2015年10月17日土曜日

≪アズミ族の正体≫小戸神社(おどじんじゃ)


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫小戸神社(おどじんじゃ)

 課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
    ―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―
 出典:平凡社:歴史地名大系:363頁

 小戸神社(おどじんじや)

 初めは下別府の地にあったが、寛文二年(一六六二)の

 大地震で水没したため上野町に移されたという。

 昭和九年(一九三四 )橘通の拡張に伴い

 現在地の鶴島三丁目に遷座した。

 祭神は伊弊諾尊。旧村社。

 「古事記」喫祓の段によると、イザナギは穢国から帰り、

 「竺紫日向之橘小門之」で禊祓をし諸神が生れたとされ、

 「日本書紀」巻一神代上の一書第六では、

 イザナミに追われたイザナギは泉津平坂に至り、

 「筑紫日向小戸橘之檍原」で祓除をしたとする。

 記紀に登場するこの小門(おど)・小戸、

 阿波岐原(あわきがはら)・檍原(あわきがはら)の比定地は

 古くから諸説があるが、

 正徳三年(一七一三)の御城井町在所々覚書(内藤家文書)によると、

 橘小戸は宮崎上野町・中村町間渡り、

 檍原は宮崎江田(えだ)村の沖にあるとされ、

 それぞれに

 「橘の小戸の汐瀬に顕れてむかしふりにし神そ此神」

 「西の海にあわきか原のしほちより顕れそめし住吉の神」の

 歌が添えられている。

 大淀川河口付近一帯は小戸と称され、

 古くから清浄の地として祀られてきたという。

 当社はこのような地に創建された古社で、社名の由来となったという。

 創建は景行天皇の勅命により行なわれたとされ、

 文明五年(一四七三)造営、

 延徳二年(一四九〇)に修復が行なわれ、

 この頃は神領は三〇町有したと伝える。

 その後数回改造が行われたが、

 戦国期の兵乱にあい旧記などことごとく失われたという。

 上野町に遷座したのちは正徳五年・享保三年(一七一八)などに

 修復や再建が行われている(官崎県史績調査)。

 延享四年(一七四七)の上別府村明細帳市村家文書)には

 小戸大明神と記され、

 祭礼は毎年六月二五日から上野町川原まで浜下りをし、

 同二九日まで五日間同所で夏越祭礼を行う。

 八月一四日・一五日にも祭礼が行われ、その諸入用は町中より負担した。

 檜皮葺の社殿と小板葺の上家があった。

 また別宮として小板葺の橘天神社(祭礼八月一五日)と板葺の日輪宮、

 末社として稲荷・祇園・高尾のほか神楽殿・稜殿・御供殿があった。

 境内は東西一五間・南北二八間で反別一反四畝余。

 享保三年延岡藩主牧野氏より社地敷高一石一斗余が寄付され、

 上別府村高内から引高となり、年貢・諸役も免除となった。

 寛保二年(一七四二)幕府領となってからも免除されていたが、

 延享元年からは毛付高とされ年貢・諸役が課せられた。

 寛政四年(一七九二)六月三○日、

 高山彦九郎は中村町から上野町へ渡り、

 小戸大明神の御旅所を拝している(筑紫日記)。

 文化九年(一八一二)九月六日、佐土原(現佐土原町)の修験

 野田泉光院は上野町の修験北山寺大乗院宅に泊まり、

 同町の鎮守小戸大明神に詣でている(日本九峰修行日起。

 明治四年(一八七一)現社名に改称した(日向地誌)。

 現在の例祭日は一○月一五日。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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