2015年10月31日土曜日

≪アズミ族の正体≫漢書の海洋交易網


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫漢書の海洋交易網

 課題:古代にローマ帝国は極東の絹を熱望した
    ―古代世界における海洋交易の実相―

  ≪アズミ族の正体≫漢書の海洋交易網

 山海経は朝鮮の近くにインドのような国

 あるいはインド人の国があるといっている。

 とすると、インド亜大陸と朝鮮のある東アジアとの行き来が

 紀元前後に実際あったとの推測が出てくる。

 まず漢の史料にその海路についての当時の情報が

  記載されている。

 『漢書地理志』がその史料で「粤国」に続いて延べられている。

 粤は越と同義で漢の時代には南シナ海に面する地域で、

 前漢時代の紀元前111年には

 現在のベトナムのホイアンには南郡を置くなど勢力を伸ばした。

 『漢書地理志』は紀元2世紀の著述とされている。

 その海路の解説部分を

 東洋文庫の「漢書食貨・地理・淳洫」から転載するが、

 合浦及び徐開は広東省の雪洲半島の境で

 儋耳(たんじ)と珠厓(しゅがい)は

 海南島の港町(郡名)である。

 海南島も紀元前111年に漢によって属州とされた。

 ※出典:「漢書食貨・地理・淳洫」

 合浦や徐開から南に海に出ると大きな洲に出会う。

 東西南北一辺が千里もあり、

 武帝の元封元年、攻略して儋耳・珠厓両郡とした。

 住民は大風呂敷のような一枚の布を身につけ、

 真中に穴をあけてそこから頭を出す。

 男子は農耕を行い、禾稲や紵麻を種え、

 女は蚕を飼って機を織る。(中略)

 元帝の時代とうとうここを放棄した。

 日南郡の陣塞や徐開、合浦から

 五ヶ月ばかり行くと都元国がある。

 また船で四ヶ月ほどで邑盧没国があり、

 さらに二十日あまりで諾離国がある。

 そこから陸路十日あまりで夫甘都盧国に達する。

 夫甘都盧国から船で二ヶ月以上行くと黄支国で、

 住民の習俗は珠厓とほぼ似通っている。

 その洲は広大で人々も多く珍しい物が多い。

 武帝時代より、いずれも貢物を携えて来見した。

 訳長がいて黄門に属し、募集に応じた者とともに船出して

 明珠、辟流璃、宝石や珍奇な品物を購わんと、

 黄金とさまざまな絹織物を持参して赴いた。

 行く先々の国々では、食事に女性が侍り、

 蛮来の商船がリレー式に運んでくれる。

 だが、取引の利益をめぐって、掠められたり、

 殺されることもあり、風波に悩まされて溺死したりする。

 さもなくば数年たって帰国し、

  周囲二寸もある珠国をもちきたる。

 平帝の元始年間、王莾が政権をにぎり、

 その威徳を輝かそうと黄支国に莫大な贈物をもたせ、

 生きた犀を献上するよう使者を遣わした。

 黄支から船で八ヶ月ほどで皮宗に到着し、

 さらに海路二ヶ月で日南象林地方に到着するといわれる。

 黄支の南に巳程不国があるが、漢の訳使はそこで引き返す。


 「漢書の海洋交易網」

 (1)都元国(日南郡、徐開発、合浦から海路五ヶ月ばかり)

    シンハラ国(現スリランカ)の港 Dehiwala と考えられる。

    サンスクリット語で名の Tamaraparna

    ギリシャ語名で Taprobanes として知られた。

 (2)邑盧没国:ゆうろぼっこく(都元国から船で四ヶ月ほど)

    インド亜大陸西海岸、

           古代名 suroarka (港町)に比定される。

    Sur は美称でパラカに対応するが、現在のムンバイ、

    かってボンベイといわれた市近くの港 Alibog が

    そのの遺称とみられる。

 (3)諶離国:しんりこく(邑盧没国より船で二十日あまり)

    surat のことで、紀元2世紀頃は sura-shila と呼ばれた。

    諶離は shila の音写と考えられる。

 (4)夫甘都盧国(諶離国から陸路十日あまり)

    当時ペルシャを支配していた

    ぺルチア王国の首都 Hecatonpylos のことである。

    同市は内陸カスピ海の南東に位置する。

    インドの sura-shila から陸路で十日では到達できない。

    その表記に「十日」あるいは

    「何十日」などの誤写か欠字があるとみられる。

 (5)黄支国(夫甘都盧国から船で二ヶ月以上)

    船で二ヶ月以上行くとは、

    ヘカトンピロスからカスピ海の東岸から船出して

          西岸にいたる

    旅程を含むものである。

    現在の Bandar-shah から Bandare-Pahlavi 方面の

          水上交通は現在においても重要な航路である。

    黄支は紀元2世紀当時ローマ帝国の支配下にあった

    Antiochiya のことで、

    現在の Antakaya を指すとみられる。

    黄支は iochi- の音写である。

    漢書大究列伝では「条枝」と表記される。

    これはアンチオキアに主都を置いていた

    セレウコス Seleuucos 朝名の転訛である。

    同市はローマの東方支配の拠点都市であった。

    ヘカトンピロスからカスピ海の水路と陸路を

          合わせての行程と解釈される。

 (6)巳程不国(黄支の南)
    
    巳程不(いてふ)と解釈すれば Egypt の音写と考えられる。

    巳程不(きていふ)ないし巳程不(していふ)と読めば

    Kithem (旧約聖書創世記に出る)Sidon に対応し、

    地中海東岸の貿易港となるが確定は難しい。

 (7)皮宗(黄支から船で八か月ほど)

    アンチオキアから陸路で紅海あるいはペルシャ湾に出て、

    海路船で東方へ向かう行程と考えられる。

    紀元2世紀頃の主要海路は紅海を経て

    ローマとインド西海岸を結ぶものであった。

    皮宗は当時のインド亜東岸の港町 Pitha-puran である。

    紀元2世紀は後漢の時代である。

    大秦王安敦

    (ローマ皇帝マルクス・アウレリウスとされるが、

     その献貢物品の内容から疑問も出されている)

    の使節がやって来たのは166年のことで、

    東西の海路による交流が盛んになった時代である。

    漢の使節あるいは商人が絹織物を携えて

    航海に出たとの記述は重要である。

    この地理志の西方に関する情報は、

    後漢の商人や朝廷にも西方への海路情報が

    かなり入ってきていたことを示すものである。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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