2014年12月31日水曜日

大鳥神社縁起(目黒のお酉さま)


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 《参考:年表・資料》

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 【大鳥神社縁起】(目黒のお酉さま)

 大鳥神社 

 JR山手線目黒駅西口下車徒歩7分

 山手通りと目黒通りの交差点です。

 お祓いを受けられる方の駐車場有り 。

 住所:目黒区下目黒3-1-2

 Tel : 03(3494)0543 

 *電話受付時間 9:00~17:00

  厄除けのお祓いを受けて、一年を無事に過ごしましょう。

  男性は数え年で、25歳・42歳・61歳。

  平成27年は、平成3年生まれ・昭和49年生まれ・昭和30年生まれの方。

  女性は、数え年で、19歳・33歳・37歳。

  平成9年生まれ・昭和58年生まれ・昭和54年生まれの方です。

  尚、その前後が前厄・後厄の年であり、厄年は3年間と考えます。

  厄よけのお祓いをご希望の方は、電話でお申込みください。

  電話 03-3494-0543

 御祭神

  主祭神 日本武尊やまとたけるのみこと 

  相殿神 国常立尊くにのとこたちのみこと

       ※日本の国開きの神様です。

      弟橘媛命おとたちばなひめのみこと

       ※日本武尊のお妃さまです。

 由緒

  景行天皇の御代、当所に国常立尊を祀った社やしろがありました。

 日本武尊は景行天皇の皇子であり、天皇の命令で熊襲を討ち、

 その後に東国の蝦夷を平定されました。

 この東夷平定の折、当社(大鳥神社)に立寄られ、

 東夷を平定する祈願をなされ、

 また部下の「目の病」の治らん事をお願いされたところ、

 首尾よく東夷を平定し、部下の目の病も治って、

 再び剣を持って働く事ができるようになったので、

 当社を盲神めくらがみと称え、

 手近に持って居られた十握剣とつかのつるぎを

 当社に献って神恩に感謝されました。

 この剣を天武雲剣と申し、当社の神宝となっております。

  当社の社伝によると、

 「尊の霊みたまが当地に白鳥としてあらわれ給い、

  鳥明神とりみょうじんとして祀る」とあり、

 大同元年には、社殿が造営されました。

 当社の社紋が鳳凰ほうおうの紋を用いているのはこのためです。

  また、江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に

 当社は鳥明神と記載されております。

 尚、この江戸図に記載される社は九社しかなく、

 当社は江戸九社の一つにかぞえられております。

 江戸名所図会より大鳥神社の図

 酉の市

  酉の市は毎年11月のとりの日に行われる市のことであり、

  とりの日とは暦の中で十二支のとりの日のことです。

  「酉の市とは、現在は稲荷神社などでも行われている例もありますが、

   本来は、大鳥神社で行われる特殊行事です。」

  当社の酉の市の起源はとても古く、

  浅草の酉の市と並ぶ、江戸時代に始まります。

  神事では、御神前に「八つ頭の芋」と「熊手」をたてまつります。

  「八つ頭」は日本武尊が東征の時、

  八族の各頭目を平定された御功業を具象化したものです。

  「熊手」は尊が焼津で焼討ちの御難に遭われた時、

  薙ぎ倒した草を当時武器でもあった熊手を持ってかき集めさせ、

  その火を防ぎ、向火むかえびをもって賊を平らげ、

  九死に一生を得た事を偲び奉るためのものです。

  ここから、古来より、

  「頭の芋」とも呼ばれる「八つ頭」は

  人の頭に立つように出世できるという縁起と結びつき、

  「熊手」は家の内に宝を掃き込むとか掻き込むという意味で

  縁起物として広く信仰を集めました。

  また、「熊手」をもって火を防いだという御由緒から、

  火難除けの神様と伝えられ、

  現在も江戸消防記念会が酉の市に参拝祈願をされております。 

  更に、大鳥神社の社名

  「おおとり」は、「大取」に通ずる為、

  宝物を大きく取り込むという商売繁盛開運招福の神様として、

  多くの人達の信仰を集めております。

  尚、酉の市当日は、社殿において、

  この縁起のもとになる「開運熊手守」が授与されます。

 大鳥神社 1200年祭

  大鳥神社は平成18年(2006年)に、

  鎮座1200年を迎えました。

  社伝によると、

  「日本武尊の御霊が当地に白鳥としてあらわれ給い、

   鳥明神として祀る。」とあり、

  大同元年(806年)社殿が造営されました。

  ここから数えて1200年となります。

  大鳥神社は、主祭神が日本武尊さまであり、

  相殿神(あいどののかみ)として、

   国常立尊(国開きの神様)と

   弟橘媛命(日本武尊さまの妃)をお祀りしています。

  ご存知の通り、日本武尊は景行天皇の皇子であり、

  九州の熊襲を討ち、その後に東国の蝦夷(えみし)を平定されました。

  日本武尊にまつわる伝説は各地に残りますが、

  大鳥神社もその一つです。

  古くから目黒の総鎮守として崇敬されて来ました。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
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2014年12月25日木曜日

江戸総鎮守:神田明神


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 《江戸総鎮守:神田明神

 【神田祭】江戸東京を代表する賑やかで壮観な祭礼

   天下祭と呼ばれ、日本三大祭の一つとしても有名です。

   江戸の昔より、徳川幕府・江戸っ子の厚い崇敬を受けたことから

  天下祭・御用祭と称えられ、神田・日本橋を中心とする町々より

  36本の勇壮な山車が出され、それに加え仮装行列などの

  附祭(つけまつり)も加わり江戸城内に参入して

  徳川将軍の上覧にあずかった由緒ある祭礼でした。

   今日の神田祭は、当社の鳳輩・神輿をはじめとする

  平安絵巻さながらの祭礼行列が、神田・日本橋・秋葉原・

  大手町・丸の内の広大な氏子108ヶ町を一日がかりで

  巡行する神幸祭と、各氏子の町神輿約200基が町を練り歩き

  神社へ迫力ある宮入をする神輿宮入を中心に、2年に1度、

  賑やかに行われております。

  また陰祭の年には、

  当社の宮神輿が氏子中により担がれて渡御いたします。

 【ご祭神】東京都心108ヶ町の総氏神さま

   一の宮 大己貴命(だいこく様)

   二の宮 少彦名命(えびす様)

   三の宮 平将門命(まさかど様)

  正式名称、神田神社。

  神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場

  など108ヶ町会の総氏神様です。

  家庭円満、縁結び、商売繁昌、事業繁栄、厄徐開運、医薬健康など、

  多くのご神徳をお持ちの神々です。

  大己貴命、少彦名命は、ともに力を合わせ日本の国づくりをなされ、

  農耕漁業をすすめて日本人の生活の基礎をお築きになられました。

  平将門命は、悪政に苦しむ庶民たちを

  自らの命を投げ打って守られた東国の英雄です。

 【お守り】数多くの御神徳をもつ明神様の40種以上ものお守り

   徳川家康公が天下分け目の関が原の合戦に臨む際、

  当社より勝守(かちまもり)を授与し勝利を得たことから

  縁起の良いお守りとして、今日まで多くの方々に授与しております。

  その他、40種以上ものお守りを、当社では授与しております。

 【ご由緒】江戸東京で最も歴史ある神社

   社伝によると、天平2年(730)のご創建とあり、

  約1300年の歴史を持つ江戸東京の神社の中で

  最も古い神社の一つです。
 
  はじめは現在の千代田区大手町・将門塚周辺に鎮座していました。

  その後、延慶2年(1309)に東国の英雄として庶民に仰がれた

  平将門公をご祭神としてお祀りいたしました。

   慶長8年(1603)徳川家康公が江戸に幕府を開き

  江戸城が拡張されたとき、

  当社は社地を江戸城から表鬼門の位置に当たる現在の地へ遷り

  幕府よりご社殿が造営されました。

  以後江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として幕府はもちろんのこと

  江戸庶民にいたるまで多くの人々の崇敬を受けました。

   明治時代に入り准勅祭社・東京府社として

  東京の守護神と仰がれました。

  明治7年(1874)、茨城県・大洗磯前神社より

  少彦名命をお迎えいたしました。

  さらに同年、明治天皇が親しくご参拝なされました。

 【境内のご案内】東京の真ん中にある江戸きっての名所

   昭和9年、

  神社建築としては画期的な権現造の

  鉄骨鉄コンクリート・総漆朱塗の御社殿が、

  約10年の歳月と巨額の浄財により完成。

  東京大空襲にも耐えたこの御社殿は、

  平成15年に国の登録文化財に指定されました。

   隋神門は、総檜・入母屋造で左右に隋神像を安置しております。

  昭和51年に建立。

  御屋根の両端に鳳凰をあしらった鳳凰殿は、

  神札授与所・参拝者待合室・休憩所を兼ねた建物で、

  平成17年に建立されました。

   その他、

  境内には石造では日本一の大きさを誇るだいこく様ご尊像、

  波間よりイルカやカメといった海の仲間たちに

  守られていらっしゃる姿した、えびす様ご尊像をはじめ、

  銭形平次の碑や文化財指定の獅子山などがございます。

   また、明神会館は神前結婚式をあげられて

  新郎新婦の披露宴会場として連日賑わい、

  また各種会議・宴席などにもご利用いただいております。

  社殿に向って左脇には資料館もあり、
  
  江戸文化や神田祭を伝える貴重な資料の数々が

  展示されております。

 神田明神
 神田明神

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
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 ハラフ期の土器について
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 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
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 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
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2014年12月20日土曜日

日枝神社


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 《課題》江戸の古代を解明する
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 ≪日枝神社≫ひえじんじゃ:参拝のしおり

 日枝神社

 鎮座地 東京都千代田区永田町2-10-5

 摂社  中央区日本橋茅場町1-6-16

 電話  03(3581)2471 FAX 03(3581)2077

 交通  (地下鉄)丸の内線・銀座線:赤坂見附駅

         銀座線・南北線:溜池山王駅

         千代田線:国会議事堂前駅

  日枝神社 

 御祭神

  大山咋神  おおやまくひのかみ

 相殿に鎮まります神々

  国常立神  くにのとこたちのかみ

  伊弉冉神  いざなみのかみ

  足仲彦尊  たらしなかつひこのみこと

 主祭神の神系

        ┌大國御魂神
        │
  須佐之男神─┼大年神─御年神
        │
        └大山咋神─別雷神

 『古事記』に

  「大山咋神(おおやまくひのかみ)、

   またの名は山末之大主神(やますえの大ぬしのかみ)。

   この神は近淡海(ちかつおおみ)国の日枝山に坐す。

   また葛野(かずの)の松尾に坐す。

   鳴鏑(なりかぶら)になりませる神なり」とあるように、

  近江国(今の滋賀県)の日枝山(比叡山)に

  鎮まりましたのが最初で大年神(おおとしかみ)の御子神で、

  別にその御名を山末之大主神とたたえて申しあげます。

 御神徳

  大山咋神の「咋」は「主」という意味で、

  大山の主であると共に広く地主神として崇められ、

  山・水を司り、大地を支配し

  万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う

  御神徳は広大無辺であります。


 御社格

  当神社は江戸城の鎮守として徳川家の崇敬は特に篤く、

  将軍世嗣、子女及諸大名等の社参は絶えることなく、

  毎年正月・六月には必ず使いを遣して幣を奉り、

  国家事ある時には必ず祈願を修し、

  崇敬他に異なるものがありました。

  東京遷都の後明治元年11月8日に准勅祭社に

  同2年7月2日祈年奉幣の列に入り、

  同5年5月8日府社に定められましたが、

  皇城の鎮護たる故を以て、

  同15年1月11日官幣中社に列せられ、

  大正天皇御即位にあたり、

  氏子区域内に御降誕せられたる故を以て、

  大正天皇御即位の当日、

  更に昇格して官幣大社に列せられ、

  終戦と共に社格を廃せられたが、
 
  宗教法人として都民の尊信を専らにしてかかわることなく

  今日にいたっています。

 御由緒

  当社は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として

  江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明10年(1478)

  太田道灌公が江戸の地を相して築城にするにあたり、

  鎮護の神として川越山王社を勧請し、神威赫赫として

  江戸の町の繁栄の礎を築きました。

  やがて天正18年(1590)徳川家康公が江戸に移封され、

  江戸城を居城とするに至って

  「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」として崇敬されました。

  二代秀忠の時の江戸城大改造の際、

  城内紅葉山より新たに社地を江戸城外に定め、

  社殿を新築して遷祀されました。

  世に伝える元山王と称する地は今の隼町国立劇場附近である。

  この時から別当神主を定め神社の規模は大いに備わり、

  広く一般衆庶も参拝し得る道を開きましたが、

  明暦3年(1657)の大火に社殿炎上の災に遇いましたが、

  時の将軍家綱は直ちに赤坂の溜池に臨む

  松平忠房の邸地を官収して社地に充て、

  結構善美を尽くした権現造り社殿を造営・遷祀され、

  天下泰平、万民和楽の都を守護する祈願所として崇敬されました。

   明治元年東京遷都と共に勅使奉幣が行われ、

  御西下御東幸に際しては御途中安全の御祈祷を修せしめられ、

  明治2年7月天下水患にあたり勅使祈祷も御事があり、

  宮妃御懐妊の際は御安産の御祈修せられ、

  皇室典範帝国憲法の制定を始めとして開戦及び平和克復等の

  重大事に際しては、常に勅使参向御奉告が行われ、

  畏しくも大正天皇儲宮にまします時、新しく御参拝があり、

  明治天皇は御愛蔵の御太刀一振(長光)を進献あそばされました。

   万治2年御造営の社殿は、

  江戸初期の権現造りの代表的建物として国宝に指定されていましたが、

  昭和20年5月戦禍に遭い、末社山王稲荷神社を残し

  悉く烏有に帰しましたが、氏子崇敬者の赤誠奉仕により

  「昭和御造営」の画期的な大業が企画され、

  昭和33年6月本殿遷座祭齋行、

  引続き神門・廻廊・参集殿等が逐次完成、

  更に末社改築、摂社の大修築、神庫校倉の改造等を相次いで竣工し、

  全都をあげて之を慶賀し、昭和42年6月奉祝祭が先づ齋行され、

  この間、昭和33年6月現社地御鎮座三百年祭を齋行し、

  ここに昭和24年復興後援会発祥以来10年に亘る歳月を以て

  山王台上に再び大社の偉容を拝するに至りました。

  昭和52年7月江戸城内御鎮座五百年奉賛会が結成され、

  昭和53年6月五百年を祝する式年大祭を厳修し、

  昔をしのぶ天下祭にふさわしい山王神幸祭の復元、

  尚記念事業として、「日枝神社史」の刊行、

  「宝物殿」の建築、本殿以下社殿の修繕、境内整備等が

  実施されました。

 宝物

   刀剣を主要なものとし、現在保存されてる刀剣は27口で、

  内国宝1口、重要文化財14口を数えている。

  これらは歴代の将軍及びその世子等が初宮詣で、

  或は自身が将軍宣下奉告参拝、

  或は特殊の崇敬の下に社参されたときに、

  社前に奉納されたものであることを特色とします。

   又、社蔵文書として重要な徳川歴代将軍の朱印状が、

  6代家宣7代家継及び15代慶喜のそれを除いて

  12通現存し社蔵されている。

  他に家光の手習い草紙を貼って作ったといわれる

  「獅子頭」や山王まつりの山車人形、記録文書等が所蔵されています。

 山王祭(神幸祭) 

   日本三大祭りの一つ、東都第一の祭礼に数えられ、

  昔三基の神輿は江戸城内に御渡りになり、

  時の将軍が自ら奉迎せられたと言う徳川このかた伝統の祭りは、

  「山王祭」または「天下祭」の名で広く天下に親しまれてきました。

  大津市坂本の日吉大社の御輿ぶりが有名であったのに比べ、

  当神社のそれは「山車(だし)」や練(ね)りものが特徴で、

  その台数の多い事と絢爛にして豪華な附祭(つけまつり)の風流で

  有名でありました。

  20世紀の今日と雖も

  厳かに天下祭の面影を残しております事は周知の事であります。

 旧社家・別当・社僧

   山王権現の社号を称した往時の記録で別当は天台の観理院、

  神主は日吉大膳、

  社僧に圓成院・成就院・宝蔵院・長命院・福聚院・智光院・宝船院・

  無量院・智乗院・常明院 の10坊があり、

  神職社家は小川織部・千勝主水・千勝采女・金丸靭負・宮西頼母・

  正木主膳・諸井喜内の7家、

  巫女として、左近・土佐・伊賀の3家、

  更に山王権現御旅所(萱場町)神主として諸井喜内が専任した。

  徳川時代は神仏の両部習合の法で神道に於いては

  天下泰平国家安穏の祈祷を修し、

  圓頓止観の天台にあっては唯我三密の直心を凝らしめた。

  (「江戸鹿の子巻三」「江府神社略記」「江戸砂子」)

  元禄10年5月15日山王(江戸)神主に日吉(江州坂本)の社人

  樹下民部を命じ、民部後任に日吉大膳の子息を遣さる、

  由が見え、此時より神職は樹下氏と定まったようであります。

  (改撰江戸志)

 年間の主な祭典

 大祭

  祈年祭(春の大祭)         2月17日

  例祭(隔年神幸祭)         6月15日

  新嘗祭(秋の大祭)        11月23日

 中祭
  
  若水祭(ひとり翁奉奏)       1月 1日

  歳旦祭(初神楽)          1月 1日
  
  元始祭              1月 3日

  紀元祭              2月11日

  神嘗祭             10月17日

  日本文化祭           11月 3日

  天長祭             11月23日

 小祭 

  印章御符祭(おしでまつり)     1月13日

  成人祭              1月15日

  神札焼納祭            1月15日
  
  節分祭追難式           2月節分の日

  学業成就祈願祭・絵馬まつり    3・4月中

  山王稲荷祭(末社)         4月下午の日

  天満天神祭(摂社)         5月25日

  八坂神社祭(末社)         6月 7日

  嘉祥祭(和菓子の日)        6月16日

  浅間神社祭(摂社)         7月 1日

  箸感謝祭             8月 4日

  敬老長寿祭            9月15日

  山王祖霊祭            9月秋分の日

  仲秋管弦祭            十五夜

  除夜祭             12月31日

  猿田彦神社祭           庚申の日

  朔旦祭(山王御縁日)        毎月 1日

  月次祭(山王御縁日)        毎月15日
  
 山王御祓・鎮火祭     

  夏越祓              6月中旬

  年越祓             12月31日

 
 ≪参照≫

 猫の足あと|東京都・首都圏の寺社情報サイト

  境内掲示による山王日枝神社の由緒

  鎌倉の初期秩父氏の流れ重継は江戸太郎を名乗りその館の中に

 日吉の大神を勧請した。

  降って文明年間(1478頃)足利の宰相太田道灌持資が城内に、

  更に天正18年徳川家康が入府し江戸城内の紅葉山に新社殿を造営した。

  徳川三代家光は一般市民の参拝の便を企るため半蔵門外に遷座、

  朱印地を600石に加増、四代家綱の代、

  萬冶2年振袖火事のため永田町溜池に臨む景勝の星ヶ岡に遷座、

 現在に至る。

  歴代の将軍世子の社参絶えることなく、

 都度神馬・太刀(国宝)等を献じた。(宝物殿に出陳中)

  山王日枝神社の日枝・山王まつりは、神田まつりと共に

 天下祭・御用祭として華麗豪壮、正に天下随一と称えられた。
 
  明治維新、遷都により江戸城は明治天王皇居(宮城)となり、

 当神社は皇城の鎮守神として官幣の大社に列した。

  (山王日枝神社境内掲示より)

  末社、山王稲荷神社の由緒

    祭神 倉稲魂神

    例祭4月下午の日

    稲荷の大神は生成発展・商売繁盛の守り神として全国に祀られ、

    ここ永田馬場星が岡の地主神として松平主殿頭忠房の邸内に祀られ

  特に火伏せの信仰が篤く、

    萬冶2年4月本社山王権現が麹町より移遷されるに至り、

  境内末社となった。

  末社、八坂神社の由緒

    祭神 素盛鳴神

    例祭6月7日

    日枝大山咋神の祖父神、もと京橋南伝馬町の牛頭天王として、

  三ヶ町の鎮守で大伝馬町、 小舟町と並び江戸三天王と称された。

  明治19年7月、末社猿田彦神社内に相殿神として奉斎された。

    今に祇園八坂信仰は商業・農業の守護神、病気退散の信仰が篤い。

  末社、猿田彦神社の由緒

    祭神 猿田彦神

    例祭初庚申の日

    萬冶2年、御本社山王権現と共に奉祀されたと伝えられ、

  御祭神は”道ひらきの神”として、

    また里俗の説に”山王のお使い”即ち神猿とも言われる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

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 ハラフ期の土器について
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 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
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2014年12月13日土曜日

恵比寿神社

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 ≪恵比寿神社≫えびすじんじゃ

 恵比寿神社

 鎮座地 〒150-0021 東京都渋谷区恵比寿西1-11-1

     電話05-3407-7534

 ご鎮座の由来

   恵比寿神社は渋谷区恵比寿地区の産土(うぶすな)の神です。

  古伝によると、景行天皇の時代(約2000年前)、

  古代の英雄・日本武尊が東国平定の折に、

  この恵比寿の地に憩い、神代7代の中の6天神を祭った伝えられます。

   ヤマトタケル尊は『古事記』『日本書紀』によると、

  大和(奈良県)より、焼津、走水より、海路をとり、

  恵比寿神社は大和への帰り道に関東をながめ、

  オトタチバナヒメを思い、三度嘆息して、

  「吾妻(あづま)はや」といわれました。

  これが関東(あづま)の謂われだとされています。

   その後、土地の民が尊の徳を称え、

  代々、天神を祭祀しました。

  これが恵比寿神社の前身でである「天津(あまづ)神社」で、 

  第6天とも呼ばれていました。

  ご神体は六角形の面にそれぞれの面に6柱の神々の御名が

  彫られた石柱で、現在も、恵比寿神社に祭られています。

   昭和34年、さらなる街の発展を願い、

  恵比寿(古代はこの辺りが海岸線でした)という地名に因んで、

  鯛を抱かれた福徳の神≪えびす様≫である

  事代主命(コトシロヌシノミコト)を合祀して

  恵比寿神社と改称しました。

  その際、えびす様の総本社である西宮神社(兵庫県神戸市)かr

  ご神像のミタマ入れをしていただきました。

   現在、恵比寿神社は恵比寿地区の発展ともとともに、

  ますますご神威が輝いております。


 ご祭神

  国常立神       クニトコタチノカミ

  豊雲野神       トヨクモノカミ

  角杙神        ツノグイノカミ

  意富斗能地神     オホトノヂノカミ

  伊邪那岐神      イザナギノカミ

  伊邪那美神      イザナミノカミ

  事代主命(えびす様)  コトシロヌシノミコト


  ※日本の神話『古事記』では、神世七代の最初の神が

   国常立神です。

   この神は国土の守護神(地球神)ともいうべき神です。

 恵比寿神社の概要

 恵比寿神社は、渋谷区恵比寿西にある神社です。
 恵比寿神社の創建年代は不詳ですが、
 古くから天津神社(大六天様)と称して鎮座、
 昭和34年ヱビスビールのあった兵庫県西宮市の
 西宮神社の分霊を勧請して恵比須神社としたといいます。

 
 恵比寿神社の由緒

 恵比寿神社の創建年代は不詳ですが、
 古くから天津神社(大六天様)と称して鎮座、
 昭和34年ヱビスビールのあった
 兵庫県西宮市の西宮神社の分霊を勧請して恵比須神社としたといいます。

 境内掲示による恵比寿神社の由緒

 恵比寿神社は文献によると大昔の頃より天津神社(大六天様)と称して
 家内安全無病息災五穀豊穣の神々として
 広く住民に崇め祭られて参りました。
 戦後区画整理により記念事業として現在地に社殿を新築致し
 これを契機に商売繁昌縁結びの神、事代主命(エビス様)を合祀し
 社名を恵比須神社と改めました。(境内掲示より)

 東京都神社名鑑による恵比寿神社の由緒

 明治十七年二月東京府社寺課に提出した書類に、
 武蔵国豊島郡下渋谷村鎮座、無格社社殿間口三尺・奥行四尺、
 鎮座年月不詳、氏子無、信徒三人、社地官有地壱畝拾六歩とある。
 『豊多摩郡誌』にも見えるように、
 氏神氷川神社の域外末社であった。(東京都神社名鑑より)

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年12月11日木曜日

久國神社由緒記


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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―
 
 ≪久國神社由緒紀≫ひさくにじんじゃ

 久國神社

 御祭神
  
  倉稲魂命(うがのみたまのみこと)

   古来より五穀を始め全ての食物や養蚕の「農業神」「福徳神」として、

   商売繁昌殖産興業の守り神です。

 鎮座地

  東京都港区六本木二丁目十六号

 御由緒

   当社の勧請は年月不詳ながら、古くは元千代田村紅葉(現皇居内)に

  鎮守されていましたが、長禄3年(1457)太田道灌江戸築城につき、

  寛政6年(1465)溜池に城隍の鎮守として遷座され、

  のちに久國作の刀が寄進されましたので久國稲荷神社と称しました。

  永禄3年(1560)基地が公用に属しましたので寛保元年(1741)に

  当所に遷座されました。

  当時の溜池には神木の榎がありましたが現存していません。

  昭和2年(1927)10月25日久國神社と称するようになりました。

 例祭日

  6月8日

 御社殿
 
  明治7年(1874)8月の記録には、

  「先年青山辺ヨリ出火ノミギリ類焼ニツキ仮宮」とあり、

  明治21年(1888)5月6日拝殿再建、

  大正11年(1922)6月本殿、拝殿、社務所を再建しましたが

  昭和20年(1945)5月25日の大空襲で

  御神輿庫、御水舎を除き全焼しました。

  昭和28年(1953)8月復興再建し現在に至っています。

 末社
 
  猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)

 御祭神

  猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)

   人間の運命を開く神、交通安全の守り神です。

 例祭日

  4月11日

 御宝物

  長刀 一振    久國作

  宝剣 一振    天國作 

  御神像      高村光雲作

  「久國神社」額   勝安房筆

  「久國神社」鳥居額 香取秀真作

  御神號      東郷平八郎

  白磁の御酒器一対 宮川香山作

  「小鍛冶」     森村宜永画

 神楽殿
 
  昭和8年(1933)に改築しました神楽殿は氏子の一人でありました

  村上委山先生に松の画をかいていただきましたが

  昭和20年5月25日の戦火で消失してしまいました。


 氏子

  谷町、箪笥町の二ヶ所、

  昭和42年(1967)7月1日の地番変更により

  六本木1、2、3丁目となりました。

  しかし、従前通り谷箪町会(谷町、箪笥町の略)と呼称しています。

 七福神

  当社、町会の所祭事、諸行事などにより氏子の方々始め

  皆様方に尊敬されております。

   港区七福神の一つ布袋様も合祀されており、

  港区観光協会主催の「七福神めぐり」が

  昭和34年(1959)から発足したのを始めとして

  毎年正月の初詣には参詣の人達で賑わっております。

 久国神社の由緒

久国神社の創建年代は不詳ですが、古くより千代田村紅葉(皇居内)にあったといい、太田道濯が江戸城築城の際、寛正6年(1465)城隍の鎮守として溜池に遷座したといいます。寛保元年(1741)当地に遷座、昭和20年久国神社と改称したといいます。

 「東京都神社名鑑」による久国神社の由緒

勧請年月不詳ながら、古くはもと千代田村紅葉(現皇居内)に鎮座されていたという。長禄元年(一四五七)太田道濯江戸城築城につき寛正六年(一四六五)溜池に城隍の鎮守として遷座され、後に久国作の刀が寄進されたので久国稲荷神社と称するようになった。永禄三年(一五六〇)その地が公用に属したため、寛保元年(一七四一)に当所に遷座され、昭和二十年十月二十五日より久国神社と称するようになった。(「東京都神社名鑑」より)
「麻布區史」による久国神社の由緒

 久國神社(無格社)谷町八
祭神倉稲魂尊、大祭六月八日。寛正六年太田道灌が江戸城湟の鎮護として溜池に祀る處で、後永禄三年現地に移つた。溜池の舊地に神木の榎があつたと『府内備考』に記されてゐるが、今は無論存せず其の遺址だに判らない。別當は林昌寺であつた。久國の名稱は道灌寄附の久國作銘刀に由来すると云ひ、今も神寶として秘蔵されてゐる。
昭和二年十二月十七日現社號に改稱した。社殿は流造、氏子は七百戸、谷町と箪笥町がその區域である。(「麻布區史」より)
「東京名所図会」による久国神社の由緒

 稲荷神社
麻布谷町九番地に稲荷神社あり、世に久國神社と稱せり、今井町の高臺を負ひ、石磴十級、壇上に社殿、神楽殿、水屋あり、拝殿に久國社の額面を掲く、勝安芳伯の筆なり。
新編江戸志に云、稲荷神社(俗に久國稲荷と云)谷町鎮守、三寶院派別當岸照山林昌寺。當社舊地は溜池なり、其所に神木の榎今にありと。
寶物に久國の寶剣あり、是、即ち久國社の名ある所以とす。祭神は宇迦御魂命なり。明治二年神佛分離の際、別當林昌寺復飾したるも、其後荒廃し、舊記散亂したれば、今徴すべきなし、無格社にして、西町氷川神社社掌羽倉光表氏の受持奉祀たり。祭典は毎年六月七、八兩日、氏子は谷町及び箪笥町なり。(「東京名所図会」より)

 久國神社
 久國神社

《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年12月9日火曜日

櫻田神社(旧称・霞山稲荷神社)


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―
 
 ≪櫻田神社≫旧称・霞山稲荷神社

 鎮座地 〒106-0031 港区麻布3丁目2番17号 Tel03-3405-0868

 御祭神 豊宇迦能賣大神:とようかのめのおおかみ

 御由緒

   今を遡ること八百年余、治承四年(1180)

  武蔵国の奉行渋谷庄司重国が、

  霞山(現在の溜池から霞ヶ関にかけての小高くなった一帯)に

  焼狩りをしようとした前夜、其の夢枕にご祭神のお使いの

  白狐が現れ、狩りを行えば必ずや祟りがあるであろうと告げた。

  重国はこれは正夢と、直ちに狩りを中止し、

  当時東国に力を持っていた源頼朝公に事の次第を報告したところ、

 
  同年十一月霞山稲荷明神として現在の霞ヶ関桜田門外に

  社を造り祭る様命を下した。

   後の文治五年(1189)秋、頼朝公は、奥州平討奉賽の祭りを行い、

  神供料として三十貫の田地を寄進され、

  御神田と一般の田地との境界に桜の木を植えられた。

  この桜が、年毎に咲き誇り、

  人々が御神田を「桜田」と讃え、

  附近住民もその住地を桜田村と称するようになった。

  尚、この桜は当社御遷座にあたり

  「内桜田」現在皇居吹き上げの庭に移されたと伝えられる。

   時は下り、文明年間(1461-86)太田道潅公は、

  当社の縁起を伝え聞き、直ちに神殿を改修再興され、

  地領の守護神として崇敬された。

  また当時道潅公は、

  太刀甲冑等を寄進され永く当社の御神宝として伝えられたが、

  「青山火事」により消失した。

  当社は永く霞が関に御鎮座になられたが、徳川氏入国以来、

  諸大名屋敷が出来るにつれ寛永元年(1624)、

  現在の地に御鎮座せられた。

   当社は、明治から戦前にかけては、

 当時氏子であった名将乃木希典将軍が、

 お宮参りに参詣した神社として知られ、

 当日着用された産着は、現在も赤坂八丁目にご鎮座になる、

 乃木神社に於て社宝として保管されている(非公開)。

 また戦前は、硫黄島にて玉砕された

 旧男爵、西竹一帝国陸軍大佐も当社氏子であった。

  戦前までの当社大祭には、

 二階屋を雄に越す背丈の鳳輦(昭和20年空襲による戦火にて消失)を、

 現在の新橋内幸町交差点付近(当時の氏子地)に設けられたお旅所まで

 牛に引かせ、

 丸二日を掛けて当社とその間を往復する盛大な神幸祭が斎として、

 境内地に櫓を立て盆踊りの輪が夜更けまで続けられたが、

 その後の都市化や氏子減少により衰退してしまった。

 その後昭和五十年、

 代宮司や氏子悲願であった社殿改築も無事終了し、現在の装いとなった。


 氏子地

   当社氏子区域は、

  港区西麻布一丁目、二~四丁目の一部、

  元麻布三丁目の一部、

  六本木六~七丁目の一部

   遷座前からの氏子である

  港区西新橋一丁目の一部

   (現西新橋一帯芝桜田の地は、旧桜田村の名残で、

    現在もその一部が当社氏子となっている。

    又この地にある「日本中央競馬会」正門入口にも

    当社ご由緒書を掲げ、町神輿や山車等と共に展示してある。)

   以上である。

 櫻田神社の概要

 櫻田神社の由緒

櫻田神社は、源頼朝の命により渋谷庄司重国が霞山桜田明神として霞ヶ関桜田門外に鎮座、文明年中(1461-86)大田道灌當社を再興、慶長の頃櫻田溜池の台へ遷座。寛永元年(1624)麻布へ遷座したといいます。旧地名より霞山明神・霞山神社とも称されていたといいます。明治5年村社に指定、明治28年社號を霞山稲荷神社から櫻田神社へ改めたといいます。


 「東京都神社名鑑」による櫻田神社の由緒

 治承四年(一一八〇)十一月源頼朝の令により、武蔵国の住人渋谷庄司重国奉行として、霞山桜田明神として霞ヶ関桜田門外に御鎮座、文明年間(一四六一-八六)、太田道灌は、当社の有難い縁起を伝え聞き、ただちに神殿を改修再興し、地領の守護神として崇敬し、太刀甲胃等を寄進し、永く当社の宝物として伝えられたが、「青山火事」により焼失したそうである。当社は永く霞ヶ関に鎮座していたが、徳川氏入国以来、諸大名屋敷ができるようになったため寛永元年(一六二四)に戦前の麻布桜田町、現在西麻布三丁目に遷られた。なお、文治五年(一一八九)秋頼朝公奥州平討の報賽の祭を行ない神供料として三十貫の田地を寄進、一般農家の田と御神田とを区別するため御神田の畔ごとに桜の木を植えた。それが春ごとに桜花が繁り、人びとが御神田を「桜田」と唱え、付近農民も住地を「桜田村」と称するようになった。(なお現西新橋一帯、芝桜田は旧桜田村の名残で、現今も当社の氏子になっており、当社の旧名をとどめていた。)(「東京都神社名鑑」より)


 「麻布區史」による櫻田神社の由緒

 櫻田神社(村社)櫻田町八二
祭神豊宇迦能賈神、合殿に天照大神・大宮女神・天御柱神・國御柱神・加茂大神を祀る。大祭は九月二十一日、二十二日。
古くは霞山稲荷大明神と稱し、治承四年十一月澁谷庄司重國が霞ヶ關に創立したもので、後元和に至つて溜池に遷座したことが縁起に載つてゐる。同縁起に據ると重國麻布郷に狩し諸卒を具して霞ヶ關の霞山石窟前にいたり、枯草を集めて焼きたる時、中より白狐現はれ天に向つて気を吹上ること三丈許、中に十一面観音の忽然と現じ給ふと拝して大いに愕き、これを頼朝に言上し稲荷大明神に勧請したと云ふ。その後頼朝は三十貫文の神領を寄せ、又長禄元年太田道灌は領地の守護神として崇敬した。
『江戸往古圖説』に「渋谷庄司重國勧請文明中太田道灌再興又頼朝公の時櫻田村美田五百七拾石寄附、御供田の印に櫻木多く植ゑられ又要害を構へ江戸太郎重長に守らしめ往来を改めしむと云ふ。夫よりはるか後此地を麻布へ社と共に移され今の麻布(櫻田町百姓町)是也」云々とある。現在の地に遷たのは寛永元年頃で、別當観明院には新田式部大輔義國守本尊と傳へる荼枳尼天が、本地佛として安置されてゐた。寺は明治初年神佛分離の際廢棄されてしまつた。明治五年十一月五日村社に指定され、二十八年十月十八日霞山稲荷神社の社號を現稱に改めた。社殿は破風造である。
氏子は二千七百四十餘戸、その範圍は麻布區櫻田町・霞町・笄町一部・材木町一部より芝區新櫻田町・田村町一、二丁目一部(舊櫻田久保町・善右衛門町・新櫻田町・太左衛門町の一部)・太左衛門町の地域に亘つてゐる。(「麻布區史」より)


 「東京名所図会」による櫻田神社の由緒

 霞山神社
霞山神社は。麻布櫻田町八十二番地に在り。道路の西畔にして石の鳥居に櫻田總鎮守の額を掲げ。表門は萱索をゆひ。下総香取きやうふう虫御守としるしたる標札あり。門を入りて左に神輿倉を認む。次に又石の鳥居あり。ここには霞山櫻田神社と扁せり。左に天満宮(舊稱を襲ふてかく記しあり宜しく菅原大神と改むべし)三峰大神の合祀。右に神楽殿あり。正面は社殿にて。素木破風造り銅瓦なり。霞山社と題する扁額は。従三位出雲(千家)尊福書と見え。奥にも櫻田大神の扁額を掲ぐ。社前には二基の銅製貯水函と。双狐兩狗の石像を配置せり。
當社もとは霞山稲荷と稱し。観明院(霞山櫻田寺と稱し天台宗なり)之が別當たり。明治更革後神官之に奉仕す。
縁起に云。當社は武蔵の國の住人澁谷庄司重國の草創なり。東鑑に云。治承五年十一月下旬。頼朝公狩場歴覧の為め。稲毛の郷に出御。晩景に及びて。野狐御馬の前へ走り出る。頼朝公矢を放ち玉ふ。千葉四郎胤信の侍笹山丹三供奉し。同時に矢を放つ。再三が矢是にあたる。次の日又麻布の郷に狩し。直に霞山の麓に至る。爰に獣の穴あり。焼狩にせんと草を集む。運ぶ者一人俄に狂亂し。神の告あるにより。頼朝是を聞し召し。自今焼狩毒流を停止あり。霞山に社を建て稲荷神と崇む。其後右大将家天下を治め給ひ。諸國に守護を置き庄園に地頭をすえ。奥州街道は隅田川を限り。霞山のふもとに要害を構へ。霞か關と名づけ。江戸太郎重長是を預り。往還を改む。時に新田式部太輔義國(足利義國なり。義家の子新田にあらず。社傳の説誤まれり)の守本尊(行基作七寸)ダキニ天の像を秩父重康内陣に安置し奉る。其頃鎌倉高の嶽神武寺の住僧義慶の弟子観明院秀慶と云有験の僧あり。彼の重國在鎌倉の時。是を尊て我領霞山にいざなひ。稲荷の別當職とし。観明院と號す。かの僧相州江の島に至り。春日の作長三尺一寸の観音の像を得たり。是源頼義の守本尊たるよし異人是を告ぐ。即り稲荷の本地佛とす。文治五年頼朝公伊達泰衡退治の時。御立願ありて今之櫻田村五百七十石の所を御寄附。御供田のしるしに櫻木を植たる故。世人櫻田といふ。文明年中大田道灌當社を再興す。慶長の頃櫻田溜池の臺へ當社を移す。寛永元年又麻布へ遷座し奉る。もと霞山櫻田より此所に遷座せしより。霞山櫻田の稲荷と號し。所を櫻田町と改むと云々。
是は舊縁起にて僧侶の手に成りしものなれば。信じ難き所あり。現在奉仕の神官に照會したれども。未だ回答に接せざるを以て。姑く之を掲げたり。(「東京名所図会」より)

《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ