2014年11月29日土曜日

木田郷:藪(矢部)・虎・鳥居・麻布・六本木


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 木田郷:藪(矢部)・虎・鳥居・麻布・六本木

 藪野「やぶの」戦国時代天正年間までの麹町付近の呼称。

  矢部氏・矢部村(徳川入国時には矢部村)

   矢部氏はそれ以前よりの郷士で、江戸時代は名主。
 
   明治維新になって初代の麹町区長を務めた。

  藪「やぶ」=矢部「ヤブ(ベ)」

   「ヤブ」(Heb.),יִפֻי,YPVY,yipuy 美しいこと、美化、装飾

   「ヤベ」(Heb.),יַפֶה,YFH,yafeh 美しい、きれい、見事な

   これらヘブライ語の「美しい」「きれい」「装飾」「見事な」は

   霞山の広い地域に桑が植えられ、その桑畑で蚕が飼われ、

   枝々に繭が架けられた状況を形容したもの。

   つまり、矢部氏はヘブライ語を理解していた。

 虎「トラ」(虎ノ門の「虎」)〔港区〕

  「トラ」(Heb.),תָלִַַת,TVLIT,tolaiat 虫、毛虫、つまり「蚕の虫」

    ◎蚕(かいこ)は小さな幼虫の時、毛がある。

 鳥居「トリイ」(鳥居坂:港区六本木)

  「トリイ」(Heb.),תָלִת,TVLIT,tolit  虫、毛虫、つまり「虎」と同根の転訛。

 麻布(港区)

  阿佐布(役帳)、安座部(江戸名所記)、浅府(江戸雀)、

  浅生・浅府(再校砂子)

  「アサブ」「アサフ」

  (Heb.),ִַסַה,IsH,iasah 

   雌蛾、つまり「蚕のサナギからかえった(孵化した)蛾の雌」

  (Heb.),ִַסה,Ish,iash 蛾、-Hが添えられることにより、

       その語義が女性名あるいは雌となる。

  ※雌蛾は「蚕」を増やすに与って卵を生んでくれる大事な「虫」である。

 六本木(港区)<かって大きな松の木が6本あった。一本松の地もあった>

  「ロッポン・木」

  (Heb.),לָוָנ,LVN,lovon 

   白い、白色の、つまり「六本木」は「白い木」にして「白木」

  (Heb.),לָוֶנ,LVN,loven 白色、白
 
 飯倉(港区麻布台の字名、中世戦国期飯倉郷)

  「イイクラ」

  (Heb.),ִיכהר,AYkhR,iykhr 農夫、百姓

  江戸時代 麻布百姓町、麻布桜田町の近辺〔江戸名所図絵〕

 渋谷(渋谷区、平安時代末期の谷盛荘のうちに渋谷郷)

  「シブヤ」

  (Heb.),תסֶוִיַה,TsVYIH,tseviyah 染色、色付け、着色

  (Heb.),תסַבִַ,TsBI,tsabai 染色師

  (Heb.),תסֶוִַ,TsVI,tsevai 染料、着色剤、色

  (Heb.תסַוִַ,TsVI,tsavai 染める、着色する、色を塗る

   ※この地域の渋谷川(古川)を利用して緜帛布の染色をしていた

    職工たちがいたのである。

    (現在、渋谷はファッションの街として好かれている。

     伝統が生きている)

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
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2014年11月27日木曜日

木田郷:麹町・霞・千代田・永田


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 木田郷:麹町・霞・千代田・永田

 木田郷「支太」(高山寺本)、「木多」(東急本)、「キタ」(名博本)

 ※同郷の記載順は美田郷と櫻田郷の間である。

  よって同郷の地域は現在の港区三田と千代田区霞ヶ関の皇居に面する

  桜田門あるいは桜田濠周辺との中間か、

  それより幾分西側の辺りと想定される。

 木田「キタ」(Sk.)kita 昆虫【漢訳】虫、蟻、蛇

  ◎桜田・御田両郷の祖語がSk.に由来するので、

   この、「キタ」が同じくSk.が祖語であることに相違ない。

  ※「キタ」は実は「蠶・蚕・かいこ」を通称したもので、

   この一帯で、愛宕山(神社)を奉祭した倭人の系譜の人々が

   養蚕を行っていたとの証左となる。

   kita-ja 絹、

   kiti-ja 絹絲、

   これらの用語から「北野(きたの)京都市北区」が生まれた。

   同地は秦氏の本拠地太秦(うずまさ)に近く、

   西陣職に係わる繭の産地と考えられる。

 麹町「コウジ」(倭語<和語>)

       kho-si 〔白い-木〕あるいは〔白い-林〕白林

  ※古代においては、絹を得るための養蚕は天蚕、

   つまり「かいこ」を桑の木または桑林(畑)に直接放し飼いし、

   小さな幼虫が桑の葉を食べ、次第に成長し、

   白い繭を作って「さなぎ」になる頃には、

   緑の桑葉はほとんど無くなり、桑木は白い繭ばかりとなる。

   これを「白木」と称することができるし、

   また桑は1本だけであるはずもなく、

   いわゆる「林」状態であるから「白林」となる。

   よって、麹町周辺ではそのような天蚕が本来行われていたのである。

   (Sk.)kośa 繭、

      kauśa 絹の、
    
      kauśika 絹の、絹、絹の布帛なたは衣服

      kauśeya 絹の、絹の衣服

   【漢訳】虫衣

 霞「カスミ」(霞ヶ関、霞山、霞坂、霞村/霞岳)

 (和語/倭語)

  kho-sj-mehe-su-me]:[白い-木-帛]白木の帛(絹の布・真緜)

  霞ヶ関・霞山(千代田区の同地名、虎ノ門、永田町、千代田[皇居]辺り)

  霞坂(港区西麻布1・3丁目辺り)、


  霞村/霞岳(新宿区)とこの地域の広い」丘陵地帯で天


  蚕により繭あるいは帛布(真緜)を採取していたのである。

  ※平安時代「霞」という関所があった。

  ある伝によると日本武尊の東征に係わるという。


 千代田・永田(千代田区)

  「田」は「田圃」(水田)ではなく「畑」で「はた」を表わす。

   永田「ナガ・田」輝く畑<繭で白く光る畑>

    (Heb.),נַגַהֻ,NGH,nagahu 光、輝き、光輝

   千代田「チヨ・田」輝く畑<繭で白く光る畑>

    (Heb.),זִיֻ,ZYV,ziyu 光、輝き、光輝、栄光

    (Heb.),זָהֶר,ZVHR,zoher 輝く、ぴかぴか光る。

  ※「千代田」とは蚕が作った繭によって

   桑畑(桑林)が白く光輝いている様子をいったもの。

  ※霞山:帛(繭)で白く輝いている桑の木が多くある山

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2014年11月26日水曜日

愛宕③


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 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 「愛宕下町一丁目」(現)港区新橋三丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、烏森町の南にあたる。

 幕末には上野伊勢崎藩酒井家上屋敷・御所院番頭大島家屋敷・

 御小姓番頭水野家屋敷が置かれていた。

 江戸期を通して武家地で、寛永年間(1624-44)より毛利長門守下屋敷・

 大島茂平屋敷をはじめ五家の屋敷地として割られていた。

 元禄(1688-1704)以降能勢・大島・高木の三家の屋敷地となり、

 大島家以外は拝領主の変更はあるが

 屋敷割は幕末まで変わらなかった(寛永江戸図・沿革図書)

 愛宕下とは愛宕山の麓の意で愛宕の下ともいう。

 愛宕山の北東、新(あたら)シ橋の南にあたる武家地、

 藪小路・三斉小路・佐久間小路・田村小路・秋田小路・

 鎧小路辺りから烏森辺りまでを愛宕下と呼んだ

 (語府内備考・再訂江戸惣鹿子新増大全)。

 また愛宕下町の西を南北に通る大通りを愛宕下大名小路という。

 江戸の町には大名小路とよばれた所がいくつかあり、

 ほかと区別するために愛宕下を冠りした。

 明治以降には赤煉瓦通ともよばれていた(芝区誌)。

 明治維新後は華族の保科家や同池田家の邸宅があった。

 (東京府志料)。


 「愛宕下町二丁目」(現)港区新橋三-四丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、愛宕下町一丁目の南にあたる。

 愛宕下大名小路の東、日陰町通の西に位置し、

 幕末には長門清末藩毛利家上屋敷・備前岡山藩松平家添屋敷・

 近江水口藩加藤家中屋敷・交代寄合本堂家屋敷・

 御先鉄砲頭本多家屋敷が置かれていた。

 寛永江戸図に本堂伊勢・大島久三郎らの屋敷がみられる。

 以後も大名・旗本の屋敷地が置かれ、幕末まで武家地であった。

 (沿革図書)

 明治維新後華族本堂家の邸宅や勧学義塾など置かれていた。

 大名小路は明治以降赤煉瓦通とよばれており、

 当町に建設された赤煉瓦造の勤工場に由来するという
 
 (芝家具の百年始史・芝区誌)。

 田村町に接する西側は明治に入ると洋家具の製造が盛んとなった

 芝家具とよばれ広く知られている。

 日陰町通側は明治維新前より

 伽羅湯・書籍・毛抜・剃刀・古着屋・剣術道具・錦絵などを

 商う店が多く、維新後も洋服店・古着屋などが軒を連ねる裏小路であった

 (「芝区誌」「港区史」など)。


 「愛宕下町三丁目」(現)港区新橋四-五丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、愛宕下町二丁目の南に続く。

 愛宕下大名小路の東側一角を占め、幕末には常陸下妻藩井上家上屋敷・

 寄合大久保家屋敷・御目付遠山家屋敷などが置かれていた。

 寛永江戸図では本多因幡、寛文新版江戸図絵では

 掘飛騨・桑山修理の屋敷が割られている。

 以降も大名・旗本などの屋敷が置かれ、

 江戸期を通して武家地であった。

 天保元年(1830)の図以降北東部にみえる遠山金四郎は

 講談等で名奉行として知られる遠山景元(沿革図書・屋敷書抜など)。

 明治維新後は華族井上家邸・鳴門学舎などが置かれている。

 愛宕下町二丁目と同様に洋家具製造が盛んであった

 (「芝区誌」「港区史」など)。



 「愛宕下町四丁目」(現)港区新橋五-六丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、愛宕下三丁目の南にあたる。

 増上寺の南、愛宕下大名小路の東側に位置し、

 幕末には陸奥仙台藩伊達家中屋敷・大和柳生藩柳生家上屋敷・

 信濃小諸藩牧野家上屋敷が置かれていた。

 江戸期を通して武家地で、

 寛永江戸図には「正宗中やしき」(仙台藩中屋敷)と

 「毛利長門守下やしき」(長門萩藩下屋敷)がみえる。

 仙台藩中屋敷は幕末まで当地に置かれているが、

 萩藩下屋敷は寛文新版江戸絵図ではみられず、

 松平帯刀と伊達兵部少輔の屋敷地となっている。

 松平屋敷地は宝永年間(1704-11) に豊後藩中川家中屋敷となり、

 天保7年(1836)柳生家が拝領し上屋敷とした。

 伊達兵部少輔屋敷地は延宝3年(1675)に収公され

 仙台藩下屋敷となるが、

 元禄8年(1695)相対替により越前丸岡藩有馬家上屋敷となる。

 同上屋敷は文久2年(1862)に八代洲河岸(現千代田区)へ移転し、

 跡地は陸奥泉藩本多家が上屋敷に拝領するが同3年に収公され、

 小諸藩上屋敷となった(屋敷書抜・年録・沿革図書など)。



  仙台藩中屋敷内には塩竃神社があった。

 四代藩主伊達綱村が元禄8年陸奥国一宮塩竃神社の分霊を

 藩邸鎮守のため芝の邸内に勧請したのが始まりで、

 安政3年(1856)に中屋敷に移した。

 同年夏より毎月10日に一般の参詣を許したという

 (武江年表・港区史・新撰東京名所図会)。

 明治維新後には桜川学校(後の桜川小学校)、

 東京美術倶楽部などがあった。

 昭和5年(1930)塩竃神社に付随して造られた

 塩竃公園(現港区立塩釜公園)は

 開園当時区内唯一の町立公園であった(芝区誌)。
 
《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2014年11月24日月曜日

愛宕②


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 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 「琴平町」(現)港区虎ノ門一丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、北は今入町。

 虎門・新(あたら)シ橋の南にあたり、

 東は愛宕下通、南は藪小路を限り、西には外堀が巡る。

 古くからの武家地で、讃岐丸亀藩京極家(上屋敷)・

 豊後日出藩木下家(上屋敷)・肥後人吉藩相良家(上屋敷)・

 旗本谷家などは延宝年間(1673-81)から当地に居を構えている。

 幕末にはこの四家に加え

 北西の堀端二千三五九坪が勘定奉行役宅となっている(沿革図書など)。

 京極家上屋敷内には金刀比羅(ことひら)宮があり、

 1月10日を初金刀比羅として毎月10日が縁日であった。

 同宮は万治元年(1658)京極高知が領内の

 金刀比羅大神(現香川県琴平町)の分霊を三田の藩邸に勧請したもので、

 延宝7年に屋敷地が虎御門外へ移された際社地も移転した。

 一般の人々に参詣を許すようになったのは文化年間(1804-18)の末、

 金刀比羅大権現として創建してからのことで、

 同宮に禁酒を誓うという風習は

 江戸時代から行われていたという(港区史)。

 「東都歳時記」によると縁日には近鄙より多くの参詣人が訪れ、

 植木などの諸商人が市を開いていた。

 明治維新後は同宮への参詣者を当込み飲食店や雑貨商が増え、

 一種の新生門前町の様相を呈した。

 明治7年に読売新聞社の前身である日就社が創業を始めている(港区史)。


 「西久保桜川町」(現)港区虎ノ門一丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、琴平町の南にある。

 虎門外の南、愛宕下および西久保にあたる。

 町名は町の中ほどと東方に流れる

 桜川が流れることに由来するという(新撰東京名所図絵)。

 当所は古くから武家地として整備され、

 延宝年間(1673-82)には既に肥後宇土藩細川家屋敷地をはじめ

 大名・旗本の屋敷地となっている。

 その後拝領主・屋敷割などには変化はみられるが、

 江戸時代を通して武家地として変ることはなかった。

 幕末には

 当所北西の愛宕下通沿い、北は藪小路、南は三齋小路までの地所には

 近江水口藩加藤家上屋敷、愛宕下通沿いの三齋小路南には

 信濃松代藩真田家中屋敷、その西隣には信濃松本藩松平家中屋敷、

 北側下部小路通沿いの西から二軒目には

 駿河沼津藩水野家下屋敷が置かれ、

 その他旗本・御家人の屋敷が置かれていた(沿革図書)。

 藪小路は既に「紫の一本」にみえ、

 細川丹後守行孝(宇土藩初代藩主)屋敷地に

 わずかな竹薮があったことに由来し、

 将軍家秘蔵の鷹がこの藪で死んだことから竹を切らかなかったいう。

 三齋小路は加藤家上屋敷が

 かって細川三齋(細川忠興)屋敷地であったことによるという。

 南側には鎧(えい)小路があるが、名称の由来は不明(御府内備考)。



 「西久保明船町」(現)港区虎ノ門二丁目

  明治2年(1869)に成立した町で、西久保桜川町の西に位置する。

 虎門外の南、西久保通沿いの西側、藪小路の南にあたる。

 当所は古くから武家地で、

 延宝年間(1673-81)には既に幕臣の屋敷地となっていた。

 幕末は丹波篠山藩青山家下屋敷のほかは中奥御番能勢家・

 小普請組支配奥田家・御使番土方家・天守番頭増田家・内藤家・

 交代寄合竹中家・書院番仙石家・同伊奈家と

 すべて旗本の屋敷地となっている。

 能勢家・奥田家・土方家・内藤家・竹中家の屋敷地は

 延宝年間から存続していた沿革図書)。

 慶應3年(1867)7月、

 鉄砲洲(現中央区)を外国人居留地とした際に用地になった

 明石町・船松町二丁目が当所へ移転、

 明治維新後幕臣が去ると芝車町・伊皿子七軒町・

 三田功雲寺門前・三田台町一丁目などの代地となり、

 明治2年に明石町・船松町の町名より一字ずつをとって

 町名を明船町とした。

 同5年には近隣の旧武家地も合併した。

 船松町からとった町名であるため「明船町」であるはずであり、

 「東京府志料」にも同様に記されるが、

 古い戸籍簿には「明舟町」となっている。

 文字を改め時期・理由などは不明(港区史)。

 
 
 「西久保巴町」(現)港区虎ノ門三丁目 

  明治2年(1869)に設立した町で、

 江戸見坂の東側、西久保明船町の南に位置し、

 東は芝愛宕町一丁目。

 古くは一円武家地で、延宝年間(1673-81)の図では

 牧野家・朽木家・石尾家・林家などの屋敷地が置かれていた。

 元禄10年(1697)南北に通る西久保通沿いの

 牧野家・朽木家屋敷跡に下谷町・車坂町(現台東区)が代地を与えられた。

 両町の西は牧野老之助や敷地、

 以下…略…。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2014年11月20日木曜日

愛宕①


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 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 「愛宕神社」(現)港区愛宕一丁目

  愛宕山に鎮座する。

 祭神は火産霊命・罔象女命・日本武尊。旧村社。
 
 本地仏は行基彫刻と伝える勝軍地蔵。

 天正10年(1582)本能寺の変に際し、

 徳川家康が堺(現大阪府堺市)を出発して

 大和路から近江紫香楽(現滋賀県信楽町)に入り、

 多良尾四郎衛門の屋敷に宿泊して時に地蔵を献上されたという。

 慶長8年(1603)家康に供奉して勝軍の法を修めた僧春音の撰によって

 桜田の藤六郎の山に仮殿を建て、

 同10年本社・幣殿・拝殿が建てられた。

 元和3年(1617)社領100石を豊島郡王子村(現北区)に与えられた。

 別当は真言宗円福寺で、寺中に金剛殷院など5院を抱える

 (寺社書上・「再校江戸砂子」など)。

 円福寺は御府内八十八ヶ所の第十九番札所。

 当社は江戸の火防の守護神として信仰を集め、

 また山頂からの眺望で知られた(江戸名所図会)。

 境内東側には門前町屋(芝愛宕門前)がある(寺社書上)。

 万延元年(1860)大老井伊直弼を襲撃した

 水戸浪士たちの集合場所とされた(東京市史稿・港区史)。

 現在の祭礼は例大祭が9月23日・24日。

 6月23日・24日には千日詣(ほうずき市)がある。

 当社には男坂(おとこさか)と女坂(おんなさか)があり、

 江戸時代は男坂は長さ京間15間余り、幅3間、石段68段

 女坂は長さ24間余り、幅4間・下幅2間、石段96段

 であったが(寺社書上)、

 明治時代以降改造されたようで男坂86段・女坂107段となった

 (新撰東京名所図会)。

 境内は明治19年(1886)に公園と定められ、

 昭和22年(1947)東京都の布告により指定が解除されるまで

 愛宕山公園となった。(現放送博物館)ができたのが大正14年(1925)、

 愛宕山トンネルが開通したのが昭和7年である芝区誌・東京市稿)。


 「芝愛宕町一丁目」 (現)港区愛宕一-二丁目

  明治5年(1872)に起立した町で、愛宕下通沿い、

 鎧小路の南、青龍寺の北にあたり、町の東側には桜川が流れる。

 当所は江戸期を通して愛宕社・円福寺・真福寺(現真言宗智山派)・

 青松寺(現曹洞宗)などの寺社地と武家地であった。

 青松寺は慶長5年(1600)、愛宕社は同8年より当地にあり、

 円福寺は同社の別当寺。

 真福寺は天正19年(1591)

 照海が鉄砲洲(現中央区)に置いた草庵から始まり、

 同10年当地に社地を与えられて堂宇を建立。

 江戸時代には智山派の触当を勤めていた(寺社書上)。

 御府内八十八ヶ所の第り六七番札所。

 同寺の西隣、鎧小路沿いの地所は古くから武家地で、

 延宝年間(1673-81)には

 大久保一郎右衛門・阿部壱岐守の屋敷地となっている。

 その後拝領主・屋敷割に変更がみられるが、

 幕末には大久保家・山本家・小暮家・市川家・山田家ら

 旗本・御家人の屋敷地が置かれていた(沿革図書)。

 明治2年芝愛宕門前を芝愛宕町と改名し、

 同5年に前述の寺社地と武家地を合併して芝愛宕町一丁目とした。


 「芝愛宕町二丁目」 (現)港区西新橋三丁目

  明治5年(1873)に成立した町で、芝愛宕町一丁目の東、

 田村町の南にあたる。

 愛宕下町通沿い、薬師小路の南にあたる。

 幕末には武家地。愛宕下通沿い南端の大和小泉潘片桐家上屋敷は

 延宝年間(1673-82)にはすでにみられ、

 通り北側の越後長岡潘牧野家中屋敷は正徳3年(1713)からみられる。

 同中屋敷東隣には延宝年間から石河家屋敷があったが、

 文政一二年(1829)以降取払われ、牧野家の屋敷地と合併した。

 秋田小路沿い南側の地所は延宝頃松平若狭守・本多美作守・藤縣采女・

 青木甲斐守らの屋敷地が置かれていた。

 藤縣家屋敷は幕末まで存続している。

 秋田小路沿い東角には正徳年間より備中生坂藩池田家上屋敷があり、

 幕末まで変わらず。

 当地南西の青木甲斐守屋敷は元禄5年(1692)7月に内藤丹後守、

 翌年4月には石川主人の屋敷地となり、

 北に隣接する青木右衛門屋敷を囲い込んだ。

 正徳3年5月、石川家屋敷の南の方、ならびに東に隣接する

 川勝家屋敷が召上げられ広道となった。

 川勝家跡地のうち北側は松平左兵衛督代地となる。

 享保3年(1718)2月には当地南に位置する松平左兵衛・長谷川周防守・

 松平主税頭

 (正徳3年の図では石川家屋敷地の地所。同年6月拝領という)

 らの屋敷が召上られ、一円火除地となった。

 火除地は年月は不明であるが馬場となり、

 享保13年の図よりみられる(沿革図書)。

 明治5年武家地を合併して芝愛宕町二丁目が成立、
 
 翌年南側に隣接する馬場も合わせた。

 明治期には陸軍省練兵場官庁地や七番大隊屯営鎮台、

 東京府病院などがあり(明治東京全図)、

 同15年には慈恵会病院(現慈恵医科大学)が創設されている(港区史)。


 「芝愛宕町三丁目」 (現)港区新橋五-六丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、芝愛宕町二丁目の東にある。

 愛宕下大名工事沿い西側、薬師小路の南側にあたる。

 江戸期を通して武家地で、延宝年間(1673-81) には

 内藤家・神尾家・溝口家・平野家などの屋敷地があり、

 正徳3年(1713)以降北部に

 陸奥三春藩秋田家上屋敷が置かれ幕末まで存続した。

 幕末には同上屋敷のほか出羽長瀞藩米津家上屋敷・

 大和高取藩植村家中屋敷・交代寄合井上家屋敷、

 御使番仁木家・井上家が置かれていた沿革図書)。

 明治19年から大正12年(1923)まで芝区役所が置かれていた。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年11月12日水曜日

草加・江戸・品川②

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 ※出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪草加・江戸・品川≫

 《東京都》

 江戸

  中世末期の地名。中世は郷名。近世は城名。

  城下名として用いられ幕末まで続く。

  地名の由来は諸説あるが、地形的に入江(日比谷の入江)の

  門戸に当たっていたことによる。

  【中世】地名の初見は弘長元年(1261年)10月21日平長重書状

   弘長(1261-1264) 

  「武蔵国豊島郡江戸之内前嶋村」 (前=幸 śaci:力・Indra 神)

  弘安4年4月15日平重政譲状(佐賀県深江家文書)

   弘安(1278-1288)  

  「江戸郷柴崎村」(1281年)=邪波節句

 日比谷-比比谷‐

  戦国期みえる地名。

  豊島郡の内 比々谷本郷、比々谷郷、比々谷村

  小田原北条氏の臣、江戸衆の大胡氏(牛込氏)の所領

  「六拾七貫七百八拾文、同(江戸)比々谷本郷」

 赤坂 

  江戸時代以来の江戸城西南方にあった地域の称で、

  明治11年府内15区の1区名として採用された。

  中世以前にはみられなかった地名

 四谷

  江戸期以来の汎称地名。

  地名の由来はかって4ヵ所の谷があったためとする説(砂子)と

  梅屋、木屋、茶屋、布屋の4軒の茶屋があったため

  四ッ谷と称し、後四谷と記すようになった説

 市ヶ谷、市谷

  地名の由来は、

  長延寺、別称市ヶ谷と称する大きな谷があったことによる

  (改撰江戸志・備考)

  延文2年12月22日の足利基氏御教書によれば、

  元和元年鶴岡八幡宮に寄進された

  「武蔵国金曽木彦三郎、市谷孫四郎等跡」 

  延文(1356-61<北朝>)

 桜田

  戦国期にみえる地名

  「和名類聚抄」荏原郡桜田郷に由来する地名か

  現在の千代田区南部を中心とする

  広域称となっていた推定される

 芝
  
  東京湾に臨み、中世から芝浦と総称されていた。

  地名の由来は古くから芝の生えた地があったとされる。

  芝村 戦国期にみえる郷村名。荏原郡に属す。

  天文23年7月12日 小田原北条氏虎印判状(1555年)

 芝崎村(千代田区)

  鎌倉期にみえる村名。豊島郡江戸郷の内 柴崎とも書く。

 幸町(中央区)

  江戸期~昭和6年の町名。

  古くは寺地で、後に武家地となり、元禄3年三武家を収公。

  ここに幸橋門外の幸町の町屋を移して町名を継承

 幸町(港区)

  江戸期の町名。幸橋のそばで幸町といったものか

  元禄4年北八丁堀に移され、

  幕府薬草植付所の拝借地となる。

  現行の新橋1丁目13番地。 元禄(1688-1704)

 江戸郷

  平安末~鎌倉初期

  「円覚寺文書」

   応永26年(1419)12月17日

   足利持氏御教書「江戸前嶋内森木村」

   江戸郷内に前嶋村があり、円覚寺領となっていた。

   前嶋村と本郷台地の延長部の半島状で

   微高地(大手町、丸の内、新橋に続く)に位置した

   1ヵ村であったと推定されている。

 永田町

  明治2年~昭和42年の町名

  町名の由来は、往古、地内の日枝社門前に

  永田姓を名乗る家が3家あったためという未詳(府志料)

  江戸期は日枝社門前一帯の武家地を永田馬場と俗称。

  日枝山王社太田道潅が武蔵川越の仙波から勧請。

  はじめ江戸城内地にあった。

 桜川

  琴平の南、愛宕山に至る間を西久保桜町とする。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976


 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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 高床式神殿
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2014年11月10日月曜日

草加・江戸・品川①


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 ※出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪草加・江戸・品川≫

 《草加"そうか" なぜ「クサカ」といわないのか。》

  旧足立郡のうち、足立神社(さいたま市浦和区上木崎5丁目24-3)

   祭神:猿田彦神、天鈿女命他

  ○猿田彦命 草加神社(草加市氷川町827-1-2)の配祀神、

        同神は現在の神名町辺りに祀られていた(住職)

        稲荷神社(草加市稲荷町)

  ○浅古氏姓(草加市内の旧家) 奈良県桜井市の地区名浅古と同じ、

                朝倉も同根

 ※「ソウカ」:釈加(釈・帝釈): śakra インドラ神の別称

  ○庄和町(埼玉県北葛飾郡):釈加 śakra 

    桜井、(現)柳(上・下)、金崎、米島辺りの地名 

    天神社(金崎)

  ○総和町(茨城県猿島郡):釈加 śakra 

    釈迦(町内の地名。この表記は仏教の祖ゴータマ・ブッタに

      与えられた呼称ながら釈加[インドラ神]のこと)

    磯部(町内の地名)「イソベ」 isvara 「天界の主」インドラ神の呼称

 《江戸・大江戸》

  大江戸: mah-endra インドラ神の呼称「大インドラ神」

       maha :大

   江戸: -endra: indra

 ○桜田郷 (現)内幸町から永田町辺り、桜田門、桜田通り

      「和名類聚抄」荏原郡桜田郷

   桜田神社(港区麻布3丁目2-17、旧称霞山稲荷神社) 

       (現)祭神:豊宇迦能賣大神

    治承4年(1180年)の伝承に狐のお告げというものがあり、

    ここに稲荷信仰があったことがわかる。

    霞ヶ関桜田門外に社を建てた。

    稲荷大社(京都市伏見区)の祭神は猿田彦神である。

   桜: śakra インドラ神 〔桜木神社(千葉県野田市桜台)稲荷神社〕

   aindra インドラ神の方向、東

 ○江戸「武蔵国豊島郡江戸之内前嶋村」

    弘長元年(1261年)10月21日付平長重書状

  「江戸郷柴崎村」弘長4年(1264年)4月15日付平重政譲状


 《品川》

  荏原郡 新編武蔵国風土記稿」 荏(ゴマ)の繁茂する所

   荏胡麻の種は搾って油を作る。

    (Sk.) taila 油 (インドの医方明の四種の含消薬の1つ)

   平塚(品川区内の地名) taila

   大崎(品川区内の地名) (Sk.) auṣṭrika 搾油者 aus-ka

  ○品川郷 平安末期からの地名

    品川(区名) (Sk.) sneha 油脂(油を含むもの、脂肪の多いもの)

      (Sk.) snehavat 脂肪の多い、油でぬるぬるする

  ○御田郷 「ミタ」 (Sk.) meda,medas 脂肪、肥満

    三田(現)、實多、美田、美多、弥陀

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2014年11月8日土曜日

大江戸:塩土老翁(塩椎神)の鎮座地(4)


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 ※出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪大江戸:塩土老翁(塩椎神)の鎮座地(4)≫

  以上のような環境を知れば、

 江戸にインドラ神が鎮座していてもおかしくないだろう。

 和名類聚抄には「荏原郡桜田郷」が載る。

 その地域は千代田区南部から品川区まで広い範囲に推定されている。

 後には現在の皇居の濠でる桜田濠や桜田門がある辺りで、

 徳川家康による江戸城はその桜田郷を含んだ土地に建設された。

 そのため同地にあった桜田神社が

 現在の港区西麻布三丁目へ鎮座替えになったのである。

 築城のために同じく移転したのが日比谷神社で、

 現在新橋四丁目に鎮座している。

 桜田神社の現在の主祭神は平成の初めまで天照皇大神、

 豊受大神であったが、平安時代以前の古代においては

 塩土老翁神ないし猿田彦神である

 インドラ神を祭祀していたと考えられる。

 その信仰により江戸郷は誕れたのである。

 平安十年頃、同社の神職は主祭神を稲荷神社に依拠した

 佐田彦神及び大宮能売神へ改祝した。

 一方の日比谷神社も、

 「日比谷」が戦国時代の史料にみえるのを初見とするが、

 「比々谷本郷」「比々谷郷」とある。

 「サクラダ」は śakra-deva の転訛であり、

 「比比」は原語が vibhu 「支配者、主権者」を表わし、

 双方ともインドラ神を指すものである。

 現在日比谷公園に続いて内幸町があるが、

 ここは江戸期には中央区、港区にまたがる幸町の一部であった。

 「幸」は「サチ」  śaci の転訛とみられ、

 インドラ神か、その神妃の別称である。

 永田(ながた「エイダ」)町は

 江戸時代永田馬場などとの記録があるが、

 太田道潅が日枝山王社を武蔵川越から勧請する

 以前からあった地名とみられ、

 それは aidha(aindra) でインドラ神と係わる。

 日比谷神社のすぐ近く新橋五丁目に

 塩土老翁神を祀る塩竃神社が鎮座するのも興味深い。

 このように江戸とは塩土老翁神であるインド神の鎮座地である。

  東京の中心江戸城の周辺の歴史の深層に

 サンスクリット語文化があることを述べておきたい。

 永田町の西方に赤坂及び元赤坂がある。

 この「アカサカ」は ākāsa に由来する地名で、

 「虚空」をいい形而上学的には「空(くう)」を表わす」。

 空(くう)は第八章でインドの六派哲学のうち

 ヴェーダンタ派の思想で述べた caturtha 、

 つまり自我(アートマン)の第四位に対応する。

 この第四位の用語を用いて

 赤坂である「空虚」を表わしたのが四谷で「空谷」

 つまり、「涸谷」を意味する。

 四谷駅の辺りから赤坂方面にかけては谷合で、

 水のない「からの谷間」である。

 空虚の状態を日本語で「うつけ」というが、

 四谷に続く市谷(いちがや)は

 この「うつけ谷」が訛ったものである。

 麹町名は大田区の糀谷と同じく糀町とも表記された。

 インドラ神の別称 kauśika 

 あるいはインドラ神の雷電 koti に由来すると考える。

  「赤坂」と「空虚」の組合せは、

 奈良県天理市和爾町に赤坂彦神社があり、

 その東奈良市内に仏教化された

 名称「虚空蔵町」がある例がある。

 同社は神名帳大和国添上郡に載る

 「和尓赤坂比古神社大」である。

 また、熊本県荒尾市大島の四ッ山神社は

 「虚空蔵さん」と呼ばれ親しまれているが、

 「四ッ」が cutartha である「虚空」であることが解かる。

 栃木県の矢板市から大田原市を流れる川は箒(ほうき)川という。

 本書の「はじめに」において取り上げた

 「信濃風土記」逸文の「箒木」に係わる川名で

 「ほうき」が「空しいこと」の代名詞であることを述べたが、

 箒川名もまた「空、虚空」川である。

 矢板市の上伊佐野の川辺近くに「赤坂」地名があるばかりでなく、

 その上流塩原町へ遡ると赤川となり、

 その水源の沢を空沢という。

 箒川は大田原から那須郡の湯津上村、小川町、馬頭町の境界で

 那珂川に合流する。

 那珂川は黒磯町の那須高原から流れ出る水流を全て集めて来る。

 双方とも「四位」に由来し空虚の意味であり、

 「那珂」はまたサンスクリット語の 

 nāka の音写で「天空、大空」を意味し、

 箒の内容に一致するものである。

 同川は茨城県に入り那珂郡を形成し、

 ひたちなか市と大洗町の境界をなして太平洋に流れ入る。
 
 河口の北岸ひたちなか市には赤坂の地名が残る。

  東京都には江戸川区がある。

 その名は茨城県の境町で分流する江戸川に依る。

 この川名は史料では江戸の物資輸送の水路であることから

 銘づけられたとするが、

 その基層にはこの流域に

 インドラ神が祀られていたことによるのである。

 インドラ神の鎮座地として

 ここで紹介するのは千葉県野田市桜台の桜木神社である。

 同社はかって稲荷神社で平安時代の創立時に

 社地に桜の大木があったことにより、

 「桜の宮」と称されたという社伝を持つ。

 しかし、この野田最古の神社のある桜台遺跡からは

 硬玉製勾玉管玉、台形様石製品、剣先様装飾品、半円状石製品、

 玉杖などの祭祀に冠する遺物が発掘されており、

 4世紀から何らかの信仰の地であったことが明らかになっている。

 地名を考察すると、

 「桜台」は śakra-deva で桜田と祖語がおなじである。

 市名「野田」は nātha の音写で

 「保護者、支配者、主」でインドラ神を指す。

 さらに同社近郊にある「中野台」は贍浮提である。

 両地名とも桜台に近接しており関係が知られる。

 同市の東南の隅瀬戸地区に猿田彦神社が鎮座しており、

 「瀬戸」は勢田、瀬田と同儀 sata で「百」を意味する

 インドラ神の尊称に係わる。

 桜木神社の現在の祭神には

 猿田彦神も塩土老翁神も含まれていないが、

 稲荷神社の本宮である

 京都府の伏見稲荷大社には

 猿田彦神及び天鈿女命である大宮能女神が祀られており、

 稲荷信仰と全く関係がないわけではない。

  江戸川は、古くは太田河と表記され「ふとゐ」と呼ばれた。

 平安時代承知2年(835年)の

 「類聚三代格」に「下総國太田河」とあるのが初出で、

 「更科日記」に「下総國と武蔵國のさかひにてふとゐかは」とみえる。

 太日(ふとゐ)は贍浮提洲の「浮提」の転訛で

 伊勢の浦田、インドラ神の天界を表わす。

 このような状況から4世紀の太初において

 インドラ神に係わる信仰が行われたと推察されるのである。

 太日河名はインドラ神信仰に依りつけられたものと考える。

 同神は仏教において帝釈天といわれるが、

 葛飾区の柴又帝釈天はこの流域に

 インドラ信仰が実在することを示している。

 徳川家康が関東へ移封されて来てから

 江戸の経済は拡大を続け、

 近郊から多くの物資が運び込まれるようになり、

 太日河は江戸への運河の役目を果たすようになったため、

 その名を江戸川と改称されたという。

 江戸川の東京湾への河口の河口の東は現在船橋市であるが、

 そこに船橋大神宮が鎮座する。

 同社は延喜式神名帳の「下総國葛飾郡」の載る

 「意富比神社」である。

 この「意富比」については本義が明らかにされていない。

 神名帳は「イフヒ」と訓音をつけているが、

 後の「埼玉・鹿島:剣持神の國」の

 稲荷山古墳の鉄剣でも追求するが、

 「意富」は「オホ」で「飫富、太、大」と同音の用語である。

 よって「意富比」は「太日」と表記でき、

 これは太日河の「ふとゐ」である。

 ここで何故「フトイ」と解釈できるかは

 同神宮の鎮座地宮本の地区内に

 「峰台」の小字名があることによる。

 宮本は鎌倉期からみえる地名であるが、

 その地の古名が峰台であったと推測される。

 同社を西方からみると確かに小高い峰の上にある。

 峰台は「フタイ」と読め、「ふとゐ」と殆んど同音である。

 初めに「ふとゐ」があり、

 峰台が当て字(あてじ)とされたものであろう。

 神社名も本来は「ふとゐ」であったと考えられ、

  インドラ神信仰から同神が祀られていた可能性が高い。

 塩土老翁神は

 さらに東北の宮城県塩釜市一森山にも奉祭されている。

 塩釜神社と一般に書かれているが、

 塩竈神社が正式名で、その別宮に鎮座している。

 同社の本殿には武鹿槌神、経津主神が祀られている。

 両神とも後からやってきた祭神で

 先住の祭神は塩土老翁神と考えられる。

 三神の関係は極めて興味深い。

 後の「インドラ神の影」などを参考にして戴きたい。

 塩竈神社は延喜式神名帳には記載されていない神社であるが、

 陸奥鎮護の第一の社とされる。

 鎮座する一森山はすぐ南の多賀城市丸山と同じく

 meru(sumeru) 、つまり、

 インドラ神の住む山名に係わると考えられる。

 近郊の利府町の加瀬、多賀城市の笠神は

 鹿児島県金峰町の花瀬、加世田市名と同様に

 「光輝」を意味する kāsa に依る。

 多賀城市の桜木、栄、境山なども śakra に係わるだろう。

 そして何より「塩竈(塩釜)」名は

 インドラ神が住む天界 svarga あるいは svarga-loka

 に由来するのではないかと推測れるのである。

 紀元前3000年紀に西アジアに誕れたインドラ神は、

 極東の日本の東北の一隅にまで「東方の守護神」として

 やって来て鎮座しているのである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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