 衣其皮
冬以豕膏塗身 厚數分 以禦風寒 夏則裸袒 以尺布蔽其前後
其人臭穢不絜 作廁於中 圜之而居 自漢興已後 臣屬夫餘
種衆雖少 而多勇力 處山險 又善射 發能入人目 弓長四尺
力如弩 矢用楛 長一尺八寸 青石爲鏃 鏃皆施毒 中人即死
便乘船 好寇盜 鄰國畏患 而卒不能服
東夷夫餘飲食類皆用俎豆 唯挹婁獨無 法俗最無綱紀者也
挹婁(ゆうろう)。
古(いにしえ)の肅慎(しゅくしん)の國なり。
夫餘(ふよ)の東北千餘里に在り。
東は大海に濱(そ)い、南は北沃沮(ほくよくそ)と接す。
その北は極まる所を知らず。
土地は山險多く、人の形は夫餘に似る。
而して言語は各(おのおの)異る。
五穀・麻布有り。
赤玉・好貂(こうちょう/貂=てん)を出だす。
君長(くんちょう)無く、
その邑落には各(おのおの)大人(たいじん)有り。
山林の閒(=間)に處し、土氣は極寒なり。
常に穴居を爲し、深きを以って貴しと爲す。
大家は接(せつ)九梯(きゅうてい)に至る。
好(よ)く豕(=豚)を養(か)い、その肉を食し、
その皮を衣とす。
冬は豕の膏を以って身に塗り、厚さ數分。
以って風寒を禦(ふせ)ぐ。
夏はすなわち裸袒(らたん)し、
尺布を以ってその前後を蔽(おお)う。
その人は臭穢(しゅうえ)・不絜(ふけつ)にして
廁を中に作りこれを圜(かこ)みて居す。
漢の興(おこ)りてより已後(=以後)、夫餘に臣屬す。
種衆は少なしと雖ども、而して多くは勇力。
山險に處し、また善射にして、發すれば能く人の目に入る。
弓の長さは四尺にして力は弩(ど/いしゆみ)の如し。
矢は楛(こ/イバラに似た低木で茎は矢柄に用いる)を用い、
長さは一尺八寸にして、青石を鏃(やじり)と爲し、
鏃は皆な毒を施(ほどこ)し、中(あた)れば人は即ち死す。
船に乘ること便(たくみ)にして、好く寇盜す。
鄰國は畏れ患うるも、
而して卒(つい)に服すること能(あた)わず。
東夷夫餘は飲食の類(たぐい)に皆な俎豆(そとう)を用いるも、
唯(ただ)挹婁のみ獨り無し。
法俗(ほうぞく)最も綱紀(こうき)無き者なり。
卷八十五 東夷列傳第七十五 高句驪
後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (高句驪) (原文)
高句驪 在遼東之東千里 南與朝鮮・濊貊 東與沃沮 北與夫餘接
地方二千里 多大山深谷 人隨而爲居 少田業 力作不足以自資
故其俗節於飲食 而好修宮室 東夷相傳以爲夫餘別種
故言語法則多同 而跪拜曳一 行歩皆走 凡有五族
有消奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部 本消奴部爲王 稍微弱
後桂婁部代之 其置官 有相加・對盧・沛者・古鄒大加・主簿・
優台・使者・帛衣先人 武帝滅朝鮮 以高句驪爲縣 使屬玄菟
賜鼓吹伎人 其俗淫 皆絜淨自憙 暮夜輒男女羣聚爲倡樂
好祠鬼神・社稷・零星 以十月祭天大會 名曰 東盟 其國東有大穴
號襚神 亦以十月迎而祭之 其公會衣服皆錦繡 金銀以自飾
大加・主簿皆著幘 如冠幘而無後 其小加著折風 形如弁
無牢獄 有罪 諸加評議便殺之 沒入妻子爲奴婢 其昏姻皆就婦家
生子長大 然後將還 便稍營送終之具 金銀財幣盡於厚葬 積石爲封
亦種松柏 其人性凶急 有氣力 習戰闘 好寇鈔 沃沮・東濊皆屬焉
句驪一名貊 有別種 依小水爲居 因名曰小水貊 出好弓 所謂
貊弓 是也
王莽初 發句驪兵以伐匈奴 其人不欲行 彊迫遣之
皆亡出塞爲寇盜 遼西大尹田譚追擊 戰死 莽令其將嚴尤擊之
誘句驪侯騶入塞 斬之 傳首長安 莽大説 更名高句驪王爲下句驪侯
於是貊人寇邊愈甚 建武八年 高句驪遣使朝貢 光武復其王號
二十三年冬 句驪蠶支落大加戴升等萬餘口詣樂浪内屬 二十五年春
句驪寇右北平・漁陽・上谷・太原 而遼東太守祭肜以恩信招之
皆復款塞
後句驪王宮生而開目能視 國人懷之 及長勇壯 數犯邊境
和帝元興元年春 復入遼東 寇略六縣 太守耿夔擊破之 斬其渠帥
安帝永初五年 宮遣使貢獻 求屬玄菟 元初五年 復與濊貊寇玄菟
攻華麗城 建光元年春 幽州刺史馮煥・玄菟太守姚光・
遼東太守蔡諷等將兵出塞擊之 捕斬濊貊渠帥 獲兵馬財物
宮乃遣嗣子遂成將二千餘人逆光等 遣使詐降 光等信之
遂成因據險以遮大軍 而潛遣三千人攻玄菟・遼東 焚城郭
殺傷二千餘人 於是發廣陽・漁陽・右北平・涿郡屬國三千餘騎同救之
而貊人已去 夏 復與遼東鮮卑八千餘人攻遼隊 殺略吏人
蔡諷等追擊於新昌 戰歿 功曹耿耗・兵曹掾龍端・
兵馬掾公孫酺以身扞諷 倶沒於陳 死者百餘人 秋 宮遂率馬韓・
濊貊數千騎圍玄菟 夫餘王遣子尉仇台將二萬餘人 與州郡并力討破之
斬首五百餘級
是歳宮死 子遂成立 姚光上言欲因其喪發兵擊之 議者皆以爲可許
尚書陳忠曰 宮前桀黠 光不能討 死而擊之 非義也 宜遣弔問
因責讓前罪 赦不加誅 取其後善 安帝從之 明年 遂成還漢生口
詣玄菟降 詔曰 遂成等桀逆無状 當斬斷葅醢 以示百姓 幸會赦令
乞罪請降 鮮卑・濊貊連年寇鈔 驅略小民 動以千數
而裁送數十百人 非向化之心也 自今已後
不與縣官戰闘而自以親附送生口者 皆與贖直 縑人四十匹 小口半之
遂成死 子伯固立 其後濊貊率服 東垂少事 順帝陽嘉元年
置玄菟郡屯田六部 質・桓之閒 復犯遼東西安平 殺帶方令
掠得樂浪太守妻子 建寧二年 玄菟太守耿臨討之 斬首數百級
伯固降服 乞屬玄菟云
卷八十五 東夷列傳第七十五 東沃沮
後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (東沃沮) (原文)
東沃沮在高句驪蓋馬大山之東 東濱大海 北與挹婁・夫餘
南與濊貊接 其地東西夾 南北長 可折方千里 土肥美 背山向海
宜五穀 善田種 有邑落長帥 人性質直彊勇 便持矛歩戰
言語・食飲・居處・衣服有似句驪 其葬 作大木椁 長十餘丈
開一頭爲戸 新死者先假埋之 令皮肉盡 乃取骨置椁中
家人皆共一椁 刻木如生 隨死者爲數焉
武帝滅朝鮮 以沃沮地爲玄菟郡 後爲夷貊所侵 徙郡於高句驪西北
更以沃沮爲縣 屬樂浪東部都尉 至光武罷都尉官 後皆以封其渠帥
爲沃沮侯 其土迫小 介於大國之閒 遂臣屬句驪
句驪復置其中大人爲使者 以相監領 責其租税 貂布魚鹽 海中食物
發美女爲婢妾焉
又有北沃沮 一名置溝婁 去南沃沮八百餘里 其俗皆與南同
界南接挹婁 挹婁人憙乘船寇抄 北沃沮畏之 毎夏輒臧於巖穴
至冬船道不通 乃下居邑落 其耆老言 嘗於海中得一布衣
其形如中人衣 而兩袖長三丈 又於岸際見一人乘破船 頂中復有面
與語不通 不食而死 又説海中有女國 無男人 或傳其國有神井
闚之輒生子云
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ