2015年6月18日木曜日

神集い〔神々の集会〕:安河:unkin,ukkiin

 『浦和レッズレディース』
 『ひねもす至福の時』
 『誕生日の花と花ことば』
 『湘南ベルマーレ』
 title="『明星院・広島県歴史&地名他』">『明星院・広島県歴史&地名他』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2013/12/19

 ≪神集い〔神々の集会〕:安河:unkin,ukkiin≫アズミ(阿曇・安曇)語

 『古事記』の天石屋戸の条に

  「是を以ちて八百萬の神、於天安之河原、神集て、訓集云都度比」

  とある。

 『日本書紀』には天照大神と素盞鳴尊の誓約の場で

  「一書曰はく、日神素盞鳴尊と天安河を隔てて、

  相對ひて乃ち立ちて誓ひて曰はく……」とある。

  「神道大辞典」日本神社庁には

  「アマノヤシカワ天安河、高天原所在の河、

   天八湍、天八十河とも書く、

   群神の集会は多く此の河畔で行われた」とある。

  「メソポタミアにおける初期の政治発展」

   Th.ジェイコブセン〔西洋古代史論集:東京大学出版会〕

    Jacobsen,Th.,Early political Development in Mesopotamia

     (Zeitschrift fūr Assyriologic,N.F. ⅩⅤⅠⅠⅠ,Berlin,1957)

   2.原始民主政

    神話に描かれている政治パターンでは、

        究極の権威、主権は市民の一般集会(unkin)に属している。

 「Primitive Democracy in Ancient Mesopotamia」 

    [Toward the Image of Tammuz and Other Essays on Mesopotamian 

    History and Culture] Thorkild Jacobsen, harvard University 

    Press, Cambridge, Massachusetls, 1970

       The assembly which we find in the world of the gods 
       rested on a broad democratic basis; it was, according 

       to the Adad myth in CTⅩⅤ,3, 

       an "assembly of all the gods."  Nor was participation 

       limited by sex; goddesses as well as gods played

       an active part in its usually held in alarge court calld

       Ubshuukkina.

       ~

    ~ the assembly appears to be the ultimate political 

       authority.⁴⁴

 「The Treasures of Darkness」 Thorkild Jacobsen

     Ultimate power: The Assembly of the Gods

       The highest authority in the Mesopotamian univers was 

       the assembly of the gods.

       It met, when occasion arose, in Nippur in a cornner 

       of the forecort of Erkur (Enlil's temple there) 

       calld Ub-su-ukkinna;

 「La cite-temple sumerienne 

   (Cahiers d'HistoitreMondialeⅠ, Neuchåtel, 1954)」 

   Falkenstein Adam <西洋古代史論集> 

  unken〔自由市民の集会〕

 「Archaische Texte aus Uruk (leipzig, 1936), Zeichen no 153」

   Falkenstein Adam <西洋古代史論集> 

    ukkin〔集会〕

 「zeichenliste der Archaischen Texte aus Uruk, von W.Green und

   Hans J.Nissien unter Mitarbeit von Peter damerow

   und Robert K. Englund, Gebr, Mann Verlag, Berlin 

    No.580 UKKIN, KIN₅

        Šu-ukkin, ukkin-num, ukkin-geštu

       Vessels: ukkin>šakin

  ATU〔Archaische Texte aus Uruk, Addam Falkenstein〕

      Šu-ukkin

    No.509 ŠAKIR

      Vessels: šskir/dug+ga

      Sign form: Dug+Ni(=a), ukkin+ni(=c), 

                 Ukkin+Dug(=d)〔a,c,d,ATUに含まる〕

    No.88 DUG

      Vessels

 三國史「魏書」倭人伝

  「其會同座起父子男女無別人性嗜酒」

 東洋文庫"魏書倭人伝"

  〔倭人の〕集会では、座席の順序や立ち居ふるまいに

   父子や男女による区別はない。

   人々は、生来酒を好む。

 天安之河原・天安河〔あまのやすのかわら・あまのやすかわ〕

 アマ〔天〕 an-mah 〔天-高い〕 高天>高天原(たかまはら)

 ヤスのカワラ・ヤスカワ is-ka・bal 〔地-会話する〕会話をする所

 アンカ〔安河の音読み〕 unkin/unken 〔集会〕アズミ語

 ツドイ〔集い=都度比〕 za-dug₃〔人-沢山〕沢山の人・シュメル語


 阿曇族〔福岡市中央区・南区・西区・春日市〕

  1.宇賀神社〔福岡市中央区大宮〕

   「ウカ」 ukkin 〔集会〕アズミ語

  2.高宮・多賀〔福岡市南区、宇賀神社の大宮に接する地区名〕

   「タカ」  dug 壺 dug-gal 〔壺-大きい〕大きい壺

   ※Jacobsen, Th によるとNippur におけるUkkin においては

    参加者は「酒」を飲み、気が高揚してから結論を出した。


 "Primitive Democracy in Ancient Mesoptamia" p.164

    The assembly was usually held in a large court called 

    Ubshuukkina, As the gods arrived, they met friends and

    relatives who had similarly come from after to participate 

    in the assembly, and there was general embracing.

    In the sheltered court the gods then sat down 

    to a sumptuous meal; wine and strong drink soon put then 

    in a happy and carefree mood, fears and worries vanished,

    and the meeting was ready to settle down to more serious 

    a ffaies.

        They set (their) tonges (in readness) [and sat down]ban

        to the banquet.

        They ate bread (and) drank(?)〔wine〕.

        The sweet drink dispelled their fears;

        (So that)they sang for joy as they drank the strog 

         drink.

        Excceedingly carefree were they, their heart was 

       exalted;

        For Marduk, their champion, they decreed the desyiny.

  ※Unkkin 〔kin₅〕のシュメルの絵文字においては「壺」の横側に

   線がつけられており、壺の横服に「穴」が開けられて、中の液体

   〔つまり酒類〕を吸い上げるためのストローがさされている

   像形となっている。


  3.田来郷 「和名類聚抄」筑前国那珂郡

     「タカ」 dug 壺 シュメル語

   ※同郷の地域は宇賀神社のある「大宮」、「高宮」「多賀」の地域

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年6月15日月曜日

倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」③

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 ※出典:『日本創世記』著者「小嶋秋彦」:200~208頁
 
 倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」

  アズミ族の領域奴国にも集会場はある。

 「宇賀神社」〔福岡市中央区大宮〕で「宇賀」が ukkin に依る。

 なぜそう解釈できるかの理由は同社を「高宮」といい、

 周辺に「多賀」との地称が連なるからである。

 その「タカ」は倭名抄筑前国那珂郡田来郡名を継承するもので、

 dug〔壺〕の音写に依る。

 前述した集会の際神々は酒を飲む。

 倭人伝の「性嗜酒」とある飲む酒を入れておく容器名で、

 この壺は単なる土器製の容器ではなく、

 特別なシュメルでは sakir と呼ばれた。

 現糸島市の元岡遺跡から発掘され、

 現在同市の伊都国歴史博物館に所蔵されている

 「ひょうたん型土器」 といわれている

 瓢を立てた頭部には穴(口)はなく、

 太く脹らんだ胴部に大きな穴(口)が開けられている壺である。

 この壺は高さが31、胴幅22センチメートルの大きさで、

 完全なまま出土したのはここだけで

 その外福岡市内の那珂遺跡や壱岐のカラカミ遺跡から

 破壊されたものが出土している。

 また、遠く離れた奈良県桜井市三諸山の山の辺遺跡から

 小型ながら概念を同じくする胴に

 大きめの穴が開けられた壺が出土している。

 集会の際にはこの器にお酒「御神酒」を入れ、

 細い筒〔ストロウ〕を穴に差して回し飲みにした。
 
 そうすれば、共同意識が高揚する。

 この壺〔タカdug〕が集会に用いられる sakir である。


  『古事記』に「安之河原」との表記があった。

 「安:ヤス」を「場」との解釈を示したが、

 漢字表記の「安」には興味ある事件がみえてくる。

 「安」は第2章(9)の(c)斯馬国」で述べた

 「安野」〔福岡県朝倉郡夜須町〕名と「夜須」と同称視される。

 実際、その周辺に「安川(河)」はある。

 現在、甘木市内を流れる小石原川は「安川」であったらしい。

 市名「甘木」にしても前述の通り an-mah 〔天・高い〕で

 「アマハ(き)」である。

 その中心市内の甘木地区に「須賀神社」が鎮座しており、

 同名も集会のための酒器名 sakir と判断でき、

 ここで何らかの集会が行われたと教えられる。

 どいいう集会かは須賀神社近くに

 「屋須多神社」が鎮座していることで明白である。

 同名社は大牟田市八本町付近特有の神社である。

 つまり邪馬臺国の卑弥呼を傍国の国々の首領が参集して相談の上、

 統合の巫女とすることを決めた集会の場がここである。

 集会での決議後それを記念してか卑弥呼の祭場名の聖所を

 ここに奉祭したと判断される。

 安川(小石原川)も古代には今よりかなり野放図な流れで幅も広く

 須賀神社の鎮座地辺りまで「河原」であったのだろう。

  邪馬臺国の卑弥呼を〔共和国〕共通の「巫女」と

 決定した首領の一人として、

 夜須町(斯馬国)の長者〔大人〕の様子を第2章で紹介したが、

 もう一国の参同者を紹介する。

 傍国の斯馬国に次いで二番目に記されている国「巳百支国」で、

 同国の当該地は現嘉穂郡穂波町の「椿」名の地である。

 平安時代には今の地名区域に限らない広域が

 「椿荘」との荘園であった。

 「巳百支」は漢音で si-pai(po)-gi で

 「ツバキ」はその遺存名といえる。

 隣りの桂川町内に「寿命」との町名がある。

 これは za-maha〔人・大きい(上位の)〕の音写で、

 「斯馬」 名と同根である。

 倭人伝に「大人」とある語義で、

 そこに「首領、長者」がいたと示唆している。

 その隣りの地称「中屋」は夜須町の「中屋:ナカツヤ」と同じく

 na-gadu-e 〔神殿の神職を指名する〕により、

 「巳百支」国の首領も斯馬国の首領と共に

 「安之河原」の集会に参加し、卑弥呼の推薦で活躍したのである。

 そして、その意向が是認されたので、その由縁をもって同地に

 「天道」〔寿命の東隣の地称〕と邪馬臺国の太陽信仰を

 招来させたと推測されるのである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハブール川
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、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2015年6月11日木曜日

倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」②

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 ※出典:『日本創世記』著者「小嶋秋彦」:200~208頁
 
 倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」

  さて、倭の人々の集会も「神々が集会を開く」との神話伝承に

 影響されたかとみられる。

 その神話の発祥地はメソポタミアであり、

 アズミ族によってもたらされたのである。

 「神々の集会」となれば一神教では成り立たないし、

 その社会文化の中に同様な集会を行う慣習がなければ

 神話にまで止揚されなかったろう。

 一神教のキリスト教とは縁がないし、

 多神教といってもギリシャ神話ではたくさんの神がいるものの

 ゼウス神という絶対的権勢を持つ神が支配しているので集会はない。

 旧約聖書の世界の「主〔神〕」は、世界に多くの神はいようが、

 「あなたたち(ヘブライ人たち)」はわたしと契約したのだから、

  わたしはあなた方の「主」であり、

  わたしのいうことに従いなさい」という主旨で、

 人々の集会を求めないし神々の集会など想定されない。

  これに対し、メソポタミアの特定の神話では、

 「創世」の最初期から神々が集会を開いて決定したとの物語があるし、

 「人々の集会」「神々の集会」へと

 その決議経緯がみえる物語として遺存されている。

  まず「アトラ・ハシース物語」の人間のからむ物語を紹介する。

 前項「(7)アズミ族の正体」で紹介した

 『メソポタミア』の著作家ジャン・ポテロの別の著書

 『バビロニア』〔創元社〕によると、

 この物語が粘土版に

 楔形文字で書かれたのは紀元前1800年頃という。

 人間のいない神々だけの社会が原初にあり、

 下級の神々はその重労働に耐えられなくなって

 上級の神と同等でないのは不当だと抗議して

 ストライキを始めてしまったという。

 そうした大混乱の中、最も智恵のある神が、

 粘土で神々で似た者たちを創り、それに労働させようと

 神々の身代わりを作るとの方策を提案した。

 身代わり者の運命には諸条件が付帯されたが、

 この案は神々の全体会議で満場一致で可決されたとある。

 身代わりの者こそ人間であおの創世の物語である。

 その詳細はさておき、神々が会議〔集会〕を開き

 重大事項の決定を行ったのである。

 神々がただ参集することにそう意味はないが、

 「決議(決定)」機能がそこにあった。

 これは古代メソポタミアの人間社会にあったことが想定される

 重大事項として認識されるべきである。

  さらにこの「神々の集会」の状況や決議に至るまでの過程を

 粘土版の資料から紹介して「原始民主制」と主張した

 トゥル・ジェイコプセンの著書に詳しくみる。

 彼の研究は『西洋古代史論集』や

 『世界の歴史』〔岩波書店〕などに翻訳されている。

 彼はまず市民の集会が行われていたからこそ「神々の集会」が

 伝えられているのだとの見解を述べている。

 その著書 Praimitive Democracy in Ancient Mesopotamia から

 興味ある要点を指摘する。

 彼は述べる。

   神の世界にみられる集会は広い民主的木曽に依拠している。

  アダト神の神話を参照すると「全神の集会」で、

  参加には性別の制限はなく女神たちも男神たちと同様に

  その討議で積極的な活躍ができた。

  メソポタミアの最高の権威はこの神々の集会にあった。

  そこに述べられている男神女神の区別はなく

 全員が参加するとの仕方は、倭人伝「男女無別」と記すのに合致する。

 ジェイコプセンは詩歌をかなりたくさん紹介しているが、

 その中に次のような詩句がある。

 初めの部分はその解説である。

   集会は常に ubshu-ukkin と呼ばれる大きな所で開催される。
 
  神々が到着すれば同様に参会のため遠くからやってきた友人や

  縁故者と会い抱擁し合う。

  その守護された場所で神々は高価な料理を囲んで座る。

  ワインや強い酒がすぐに彼等を

  幸福な気遣いのいらない雰囲気にする。

  畏れも心配も消え失せる。

  こうして会合はより重大な事項に取組む用意ができる。

    彼等は発言を決めて宴会の場に坐す
 
    彼等はパンを食べ飲酒する

    甘い酒は彼等の恐れを追払う

    彼等は強い酒を飲むに従い喜びを歌う

    彼等は極まって陽気となり心は高揚する

    こうして彼等の闘士マルドックに向って

    彼等の厳粛な決定を布告する

  この様子は倭人伝の「会同」記述の終わりに

 「人性嗜酒(倭人は酒をたしなむ)」とあるのに整合しており、

 その「嗜酒」は単に飲酒が好きだというのではなく、

 集会においては飲酒しながら相談を進めるとの趣旨で、

 メソポタミアの仕様が踏襲されたものである。

  この集会は ubshu-ukkina と呼ばれる

 大きな定められた場所で開催されるという。

 その ukkin(a) こそシュメル語の「集会」「会議」名である。

 『古事記』の天石屋戸の条に

 「是を以ちて八百萬の神、於天安之河原、神集て、訓集云都度比」

 とある。

 『日本書紀』には天照大神と素盞鳴尊の誓約の場で

 「一書曰はく、日神素盞鳴尊と天安河を隔てて、

  相對ひて乃ち立ちて誓ひて曰はく……」とある。

 「神道大辞典」には

 「アマノヤシカワ天安河、高天原所在の河、

  天八湍、天八十河とも書く、

  群神の集会は多く此の河畔で行われた」とある。

 これらの用語を「神々の集会」の祖地

 シュメルの用語として解釈すると、

 まず「安河」は音読で「アンカ」で明らかに unken の音写である。

 「アマ:天」は an-mah〔天・高い〕で「高天原」表記に対応する。

 「都度比:ツドイ」は za-dug〔人-たくさん〕で

 「たくさんの人」 が基である。


 「安之河原」の「カワラ:河原」は

  ka-bal〔口-交換する〕で「会話する」、

 「安:ヤス」は is〔地〕で「(会話する)場所」とすることができる。

 このように「神々の集会:神集い」はメソポタミアが祖地である。

 「神無月」「神有月」と年に一度神々が集会を開くとの伝承がある

 出雲〔島根県〕にも、

 出雲大社の所在地に「宇迦」との山名地称があり、

 ukkin〔集会〕名が与えられており、

 大社の所在地は本来神々の集会の場だったのである。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
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2015年6月6日土曜日

倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」①

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 ※出典:『日本創世記』著者「小嶋秋彦」:200~208頁
 
 倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」

  倭人伝を注意深く読むと倭人及びその社会の性格がみえてくる。

 まず「風俗不淫」とある。

 これを東洋文庫は「倭人の風俗は規律正しい」と読み下している。

 確かに大漢和辞典が「淫」字の語義として「みだれる、みだす」と

 上げているので、その否定として「みだれない」となり、

 その品性が公正であると説いていると理解できる。

 また「婦人不淫不妬不盗」とある。

 こちらの「淫」は性的な品行をいい

 「婦人はみだらでなく嫉妬もしない」との意味だが、

 「不妬」はあまり信じられない。

 重要なのは「不盗」とある記述で「盗難がない」と理解される。

 この「品行公正」「不盗」は完全でないにしても現代20世紀まで

 日本人が公明正大との社会通念として体現してきた気風であった。

 21世紀に入った今日、そのような風潮は危機に瀕している。

  更に重要な記述がある。

 「其會同座起父子男女無別人性嗜酒」と

 述べられていることである。

 紀元前後には倭では社会習慣として

 「集会〔會同〕」が行われていたのである。

 本書第2章(9)の「(b)弥奴国」で

 吉野ヶ里遺跡には祭壇と大きな建屋はあっても、

 それは「王宮」ではないと説明したように、

 国々は住民による会合を行っていて

 大きな建屋はそのためのものであったとみられる。

 「会同」とは現代中国でも常用している「共同する」との用語で、

 倭人伝の文面からすると、それは「集会」である。

 東洋文庫はそこを

 「集会では座席の順序や立ちふるまいに

  父子や男女による区別はない」と読み下している。

 この部分の解釈については、

 倭は未だ未熟(未開)な社会だから

 出鱈目に座ったり振る舞っただけでだとする向きが

 これまでの見方としてあるが、それは妥当としない。

 その一般生活の習慣として、

 「大人所敬〔大人(有力者)に対して尊敬を示す法〕」や

 「下戸興大人相遥道路~

  〔下戸(下級の者)が大人と道で出会った場合〕」の

 作法との説明があり、

 この「集会」においての仕方は全く独特であり、
 
 極めて特筆に値する。

 そこに指摘されている内容は「男女の差別がない」

 「父子といった社会的序列もない」という。

 座る者〔参加者〕は一切「平等」という仕様である。

 こうした集会は祭壇の近くで、

 あるいは巫師の同席の下行われたに違いない。

 つまり神の前との観念である。

 それは「神社」の思想でもある。

 日本では現代に至っても神社の氏子制は継続されている。

 江戸時代でさえ徳川将軍も神田明神や日枝神社の一氏子であった。

 歴史の実際として「氏」は漢字として「家・家系」だが、

 本来の「ウジ」はシュメル語の uzu 〔占い師:巫子〕による表現で、

 その巫子に信頼し従う人々を「氏子」といったのである。

  巫子は「ヒメ」であったと既に説明した。

 繰り返すと「ヒメ」 pa-me 〔呼ぶ‐神託(神の命令)〕が

 その役務であった。

 「氏子」とは

 その「集団(集落など)が奉祭する神の命令に従う者たち」である。

 それも問題を直接的に神に伺いを立てるのではなく、

 前もって氏子たち構成員たちが集会を開いて相談しあい

 決定を得られた場合はそれで済みとなるが、

 意見対立でどうにも纏まらない場合に限り巫子を通して

 神託を受けるための神事を行ったのである。

 つまり物事は神前での平等を基礎に決められていたのである。

 そういう社会状況下、

 卑弥呼は倭の共和国全体の最高の巫子(女)であったのである。

 倭人には「集会を開く」社会習性があった。

 それは日本文明の特性として涵養され続け、

 後代の「惣」を生む状況を作った重要事項であった。

 その祭壇は「神社」として確立され、

 その体制は現在世界に類をみない博愛共生の思念となっている。

 それは神道などではない「神社」の思想である。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハラフ期の土器について
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 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
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2015年6月3日水曜日

倭人と東夷の原像:夷

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 ※出典:『日本創世記』著者「小嶋秋彦」:15~16頁

  倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  夷

   三国志の「東夷」また「准夷」の「夷」は

  歴史上極めて特徴ある用語である。

  一般にその語義は「東方の人」あるいは「人々」と解釈される。

  三国志魏書より古い「後漢書」にも「東夷伝」があり、

  「東方白夷」とあり、シナの東方を「夷という」とある。

  そしてそこに住む人々として「夷有九種」といい、

  「畎夷于夷方夷黄夷白夷赤夷玄夷風夷陽夷」を上げる。

  さらにこれは紀元前前漢時代に記された

  「竹書紀年」の后祖2年の「黄夷」、7年「于夷」、

  小康即位年の「方夷」に従ったものである。

  これらの記述にみられる「東夷」の地は山海経「海内北経」のいう

  「倭」地域と同じとみることができる。

   「東夷」には同時代の歴史を記した

  「春秋左氏伝」に極めて興味ある記事がある。

  「杞国」に係わるものである。

  「杞国」は「史記」夏本紀の終末で殷(商)の

  「湯王夏の後を封ず」とあって、

  夏王朝の王族に殷成立後王侯としいて土地を与えたといっている。

  それに続く夏王朝を建てた「禹」の後裔の姓のうちに

  杞氏を記している。

  杞は江南省の杞県に当たり、

  丁度黄河が西方から流れてきて北東へ曲折する地点の南方にある。

  まず「杞氏」が夏王朝族の後裔であることに注意すべきで

  重要な点である。

  次に「春秋左氏伝」のうちから「杞」「夷」とある記述をひろってみる。


    僖公(紀元前659-627) 廿有3年11月杞の成公卒す。

   書して子(し)と言曰ふは杞、夷なればなり。

   〇杞は伯爵であるのに子(子爵)と書いてあるのは、

   杞伯がえびすの礼を行なっているからである。

    廿有7年春杞の桓公来朝す。

   夷の礼を用ふ。故に子と曰ふ。杞を卑しむ。杞不恭なればなり。

   〇杞の桓公が魯に来朝したが、えびすの礼儀作法を用いたので、

   その爵位を貶して「子」といったのである。

   魯の僖公が杞をいやしんだのは、杞がえびすの礼をもちいて

   つつしみがなかったからである。

    襄公(紀元前572-543) 廿有9年 杞は夏の餘なり。

   東夷の即く。〇杞は夏の後裔であり東夷について

   (東夷の作法に従って)夷礼を行っている。


   これらの記述から夏王朝が「夷」族の人々が成した王朝であり、

  殷(商)や周の人々とは全くの異族であったことを証明している。

  つまり今日の表現でいえば、「夷族」は全く漢族ではなかった。

  史記の第6「陳・杞世家」においては以下のようになる。


   杞の東僂公は夏公禹の苗裔なり。

   殷の時或は封ぜられ、或は絶ゆ。

   周の武王殷紐に克ち、禹の後を求め、

   東僂公を得、之を杞に封じ、

   以て夏后氏の祀を奉ぜしむ

   〔禹の後は周の武王之を杞に封ず〕。


   これらの記述から夏王朝が

  「夷」族の人々が成した王朝であり、

  殷(商)や周の人々とは全くの異族であったことを証明している。

  つまり今日の表現でいえば、「夷族」は全く漢族ではなかった。

  史記の第6「陳・杞世家」においては以下のようになる。


   杞の東僂公は夏公禹の苗裔なり。

   殷の時或は封ぜられ、或は絶ゆ。

   周の武王殷紐に克ち、禹の後を求め、

   東僂公を得、之を杞に封じ、

   以て夏后氏の祀を奉ぜしむ


   〔禹の後は周の武王之を杞に封ず〕。


   さて「夷」字は古代のシナではどう発音されたのだろうか。

  白川静の「字通」に従えば[jiei]で、

  これは「夷」の初文(字)である

  「尸」[sjiei]の頭音[s]の脱落したものだという。

  「尸」の語義は「つかさどる」で「祭祀を司ことを尸という」とある。

  [sjiei]は興味深い。

  「史記」五帝本紀が「帝禹を夏后と爲す。

  而して氏を別って姓を「姒氏」

  とある「姒」とはほとんど同音である。

  その語義は「あね」で「姉」と同義である。

  「姒」の発音は[ssu]である。

  新釈漢文大系より五帝本紀の当該部分を転記する。


   黄帝より舜・禹に至るまで皆同姓なり。

   而して其國號を異にして、以て明徳を章かにす。

   故に黄帝を有熊と爲し、帝顓頊を高陽と爲し、

   帝嚳を高辛と爲し、帝堯を陶唐と爲し、

   帝舜を有虞と爲し、帝禹を夏后と爲す。

   而して氏を別かって、姓は姒氏。

   契を商と爲す。姓は子氏。

   弃を周と爲す。姓は姫氏。

 図1 黄帝から始まる「帝」の系譜[史記]


《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年6月2日火曜日

倭人と東夷の原像:倭人

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 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 ※出典:『日本創世記』著者「小嶋秋彦」:15~16頁

 倭人と東夷の原像
 倭人と東夷の原像

  倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  倭人

   「倭人」という呼称は日本人には『三国志魏志倭人伝』との

  通称によってよく知られている。

  この三国志とはシナの史書の一つで、紀元後2-3世紀に

  後漢の終末からの覇権争いで登場してきた勢力で、

  3世紀中シナ大陸を3分割して国をなした

  魏(220-265)、呉(222-280)、蜀(221-263)の

  三国の歴史にからむ記録を集めた史書で、

  「三国」とは魏呉蜀国をいう。

  実際はそれぞれ魏書・呉書・蜀書と別々の記述となっている。

  「倭人伝」はそのうちの魏書第三十にあるもので

  「東夷伝」の一節である。

  東夷伝のうちには「韓伝」、「弁辰伝」、「粛慎伝」などあり、

  「倭人在帯方東南大海中」との書き出しで始められている

  「倭」に関する記述で、

  当該部分を「倭人」といいならわしているのである。

  そこには現在の日本列島の一ちほうである「南方」についての

  情報と魏国との交通が記述されている。

   この「倭人」という記述は中国の史料のうちでは

  初めてではない。

  同東夷伝で引用書としている「魏略」に

  「倭人」との表記があり、

  三国志記述より古い時期とすることができる。

  さらに「漢書」地理志「燕地」のうちに

   「楽浪海中有倭人」との記述がある。

  この漢書地理志は紀元1世紀の成立で、

  三国志より古い時代で、

  日本の古代の呼称を「倭」、そこの人々を「倭人」と呼んだ

  最も古いものとされている。

  「倭」の呼称も魏書「韓伝」に

  「韓在帯方之南東西以海為限南與倭接」とある。

  また大分時代は下がるが、

  唐(紀元618-907)の歴史書である「唐書」には

  「日本古倭奴也」とあり、

  「倭」とは「日本」を指すことが通念であったことを示している。

  つまり、「倭人」とは「日本の人」の語義となる。

   ところでこの「倭」の表記は

  「日本」列島対象だけの呼称ではない。

  紀元前2世紀より古くからのシナの地理書「山海経」に

  その用語が表れており、

  その対象地域が大陸内を指している。

  その第十三巻「海内北経」に

  「蓋国は巨大なる燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す」

  とある。

  紀元前の7世紀後半から

  「燕」は現在の北京市辺りから河北省天津市辺りまでを

  占めた勢力であった。

  「倭」はその南にして、

  さらに蓋国の南にあったということになる。

  「蓋国」の比定は現在不確かとなっているが、

  「倭」は山東半島から揚子江の河口付近江蘇省の黄海岸に

  あったと考えられる。

  特に准河河岸地帯に後に取上げる「准夷」がおり、

  「倭[wo]」と「准[huai]」は同音に近く

  そこも当該地に含めることができる。

  因みに「倭」はまた[ヰ]とも発音され、

  次に解説する「夷」とも同音である。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ