2014年8月21日木曜日

阿曇・安曇(116)『後漢書』東夷傳倭章(2)

 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々

    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(116)『後漢書』東夷傳倭章(2)

 『後漢書』東夷傳倭章

 土宜禾稻、麻紵、蠶桑、知織績爲縑布。

 出白珠、青玉。其山有丹土。氣温、膎、冬夏生菜茹。

 無牛馬虎豹羊鵲。

 鵲或作雞其兵有矛、楯、木弓、竹矢或以骨爲鏃。

 男子皆黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差。

 其男衣皆横幅結束相連。

 女人被髮屈紒、衣如單被、貫頭而著之;並以丹朱扮身、

 説文曰扮、塵也。

 音蒲頓反如中國之用粉也。

 有城柵屋室。

 父母兄弟異處、唯會同男女無別。

 飮食以手、而用邊豆。

 俗皆徒跣、以蹲踞爲恭敬。

 人性嗜酒。多壽考、至百餘歳者甚衆。

 國多女子、大人皆有四五妻、其餘或兩或三。

 女人不淫不妒。

 又俗不盜竊、少爭訟。

 犯法者沒其妻子、重者滅其門族。

 其死停喪十餘日、家人哭泣、不進酒食、而等類就歌舞爲樂。

 灼骨以卜、用決吉凶。

 行來度海、令一人不櫛沐、不食肉、不近婦人、名曰「持衰」。

 若在塗吉利、則雇以財物;如病疾遭害、以爲持衰不謹、便共殺之。


 土地は禾稲(いね)・麻紵(あさ)の〔栽培〕や、

 桑を植えて養蚕するのに適している。

 〔倭人は〕糸を績いで布を織る技術をもっており、

 縑布(かとりぎぬ)を生産する。

 白珠(真珠)・青玉(碧玉)を算出し、

 山には丹がある。

 気候はおだやかで、

 四季を通じて野菜が育つ。

 牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)などはいない。

 武器としては矛楯・木弓・竹矢が用いられ、

 〔矢には〕時には骨鏃を使っている。

 男子はみな黥面文身し(顔や身体に入墨し)、

 入墨の〔位置の〕左右や大小によって〔身分の〕上下を区別している。

 男子の衣服は横広〔の布〕を結束して連ねただけのものであり、

 女子は髪を束ねているだけで、

 単衣のような衣服に頭を貫して着ている。

 〔男女ともに〕丹や朱を体に塗りたくっているが、

 これは中国で白粉を使って〔化粧する〕ようなものである。

 〔倭国には〕城柵がある。

 家屋は父母の棟と兄弟の棟とが別である。

 ただ寄合いの時などは、男女の差別なく〔ふるまい〕、

 邊豆(木製の高杯)に盛ったものを手づかみで飲食する。

 普通はみな徒跣であり、

 蹲踞(両膝を折って腰をおろす)の姿勢で恭敬の意をあらわす。

 人はみな酒好きである。

 長命の者が多く、百余歳にまで至る者も大変多い。

 男子よりも女子の方が多いので〔諸国の〕大人(有力者)は

 みな四、五人の妻をもち、

 その他の者でも二、三人はもっている。
 
 〔それであるのに〕女性たちはいたって貞淑で、

 決して嫉妬などしない。

 風俗は盗みや争いごとが少ない。

 もしも掟を破れば、〔犯罪人の〕妻子を没収し、

 特に重罪の場合は一族の者をことごとく死刑にする。

 死者が出ると十余日間喪に服するが、

 〔この間〕家人は哭泣して酒食べせず、

 やって来た仲間たちが歌舞して〔葬送の〕楽とする。

 骨を灼いて〔日の〕吉兆を卜う。

 海を渡って〔中国に〕往来する際には、

 一人の人物に、髪を梳き沐することや、

 肉食し婦人を近づけることなどを禁じている。

 こうすることを持衰(もの忌みする)という。

 もしも道中無事でご利益があれば財物を与えてその報酬とするが、

 一行に病人が出たり災難に遭ったりすると、

 それはこの人物が持衰を謹行をしなかったからだとして殺してしまう。 

 ※出典:邪馬臺国の言葉:16~18頁

 「倭人は混成文化の持主」

 では倭人はなぜ、

 当時としては信じられないような測量ができたか?

 本当にそんな国文明をもっていたのであろうか?

 それは一体、どうして得られた知識であったのか?

 この疑問に対する答えは倭人伝の中にもありそうである。

 それにほ倭人の習俗や生活、習慣、産物などが、

 簡潔にではあるが、豊富に記録されている。

 また視点をかえてみると今や定説化している

 「北方騎馬民族説」がある。

 日本人の先祖が朝鮮半島を経て移住した北方人であるのなら、

 その知識は北方人の知識だったことになる。

 このことを頭において、倭人伝の記事のうち、

 その文明の由来を教えてくれるものがないか、

 幾つか検討してみることにしよう。

 「田」

 倭の筆頭にあげられた対馬以下、田について記載がある。

 良田がないので船で南北へ米や穀物を買い出しに行くとある。

 このことは倭人が北方騎馬民族ではないことを証明している。

 北方人は遊牧民で乳肉が主食であり田は作らない。

 倭人が魚介や海藻を食べるということと共に、

 東南アジア系の食習慣の持主であることを証拠立てている。

 「文身」

 入墨の習慣も南方系のもので、

 倭人伝ではそれが中支系のものであろうと書いている。

 「蚕桑」

 カイコを飼って絹織物を織っているのも、

 北方の毛皮を着る人々のものではない。

 これは衣服の描写や、牛馬も羊もいないという記事と共に、

 遊牧民ではないことを証明している。

 はだしの習慣も南方人である。

 「朱丹」

 倭人は赤土を、中国人の白粉(おしろい)のように使うとある。

 これはインドで今でもみる習慣で色絵具で手足に模様を描いたり、

 マレー語圏で顔などに赤土をぬったりする風習と同じである。

 これらはすべて、倭人が南方系であることを、

 はっきり証明しているというほかない。

 「喪」

 死者があると十余日喪に服し、肉類を食べない。

 これは見すごされているが、大きな問題を含んでいる。

 なぜなら、喪に服して肉食をしない、

 というのは仏教徒の教義に従っていることを示すからである。

 私たちがよく知っている精進料理しか食べないということは、

 これまで6世紀ごろに

 百済から始めて仏教が伝わったとされてきた考えと

 食いちがうように思われ、拒否反応があると思うが、

 はつきり明記されているのである。

 これも倭人はインド系か、

 それに近い南方人だったことを示すものといえる。

 「搏手」 

 長上に会うと手をうって敬意をあらわす。

 今では神を拝む際だけに残っているが、

 倭人伝が嘘を書いていない証拠といえる。

 合掌の一種で、やはりインド系の習慣である。

 「一夫多妻」

 この習俗は現在では回教徒の間に広く見られるが、

 回教が生れたのは7世紀で、

 それ以前のアラビアの習慣をうけついだものであり、

 倭人はインド西部からアラブにかけての慣習を 

 もっていた可能性がある。

 「土下座」

 一般人が長上に会うと土下座をして敬意をあらわす、

 という別の表敬法も記録されている。

 これもインド系の人々のほかに

 アラブ系の人々が多いことを物語っている。

 中国系は立礼で土に手をつく土下座はアラブ系だけである。


 「殉葬」

 卑弥呼を葬ったとき、男女百余名を一緒に葬ったとある。

 これは垂仁紀にも殉死記事があるのと支え合っている。

 この慣習は古くはメソポタミアにあり、

 やや下つて中国の殷(商)にもみられる。

 こうみてくると、倭人は広くアジア全域につながりがあるが、

 ことにインドを中心にした南国慣習がみられ、

 大和か九州かといった浅薄な対象でほなく、

 もっと国際的な広い視野が必要なことを示している。

 「持衰(じすい)=行路安全祈祷者」を殺し、

  犯罪者の宗族を滅ぼす等という記録は、
 
  全て仏教ではなくシンドゥ教で、

  この記事は邪馬壹国私立後の国情を、

  張政が記録したものであって、

  卑弥呼時代のものではない。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年8月20日水曜日

阿曇・安曇(115)『後漢書』東夷傳倭章(1)

 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々

    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(115)『後漢書』東夷傳倭章(1)

 『後漢書』東夷傳倭章

 倭在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國。

 自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。

 其大倭王居邪馬臺國。

 今名邪摩(惟)堆、樂浪郡徼、去其國萬二千里、

 去其西北界拘邪韓國七千餘里。

 其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近。

 故其法俗多同。


 倭は、韓の東南方の大海の中にあって、

 〔人々は〕山の多い島に居住しており、

 すべてで百余国〔になる〕。

 〔前漢の〕武帝(在位前一四一~前八七年〕が

 〔衛氏〕朝鮮〔王朝〕を滅ぼした(前一〇八)後、

 通訳を連れた使者を漢に通わせた国は、

 〔そのうち〕三十ばかりである。

 〔それらの〕国〔の首長〕はみな王と称して、

 代々その系統を伝えている。

 〔それら諸王の王である〕大倭王は邪馬臺国に居住している。

 楽浪郡の〔南の〕境界は、邪馬臺国から一万二千里も離れており、

 倭の西北と境界をなす拘邪韓国(巨済島)から七千余里離れている。

 倭の地は、おおむね会稽の東冶の東方であって、

 朱崖・儋耳(ともに広東省の海南島)に近い。

 それゆえに倭の制度や習俗には、

 〔海南島地方のそれと〕共通するものが多い。

 ※出典:邪馬壹国大移動:79頁

 「会稽・東冶」の東

 『魏書倭人章』に中国と倭との相対的な位置を、

 はっきり具体的に書いた記事がある。

 それはこう書いてある。

 「その道のりを考えてみると、

  まさに会稽・東冶(トウヤ)の東にある。」

 会稽というのは今の浙江(セッコウ)省・紹興(ショウコウ)で、

 東冶というのは福建省・閩侯(ビンコウ=今の福州)である。

 お手もとの地図で見て戴くとすぐ分るが紹興の真東に奄美大島があり、

 福州(目印は台湾の北端の西、閩侯の河口)の真東に沖縄諸島がある。

 奄美は慶長一四年(1609)以前は琉球に属していた。

 この記事は九州全域に拡大後の3世紀の倭国ではないが、

 それ以前に倭が沖縄圏にあった時の記録が、

 事情を知らない

 『魏書倭人章』編者・陳寿によって混入されたものだという結論になる。

 とすれば、

 古代の中国人は沖縄について非常に正確な知識をもっていたのである。

 しかしそれは不思議なことではない。

 当時沖縄・奄美に住んでいた人々は海洋民族である。

 与那(ヨナ)国島と福州との距離は400kmは、

 那覇までの500kmよりはるかに近い。

 倭人が船で往来すれば自然に互いの地理関係は分かる。

 ただ中国人は海洋人ではないので記録が少ない。

 陳寿はその少ない記録を見つけ出して

 『魏書倭人章』に書き加えたのである。

 ところがこの記事を日本の学者たちは

 「古代中国人が日本を知らなかった証拠だ」として、

 「中国人は日本列島を九州が一番北にあり、

  それから南に本州が伸びていたと誤解していたのだ。
 
  彼等のいう南は本当は東のことだ。」と主張して、

 邪馬台国「大和説」や「宇佐説」の証拠にしてしまった。

 ※出典:JINMU:74~75頁

 「ほんとうに会稽東治の東にある邪馬壹国」

 『倭人章』には[邪馬壹国]と中国との相対的な位置関係を、

 はっきり具体的に書いた記事がある。

 それは「帯方郡から女王国まで万二千余里」と書いた後に

 「その道のりを計るとちょうど、会稽東治の東に当たる。

 この[東治トウチ]を過去の解説者は「東冶トウヤ」と読んできた。

 会稽は今の浙江(チョーチャン)省の紹興(シャオシン)で、

 「東冶トウヤ」は福建(フーチェン)省の福州(フーチョオ)である。

 お手元の地図で見ていただくとすぐ分かるが

 紹興の東が大隅熊毛に当たり、

 福州(目印は台湾の北端の西、閩江(ミンチャン)の河口)の東に

 沖縄がある。

 この距離は朝鮮半島南端から九州本島南端までの距離だ。

 [邪馬壹国]はそんなに大きいわけがないから

 [東冶(トウヤ)]と読むのは間違いだとすぐ分かる。

 それは写真の原典の文字をみても、絶対に[冶(ヤ)]という字ではない。

 <写真:中国の『魏書倭人章』の文字は正確>

 中国の『三国志』のの本はどの版をみても

 「東治(とうち)の「治」の文字は、

 他の「治める」という字と同じ三水偏であり、

 「冶(や)」は二水偏でここに書かれた

 「次」の字のように全然書き方が違う。

 [トウヤ=東冶]と間違うことは絶対にない。

 右は『紹興版』。

 左は『百衲(とつ)影宋本』であり、どの版をみても明瞭である。

 これは福建省の[東冶]が文字だけでなく地理的にも

 無関係なことは常識だからなのだ。

 ※出典:大学講義録10:10頁

 東冶(や)は絶対に間違い。東治(ち)が正しい

 この記事は古来もう一つ論争点をもっていた。

 それは「會稽東治(とうち)の東」を

 「會稽東冶(とうや)の東」と誤解していたことである。

 これは「治」と「冶」という文字の「篇(へん)」が、

 三水(さんずい)か二水(にすい)かという点一個の差なので、

 「古文献類は写し間違いや、虫食いや、染み汚れなどによって

  読めなくなる」

 という多数の事例が災いして、

 いまだに決着がつかない問題とされてきた。

 だがこれは、文字の問題として論争すること自体が問題なのであって、

 それは問題の本質を見抜けずにいたからに他(ほか)ならない。

 この問題が東治(とうち)と東冶(とうや)が指す地域のどちらが

 地理学的に合理的か不合理かで、

 簡単に勝敗が決まる性質のものでしかない。

 東冶(とうや)はいまの中国福建省閩侯(ミンコウ)県福州の古名で、

 台湾の北端から西北約260kmの台湾海峡寄りにある港湾都市である。

 こちらが正しいとすれば、會稽の東は鹿児島県南部なのだから、

 そこから南へ台湾の北端近くまでと限定される地域は

 疑いもなく沖縄、南西諸島一帯である。

 これならまさに「邪馬台国琉球説」だが、

 この説には幾つもの決定的欠陥がある。

 それは女王国の南端・奴国を沖縄の那覇市とみても

 南にあるはずの狗奴国が存在しないし、

 伊都国に合う糸満はあるが南北関係が逆。

 道程も、最大の沖縄本島でも陸行一月もわざわざ歩く必要がない。

 またそんな所にいてはとても連邦全体を統治できないからである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

阿曇・安曇(114)魏書倭人章の国々

 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々

    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(114)魏書倭人章の国々


  『魏書倭人章』国名発音リスト(現代中国語読み)

 1 狗邪韓  gou-xie-ye 

 2 対馬   dui-ma

 3 一支   yi-zhi   

 3 一大   yi-da/dai

 4 末盧      mo/me-lu 

 5 伊都   yi-du/dou

 6 奴    nu

 7 不弥   bu-mi 

 8 投馬   tou-ma    

 9 邪馬壹    ye/xie-ma-yi

 10 那馬臺  ye/xie-ma-tai

 11 斯馬   si-ma

 12 已百支  yi-bai-zhi    己ji 巳si

 13 伊邪   yi-xie

 14 郡支   jun-zhi              

 14 都支   du/dou-zhi

 15 弥奴   bu-hu 

 16 好古都  hao-gu-du/dou

 17 不呼   bu-hu

 18 姐奴   jie-nu

 19 対蘇   dui-su

 20 蘇奴   su-nu

 21 呼邑   hu-yi

 22 華奴蘇奴 hua-nu-su-nu

 23 鬼    gui

 24 為吾   wei-wu

 25 鬼奴   gui-nu 

 26 邪馬   xie/ye-ma

 27 躬臣   gong-chen

 28 巴利   ba-li

 29 支惟   zhi-wei

 30 烏奴   wu-nu

 31 奴    nu

 32 狗奴   gou-nu

 ※四声は省略した

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年8月19日火曜日

阿曇・安曇(113)『日本書紀』講義と解釈⑨

 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々

    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(113)『日本書紀』講義と解釈⑨

 出典:『日本書紀』講義と解釈


 「やまと」と読む字

 (4)について

  これは『釈日本紀』の記事である。

 これと同内容のものは『日本紀私記』には見られないが、

 ①-b、②、③、④と関連する。


 唐が我国を呼ぶ名は大倭、和奴、日本のほかにもあるのか、

 という問を設け、耶馬臺、耶摩堆、倭人、倭国、倭面など、

 その名は多いが、音は同じでほかに意味があるわけではない、

 という師の説を答えとしている。

 これは

 大倭、和奴、日本、耶馬臺、耶摩堆、倭人、倭国、倭面すべて

 「やまと」と読み、

 それは既定の事実である、といっていることになる。

 しかし前述したように、耶馬臺は「ヤマタイ」と読む者もあり、

 「臺」は万葉仮名では「ト」とは読まないというのが事実であり、

 現実でもある。

 また和奴は倭奴国のことであり、

 「わがくに」のことではないから「やまと」とは読まない。

 倭面は「委面」のことで「入墨をした顔」を意味し、

 これも「やまと」とは読まない。

 中国が紀元前から日本列島の倭・倭人・倭国を

 見てきたその記録をみれば、このことは自明の理である。

 それにもかかわらずこのように、

 耶馬臺も倭奴も倭面もすべてヤマトのことであるとすることに、

 偶然や成り行きではない、彼らの意図を感ぜざるを得ない。

 中国史書では、

 倭奴、耶馬臺、耶摩堆、倭人、倭国、倭面を

 「やまと」と読んでいるわけではなく、

 『日本書紀』と『日本紀私記』や『釈日本紀』が

 そう読ませているだけであることを忘れてはならない。

 『日本書紀』は、中国史書にいう倭国はヤマトのことで、

 日本は倭国が改名したもの、というテーマのもとで書かれている。

 『日本紀私記』はそれを推進し、

 『釈日本紀』は『日本紀私記』を引用することで、

 それをさらに深めていった。

 しかしながら日本国内の事情は

 中国の唐にはなかなか理解してもらえず、

 『旧唐書』には倭国条とは別に日本国条が設けられたのである。

 それからおよそ百年後、

 『日本書紀』講義の効果は『新唐書』で発揮されることになった。

 倭国は「やまとのくに」であり、

 倭国が日本と改名したことが認められ、

 これ以後、中国史書から倭国の記録は消えたのである。

 『旧唐書』と『新唐書』の倭国と日本国に対する記録の変化は、

 このあたりの事情を如実に示しているといえる。

 『私記』を記録した諸博士たちは、

 もしかしたらすべて承知のうえで、

 倭国は「やまとのくに」で日本は倭国が改名したものとする

 『日本書紀』の意思を受け継ぎ、

 日本という国を東アジアの中で

 確固たる立場の国にしようとしたのかもしれない。

 それには中国史書に古くから記録されている倭国の歴史を、

 是が非でも日本の歴史にする必要があった。

 当時の情勢を考えると、この行為は責められないが、

 今歴史という学問を考えるとき、

 現代の研究者が目に見える資料を前にしながら、

 その矛盾に目を瞑り、

 『日本紀私記』や『釈日本紀』の、

 あまりにも幼稚な言い分までも鵜呑みにしてしまっているとしたら、

 それは果たして許されることなのだろうかと、

 私はふと、そんなことを考えてしまうのである。

《参考》




 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年8月18日月曜日

阿曇・安曇(112)『日本書紀』講義と解釈⑧

 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々

    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(112)『日本書紀』講義と解釈⑧

 出典:『日本書紀』講義と解釈


 書を「不美」と読むこと

  ⑤〔 (11)〕について

  なぜ「書」を「不美」と読むのか、という問である。

 これに対し師は、昔新羅の表に大いに不敬な言詞があり、

 怒り地面に投げつけ踏み潰した、

 それでそれ以後「不美」と訓むのであるが、

 これは先師の説だと答えている。

 また、

 鳥が踏み歩いた足跡を見て蒼頡が文字を作ったという故事を引き、

 「不美」という訓はここからきたのではないか、と付け加えている。

 「新羅所上之表」とあるが、新羅がはじめて上表したのは、

 『日本書紀』によれば推古天皇29年(621)のことである。

 その2月条には、

 「是歳 新羅遣奈末伊彌買朝貢 仍以表書奏使旨 

  凡新羅上表 蓋始起于此時歟」とあるが、

 この時もそれ以後も、

 新羅の表に対してこのような行動をとったという記録は特にない。

 応神天皇28年(423)9月条には、

 「高麗王遣使朝貢 因以上表 其表曰 高麗王敎日本國也 

  時太子菟道稚郎子讀其表 怒之責高麗之使 

  以表状無禮 則破其表」とあり、

 「不美」の事件に近い状況が書かれている。

 しかしこれは新羅ではなく高麗である。

 特に根拠らしい根拠はないのであるが、

 『私記』の講師は

 この高麗の事件を新羅の事件に

 すり替えたのではないかと私は疑っている。

 『日本書紀』は百済滅亡・白村江敗戦以後、

 日本人になった百済系渡来人が中心となり

 書いたものではないかと私は考えているが、

 そこでは新羅は常にヤマトと百済に敵対する国として描かれている。

 百済滅亡以来、

 新羅は百済にとって憎んでも憎みきれない仇となったのであり、

 「不美」の由来を新羅の表を踏みつけたという行為に求めることで、

 その気持ちを晴らしたのではないかと想像するのである。

 このように想像するのも、

 この表を踏みつけるという行為が事実だったとしたら、

 その愚かしい行為が

 文化の象徴ともいえる文字の訓になったことになり、

 それはとてもありえないことに思えるからである。

 講師は蒼頡の故事を引いているが、

 文字の起源としては鳥の足跡の方が重要なのであり、

 踏むという動作ではない。

 しかし講師はその踏むという動作に重点を置き、

 高麗の事件を新羅の事件にすり替え、

 新羅の表を踏みつけたことにして、

 そこに「不美」の由来を見出したのである。

 以上はあくまでも私の想像であるが、

 「不美」の由来の真実は

 新羅の表を踏みつけたことにあるのではない、

 ということだけはいえるのではないかと思う。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

阿曇・安曇(111)『日本書紀』講義と解釈⑦

 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々

    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(111)『日本書紀』講義と解釈⑦

 出典:『日本書紀』講義と解釈

  邪馬臺、邪靡堆、邪摩堆の訓

 ④〔 (6) 〕について

 邪馬臺、邪靡堆、邪摩堆はそれぞれ字が異なるが、

 その意味に違いがあるのか、という問に、

 師は、その意味に違いはなく、みな「倭」の音をとったものだ、

 と答えている。

 「倭」の音とは「やまと」であるが、

 おもしろいことに

 『続日本古典全集』の『釈日本紀』には

 ところどころにフリガナがあり、

 邪馬臺には「ヤマタイ」とフリガナがふってある。

 このフリガナはいつ誰が付けたものなのかわからないが、

 少なくともこのフリガナが付けられた時代までは、

 邪馬臺は「やまと」とは読まれていなかったことがわかる。

  師の答えによれば、

 邪馬臺、邪靡堆、邪摩堆は「倭」の訓だということになる。

 それならば邪馬臺には

 「ヤマト」とフリガナがあってしかるべきはずなのである。

 『私記』による教育はあっても邪馬臺を

 「やまと」と訓む読み方はなかなか浸透しなかったものとみえる。

 邪馬臺、邪靡堆、邪摩堆は「倭」の訓だといっても、

 万葉仮名からは「やまと」とは読めなかったというのが

 真実なのではないだろうか。

 だいたい邪馬臺、邪靡堆、邪摩堆は「倭」の訓ではないから、

 この結果は当り前といえば当たり前なのである。

 念のためにいっておくと、

 邪摩堆は『隋書』の邪靡堆のことであり、

 邪靡堆は『魏志』の邪馬臺(邪馬壹)のことであり、

 邪馬臺(邪馬壹)は倭国の代表国である。

 邪靡堆は俀国(倭国)の都となっているから、

 邪馬臺は倭国の代表国からその都になったのである。

 つまり倭国は邪馬臺ではなく、

 当然邪馬臺は倭国を音で表現したものではないのである。

 この問に対する答えは、

 中国史書を読んでいる人であれば、

 明らかな間違いであることはすぐわかる。

 『私記』はそれを敢えて「倭=邪馬臺」に結びつけた。

 なぜか。

 それは日本が倭国に代わって日本列島の代表として生きていくためには、

 どうしても伝統ある倭国の歴史が必要だったからである。

 その方針と教育は功を奏し、

 現代においても邪馬臺を「やまと」と読み、

 中国史書にある「倭」までも「やまと」と読む人たちが後を絶たない。

 途中の歴史では邪馬臺は「ヤマタイ」であるから、

 どうも現代の方が『私記』の感染力は強くなっているようである。

《参考》


 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

阿曇・安曇(110)『日本書紀』講義と解釈⑥

 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 課題:古代の絹の産地と魏書倭人章の国々

    ―西方絹貿易商人たちの居留地―

 阿曇・安曇(110)『日本書紀』講義と解釈⑥

 出典:『日本書紀』講義と解釈

 倭面国については拙著『縄文から「やまと」へ』で詳述したので、

 ここでは多くは述べないが、これらの史書以外の史書を参考にすれば、

 委面、倭面土国、倭面土地、倭面上国、倭面国はすべて倭国

 (「やまとのくに)ではない)のことであることが容易にわかる。

 この中で倭面土国は、無理やり「やまとのくに」と

 読めば読めるため(かなり苦しいが)、

 邪馬台国畿内説の人たちは、

 委面、倭面土国、倭面土地、倭面上国、倭面国を

 ヤマトと読み畿内ヤマトに当てている。

  ③(2)には、「倭」の訓について、漢書に晋灼と如淳の注釈があるが、

 この字のはっきりした訓はないとある。

 漢書の晋灼と如淳の注釈とは

 「委面」についてのことではないかと思われるが、

 このことは、中国には「倭」「委面」を「やまと」と訓む読み方は

 存在してなかったことを示している。

 つまり中国が書く

 「倭、委面、倭面土国、倭面土地、倭面上国、倭面国」は

 ヤマトではない、

 ということを物語っているといえるのである。

 しかしそれでも、

 『私記』の講師や邪馬台国畿内説の人たちは、

 これを「やまと」と読みたがる(中国史書における倭に限る)。

 ただ『私記』の講師は、倭はヤマトのことだと教えていても、

 『漢書』注には倭を「やまと」と訓む読み方は見つからない、

 と事実をもって答えていて正直である。

 それに対し現代の研究者は③(2)の記録を無視したまま、

 中国史書における「倭」も「やまと」と読んでいる。

 不誠実であるとともに、これでは史料が何のためにあるのかわからない。

  面国は倭面国であり倭国のことであるが、

 『漢書』地理志顔師古注の

 「如墨委面」から、倭面土国、倭面土地、倭面上国、倭面国には

 「委面の国」という意味があるとみてよい。

 「委面」とは「入墨をした顔」のことであるから、

 倭面土国、倭面土地、倭面上国、倭面国も

 「顔に入墨をした人たちの国」を意味する。

 つまり「倭面土」とは、「ヤマト」を

 音で表現したものなどでは決してないということになる。

 面国は倭国のことであるが、

 それは「わこく」であり

 「やまとのくに」ではなく、したがって日本でもないのである。

《参考》


 ARPACHIYAH 1976



 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ