2015年6月30日火曜日

『後漢書』①

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2013/12/19

 倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」

 ≪後漢書≫

 ※出典:古代史獺祭

 南朝宋 范曄(398~445) 撰。

 後漢(25~220)の歴史を記した史書。

 卷一下 光武帝紀第一下 中元二年 (付 論・賛)

 「倭奴國王、使を遣わす」。

 この翌月に光武帝は崩御する。

 倭奴國王の遣使は光武帝の生涯にぎりぎり間にあったのだった。

 後漢書 卷一下光武帝紀第一下 より 中元二年 抜粋 (原文)

 (中元)

 二年春正月辛未 初立北郊 祀后土 東夷倭奴國王遣使奉獻

 二月戊戌 帝崩於南宮前殿 年六十二 遺詔曰 朕無益百姓 

 皆如孝文皇帝制度 務從約省 刺史・二千石・長吏皆無離城郭

 無遣吏及因郵奏

 初 帝在兵閒 久厭武事 且知天下疲秏 思樂息肩 自隴・蜀平後

 非儆急未嘗復言軍旅 皇太子嘗問攻戰之事 帝曰 昔衞靈公問陳

 孔子不對 此非爾所及 毎旦視朝 日側迺罷

 數引公卿・郎・將講論經理 夜分迺寐 皇太子見帝勤勞不怠

 承閒諫曰 陛下有禹湯之明 而失黄老養性之福 願頤愛精神

 優游自寧 帝曰 我自樂此 不爲疲也 雖身濟大業 兢兢如不及

 故能明慎政體 總攬權綱 量時度力 舉無過事 退功臣而進文吏

 戢弓矢而散馬牛 雖道未方古 斯亦止戈之武焉


 論曰 皇考南頓君初爲濟陽令 以建平元年十二月甲子夜生光武於縣舍

 有赤光照室中 欽異焉 使卜者王長占之 長辟左右曰 此兆吉不可言

 是歳縣界有嘉禾生 一莖九穗 因名光武曰秀 明年 方士有夏賀良者

 上言哀帝 云漢家歴運中衰 當再受命 於是改號爲太初元年

 稱陳聖劉太平皇帝 以厭勝之 及王莽簒位 忌惡劉氏 以錢文有金刀

 故改爲貨泉 或以貨泉字文爲 白水眞人

 後望氣者蘇伯阿爲王莽使至南陽 遙望見舂陵郭 唶曰 氣佳哉 

 鬱鬱蔥蔥然 及始起兵還舂陵 遠望舍南 火光赫然屬天

 有頃不見 初 道士西門君惠・李守等亦云 劉秀當爲天子

 其王者受命 信有符乎 不然 何以能乘時龍而御天哉


 贊曰 炎正中微 大盜移國 九縣飆回 三精霧塞 人厭淫詐 

 神思反德 光武誕命 靈貺自甄 沈幾先物 深略緯文 尋邑百萬

 貔虎爲羣 長轂雷野 高鋒彗雲 英威既振 新都自焚 虔劉庸代

 紛紜梁趙 三河未澄 四關重擾 神旌乃顧 遞行天討 金湯失險

 車書共道 靈慶既啓 人謀咸贊 明明廟謨 赳赳雄斷 於赫有命

 系隆我漢


 卷五 孝安帝紀第五 永初元年

 「倭國、使を遣わし奉獻す」

 後漢書 卷五孝安 帝紀第五 より 永初元年 抜粋 (原文)

  永初元年春正月癸酉朔 大赦天下 蜀郡徼外羌内屬 戊寅 

 分犍爲南部爲屬國都尉 稟司隸兗・豫・徐・冀・并州貧民

  二月丙午 以廣成游獵地及被災郡國公田假與貧民 丁卯 分清河國

 封帝弟常保爲廣川王 庚午 司徒梁鮪薨

  三月癸酉 日有食之 詔公卿内外衆官・郡國守相 

 舉賢良方正・有道術之士 明政術・達古今・能直言極諫者 

 各一人 己卯 永昌徼外僥種夷貢獻内屬 甲申 葬清河孝王 

 贈龍旗・虎賁

  夏五月甲戌 長樂衞尉魯恭爲司徒 丁丑 

 詔封北海王睦孫壽光侯普爲北海王 九眞徼外夜郎蠻夷舉土内屬

  六月戊申 爵皇太后母陰氏爲新野君 丁巳 河東地陷 

 壬戌 罷西域都護 先零種羌叛 斷隴道 大爲寇掠 

 遣車騎將軍鄧騭・征西校尉任尚討之 丁卯 

 赦除諸羌相連結謀叛逆者罪

  秋九月庚午 詔三公明申舊令 禁奢侈 無作浮巧之物 殫財厚葬

 是日 太尉徐防免 辛未 司空尹勤免 癸酉 調揚州五郡租米

 贍給東郡・濟陰・陳留・梁國・下邳・山陽 丁丑 詔曰

 自今長吏被考竟未報 自非父母喪無故輒去職者

 劇縣十歳・平縣五歳以上 乃得次用 壬午

 詔太僕・少府減黄門鼓吹 以補羽林士 廐馬非乘輿常所御者

 皆減半食 諸所造作 非供宗廟園陵之用 皆且止 丙戌

 詔死罪以下及亡命贖 各有差 庚寅 太傅張禹爲太尉

 太常周章爲司空

  冬十月 倭國遣使奉獻 辛酉 新城山泉水大出

  十一月丁亥 司空周章密謀廢立 策免自殺 戊子

 敕司隸校尉・冀并二州刺史 民訛言相驚 弃捐舊居 老弱相攜

 窮困道路 其各敕所部長吏 躬親曉諭 若欲歸本郡

 在所爲封長檄 不欲勿強

  十二月乙卯 潁川太守張敏爲司空

 是歳 郡國十八地震 四十一雨水 或山水暴至 二十八大風 雨雹


 卷八十五 東夷列傳第七十五 序文

 「濊・貊・倭・韓は萬里朝獻す」

 後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (序文)

  王制云 東方曰夷 夷者柢也 言仁而好生 萬物柢地而出

 故天性柔順 易以道御 至有君子不死之國焉 夷有九種

 曰畎夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷

 故孔子欲居九夷也

  昔堯命羲仲宅嵎夷 曰暘谷 蓋日之所出也 夏后氏太康失德

 夷人始畔 自少康已後 世服王化 遂賓於王門 獻其樂舞 桀爲暴虐

 諸夷内侵 殷湯革命 伐而定之 至于仲丁 藍夷作寇 自是或服或畔

 三百餘年 武乙衰敝 東夷寖盛 遂分遷淮・岱 漸居中土

  及武王滅紂 肅慎來獻石砮・楛矢 管・蔡畔周 乃招誘夷狄

 周公征之 遂定東夷 康王之時 肅慎復至 後徐夷僭號

 乃率九夷以伐宗周 西至河上 穆王畏其方熾 乃分東方諸侯

 命徐偃王主之 偃王處潢池東 地方五百里 行仁義

 陸地而朝者三十有六國 穆王後得驥騄之乘 乃使造父御以告楚

 令伐徐 一日而至 於是楚文王大舉兵而滅之 偃王仁而無權

 不忍闘其人 故致於敗 乃北走彭城武原縣東山下 百姓隨之者以萬數

 因名其山爲徐山 厲王無道 淮夷入寇 王命虢仲征之 不克

 宣王復命召公伐而平之 及幽王淫亂 四夷交侵 至齊桓修霸

 攘而卻焉 及楚靈會申 亦來豫盟 後越遷琅邪 與共征戰

 遂陵暴諸夏 侵滅小邦

  秦并六國 其淮・泗夷皆散爲民戸 陳渉起兵 天下崩潰

 燕人衞滿避地朝鮮 因王其國 百有餘歳 武帝滅之

 於是東夷始通上京 王莽簒位 貊人寇邊 建武之初 復來朝貢

 時遼東太守祭肜威讋北方 聲行海表

 於是濊・貊・倭・韓萬里朝獻 故章・和已後 使聘流通 逮永初多難

 始入寇鈔 桓・靈失政 漸滋曼焉

  自中興之後 四夷來賓 雖時有乖畔 而使驛不絶 故國俗風土

 可得略記 東夷率皆土著 憙飲酒歌舞 或冠弁衣錦 器用俎豆

 所謂中國失禮 求之四夷者也 凡蠻・夷・戎・狄總名四夷者

 猶公・侯・伯・子・男皆號諸侯云

  『王制』(=『禮記(らいき)・王制偏』)に云う、

 「東方を夷(い)と曰う」と。 

 「夷」とは「柢(てい/「根」のこと)」なり。

 仁にして好生(末尾「注1」を参照)、

 萬物は地に柢して(=根をしっかりと張って)出ずと言う。

 故に天性柔順、道をもって御(ぎょ)し易し。

 君子・不死の國有るに至る。

 (参照:「山海經」)

 夷に九種有り。 畎夷(けんい)・于夷(うい)・方夷(ほうい)・

 黄夷(こうい)・白夷(はくい)・赤夷(せきい)・

 玄夷(げんい)・風夷(ふうい)・陽夷(ようい)と曰う。

 故に孔子は九夷に居らんと欲せしなり。

  昔、堯(ぎょう)は羲仲(ぎちゅう)に命じ

 嵎夷(ぐうい)に宅せしむ。 暘谷(ようこく)と曰う。

 蓋(けだ)し日の出ずる所なり。

 夏后氏の太康は德を失ない、夷人始めて畔(そむ)く。

 少康(=夏后少康)已後(いご/以後)より

 世に王化に服し遂に王門に賓(ひん)し、その樂舞を獻ず。

 桀(けつ/夏の桀王)は暴虐を爲し、諸夷は内に侵す。

 殷の湯(とう/殷の湯王)は命を革(あらた)め、

 伐ちてこれを定む。 仲丁(ちゅうてい)に至り、

 藍夷(らんい)は寇を作(な)す。

 これより或いは服し或いは畔(そむ)き、三百餘年。

 武乙は衰敝し、東夷は寖(ようや)く盛んなり。

 遂に分かちて淮(わい)・岱(たい)に遷(うつ)り、

 漸(ようや)く中土に居す。

  武王(=周の武王)、紂(=殷の紂王)を滅ばすに及び、

 肅慎(しゅくしん)來り石砮(せきど)・楛矢(こし)を獻ず。

 管・蔡(=武王の弟の管叔と蔡叔)、周に畔き、

 すなわち夷狄(いてき)を招誘す。

 周公これを征し、遂に東夷を定む。

 康王の時、肅慎また至る。

 後に徐夷(じょい)僭號(せんごう)し、

 すなわち九夷を率い以って宗周を伐ち、

 西に河(=黄河)の上(ほとり)に至る。

 穆王(ぼくおう)、そのまさに熾(さかん)なるを畏れ、

 すなわち東方諸侯を分かち、

 徐の偃王(えんおう)に命じてこれに主たらしむ。

 偃王は潢池(こうち)の東に處す。

 地の方は五百里。

 仁義を行ない、陸地にして朝する者は三十有六國。

 穆王、後に驥騄(きりょく)の乘を得たり。

 すなわち造父(ぞうほ)をして御さしめ、

 以って楚に告げて徐を伐たしむ。

 一日にして至る。

 ここに楚の文王は大いに兵を舉げてこれを滅す。

 偃王は仁なれども權無く、その人と闘うに忍びず。

 故に敗を致す。

 すなわち彭城武原縣の東山の下に北走(のが)る。

 百姓のこれに隨う者、以って萬を數えたり。

 因りてその山の名を徐山と爲す。

 厲王は無道にして、淮夷(わいい)入寇す。

 王、虢仲(かくちゅう)に命じてこれを征たしむるも克たず。

 宣王、また召公に命じ伐たしめてこれを平らぐ。

 幽王の淫亂なるに及び、四夷は交(こもごも)侵す。

 齊桓(=春秋五覇の一人、齊の桓公)の霸を修むるに至り、

 攘(はら)いてこれを卻(しりぞ)く。

 楚靈(=楚の靈王)、申(しん)に會するに及び、

 また來り盟に豫(あずか)る。

 後に越は琅邪(ろうや)に遷り、與共(とも)に征戰し、

 遂に諸夏を陵暴(りょうぼう)し、小邦を侵し滅ぼす。

  秦は六國を并せ、その淮(わい)・

 泗(し)の夷は皆な散じて民戸と爲す。

 陳渉(=陳勝)兵を起こし、天下崩潰す(=陳勝呉広の乱)。

 燕人衞滿(えいまん)は地を朝鮮に避け、

 因りてその國に王たりて(=衞氏朝鮮)百有餘歳。

 武帝(=漢の武帝)はこれを滅ぼし、

 ここに東夷は始めて上京に通ず。

 王莽(おうもう)、簒位するや貊人(はくじん)は邊を寇す。

 建武の初め、また來たり朝貢す。

 時に遼東太守の祭肜(さいゆう)は、

 威を北方に讋(おそ)れしめ、聲は海表に行なわれたり。

 ここに濊(わい)・貊(はく)・倭(わ)・韓(かん)は

 萬里朝獻す。

 故に章・和(=後漢の章帝・和帝)已後(=以後)、

 使聘(しへい)流通す。

 永初の多難に逮(およ)び、始めて入りて寇鈔す。

 桓・靈(=後漢の桓帝・靈帝)失政し、

 漸(ようや)く滋曼(じまん)せり。

  中興(=後漢の光武帝により漢王朝が復興された)の後より、

 四夷來賓す。

 時に乖畔(かいはん)有りと雖ども、而して使驛は絶えず。

 故に國俗風土を略記するを得る可し。

 東夷は率(おおむね)皆な土著(どちょ/土地につく=定住)にして

 飲酒・歌舞を憙(この)み、或いは弁(べん)を冠り錦を衣る。

 器に俎豆(そとう)を用う。

 所謂(いわゆる)、中國、禮を失なわば、

 これを四夷に求むる者なり。

 凡そ蠻(ばん=南蠻)・夷(い=東夷)・戎(じゅう=西戎)・

 狄(てき=北狄)を總(すべ)て「四夷」と名づくるは、

 なお公・侯・伯・子・男を皆な「諸侯」と號すがごとしと云う。


 卷八十五 東夷列傳第七十五 序文

 「濊・貊・倭・韓は萬里朝獻す」

 漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (序文)

  王制云 東方曰夷 夷者柢也 言仁而好生 萬物柢地而出

 故天性柔順 易以道御 至有君子不死之國焉 夷有九種

 曰畎夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷

 故孔子欲居九夷也

  昔堯命羲仲宅嵎夷 曰暘谷 蓋日之所出也 夏后氏太康失德

 夷人始畔 自少康已後 世服王化 遂賓於王門 獻其樂舞 桀爲暴虐

 諸夷内侵 殷湯革命 伐而定之 至于仲丁 藍夷作寇 自是或服或畔

 三百餘年 武乙衰敝 東夷寖盛 遂分遷淮・岱 漸居中土

  及武王滅紂 肅慎來獻石砮・楛矢 管・蔡畔周 乃招誘夷狄

 周公征之 遂定東夷 康王之時 肅慎復至 後徐夷僭號

 乃率九夷以伐宗周 西至河上 穆王畏其方熾 乃分東方諸侯

 命徐偃王主之 偃王處潢池東 地方五百里 行仁義 

 陸地而朝者三十有六國 穆王後得驥騄之乘 乃使造父御以告楚

 令伐徐 一日而至 於是楚文王大舉兵而滅之 偃王仁而無權

 不忍闘其人 故致於敗 乃北走彭城武原縣東山下 百姓隨之者以萬數

 因名其山爲徐山 厲王無道 淮夷入寇 王命虢仲征之 不克

 宣王復命召公伐而平之 及幽王淫亂 四夷交侵 至齊桓修霸

 攘而卻焉 及楚靈會申 亦來豫盟 後越遷琅邪 與共征戰

 遂陵暴諸夏 侵滅小邦

  秦并六國 其淮・泗夷皆散爲民戸 陳渉起兵 天下崩潰

 燕人衞滿避地朝鮮 因王其國 百有餘歳 武帝滅之

 於是東夷始通上京 王莽簒位 貊人寇邊 建武之初 復來朝貢

 時遼東太守祭肜威讋北方 聲行海表 於是濊・貊・倭・韓萬里朝獻

 故章・和已後 使聘流通 逮永初多難 始入寇鈔 桓・靈失政

 漸滋曼焉

  自中興之後 四夷來賓 雖時有乖畔 而使驛不絶 故國俗風土

 可得略記 東夷率皆土著 憙飲酒歌舞 或冠弁衣錦 器用俎豆

 所謂中國失禮 求之四夷者也 凡蠻・夷・戎・狄總名四夷者

 猶公・侯・伯・子・男皆號諸侯云

  『王制』(=『禮記(らいき)・王制偏』)に云う、

 「東方を夷(い)と曰う」と。

 「夷」とは「柢(てい/「根」のこと)」なり。

 仁にして好生(末尾「注1」を参照)、

 萬物は地に柢して(=根をしっかりと張って)出ずと言う。

 故に天性柔順、道をもって御(ぎょ)し易し。

 君子・不死の國有るに至る。

 (参照:「山海經」) 夷に九種有り。

 畎夷(けんい)・于夷(うい)・方夷(ほうい)・

 黄夷(こうい)・白夷(はくい)・赤夷(せきい)・

 玄夷(げんい)・風夷(ふうい)・陽夷(ようい)と曰う。

 故に孔子は九夷に居らんと欲せしなり。

 昔、堯(ぎょう)は羲仲(ぎちゅう)に命じ

 嵎夷(ぐうい)に宅せしむ。

 暘谷(ようこく)と曰う。

 蓋(けだ)し日の出ずる所なり。

 夏后氏の太康は德を失ない、夷人始めて畔(そむ)く。

 少康(=夏后少康)已後(いご/以後)より

 世に王化に服し遂に王門に賓(ひん)し、その樂舞を獻ず。

 桀(けつ/夏の桀王)は暴虐を爲し、諸夷は内に侵す。

 殷の湯(とう/殷の湯王)は命を革(あらた)め、

 伐ちてこれを定む。

 仲丁(ちゅうてい)に至り、藍夷(らんい)は寇を作(な)す。

 これより或いは服し或いは畔(そむ)き、三百餘年。

 武乙は衰敝し、東夷は寖(ようや)く盛んなり。

 遂に分かちて淮(わい)・岱(たい)に遷(うつ)り、

 漸(ようや)く中土に居す。

  武王(=周の武王)、紂(=殷の紂王)を滅ばすに及び、

 肅慎(しゅくしん)來り石砮(せきど)・楛矢(こし)を獻ず。

 管・蔡(=武王の弟の管叔と蔡叔)、周に畔き、

 すなわち夷狄(いてき)を招誘す。

 周公これを征し、遂に東夷を定む。

 康王の時、肅慎また至る。

 後に徐夷(じょい)僭號(せんごう)し、

 すなわち九夷を率い以って宗周を伐ち、
 
 西に河(=黄河)の上(ほとり)に至る。

 穆王(ぼくおう)、そのまさに熾(さかん)なるを畏れ、

 すなわち東方諸侯を分かち、

 徐の偃王(えんおう)に命じてこれに主たらしむ。

 偃王は潢池(こうち)の東に處す。

 地の方は五百里。

 仁義を行ない、陸地にして朝する者は三十有六國。

 穆王、後に驥騄(きりょく)の乘を得たり。

 すなわち造父(ぞうほ)をして御さしめ、

 以って楚に告げて徐を伐たしむ。

 一日にして至る。

 ここに楚の文王は大いに兵を舉げてこれを滅す。

 偃王は仁なれども權無く、その人と闘うに忍びず。

 故に敗を致す。

 すなわち彭城武原縣の東山の下に北走(のが)る。

 百姓のこれに隨う者、以って萬を數えたり。

 因りてその山の名を徐山と爲す。

 厲王は無道にして、淮夷(わいい)入寇す。

 王、虢仲(かくちゅう)に命じてこれを征たしむるも克たず。

 宣王、また召公に命じ伐たしめてこれを平らぐ。

 幽王の淫亂なるに及び、四夷は交(こもごも)侵す。

 齊桓(=春秋五覇の一人、齊の桓公)の霸を修むるに至り、

 攘(はら)いてこれを卻(しりぞ)く。

 楚靈(=楚の靈王)、

 申(しん)に會するに及び、また來り盟に豫(あずか)る。

 後に越は琅邪(ろうや)に遷り、與共(とも)に征戰し、

 遂に諸夏を陵暴(りょうぼう)し、小邦を侵し滅ぼす。

  秦は六國を并せ、その淮(わい)・泗(し)の夷は

 皆な散じて民戸と爲す。

 陳渉(=陳勝)兵を起こし、天下崩潰す(=陳勝呉広の乱)。

 燕人衞滿(えいまん)は地を朝鮮に避け、

 因りてその國に王たりて(=衞氏朝鮮)百有餘歳。

 武帝(=漢の武帝)はこれを滅ぼし、

 ここに東夷は始めて上京に通ず。

 王莽(おうもう)、簒位するや貊人(はくじん)は邊を寇す。

 建武の初め、また來たり朝貢す。

 時に遼東太守の祭肜(さいゆう)は、

 威を北方に讋(おそ)れしめ、聲は海表に行なわれたり。

 ここに濊(わい)・貊(はく)・倭(わ)・韓(かん)は

 萬里朝獻す。

 故に章・和(=後漢の章帝・和帝)已後(=以後)、

 使聘(しへい)流通す。

 永初の多難に逮(およ)び、始めて入りて寇鈔す。

 桓・靈(=後漢の桓帝・靈帝)失政し、

 漸(ようや)く滋曼(じまん)せり。

  中興(=後漢の光武帝により漢王朝が復興された)の後より、

 四夷來賓す。

 時に乖畔(かいはん)有りと雖ども、而して使驛は絶えず。

 故に國俗風土を略記するを得る可し。

 東夷は率(おおむね)皆な

 土著(どちょ/土地につく=定住)にして

 飲酒・歌舞を憙(この)み、或いは弁(べん)を冠り錦を衣る。

 器に俎豆(そとう)を用う。

 所謂(いわゆる)、中國、禮を失なわば、

 これを四夷に求むる者なり。

 凡そ蠻(ばん=南蠻)・夷(い=東夷)・戎(じゅう=西戎)・

 狄(てき=北狄)を總(すべ)て「四夷」と名づくるは、

 なお公・侯・伯・子・男を皆な「諸侯」と號すがごとしと云う。


 卷八十五 東夷列傳第七十五 夫餘

 後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (夫餘) (原文)

  夫餘國 在玄菟北千里 南與高句驪 東與挹婁 西與鮮卑接

 北有弱水 地方二千里 本濊地也

  初 北夷索離國王出行 其侍兒於後身 王還 欲殺之 侍兒曰

 前見天上有氣 大如雞子 來降我 因以有身 王囚之 後遂生男

 王令置於豕牢 豕以口氣嘘之 不死 復徙於馬蘭 馬亦如之

 王以爲神 乃聽母收養 名曰東明 東明長而善射 王忌其猛

 復欲殺之 東明奔走 南至掩水 以弓擊水 魚鼈皆聚浮水上

 東明乘之得度 因至夫餘而王之焉 於東夷之域 最爲平敞 土宜五穀

 出名馬・赤玉・貂 大珠如酸棗 以員柵爲城 有宮室・倉庫・牢獄

 其人麤大彊勇而謹厚 不爲寇鈔 以弓矢刀矛爲兵 以六畜名官

 有馬加・牛加・狗加 其邑落皆主屬諸加 食飲用俎豆 會同拜爵洗爵

 揖讓升降 以臘月祭天 大會連日 飲食歌舞 名曰 迎鼓

 是時斷刑獄 解囚徒 有軍事亦祭天 殺牛 以占其吉凶 行人無晝夜

 好歌吟 音聲不絶 其俗用刑嚴急 被誅者皆沒其家人爲奴婢

 盜一責十二 男女淫皆殺之 尤治惡妒婦 既殺 復尸於山上

 兄死妻嫂 死則有椁無棺 殺人殉葬 多者以百數 其王葬用玉匣

 漢朝常豫以玉匣付玄菟郡 王死則迎取以葬焉

  建武中 東夷諸國皆來獻見 二十五年 夫餘王遣使奉貢

 光武厚荅報之 於是使命歳通 至安帝永初五年

 夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪 殺傷吏民 後復歸附 永寧元年

 乃遣嗣子尉仇台詣闕貢獻 天子賜尉仇台印綬金綵 順帝永和元年

 其王來朝京師 帝作黄門鼓吹・角抵戲以遣之 桓帝延熹四年

 遣使朝賀貢獻 永康元年 王夫台將二萬餘人寇玄菟

 玄菟太守公孫域擊破之 斬首千餘級 至靈帝熹平三年

 復奉章貢獻 夫餘本屬玄菟 獻帝時 其王求屬遼東云


 卷八十五 東夷列傳第七十五 挹婁

 後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (挹婁)

  挹婁 古肅慎之國也 在夫餘東北千餘里 東濱大海 南與北沃沮接

 不知其北所極 土地多山險 人形似夫餘 而言語各異 有五穀・麻布

 出赤玉・好貂 無君長 其邑落各有大人 處於山林之閒 土氣極寒

 常爲穴居 以深爲貴 大家至接九梯 好養豕 食其肉 衣其皮

 冬以豕膏塗身 厚數分 以禦風寒 夏則裸袒 以尺布蔽其前後

 其人臭穢不絜 作廁於中 圜之而居 自漢興已後 臣屬夫餘

 種衆雖少 而多勇力 處山險 又善射 發能入人目 弓長四尺

 力如弩 矢用楛 長一尺八寸 青石爲鏃 鏃皆施毒 中人即死

 便乘船 好寇盜 鄰國畏患 而卒不能服

 東夷夫餘飲食類皆用俎豆 唯挹婁獨無 法俗最無綱紀者也

  挹婁(ゆうろう)。

 古(いにしえ)の肅慎(しゅくしん)の國なり。

 夫餘(ふよ)の東北千餘里に在り。

 東は大海に濱(そ)い、南は北沃沮(ほくよくそ)と接す。

 その北は極まる所を知らず。

 土地は山險多く、人の形は夫餘に似る。

 而して言語は各(おのおの)異る。

 五穀・麻布有り。

 赤玉・好貂(こうちょう/貂=てん)を出だす。

 君長(くんちょう)無く、

 その邑落には各(おのおの)大人(たいじん)有り。

 山林の閒(=間)に處し、土氣は極寒なり。

 常に穴居を爲し、深きを以って貴しと爲す。

 大家は接(せつ)九梯(きゅうてい)に至る。

 好(よ)く豕(=豚)を養(か)い、その肉を食し、

 その皮を衣とす。

 冬は豕の膏を以って身に塗り、厚さ數分。

 以って風寒を禦(ふせ)ぐ。

 夏はすなわち裸袒(らたん)し、

 尺布を以ってその前後を蔽(おお)う。

  その人は臭穢(しゅうえ)・不絜(ふけつ)にして

 廁を中に作りこれを圜(かこ)みて居す。

 漢の興(おこ)りてより已後(=以後)、夫餘に臣屬す。

 種衆は少なしと雖ども、而して多くは勇力。

 山險に處し、また善射にして、發すれば能く人の目に入る。

 弓の長さは四尺にして力は弩(ど/いしゆみ)の如し。

 矢は楛(こ/イバラに似た低木で茎は矢柄に用いる)を用い、

 長さは一尺八寸にして、青石を鏃(やじり)と爲し、

 鏃は皆な毒を施(ほどこ)し、中(あた)れば人は即ち死す。

 船に乘ること便(たくみ)にして、好く寇盜す。

 鄰國は畏れ患うるも、

 而して卒(つい)に服すること能(あた)わず。

 東夷夫餘は飲食の類(たぐい)に皆な俎豆(そとう)を用いるも、

 唯(ただ)挹婁のみ獨り無し。

 法俗(ほうぞく)最も綱紀(こうき)無き者なり。


 卷八十五 東夷列傳第七十五 高句驪

 後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (高句驪) (原文)

 高句驪 在遼東之東千里 南與朝鮮・濊貊 東與沃沮 北與夫餘接

 地方二千里 多大山深谷 人隨而爲居 少田業 力作不足以自資

 故其俗節於飲食 而好修宮室 東夷相傳以爲夫餘別種

 故言語法則多同 而跪拜曳一 行歩皆走 凡有五族

 有消奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部 本消奴部爲王 稍微弱

 後桂婁部代之 其置官 有相加・對盧・沛者・古鄒大加・主簿・

 優台・使者・帛衣先人 武帝滅朝鮮 以高句驪爲縣 使屬玄菟

 賜鼓吹伎人 其俗淫 皆絜淨自憙 暮夜輒男女羣聚爲倡樂

 好祠鬼神・社稷・零星 以十月祭天大會 名曰 東盟 其國東有大穴

 號襚神 亦以十月迎而祭之 其公會衣服皆錦繡 金銀以自飾

 大加・主簿皆著幘 如冠幘而無後 其小加著折風 形如弁

 無牢獄 有罪 諸加評議便殺之 沒入妻子爲奴婢 其昏姻皆就婦家

 生子長大 然後將還 便稍營送終之具 金銀財幣盡於厚葬 積石爲封

 亦種松柏 其人性凶急 有氣力 習戰闘 好寇鈔 沃沮・東濊皆屬焉

  句驪一名貊 有別種 依小水爲居 因名曰小水貊 出好弓 所謂

 貊弓 是也

  王莽初 發句驪兵以伐匈奴 其人不欲行 彊迫遣之

 皆亡出塞爲寇盜 遼西大尹田譚追擊 戰死 莽令其將嚴尤擊之

 誘句驪侯騶入塞 斬之 傳首長安 莽大説 更名高句驪王爲下句驪侯

 於是貊人寇邊愈甚 建武八年 高句驪遣使朝貢 光武復其王號

 二十三年冬 句驪蠶支落大加戴升等萬餘口詣樂浪内屬 二十五年春 

 句驪寇右北平・漁陽・上谷・太原 而遼東太守祭肜以恩信招之

 皆復款塞

  後句驪王宮生而開目能視 國人懷之 及長勇壯 數犯邊境

 和帝元興元年春 復入遼東 寇略六縣 太守耿夔擊破之 斬其渠帥

 安帝永初五年 宮遣使貢獻 求屬玄菟 元初五年 復與濊貊寇玄菟

 攻華麗城 建光元年春 幽州刺史馮煥・玄菟太守姚光・

 遼東太守蔡諷等將兵出塞擊之 捕斬濊貊渠帥 獲兵馬財物

 宮乃遣嗣子遂成將二千餘人逆光等 遣使詐降 光等信之

 遂成因據險以遮大軍 而潛遣三千人攻玄菟・遼東 焚城郭

 殺傷二千餘人 於是發廣陽・漁陽・右北平・涿郡屬國三千餘騎同救之

 而貊人已去 夏 復與遼東鮮卑八千餘人攻遼隊 殺略吏人

 蔡諷等追擊於新昌 戰歿 功曹耿耗・兵曹掾龍端・

 兵馬掾公孫酺以身扞諷 倶沒於陳 死者百餘人 秋 宮遂率馬韓・

 濊貊數千騎圍玄菟 夫餘王遣子尉仇台將二萬餘人 與州郡并力討破之

 斬首五百餘級

  是歳宮死 子遂成立 姚光上言欲因其喪發兵擊之 議者皆以爲可許

 尚書陳忠曰 宮前桀黠 光不能討 死而擊之 非義也 宜遣弔問

 因責讓前罪 赦不加誅 取其後善 安帝從之 明年 遂成還漢生口

 詣玄菟降 詔曰 遂成等桀逆無状 當斬斷葅醢 以示百姓 幸會赦令

 乞罪請降 鮮卑・濊貊連年寇鈔 驅略小民 動以千數

 而裁送數十百人 非向化之心也 自今已後

 不與縣官戰闘而自以親附送生口者 皆與贖直 縑人四十匹 小口半之 

  遂成死 子伯固立 其後濊貊率服 東垂少事 順帝陽嘉元年

 置玄菟郡屯田六部 質・桓之閒 復犯遼東西安平 殺帶方令

 掠得樂浪太守妻子 建寧二年 玄菟太守耿臨討之 斬首數百級

 伯固降服 乞屬玄菟云


 卷八十五 東夷列傳第七十五 東沃沮

 後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (東沃沮) (原文)

 東沃沮在高句驪蓋馬大山之東 東濱大海 北與挹婁・夫餘

 南與濊貊接 其地東西夾 南北長 可折方千里 土肥美 背山向海

 宜五穀 善田種 有邑落長帥 人性質直彊勇 便持矛歩戰

 言語・食飲・居處・衣服有似句驪 其葬 作大木椁 長十餘丈

 開一頭爲戸 新死者先假埋之 令皮肉盡 乃取骨置椁中

 家人皆共一椁 刻木如生 隨死者爲數焉

  武帝滅朝鮮 以沃沮地爲玄菟郡 後爲夷貊所侵 徙郡於高句驪西北

 更以沃沮爲縣 屬樂浪東部都尉 至光武罷都尉官 後皆以封其渠帥

 爲沃沮侯 其土迫小 介於大國之閒 遂臣屬句驪

 句驪復置其中大人爲使者 以相監領 責其租税 貂布魚鹽 海中食物

 發美女爲婢妾焉

  又有北沃沮 一名置溝婁 去南沃沮八百餘里 其俗皆與南同

 界南接挹婁 挹婁人憙乘船寇抄 北沃沮畏之 毎夏輒臧於巖穴

 至冬船道不通 乃下居邑落 其耆老言 嘗於海中得一布衣

 其形如中人衣 而兩袖長三丈 又於岸際見一人乘破船 頂中復有面

 與語不通 不食而死 又説海中有女國 無男人 或傳其國有神井

 闚之輒生子云

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年6月29日月曜日

『論衡』

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2013/12/19

 倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」

 ≪論衡≫

 ※出典:古代史獺祭

 後漢 王充(おうじゅう/27~97)撰。

 もと百編以上あったらしいが現存するのは全三十卷八十五編である。

 いわゆる史書ではなく、

 当時さかんにおこなわれた讖緯説・陰陽五行説に基づく

 迷妄虚構の説・誇大な説などの不合理を徹底的に批判した書。

  論衡 第五卷 異虚第十八 (原文)

 「周の時 天下太平、倭人來り暢草を獻ず」

 奇異の現象を吉だ凶だと騒ぐのは虚妄の説であると批判した一編。

 殷高宗之時 桑榖倶生於朝 七日而大拱 高宗召其相而問之 

 相曰 吾雖知之 弗能言也 問祖己 祖己曰 夫桑榖者 野草也 

 而生於朝 意朝亡乎 高宗恐駭 側身而行道 思索先王之政 

 明養老之義 興滅國 繼絶世 舉佚民 桑榖亡 三年之後 

 諸侯以譯來朝者六國 遂享百年之福 高宗 賢君也 

 而感桑榖生而問祖己 行祖己之言 修政改行 桑榖之妖亡 

 諸侯朝而年長久 脩善之義篤 故瑞應之福渥 此虚言也

 祖己之言 朝當亡者 夫朝之當亡 猶人當死 人欲死 怪出 

 國欲亡 期盡 人死命終 死不復生 亡不復存 祖己之改政 

 何益於不亡 高宗之脩行 何益於除禍 夫家人見凶脩善 

 不能得吉 高宗見妖改政 安能除禍 除禍且不能 況能招致六國 

 延期至百年乎 故人之死生 在於命之夭壽 不在行之善惡 

 國之存亡 在期之長短 不在於政之得失

 案祖己之占 桑榖爲亡之妖 亡象已見 雖脩政改行 其何益哉 

 何以效之 魯昭公之時 鸜來巣 師己採文・成之世童謠之語 

 有鸜之言 見今有來巣之驗 則占謂之凶 其後昭公爲季氏所逐 

 出於齊 國果空虚 都有應驗 故野鳥來巣 師己處之 禍竟如占 

 使昭公聞師己之言 脩行改政爲善 居高宗之操 終不能消 何則 

 鸜之謠已兆 出奔之禍 已成也 鸜之兆 已出於文・成之世矣 

 根生 葉安得不茂 源發 流安得不廣 此尚爲近 未足以言之

 夏將衰也 二龍戰於庭 吐漦而去 夏王櫝而藏之 夏亡 傳於殷 

 殷亡 傳於周 皆莫之發 至厲王之時 發而視之 漦流于庭 

 化爲玄黿 走入後宮 與婦人交 遂生襃姒 襃姒歸周 幽王惑亂 

 國遂滅亡 幽・厲王之去夏世 以爲千數歳 二龍戰時 

 幽・厲・襃姒等 未爲人也 周亡之妖 已出久矣 妖出 

 禍安得不就 瑞見 福安得不至 若二龍戰時言曰 余襃之二君也 

 是則襃姒當生之驗也 龍稱襃 襃姒不得不生 生則幽王不得不惡 

 惡則國不得不亡 亡徴已見 雖五聖十賢相與卻之 終不能消 

 善惡同實 善祥出 國必興 惡祥見 朝必亡 謂惡異可以善行除 

 是謂善瑞可以惡政滅也 河源出於崑崙 其流播於九河 

 使堯・禹卻以善政 終不能還者 水勢當然 人事不能禁也 

 河源不可禁 二龍不可除 則桑榖不可卻也

 王命之當興也 猶春氣之當爲夏也 其當亡也 猶秋氣之當爲冬也 

 見春之微葉 知夏有莖葉 覩秋之零實 知冬之枯 桑榖之生 

 其猶春葉秋實也 必然猶驗之 今詳修政改行 何能除之 

 夫以周亡之祥 見於夏時 又何以知桑榖之生 不爲紂亡出乎 

 或時祖己之言 信野草之占 失遠近之實 高宗問祖己之後 

 側身行道 六國諸侯 偶朝而至 高宗之命 自長未終 

 則謂起桑榖之問 改政脩行 享百年之福矣 夫桑榖之生 

 殆爲紂出 亦或時吉而不凶 故殷朝不亡 高宗壽長 

 祖己信野草之占 謂之當亡之徴

 漢孝武皇帝之時 獲白麟 一角戴肉而五蹄 使謁者終軍議之 

 軍曰 夫野獸而共一角 象天下合同爲一也 麒麟 野獸也 桑榖 

 野草也 倶爲野物 獸・草何別 終軍謂野獸爲吉 祖己謂野草爲凶

 高宗祭成湯之廟 有蜚雉 升鼎耳而雊 祖己以爲 遠人將有來者 

 説尚書家謂雉凶 議駮不同 且從祖己之言 雉來吉也 

 雉伏於野草之中 草覆野鳥之形 若民人處草廬之中 

 可謂其人吉而廬凶乎 民人入都 不謂之凶 野草生朝 

 何故不吉

 雉則民人之類 如謂含血者吉 長狄來至 是吉也 何故謂之凶 

 如以從夷狄來者不吉 介葛盧來朝 是凶也 如以草木者爲凶 

 朱草・蓂莢出 是不吉也 朱草・蓂莢 皆草也 宜生於野 

 而生於朝 是爲不吉 何故謂之瑞 一野之物 來至或出 

 吉凶異議 朱草・蓂莢 善草 故爲吉 則是以善惡爲吉凶 

 不以都野爲好醜也

 周時天下太平 越嘗獻雉於周公 高宗得之而吉 雉亦野草之物 

 何以爲吉 如以雉耿介有似於士 則亦仍有似君子 公孫述得白 

 占何以凶 然則雉之吉凶未可知 則夫桑榖之善惡未可驗也 

 桑榖或善物 象遠方之士將皆立於高宗之朝 故高宗獲吉福 享長久也

 説災異之家 以爲天有災異者 所以譴告王者 信也 夫王者有過 

 異見於國 不改 災見草本 不改 災見於五穀 不改 災至身 

 左氏春秋傳曰 國之將亡 鮮不五稔 災見於五穀 五穀安得熟 

 不熟 將亡之徴 災亦有且亡五穀不熟之應 夫不熟 或爲災 

 或爲福 禍福之實未可知 桑榖之言 安可審

 論説之家 著於書記者 皆云 天雨穀者凶 傳書曰 蒼頡作書 

 天雨穀 鬼夜哭 此乃凶惡之應和者 夫何用成穀之道 

 從天降而和 且猶謂之善 況所成之穀 從雨下乎 極論訂之 

 何以爲凶 夫陰陽和則穀稼成 不則被災害 陰陽和者 穀之道也 

 何以謂之凶 絲成帛 縷成布 賜人絲縷 猶爲重厚 

 況遺人以成帛與織布乎 夫絲縷猶陰陽 帛布猶成穀也 賜人帛 

 不謂之惡 天與之穀 何故謂之凶 夫雨穀吉凶 未可定 

 桑榖之言 未可知也

 周之時 天下太平 倭人來獻暢草 暢草亦草野之物也 

 與彼桑榖何異 如以夷狄獻之則爲吉 使暢草生於周家 

 肯謂之不善乎 夫暢草可以熾釀 芬香暢達者 將祭 灌暢降神 

 設自生於周朝 與嘉禾・朱草・蓂莢之類 不殊矣 然則桑亦食蠶 

 蠶爲絲 絲爲帛 帛爲衣 衣以入宗廟 爲朝服 與暢無異 

 何以謂之凶

 衛獻公太子至靈臺 虵遶左輪 御者曰 太子下拜 吾聞 國君之子

 虵遶車輪左者 速得國 太子遂不行 反乎舍 御人見太子 

 太子曰 吾聞 爲人子者 盡和順於君 不行私欲 共嚴承令 

 不逆君安 今吾得國 是君失安也 見國之利而忘君安 非子道也 

 得國而拜 其非君欲 廢子道者不孝 逆君欲則不忠 而欲我行之

 殆吾欲國之危 明矣 拔劔將死 其御止之 不能禁 遂伏劔而死

 夫虵遶左輪 審爲太子速得國 太子宜不死 獻公宜疾薨

 今獻公不死 太子伏劔 御者之占 俗之虚言也 

 或時虵爲太子將死之妖 御者信俗之占 故失吉凶之實 

 夫桑榖之生 與虵遶左輪 相似類也 虵至實凶 御者以爲吉 

 桑榖實吉 祖己以爲凶

 禹南濟於江 有黄龍負舟 舟中之人 五色無主 禹乃嘻笑而稱曰 

 我受命於天 竭力以勞萬民 生寄也 死歸也 何足以滑和 

 視龍猶蝘蜓也 龍去而亡患 案古今龍至皆爲吉 

 而禹獨謂黄龍凶者 見其負舟 舟中之人恐也 夫以桑榖比於龍 

 吉凶雖反 蓋相似 野草生於朝 尚爲不吉 殆有若黄龍負舟之異 

 故爲吉而殷朝不亡

 晉文公將與楚成王戰於城濮 彗星出楚 楚操其柄 以問咎犯 

 咎犯對曰 以彗鬭 倒之者勝 文公夢與成王搏 成王在上 

 盬其腦 問咎犯 咎犯曰 君得天 而成王伏其罪 戰必大勝 

 文公從之 大破楚師 嚮令文公問庸臣 必曰不勝 何則 

 彗星無吉 搏在下凶也 夫桑榖之生 占爲凶 猶晉當彗末 

 搏在下爲不吉也 然而吉者 殆有若對彗見天之詭 故高宗長久 

 殷朝不亡

 使文公不問咎犯 咎犯不明其吉 戰以大勝 世人將曰 

 文公以至賢之德 破楚之無道 天雖見妖 臥有凶夢 

 猶滅妖消凶以獲福 殷無咎犯之異知 而有祖己信常之占

 故桑榖之文 傳世不絶 轉禍爲福之言 到今不實


 論衡 第五卷 感虚第十九 (原文)

 天が仁聖の徳に感応して奇跡を起こすというのは

 虚妄の説であると批判した一編。

 儒者傳書言 堯之時 十日並出 萬物燋枯 堯上射十日 九日去 

 一日常出

 此言虚也

 夫人之射也 不過百歩 矢力盡矣 日之行也 行天星度 天之去人

 以萬里數 堯上射之 安能得日 使堯之時 天地相近 不過百歩

 則堯射日 矢能及之 過百歩 不能得也

 假使堯時天地相近 堯射得之 猶不能傷日 傷日何肯去 

 何則日火也 使在地之火 附一把炬 人從旁射之 雖中 

 安能滅之 地火不爲見射而滅 天火何爲見射而去

 此欲言堯以精誠射之 精誠所加 金石爲虧 蓋誠無堅則亦無遠矣

 夫水與火各一性也 能射火而滅之 則當射水而除之 洪水之時

 氾濫中國 爲民大害 堯何不推精誠射而除之 堯能射日 

 使火不爲害 不能射河 使水不爲害 夫射水不能卻水 

 則知射日之語 虚非實也

 或曰 日氣也 射雖不及 精誠滅之 夫天亦遠 使其爲氣 

 則與日月同 使其爲體 則與金石等 以堯之精誠 滅日虧金石 

 上射天則能穿天乎 世稱桀・紂之惡 射天而毆地 譽高宗之德 

 政消桑榖 今堯不能以德滅十日 而必射之 是德不若高宗 

 惡與桀・紂 同也 安能以精誠獲天之應也

 傳書言 武王伐紂 渡孟津 陽侯之波 逆流而擊 疾風晦冥 

 人馬不見 於是武王左操黄鉞 右執白旄 瞋目而麾之曰 余在 

 天下誰敢害吾意者 於是風霽波罷

 此言虚也

 武王渡孟津時 士衆喜樂 前歌後舞 天人同應 人喜天怒 

 非實宜也 前歌後舞 未必其實 麾風而止之 迹近爲虚

 夫風者氣也 論者以爲天地之號令也 武王誅紂是乎 

 天當安靜以祐之 如誅紂非乎 而天風者 怒也 武王不奉天令 

 求索己過 瞋目言曰 余在 天下誰敢害吾意者 重天怒 

 增己之惡也 風何肯止 父母怒 子不改過 瞋目大言 

 父母肯貰之乎 如風天所爲 禍氣自然 是亦無知 

 不爲瞋目麾之故止 夫風猶雨也 使武王瞋目以旄麾雨而止之乎 

 武王不能止雨 則亦不能止風

 或時武王適麾之 風偶自止 世-武王之德 則謂武王能止風矣

 傳書言 魯陽公與韓戰 戰酣 日暮 公援戈而麾之 日爲之反三舍

 此言虚也

 凡人能以精誠感動天者 專心一意 委務積神 精通于天 

 天爲變動 然尚未可謂然 魯陽公志在於戰 爲日暮一麾 

 安能令日反 使聖人麾日 日終不反 魯陽公何人 而使日反乎

 鴻範曰 星有好風 星有好雨 日月之行 則有冬有夏 月之從星 

 則有風雨 夫星與日月同精 日月不從星 星輒復變 明

 日月行有常度 不得從星之好惡也 安得從魯陽公之所欲

 星之在天也 爲日月舍 猶地有郵亭 爲長吏廨也 二十八舍有分度

 一舍十度 或增或減 言日反三舍 乃三十度也 日 日行一度 

 一麾之間 反三十日時所在度也 如謂舍爲度 三度亦三日行也 

 一麾之間 令日卻三日也

 宋景公推誠出三善言 熒惑徙三舍 實論者猶謂之虚 魯陽公爭 

 惡日之暮 以此一戈麾 無誠心善言 日爲之反 殆非其實哉 

 且日 火也 聖人麾火 終不能卻 魯陽公麾日 安能使反

 或時戰時日正卯 戰迷 謂日之暮 麾之 轉左曲道 日若卻 

 世好神怪 因謂之反 不道所謂也

 傳書言 荊軻爲燕太子謀刺秦王 白虹貫日 衛先生爲秦畫長平之事

 太白蝕昴 此言精誠感天 天爲變動也

 夫言白虹貫日 太白蝕昴 實也 言荊軻之謀 衛先生之畫 感動皇天

 故白虹貫日 太白蝕昴者 虚也

 夫以筯撞鐘 以筭擊鼓 不能鳴者 所用撞擊之者小也 今人之形 

 不過七尺 以七尺形中精神 欲有所爲 雖積鋭意 

 猶筯撞鐘・筭擊鼓也 安能動天 精非不誠 所用動者小也 

 且所欲害者 人也 人不動 天反動乎

 問曰 人之害氣 能相動乎 曰 不能 豫讓欲害趙襄子 

 貫高欲篡高祖 二子懷精 故兩主振感 曰 禍變且至 身自有怪

 非適人所能動也 何以驗之 時或遭狂人於途 以刃加己

 狂人未必念害己身也 然而己身先時已有妖怪矣 由此言之

 妖怪之至 禍變自凶之象 非欲害己者之所爲也 且凶之人

 卜得惡兆 筮得凶卦 出門見不吉 占候睹禍氣 禍氣見於面

 猶白虹・太白見於天也 變見於天 妖出於人 上下適然 自相應也

 傳書言 燕太子丹朝於秦 不得去 從秦王求歸 秦王執留之

 與之誓曰 使日再中 天雨粟 令烏白頭 馬生角 厨門木象生肉足

 乃得歸 當此之時 天地祐之 日爲再中 天雨粟 烏白頭 馬生角

 厨門木象生肉足 秦王以爲聖 乃歸之

 此言虚也

 燕太子丹何人 而能動天 聖人之拘 不能動天 太子丹 賢者也 

 何能致此

 夫天能祐太子 生諸瑞以免其身 則能和秦王之意 以解其難 

 見拘一事而易 生瑞五事而難 舍一事之易 爲五事之難 

 何天之不憚勞也

 湯困夏臺 文王拘羑里 孔子厄於陳・蔡 三聖之困 天不能祐 

 使拘之者睹祐知聖 出而尊厚之 或曰 拘三聖者 不與三聖誓 

 三聖心

 不願 故祐聖之瑞 無因而至 天之祐人 猶借人以物器矣 人不求索

 則弗與也 曰 太子願天下瑞之時 豈有語言乎 心願而已 

 然湯閉於夏臺 文王拘於羑里時 心亦願出 孔子厄陳・蔡

 心願食 天何不令夏臺・羑里關鑰毀敗 湯・文渉出 雨粟陳・蔡

 孔子食飽乎

 太史公曰 世稱太子丹之令天雨粟 馬生角 大抵皆虚言也

 太史公書漢世實事之人 而云 虚言 近非實也

 傳書言 杞梁氏之妻嚮城而哭 城爲之崩 此言杞梁從軍不還

 其妻痛之 嚮城而哭 至誠悲痛 精氣動城 故城爲之崩也

 夫言嚮城而哭者 實也 言城爲之崩者 虚也

 夫人哭悲 莫過雍門子 雍門子哭對孟嘗君 孟嘗君爲之於邑

 蓋哭之精誠 故對嚮之者悽愴感動也 夫雍門子能動孟嘗之心

 不能感孟嘗衣者

 衣不知惻怛 不以人心相關通也 今城 土也 土猶衣也

 無心腹之藏 安能爲悲哭感動而崩

 使至誠之聲能動城土 則其對草木而哭 能折草破木乎 嚮水火而泣

 能涌水滅火乎 夫草木水火 與土無異 然杞梁之妻不能崩城 明矣

 或時城適自崩 杞梁妻適哭 下世好虚 不原其實 故崩城之名

 至今不滅

 傳書言 鄒衍無罪 見拘於燕 當夏五月 仰天而歡 天爲隕霜

 此與杞梁之妻哭而崩城 無以異也

 言其無罪見拘 當夏仰天而歎 實也 言天爲之霣霜 虚也

 夫萬人舉口 並解吁嗟 猶未能感天 鄒衍一人 冤而壹歎 安能下霜

 鄒衍之冤 不過曾子・伯奇 曾子見疑而吟 伯奇被逐而歌

 疑・逐與拘同 吟・歌與歎等 曾子・伯奇不能致寒 鄒衍何人

 獨能霣霜

 被逐之冤 尚未足言 申生伏劔 子胥刎頸 實孝而賜死 誠忠而被誅

 且臨死時 皆有聲辭 聲辭出口 與仰天歎無異 天不爲二子感

 獨爲鄒衍動 豈天痛見拘 不悲流血哉 何其冤痛相似 而感動不同也

 夫熯一炬火 爨一鑊水 終日不能熱也 持一尺冰 置庖厨中

 終夜不能寒也 何則 微小之感 不能動大巨也 今鄒衍之歎

 不過如一炬・尺冰 而皇天巨大 不徒鑊水庖厨之醜類也

 一仰天歎 天爲隕霜 何天之易感 霜之易降也

 夫哀與樂同 喜與怒均 衍興怨痛 使天下霜 使衍蒙非望之賞

 仰天而笑 能以冬時使天熱乎 變復之家曰 人君秋賞則温 夏罰則寒

 寒不累時 則霜不降 温不兼日 則冰不釋 一夫冤而一歎 天輒下霜

 何氣之易變 時之易轉也

 寒温自有時 不合變復之家 且從變復之説 或時燕王好用刑 

 寒氣應至 而衍囚拘而歎 歎時霜適自下 世見適歎而霜下

 則謂鄒衍歎之致也

 傳書言 師曠奏白雪之曲 而神物下降 風雨暴至 平公因之癃病

 晉國赤地

 或言 師曠清角之曲 一奏之 有雲從西北起 再奏之 大風至

 大雨隨之 裂帷幕 破俎豆 墮廊瓦 坐者散走 平公恐懼 伏乎廊室

 晉國大旱 赤地三年 平公癃病 夫白雪與清角 或同曲而異名

 其禍敗同一實也

 傳書之家 載以爲是 世俗觀見 信以爲然 原省其實 殆虚言也

 夫清角何音之聲 而能致此 曰 清角・木音也 故致風雨 如木爲風

 雨與風倶 三尺之木 數絃之聲 感動天地 何其神也 此復一哭崩城

 一歎下霜之類也

 師曠能鼓清角 必有所受 非能質性生出之也 其初受學之時

 宿昔習弄 非直一再奏也 審如傳書之言 師曠學清角時 風雨當至也

 傳書言 瓠芭皷瑟 淫魚出聽 師曠鼓琴 六馬仰秣 或言

 師曠鼓清徴 一奏之 有玄鶴二八 自南方來 集於廊門之危

 再奏之而列 三奏之 延頸而鳴 舒翼而舞 音中宮商之聲 聲吁于天

 平公大悅 坐者皆喜 尚書曰 擊石拊石 百獸率舞 此雖奇怪

 然尚可信 何則 鳥獸好悲聲 耳與人耳同也 禽獸見人欲食

 亦欲食之 聞人之樂 何爲不樂

 然而 魚聽 仰秣 玄鶴延頸 百獸率舞 蓋且其實 風雨之至

 晉國大旱 赤地三年 平公癃病 殆虚言也

 或時奏清角時 天偶風雨 風雨之後 晉國適旱 平公好樂 喜笑過度

 偶發癃病 傳書之家 信以爲然 世人觀見 遂以爲實

 實者樂聲不能致此 何以驗之 風雨暴至 是陰陽亂也 樂能亂陰陽

 則亦能調陰陽也 王者何須脩身正行 擴施善政 使皷調陰陽之曲

 和氣自至 太平自立矣

 傳書言 湯遭七年旱 以身禱於桑林 自責以六過 天乃雨 或言

 五年 禱辭曰 余一人有罪 無及萬夫 萬夫有罪 在余一人

 無以一人之不敏 使上帝鬼神傷民之命 於是剪其髮 麗其手

 自以爲牲 用祈福於上帝 上帝甚説 時雨乃至

 言湯以身禱於桑林自責 若言剪髮麗手自以爲牲 用祈福於帝者 實也

 言雨至爲湯自責以身禱之故 殆虚言也

 孔子疾病 子路請禱 孔子曰 有諸 子路曰 有之 誄曰

 禱爾于上下神祇 孔子曰 丘之禱 久矣 聖人脩身正行 素禱之日久

 天地鬼神知其無罪 故曰 禱久矣 易曰 大人與天地合其德

 與日月合其明 與四時合其敍 與鬼神合其吉凶

 此言聖人與天地鬼神同德行也 即須禱以得福 是不同也

 湯與孔子倶聖人也 皆素禱之日久 孔子不使子路禱以治病

 湯何能以禱得雨 孔子素禱 身猶疾病 湯亦素禱 歳猶大旱

 然則天地之有水旱 猶人之有疾病也 疾病不可以自責除

 水旱不可以禱謝去 明矣

 湯之致旱以過乎 是不與天地同德也 今不以過致旱乎 自責禱謝

 亦無益也 人形長七尺 形中有五常 有癉熱之病 深自剋責

 猶不能愈 況以廣大之天 自有水旱之變 湯用七尺之形

 形中之誠 自責禱謝 安能得雨邪 人在層臺之上 人從層臺下叩頭

 求請臺上之物 臺上之人聞其言 則憐而與之 如不聞其言

 雖至誠區區 終無得也 夫天去人 非徒層臺之高也 湯雖自責

 天安能聞知而與之雨乎

 夫旱 火變也 湛 水異也 堯遭洪水 可謂湛矣 堯不自責以身禱祈

 必舜・禹治之 知水變必須治也 除湛不以禱祈 除旱亦宜如之

 由此言之 湯之禱祈 不能得雨

 或時旱久 時當自雨 湯以旱久 亦適自責 世人見雨之下

 隨湯自責而至 則謂湯以禱祈得雨矣

 傳書言 倉頡作書 天雨粟 鬼夜哭 此言文章興而亂漸見

 故其妖變致天雨粟・鬼夜哭也

 夫言天雨粟 鬼夜哭 實也 言其應倉頡作書 虚也

 夫河出圖 洛出書 聖帝明王之瑞應也 圖書文章

 與倉頡所字書何以異 天地爲圖書 倉頡作文字 業與天地同

 指與鬼神合 何非何惡 而致雨粟・鬼哭之怪哉

 使天地鬼神惡人有書 則其出圖書非也 天不惡人有書 作書何非

 而致此怪

 或時倉頡適作書 天適雨粟 鬼偶夜哭 而雨粟・神哭 自有所爲

 世見應書而至 則謂作書生亂敗之象 應事而動也

 天雨穀 論者謂之從天而下 應變而生 如以雲雨論之 雨穀之變

 不足怪也 何以驗之 夫雨出於丘山 降散則爲雨矣 人見其從上而墜

 則謂之天雨水也 夏日則雨水 冬日天寒 則雨凝而爲雪

 皆由雲氣發於丘山 不從天上降集於地 明矣 夫穀之雨

 猶復雲布之亦從地起 因與疾風倶飄 參於天 集於地

 人見其從天落也 則謂之 天雨穀

 建武三十一年 陳留雨穀 穀下蔽地 案視穀形 若茨而黑

 有似於稗實也 此或時夷狄之地 生出此穀 夷狄不粒食

 此穀生於草野之中 成熟垂委於地 遭疾風暴起 吹揚與之倶飛

 風衰穀集 墮於中國 中國見之 謂之 天雨穀 何以效之

 野火燔山澤 山澤之中 草木皆燒 其葉爲灰 疾風暴起 吹揚之

 參天而飛 風衰葉下 集於道路 夫 天雨穀 者 

 草木葉燒飛而集之類也 而世以爲雨穀 作傳書者以爲變怪

 天主施氣 地主産物 有葉實可啄食者 皆地所生 非天所爲也

 今穀非氣所生 須土以成 雖云怪變 怪變因類 生地之物 更從天集

 生天之物 可從地出乎 地之有萬物 猶天之有列星也 星不更生於地

 穀何獨生於天乎

 傳書又言 伯益作井 龍登玄雲 神棲崑崙 言龍井有害

 故龍・神爲變也

 夫言龍登玄雲 實也 言神棲崑崙 又言爲作井之故 龍登神去 虚也

 夫作井而飲 耕田而食 同一實也 伯益作井 致有變動 始爲耕耘者

 何故無變 神農之橈木爲耒 教民耕耨 民始食穀 穀始播種

 耕土以爲田 鑿地以爲井 井出水以救渇 田出穀以拯饑

 天地鬼神所欲爲也 龍何故登玄雲 神何故棲崑崙

 夫龍之登玄雲 古今有之 非始益作井而乃登也 方今盛夏 雷雨時至

 龍多登雲 雲雨與龍相應 龍乘雲雨而行 物類相致 非有爲也

 堯時天下大和 百姓無事 有五十之民 擊壤於塗 觀者曰 大哉

 堯之德也 擊壤者曰 吾日出而作 日入而息 鑿井而飲 耕田而食

 堯何等力 堯時已有井矣 唐・虞之時 豢龍・御龍 龍常在朝

 夏末政衰 龍乃隱伏 非益鑿井 龍登雲也

 所謂神者 何神也 百神皆是 百神何故惡人爲井 使神與人同

 則亦宜有飲之欲 有飲之欲 憎井而去 非其實也

 夫益殆不鑿井 龍不爲鑿井登雲 神不棲於崑崙 傳書意妄 造生之也

 傳書言 梁山崩 壅河 三日不流 晉君憂之 晉伯宗以輦者之言

 令景公素縞而哭之 河水爲之流通

 此虚言也

 夫山崩壅河 猶人之有癰腫 血脉不通也 治癰腫者

 可復以素服哭泣之聲治乎

 堯之時 洪水滔天 懷山襄陵 帝堯吁嗟 博求賢者

 水變甚於河壅 堯憂深於景公 不聞以素縞哭泣之聲能厭勝之

 堯無賢人若輦者之術乎 將洪水變大 不可以聲服除也

 如 素縞而哭 悔過自責也 堯・禹之治水 以力役 不自責 梁山

 堯時山也 所壅之河 堯時河也 山崩河壅 天雨水踊 二者之變

 無以殊也 堯・禹治洪水以力役 輦者治壅河用自責 變同而治異

 人鈞而應殊 殆非賢聖變復之實也

 凡變復之道 所以能相感動者 以物類也 有寒則復之以温

 温復解之以寒 故以龍致雨 以刑逐暑 皆縁五行之氣 用相感勝之

 山崩壅河 素縞哭之 於道何意乎

 此或時河壅之時 山初崩 土積聚 水未盛 三日之後 水盛土散

 稍壞沮矣 壞沮水流 竟注東去 遭伯宗得輦者之言 因素縞而哭

 哭之因流 流則謂之河變起此而復 其實非也 何以驗之

 使山恒自崩乎 素縞哭無益也 使其天變應之 宜改政治 素縞而哭 

 何政所改 而天變復乎

 傳書言 曾子之孝 與母同氣 曾子出薪於野 有客至而欲去

 曾母曰 願留 參方到 即以右手搤其左臂 曾子左臂立痛

 即馳至 問母曰 臂何故痛 母曰 今者客來欲去 吾搤臂以呼汝耳

 蓋以至孝與父母同氣 體有疾病 精神輒感

 曰 此虚也

 夫 孝悌之至 通於神明 乃謂德化至天地 俗人縁此而説

 言孝悌之至 精氣相動


 如曾母臂痛 曾子臂亦輒痛 曾母病 曾子亦輒病乎 曾母死 

 曾子亦輒死乎 攷事 曾母先死 曾子不死矣 此精氣能小相動

 不能大相感也

 世稱申喜夜聞其母歌 心動 開關問歌者爲誰 果其母 蓋聞母聲

 聲音相感 心悲意動 開關而問 蓋其實也 今曾母在家 曾子在野 

 不聞號呼之聲 母小搤臂 安能動子

 疑世人頌成 聞曾子之孝 天下少雙 則爲空生母搤臂之説也

 世稱 南陽卓公爲緱氏令 蝗不入界 蓋以賢明至誠 災蟲不入其縣也

 此又虚也

 夫賢明至誠之化 通於同類 能相知心 然後慕服 蝗蟲 閩虻之類也

 何知何見 而能知卓公之化 使賢者處深野之中 閩虻能不入其舍乎 

 閩虻不能避賢者之舍 蝗蟲何能不入卓公之縣

 如謂蝗蟲變 與閩虻異 夫寒温 亦災變也 使一郡皆寒 賢者長一縣

 一縣之界能獨温乎 夫寒温不能避賢者之縣 蝗蟲何能不入卓公之界

 夫如是 蝗蟲適不入界 卓公賢名偶稱於世 世則謂之能卻蝗蟲矣

 何以驗之 夫蝗之集於野 非能普博盡蔽地也 往往積聚多少有處

 非所積之地 則盜跖所居 所少之野 則伯夷所處也 集地有多少

 不能盡蔽覆也 夫集地有多少 則其過縣有留去矣 多少不可以驗善惡

 有無安可以明賢不肖也 蓋時蝗自過 不謂賢界不入界明矣


 論衡 第八卷 儒增第二十六 (原文)

 「周の時天下太平、越裳は白雉を獻じ、倭人は鬯草を貢す」

 いわゆる儒者のいう「白髪三千丈」風の誇大表現を批判した一編。

 儒書稱 堯・舜之德 至優至大 天下太平 一人不刑 又言

 文・武之隆 遺在成・康 刑錯不用 四十餘年 是欲稱堯・舜

 襃文・武也

 夫爲言不益 則美不足稱 爲文不渥 則事不足襃 堯・舜雖優

 不能使一人不刑 文・武雖盛 不能使刑不用 言其犯刑者少

 用刑希疏 可也 言其一人不刑 刑錯不用 增之也

 夫能使一人不刑 則能使一國不伐 能使刑錯不用 則能使兵寢不施

 案堯伐丹水 舜征有苗 四子服罪 刑兵設用 成王之時

 四國簒畔 淮夷・徐戎 並爲患害 夫刑人用刀 伐人用兵 罪人用法

 誅人用武 武・法不殊 兵・刀不異 巧論之人 不能別也

 夫德劣故用兵 犯法故施刑 刑之與兵 猶足與翼也 走用足 飛用翼

 形體雖異 其行身同 刑之與兵 全衆禁邪 其實一也 不稱兵之不用

 言刑之不施 是猶人身缺目完 以目完稱人體全 不可從也

 人桀於刺虎 怯於擊人 而以刺虎 稱謂之勇 不可聽也 身無敗缺

 勇無不進 乃爲全耳 今稱一人不刑 不言一兵不用 襃刑錯不用

 不言一人不畔 未得爲優 未可謂盛也

 儒書稱 楚養由基善射 射一楊葉 百發能百中之 是稱其巧於射也 

 夫言其時射一楊葉中之 可也 言其百發而百中 増之也

 夫一楊葉 射而中之 中之一再行 敗穿不可復射矣

 如就葉懸於樹而射之 雖不欲射葉 楊葉繁茂 自中之矣

 是必使上取楊葉 一一更置地而射之也 射之數十行 足以見巧

 觀其射之者 亦皆知射工 亦必不至於百 明矣 言事者 好增巧美 

 數十中之 則言其百中矣 百與千 數之大者也 實欲言十則言百

 百則言千矣 是與書言協和萬邦 詩曰 子孫千億 同一意也

 儒書言 衞有忠臣弘演 爲衞哀公使 未還 狄人攻哀公而殺之

 盡食其肉 獨捨其肝 弘演使還 致命於肝 痛哀公之屍 身肉盡

 肝無所附 引刀自刳其腹 盡出其腹實 乃内哀公之肝而死 言此者

 欲稱其忠矣 言其自刳内哀公之肝而死 可也

 言盡出其腹實乃内哀公之肝 增之也

 人以刃相刺 中五臟輒死 何則五臟 氣之主也 猶頭脉之湊也

 頭一斷 手不能取他人之頭 着之於頸 奈何獨能先出其腹實

 乃内哀公之肝 腹實出輒死 則手不能復把矣 如先内哀公之肝

 乃出其腹實 則文當言内哀公之肝 出其腹實 今先言 盡出其腹實

 内哀公之肝 又言 盡 增其實也

 儒書言 楚熊渠子出見寢石 以爲伏虎 將弓射之 矢沒其衛 或曰

 養由基見寢石 以爲兕也 射之 矢飲羽 或言 李廣

 便是熊渠・養由基・李廣 主名不審 無害也 或以爲虎 或以爲兕 

 兕・虎倶猛 一實也 或言 沒衛 或言 飲羽 羽則衛 言不同耳 

 要取以寢石似虎・兕 畏懼加精 射之入深也 夫言以寢石爲虎

 射之矢入 可也 言其沒衛 增之也

 夫見似虎者 意以爲是 張弓射之 盛精加意 則其見眞虎 與是無異

 射似虎之石 矢入沒衛 若射眞虎之身 矢洞度乎 石之質難射

 肉易射也 以射難沒衛言之 則其射易者洞 不疑矣

 善射者能射遠中微 不失毫釐 安能使弓弩更多力乎 養由基從軍

 射晉侯 中其目 夫以疋夫射萬乘之主 其加精倍力 必與射寢石等 

 當中晉侯之目也 可復洞達於項乎 如洞達於項 晉侯宜死

 車張十石之弩 恐不能入一寸 矢摧爲三 況以一人之力 引微弱之弓

 雖加精誠 安能沒衛 人之精乃氣也 氣乃力也 有水火之難

 惶惑恐懼 舉徙器物 精誠至矣 素舉一石者 倍舉二石 然則

 見伏石射之 精誠倍故 不能入一寸 如何謂之沒衛乎 如有好用劔者

 見寢石 懼而斫之 可復謂能斷石乎 以勇夫空拳而暴虎者

 卒然見寢石 以手椎之 能令石有跡乎 巧人之精 與拙人等

 古人之誠 與今人同 使當今射工射禽獸於野 其欲得之

 不餘精力乎 及其中獸 不過數寸 跌誤中石 不能内鋒 箭摧折矣 

 夫如是 儒書之言楚熊渠子・養由基・李廣射寢石 矢沒衛飲羽者

 皆增之也

 儒書稱 魯般・墨子之巧 刻木爲鳶 飛之三日而不集

 夫言其以木爲鳶飛之 可也 言其三日不集 增之也

 夫刻木爲鳶 以象鳶形 安能飛而不集乎 既能飛翔 安能至於三日 

 如審有機關 一飛遂翔 不可復下 則當言 遂飛 不當言 三日

 猶世傳言曰 魯般巧 亡其母也 其巧工 爲母作木車馬 木人御者 

 機關備具 載母其上 一驅不還 遂失其母 如木鳶機關備具

 與木車馬等 則遂飛不集 機關爲須臾閒 不能遠過三日

 則木車等亦宜三日止於道路 無爲徑去以失其母 二者必失實者矣

 書説 孔子不能容於世 周流游説七十餘國 未嘗得安

 夫言周流不遇 可也 言干七十國 增之也

 案論語之篇 諸子之書 孔子自衛反魯 在陳絶糧 削迹於衛

 忘味於齊 伐樹於宋 並費與頓牟 至不能十國 傳言七十國

 非其實也 或時干十數國也 七十之説 文書傳之 因言干七十國矣

 論語曰 孔子問公叔文子於公明賈曰 信乎 夫子不言・不笑・不取乎

 公明賈對曰 以告者過也 夫子時然後言 人不厭其言也 樂然後笑 

 人不厭其笑也 義然後取 人不厭其取也 子曰 豈其然乎 豈其然乎

 夫公叔文子 實時言・樂笑・義取 人傳説稱之 

 言其不言・不笑・不取也 俗言竟增之也

 書言 秦繆公伐鄭 過晉不假途 晉襄公率姜戎要擊於崤塞之下

 疋馬隻輪無反者 時秦遣三大夫孟明視・西乞術・白乙丙 皆得復還 

 夫三大夫復還 車馬必有歸者 文言 疋馬隻輪無反者 增其實也

 書稱 齊之孟嘗 魏之信陵 趙之平原 楚之春申君 待士下客

 招會四方 各三千人 欲言下士之至 趨之者衆也 夫言士多 可也 

 言其三千 增之也

 四君雖好士 士至雖衆 不過各千餘人 書則言三千矣

 夫言衆必言千數 言少則言無一 世俗之情 言事之失也

 傳記言 高子羔之喪親 泣血 三年未嘗見齒 君子以爲難 難爲故也

 夫不以爲非實 而以爲難 君子之言誤矣 高子泣血 殆必有之 何則

 荊和獻寶於楚 楚刖其足 痛寶不進 己情不達 泣涕涕盡 因續以血

 今高子痛親 哀極涕竭 血隨而出 實也 而云 三年未嘗見齒

 是增之也

 言 未嘗見齒 欲言其不言不笑也 孝子喪親 不笑可也 安得不言 

 言安得不見齒 孔子曰 言不文 或時不言 傳則言其不見齒

 或時不笑 傳則言其不見齒三年矣 高宗諒陰 三年不言 尊爲天子 

 不言 而其文言不言 猶疑於增 況高子位賤 而曰 未嘗見齒

 是必增益之也

 儒書言 禽息薦百里奚 繆公未聽 禽息出 當門仆頭 碎首而死

 繆公痛之 乃用百里奚 此言賢者薦善 不愛其死 仆頭碎首而死

 以達其友也 世士相激 文書傳稱之 莫謂不然 夫仆頭以薦善

 古今有之 禽息仆頭 蓋其實也 言碎首而死 是增之也

 夫人之扣頭 痛者血流 雖忿恨惶恐 無碎首者 非首不可碎

 人力不能自碎也 執刃刎頸 樹鋒刺胸 鋒刃之助 故手足得成勢也 

 言禽息舉椎自擊 首碎 不足怪也 仆頭碎首 力不能自將也

 有扣頭而死者 未有使頭破首碎者也 此或時扣頭薦百里奚

 世空言其死 若或扣頭而死 世空言其首碎也

 儒書言 荊軻爲燕太子刺秦王 操匕首之劔 秦王拔劔擊之

 軻以匕首擿秦王 不中 中銅柱 入尺 欲言匕首之利 荊軻勢盛

 投鋭利之刃 陷堅彊之柱 稱荊軻之勇 故增益其事也

 夫言入銅柱 實也 言其入尺 增之也

 夫銅雖不若匕首堅剛 入之不過數寸 殆不能入尺 以入尺言之

 設中秦王 匕首洞過乎 車張十石之弩 射桓木之表 尚不能入尺

 以荊軻之手力 投輕小之匕首  入堅剛之銅柱 是荊軻之力

 勁於十石之弩 銅柱之堅 不若木表之剛也

 世稱荊軻之勇 不言其多力 多力之人 莫若孟賁

 使孟賁自被龍淵之劔刃擿銅柱 能洞過出一尺乎 此亦或時匕首利

 若干將・莫邪 所刺無前 所擊無下 故有入尺之效

 夫稱干將・莫邪 亦過其實 擊刺無前・下 亦入銅柱尺之類也

 儒書言 董仲舒讀春秋 專精一思 志不在他 三年不窺園菜

 夫言不窺園菜 實也 言三年 增之也

 仲舒雖精 亦時解休 解休之閒 猶宜游於門庭之側 則能至門庭

 何嫌不窺園菜 聞用精者 察物不見 存道以亡身 不聞不至門庭

 坐思三年 不及窺園也 尚書毋佚曰 君子所其毋佚

 先知稼穡之艱難 乃佚 佚者 解也 人之筋骨 非木非石

 不能不解 故張而不 文王不爲 而不張 文王不行 一一張 

 文王以爲常 聖人材優 尚有張之時 仲舒材力劣於聖

 安能用精三年不休

 儒書言 夏之方盛也 遠方圖物 貢金九牧 鑄鼎象物 而爲之備

 故入山澤 不逢惡物 用辟神姦 故能叶于上下 以承天休

 夫金之性 物也 用遠方貢之爲美 鑄以爲鼎 用象百物之奇

 安能入山澤 不逢惡物 辟除神姦乎

 周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉 服鬯草 不能除凶

 金鼎之器 安能辟姦 且九鼎之來 德盛之瑞也 服瑞應之物

 不能致福 男子服玉 女子服珠 珠玉於人 無能辟除 寶奇之物

 使爲蘭服作牙身 或言有益者 九鼎之語也 夫九鼎無能辟除

 傳言能辟神姦 是則書增其文也

 世俗傳言 周鼎不爨自沸 不投物 物自出 此則世俗增其言也

 儒書增其文也 是使九鼎以無怪空爲神也 且夫謂周之鼎神者

 何用審之 周鼎之金 遠方所貢 禹得鑄以爲鼎也 其爲鼎也

 有百物之象 如以遠方貢之爲神乎 遠方之物 安能神

 如以爲禹鑄之爲神乎 禹聖 不能神 聖人身不能神 鑄器安能神

 如以金之物爲神乎 則夫金者 石之類也 石不能神 金安能神

 以有百物之象爲神乎 夫百物之象 猶雷罇也 雷罇刻畫雲雷之形

 雲雷在天 神於百物 雲雷之象 不能神 百物之象 安能神也

 傳言 秦滅周 周之九鼎入于秦 案本事 周王之時

 秦昭王使將軍摎攻王 王惶懼犇秦 頓首受罪 盡獻其邑三十六

 口三萬 秦受其獻 還王 王卒 秦王取九鼎寶器矣 若此者

 九鼎在秦也 始皇二十八年 北遊至琅邪 還過彭城 齊戒禱祠

 欲出周鼎 使千人沒泗水之中 求弗能得 案時 昭王之後

 三世得始皇帝 秦無危亂之禍 鼎宜不亡 亡時殆在周 傳言

 王犇秦 秦取九鼎 或時誤也

 傳又言 宋太丘社亡 鼎沒水中彭城下 其後二十九年 秦并天下

 若此者 鼎未入秦也 其亡 從周去矣 未爲神也 春秋之時

 五石隕于宋 五石者 星也 星之去天 猶鼎之亡於地也

 星去天不爲神 鼎亡於地 何能神 秦之時 三山亡 猶太丘社之去宋

 五星之去天 三山亡 五石隕 太丘社去 皆自有爲 然鼎亡

 亡亦有應也 未可以亡之故 乃謂之神 如鼎與秦三山同乎 亡不能神

 如有知 欲辟危亂之禍乎 則更桀・紂之時矣 衰亂無道

 莫過桀・紂 桀・紂之時 鼎不亡去 周之衰亂 未若桀・紂

 留無道之桀・紂 去衰末之周 非止去之宜 神有知之驗也

 或時周亡之時 將軍摎人衆見鼎盜取 姦人鑄爍以爲他器

 始皇求不得也 後因言有神名 則空生沒於泗水之語矣

 孝文皇帝之時 趙人新垣平上言 周鼎亡在泗水中 今河溢 通於泗水

 臣望東北 汾陰直有金氣 意周鼎出乎 兆見 弗迎 則不至

 於是文帝 使使治廟汾陰 南臨河 欲祠出周鼎

 人有上書告新垣平所言 神器事皆詐也 於是下平事於吏 吏治

 誅新垣平 夫言鼎在泗水中 猶新垣平詐言鼎有神氣見也


 論衡 第十九卷 恢國第五十八 (原文)

 「成王の時、越常は雉を獻じ、倭人は暢を貢す」

 漢王朝の徳をたたえた一編。

 顏淵喟然歎曰 仰之彌高 鑽之彌堅 此言顏淵學於孔子 積累歳月 

 見道彌深也 宣漢之篇 高漢於周 擬漢過周 論者未極也 恢而極之

 彌見漢奇 夫經熟講者 要妙乃見 國極論者 恢奇彌出 恢論漢國 

 在百代之上 審矣 何以驗之

 黄帝有涿鹿之戰 堯有丹水之師 舜時有苗不服 夏啓有扈叛逆

 高宗伐鬼方 三年剋之 周成王管・蔡悖亂 周公東征 前代皆然

 漢不聞此 高祖之時 陳反 彭越叛 治始安也 孝景之時

 呉・楚興兵 怨錯也 匈奴時擾 正朔不及 天荒之地 王功不加兵 

 今皆内附 貢獻牛馬 此則漢之威盛 莫敢犯也

 紂爲至惡 天下叛之 武王舉兵 皆願就戰 八百諸侯 不期倶至

 項羽惡微 號而用兵 與高祖倶起 威力輕重 未有所定 則項羽力勁

 折鐵難於摧木 高祖誅項羽折鐵 武王伐紂摧木 然則漢力勝周多矣 

 凡克敵 一則易 二則難 湯・武伐桀・紂 一敵也 高祖誅秦殺項 

 兼勝二家 力倍湯・武 武王爲殷西伯 臣事於紂 以臣伐君

 夷・齊恥之 扣馬而諫 武王不聽 不食周粟 餓死首陽

 高祖不爲秦臣 光武不仕王莽 誅惡伐無道 無伯夷之譏

 可謂順於周矣

 丘山易以起高 淵洿易以爲深 起於微賤 無所因階者難 襲爵乘位 

 尊祖統業者易 堯以唐侯 入嗣帝位 舜以司徒 因堯授禪 禹以司空

 縁功代舜 湯由七十里 文王百里 武王爲西伯 襲文王位 三皇

 五代之起 皆有因縁 力易爲也 高祖從亭長 提三尺劍取天下

 光武由白水 奮威武海内 無尺土所因 一位所乘 直奉天命

 推自然 此則起高於淵洿 爲深於丘山也 比方五代 孰者爲優

 傳書或稱 武王伐紂 太公陰謀 食小兒以丹 令身純赤 長大

 教言殷亡 殷民見兒身赤 以爲天神 及言殷亡 皆謂商滅 兵至牧野

 晨舉脂燭 姦謀惑民 權掩不備 周之所諱也 世謂之虚 漢取天下 

 無此虚言 武成之篇 言周伐紂 血流浮杵 以武成言之 食兒以丹 

 晨舉脂燭 殆且然矣 漢伐亡新 光武將五千人 王莽遣二公將百萬人

 戰于昆陽 雷雨晦冥 前後不相見 漢兵出昆陽城 擊二公軍

 一而當十 二公兵散 天下以雷雨 助漢威敵 孰與舉脂燭

 以人事譎取殷哉

 或云 武王伐紂 紂赴火死 武王就斬以鉞 懸其首於大白之旌

 齊宣王憐釁鍾之牛 睹其色之觳觫也 楚莊王赦鄭伯之罪

 見其肉袒而形暴也 君子惡惡 不惡其身 紂屍赴於火中 所見悽愴 

 非徒色之觳觫 袒之暴形也 就斬以鉞 懸乎其首 何其忍哉

 高祖入咸陽 閻樂誅二世 項羽殺子嬰 高祖雍容入秦 不戮二屍

 光武入長安 劉聖公已誅王莽 乘兵即害 不刃王莽之死

 夫斬赴火之首 與貰被刃者之身 德虐孰大也 豈以羑里之恨哉

 以人君拘人臣 其逆孰與秦奪周國 莽酖平帝也

 鄒伯奇論桀・紂之惡 不若亡秦 亡秦不若王莽

 然則紂惡微而周誅之痛 秦・莽罪重而漢伐之輕 寬狹誰也

 高祖母妊之時 蛟龍在上 夢與神遇 好酒貰飲 酒舍負讎 及醉留臥

 其上常有神怪 夜行斬虵 虵嫗悲哭 與呂后倶之田廬 時自隱匿

 光氣暢見 呂后輒知 始皇望見東南有天子氣 及起 五星聚於東井 

 楚望漢軍 雲氣五色 光武且生 鳳皇集於城 嘉禾滋於屋

 皇妣之身 夜半無燭 宮中光明 初者 蘇伯阿望舂陵氣

 鬱鬱葱葱  光武起 過舊廬 見氣憧憧上屬於天 五帝三王

 初生始起 不聞此怪 堯母感於赤龍 及起不聞奇祐 禹母呑薏苡

 將王 得玄圭 契母咽鷰子 湯起白狼銜鉤 后稷母履大人之跡

 文王起得赤雀 武王得魚・烏 皆不及漢太平之瑞

 黄帝・堯・舜 鳳皇一至 凡諸衆瑞 重至者希 漢文帝黄龍・玉棓 

 武帝黄龍・麒麟・連木 宣帝鳳皇五至 

 麒麟・神雀・甘露・醴泉・黄龍・神光 

 平帝白雉・黑雉 

 孝明麒麟・神雀・甘露・醴泉・白雉・黑雉・芝草・連木・嘉禾

 與宣帝同 奇有神鼎・黄金之怪 一代之瑞 累仍不絶

 此則漢德豐茂 故瑞祐多也 孝明夭崩 今上嗣位 元二之間

 嘉德布流 三年 零陵生芝草五本 四年 甘露降五縣 五年

 芝復生六本 黄龍見 大小凡八 前世龍見不雙 芝生無二

 甘露一降 而今八龍並出 十一芝累生 甘露流五縣 德惠盛熾

 故瑞繁夥也 自古帝王 孰能致斯

 儒者論曰 王者推行道德 受命於天 論衡初稟以爲 王者生稟天命 

 性命難審 且兩論之 酒食之賜 一則爲薄 再則爲厚 如儒者之言 

 五代皆一受命 唯漢獨再 此則天命於漢 厚也 如審論衡之言

 生稟自然 此亦漢家所稟厚也 絶而復屬 死而復生

 世有死而復生之人 人必謂之神 漢統絶而復屬 光武存亡

 可謂優矣

 武王伐紂 庸・蜀之夷 佐戰牧野 成王之時 越常獻雉 倭人貢暢 

 幽・厲衰微 戎狄攻周 平王東走 以避其難 至漢 四夷朝貢

 孝平元始元年 越常重譯 獻白雉一 黑雉二 夫以成王之賢

 輔以周公 越常獻一 平帝得三 後至四年 金城塞外

 羌良豪橋種良願等 獻其魚鹽之地 願内屬漢 遂得西王母石室

 因爲西海郡 周時戎狄攻王 至漢内屬 獻其寶地

 西王母國 在絶極之外 而漢屬之 德孰大 壤孰廣

 方今哀牢・鄯善・降附歸德 匈奴時擾 遣將攘討 獲虜生口千萬數 

 夏禹入呉國 太伯採藥 斷髮文身 唐虞國界 呉爲荒服 越在九夷 

 罽衣關頭 今皆夏服 衣履

 巴・蜀・越嶲・鬱林・日南・遼東・樂浪

 周時被髮椎髻 今戴皮弁 周時重譯 今吟詩・書

 春秋之義 君親無將 將而必誅 廣陵王荊迷於巫 楚王英惑於俠客 

 事情列見 孝明三宥 二王呑藥 周誅管・蔡 違斯遠矣 楚外家許氏

 與楚王謀議 孝明曰 許氏有屬於王 欲王尊貴 人情也 聖心原之 

 不繩於法 隱彊侯傅 懸書市里 誹謗聖政 令上悔思 免奪爵土

 惡其人者 憎其餘 立二王之子 安楚・廣陵 彊弟員嗣祀陰氏

 二王 帝族也 位爲王侯 與管・蔡同 管・蔡滅嗣 二王立後

 恩已褒矣 隱彊 異姓也 尊重父祖 復存其祀 立武庚之義

 繼祿父之恩 方斯羸矣 何則 並爲帝王 舉兵相征 貪天下之大

 絶成湯之統 非聖君之義 失承天之意也 隱彊臣子也 漢統自在

 絶滅陰氏 無損於義 而猶存之 惠滂沛也 故夫雨露之施

 内則注於骨肉 外則布於他族 唐之晏晏 舜之烝烝 豈能踰此

 驩兜之行 靖言庸回 共工私之 稱薦於堯 三苗巧佞之人

 或言有罪之國 鯀不能治水 知力極盡 罪皆在身 不加於上

 唐・虞放流 死於不毛 怨惡謀上 懷挾叛逆 考事失實

 誤國殺將 罪惡重於四子 孝明加恩 則論徙邊 今上寬惠

 還歸州里 開闢以來 恩莫斯大

 晏子曰 鉤星在房・心之間 地其動乎 夫地動天時 非政所致

 皇帝振畏 猶歸於治 廣徴賢良 訪求過闕 高宗之側身

 周成之開匱 能逮此 

 穀登歳平 庸主因縁 以建德政 顛沛危殆 聖哲優著 乃立功化

 是故微病恆醫皆巧 篤劇扁鵲乃良 建初孟年 無妄氣至 歳之疾疫也

 比旱不雨 牛死民流 可謂劇矣 皇帝敦德 俊乂在官 第五司空

 股肱國維 轉穀振贍 民不乏餓 天下慕德 雖危不亂 民饑於穀

 飽於道德 身流在道 心回郷内 以故道路無盜賊之跡

 深幽迥絶無劫奪之姦 以危爲寧 以困爲通 五帝三王 孰能堪斯哉

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ