2015年9月7日月曜日

バビロンの王ハンムラビ


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫バビロンの王ハンムラビ

 超古代にアラビア海から太平洋へ航路を開いた阿曇族

 ―「船」を家とした人々の来歴―

 出典:「古代のメソポタミア」マイケル・ローフ
   :朝倉書店
    交易と交戦:122頁

 前2千年紀初めの傑出した人物といえば、

 前1792 年から1750 年にかけて

 バビロンを支配したハンムラビ王であった。

 辛抱強いが大望のある、用心深いが大胆な彼は、

 一時的ではあるがメソボタミアの歴史を変えるような

 一帝国を建てた。

 バビロンは政治、文化、そして宗教の中心となった。

 ハンムラビの治世の年号(年名)によると、

 彼は前1787 年にウルクとイシンを占領し、

 前1784 年にラビクムとマルギウムまで遠征している。

 また前1783 年の契約書によれば、

 その当時

 ハンムラビがシャムシ・アダドの家臣であったかもしれない。

 (彼の治世間の年号によると)次の20 年間、

 ハンムラビは神殿と運河の建設に適進しているが、

 治世第29 年に

 エラム、スバルトウ、グティウム、エシュヌンナ

 そしてマルギウムの同盟軍をうち破ったと主張している。

 次の年、前1763 年、

 彼はマリとエシュヌンナの援助をうけ、

 リム・シン1 世の長い治世を終わらせ、ラルサを征服した。

 2 年後ハンムラビはマリを破リ、

 そして前1757 年にマリの都市を破壊した。

 前1755 年にはハンムラビは都市のまわりに

 水を迂回させることでエシュヌンナを占領した。

 エシュヌンナは、彼の最後のメソポタミアでの対抗相手だった。

 ハンムラビは法典の序文に、

 神の名と彼を支持した国々の名を列挙している。

 それには、西のマリとトウットウル、

 ティグリス川ぞいのアッシュールと二ネヴエまでの都市、

 そして南に下ってウル、エリドウ、ギルスなどの

 都市があがっている。

 ハンムラビのラルサ統治を扱う150 あまリの書簡は、

 彼が獲得した国の日常管理に大きな関心をもち、

 ほとんど都市に権限を委任しなかった様子を伝えている。

 ハンムラビといえば、あの法典がもっとも有名である。

 ハンムラビ法典に非常に類似した形態の法典は早く、

 ウルのシュルギ、イシンのリビト・イシュタル、

 エシュヌンナのダドウシャなどによっても発布されていた。

 ハンムラビは法典の目的を

 「全土に正義をいきわたらせるため,

  悪事を撲滅するため,

  強者が弱者をしいたげないために」

 と定義している。

 彼はさらに判決を求める人々 に、法典を調べて、

 その事例に適切な法的決定を下すように勧告している。

 しかしハンムラビのものと推定される

 石碑の法律文書中のまれにみられる言及を除いては、

 現実に法典が不正を正すために使われたことを

 示唆する証拠はほとんどない。

 この法典には282 の条文があリ

 商業法、家族法、財産法、奴隷法、

 そして価格と賃金の料金など多くの問題を扱っているが、

 法典としては完壁でも包括的でもない。

 ハンムラビの法律は、

 古バビロニア社会の一つの理想的な考え方を提示している。

 王が最上位にあリ、

 王は彼の王国のすべてにわたって介入することができ、

 また実行した、

 彼の下にはアウィルム(“人”を意味するアッカド語)

 すなわち自由民、ムシュケヌム

 (彼らの厳密な地位ははっきりしないが、

  ある意味で国の召使)、

 そしてワラドウムすなわち奴隷、

 の三つの社会的階級があった、

 とはいえ奴隷は、

 彼ら自身の権利で財産を所有することができ、

 しばしば彼らの負債を清算するために、

 彼ら自身または子供を奴隷として

 売リこまなければならなかった

 アウィルム階級の一部のものよリは、

 よリよい生活を送っていたようにみえる。

 貸しつけの標準利子は、オオムギに対して33 % 、

 また銀に対して20 %であった。

 アウィルムは国に対する責任をもっておリ、

 税を払わなければならず、

 また国王軍で軍の兵役も果たしていた。

 アウィルムが死ぬと、

 彼の財産は息子たちの間で分けられ、

 土地はどんどん小さくなっていった。

 神殿、宮殿と民間市民との間の経済面での正確な力関係は

 いままでのところえられる情報源からは判断が難しい。

 しかし一般的にいうと、古バビロニアの都市では、

 宮殿がより重要な役割を演じていた。

 王は神殿を押さえていたが、

 その力は、王が都市神の位の高い神官であったからではなく、

 王が非宗教面で力をつけてきたからである。

 このことは、

 王神によって自己の権力が支えられていると主張しながらも

 実際には非宗教的な肩書きを用いていたことにも表れてる。

 イシン=ラルサと古バビロニア時代に

 個人間の契約、貸つけ、財産販売の数が

 増加したことによって示されるように

 宮殿の権力拡大につれて

 農業、産業、商業における個人に活動範囲が広がった。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年9月6日日曜日

ハンムラビの王国


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫ハンムラビの王国

 超古代にアラビア海から太平洋へ航路を開いた阿曇族

 ―「船」を家とした人々の来歴―

 出典:「古代のメソポタミア」マイケル・ローフ
   :朝倉書店
    交易と交戦:122頁

 ハンムラビ(前1792 一50)は彼の治世の後半に、

 メソポタミアのほとんどの地域の支配を確立し、

 多くの都市の独立に終止符を打った。

 彼は法典の序文で、

 トウットウル、ニネヴェ、アッシュールはもちろん、

 彼が滅ぼしたマリやエシュヌンナなどを含む

 メソボタミアの多くの都市で、

 神殿を修復したと主張している。

 ハンムラビの息子サムス・イルナは、

 謀反を起こしたラルサのリム・シン2世を鎮圧した。

 その後の南バビロニアは荒廃したと思われる。

 前1739 年以後、

 (バビロニアの南端の諸都市)

 ウル、ラルサ、クタッラ、ウルク、ウンマ、アダブ

 またはラガシュが占領されていたという証拠はほとんどない。

 海の国の王、イルマ・イルの治世にあたる

 前1721年にニップルで書かれた文書はいくらかあるが、

 その後200 年間に書かれたものは

 イシンでもニッづールでも皆無である。

 このように南部で記録がなくなってしまうのは、

 河川流路の激変、

 海の国の諸支配者による征服、

 官僚制度の習慣の変化などに由来するのかもしれないし、

 またはこれら三つが組み合わさって生じたのかもしれない。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年9月5日土曜日

山海経(せんがいきょう)


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫山海経(せんがいきょう)

 超古代にアラビア海から太平洋へ航路を開いた阿曇族

 ―「船」を家とした人々の来歴―

 提供:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    山海経:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%B5%B7%E7%B5%8C

 山海経(せんがいきょう)とは戦国時代から秦・漢期にかけて

 徐々に付加執筆されて成立した中国最古の地理書である。

 禹の治水を助けた伯益の著に仮託される。

 この書は

 あくまで古代中国人の伝説的地理認識を示すものであり、

 「奇書」扱いされている。

 劉歆が漢室にたてまつった際には18編、

 『漢書』「芸文志」では13編。

 『隋書』「経籍志」や『新唐書』「芸文志」では23巻、

 『旧唐書』「経籍志」では18巻。

 『日本国見在書目録』では21巻としている。

 現行本には、西晋の郭璞の伝(注釈)を付しており、

 5部18巻。

 各地の動植物、鉱物などの産物を記すが、

 その中には空想的なものや妖怪、

 神々の記述も多く含まれ、

 そこに古い時代の中国各地の神話が

 伝えられていると考えられている。

 そのため、

 後世失われたものの多い中国神話の重要な

 基礎資料となっている。

 3世紀に完成。

 河南省の洛陽近郊を中心として叙述されている。

 山経5書は、

 時代を追って成立した本書の中でも最古の成立であり、

 儒教的な傾向を持たない中国古代の原始山岳信仰を知る上で

 貴重な地理的資料となっている。

 洛陽を中心としている所から、

 東周時期の成立と推定される。

 もともとは絵地図に解説文の組み合わせだったが、

 絵地図は失われ、後世に解説文を頼りに想像で挿絵をつけた。

 と書かれている。

 〔清〕都美行著

 山海経箋琉
 
 18 海内經第十八

 東海之内・北海之隅・有國名曰朝鮮・天毒・
 
 其人水居・偶人愛人。

 西海之内・流沙之中・有國名曰壑市。

 西海之内・流沙之西・有園名曰沮葉。

 流沙之西・有烏山者・三水出馬。

 爰有黄金・璿瑰、丹貨、銀臓,皆流于此中。

 又有准山・好水出鴛。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年9月4日金曜日

バビロンの発掘


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫バビロンの発掘

 超古代にアラビア海から太平洋へ航路を開いた阿曇族

 ―「船」を家とした人々の来歴―

 出典:メソポタミア文明
   :ジャン・ポッテロ/マリ=ジョゼフ・ステーヴ著
   : 矢島文失監「創元社」

 石版や粘土版だけではない。

 楔のしるしはペルセポリスの王宮の跡や、

 王の墓が掘られた断崖の岩盤にも刻まれていた。

 第4章 歴史はシュメルに始まった

 「バビロンの発掘」

 ところでメソポタミアの南部には、

 シュメルの遺跡だけが眠っていたわけではない。

 前2000年頃にシュメルの国家が姿を消したあとも、

 この地にはいくつかの国家が生まれ、

 バビロンの都を中心に繁栄を誇ってきた。

 そのバビロンがついに発掘される日がやってきた。

 実を言うと、

 バビロンの遺跡は「発見」されたわけではなかった。

 現在イシュタル門として知られる大門と

 そこに至る大通りに沿った高い壁が、

 19世紀に入ってからも地中から、

 頭を出していたからである。

 この壁にローベルト・コルデヴァイという

 ドイツの学者が興味を持った。

 コルデヴァイは1899 年から1917 年にかけて

 大がかりな発掘を行ない、

 広大なバビロンの遺跡を太陽のもとにひきずりだした。

 その結果、

 街は 50 近くの監視塔を持つ2重の壁に囲まれ、

 内側には

 大小あわせて1000 以上の神殿があったことがわかった。

 その中心となるのはバビロニアの主神マルドゥクを

 祀ったエ・サギラ神殿で、

 換形文字の文書などから、

 そこには

 エ・テメン.アン・キ(天と地の境の家)と呼ばれる

 7 階だての聖塔がそびえていたこともわかった。

 聖書で有名な「バベルの塔」である。

 「写真」ネブカドネサル2 世の時代のマルドゥク神殿と

     バベルの塔

     バビロニアの主神マルドゥクを祀った神殿と、

     バべルの塔の復元模型。

     塔は7 階だてで、高さは90m もあった。

     だが残念なことに、

     現在では基礎の部分しか残っていない。

 「写真」ローベルト・コルデヴァイの肖像

     コルデヴァイがバビロンを発掘したあと、

     考古学者たちは、遺跡を測定して街の地図を作り、

     主要な建造物の復元模型を作った。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年9月3日木曜日

神社建築


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫神社建築
 
 超古代にアラビア海から太平洋へ航路を開いた阿曇族

 ―「船」を家とした人々の来歴―

 『出典』「別冊歴史読本」古神道・神道1993/09/07
       
 ○神明造:伊勢神宮

 ○春日造:春日大社

 ○住吉造:住吉大社

 ○日吉造:日吉大社

 ○権現造:

 ○大社造:出雲大社

 ○流造:全国的

 ○八幡造:宇佐神宮、石清水八幡宮

 鳥居をくぐると参道で、途中に手水舎、社務所があり、

 狛犬が参道の両脇に控えているのはご存じの通り。

 狛犬の起源については諸説があって、

 古代エジプトのスフィンクス、

 インドの寺院前におかれている獅子像などが

 原型ともいわれています。

 おそらく、これらの風習が

 古代の高麗(朝鮮半島)を通じて日本に伝わり、

 高麗の犬ということで狛犬に転じたのでしょう。

 狛犬が置かれるようになったのは

 平安時代末期のことといわれています。

 玉垣は神社のまわりに巡らされた垣根のことで、

 本殿にいちばん近い垣根を瑞垣といいます。

 境内には神社の規模によって、さまざまな社殿が建っています。

 本殿(御神体を祀る)、

 拝殿(参拝者が拝礼するところ)、

 幣殿(拝殿と本殿の間にあり、神へ供え物をするところ)、

 神楽殿(舞殿。舞楽を催すところ)、

 齋館(参龍所。神職が神事の際に神饌と御神酒をいただく)

 などがあります。

 本殿の建築でもっとも特徴的なのは、

 屋根の両端に突き出した千木、

 その間に並んだ鰹魚木(勝男木)でしょう。

 千木はもともと棟木を支える前後二本ずつの垂木が

 装飾的に発達し、

 現在は「置千木」とよばれるものになっています。

 堅魚木は、現在は装飾的におかれていますが、

 もとは棟の補強材だったともいわれています。

 鰹節に似ているところからその名があり、

 一般に奇数の場合は男神を記る神社、

 偶数の場合は女神を祀る神社とされています。

 本殿にはさまざまな形式があります。

 伊勢神宮の「神明造」、

 出雲大社の「大社造」、

 住吉大社の「住吉造」

 春日大社の「春日造」、

 宇佐神宮、石清水八幡宮の「八幡造」、

 日吉大社の「日吉造」、

 全国的にみられる「流造」などが有名です。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年9月2日水曜日

Iraq=Ark/Arche


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫Iraq=Ark/Arche

 超古代にアラビア海から太平洋へ航路を開いた阿曇族

 ―「船」を家とした人々の来歴―

 sum-e-lu>Summel

 屠殺の動物 (犠牲)動物を殺す khabur ハフリ

 シャブール川 Sinjar山脈 Ad.Aziz山地 

 Busayrah バザル マリ

 アルパチア 高床式神殿

 Salah Addin 野生麦の産地

 エリドゥ  →  ウル

 1番目の都市  2番目の都市

 Iraq=Ark/Arche ノアの方舟 ジオウスドウ

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年9月1日火曜日

エンキ神と「メ」の職能


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫エンキ神と「メ」の職能

  エリドゥ市の守護神エンキについて賛歌はうたう。

   鋤とくびきを彼あやつれり、

   偉大なるエンキは

   かの神聖なる畝溝を切り開き、

   年を通じ野に穀物を実らせり、

  エンキ神は豊饒をもたらす創造主であった。

 シュメルの神話には「地の主」として淡水を意味する

 アプス apsu と深い関係にあり、

 灌漑を推進することにより農耕地を誕生させ、

 作物を栽培することにより穀物の実りをもたらしたのである。

  エンキ神の創造主としての役目は、

 「メ」の原初的保持者として権威付けられている。

 「メ」の内容については

 「イナンナとエンキ」と呼ばれる粘土板に

 書かれた神話によって知られる。

 シュメルの「神学者」たちが、

 百余の項目にまとめ上げたエンキ神の職能である。

 ここで重要なことは

 都市や神殿の建設方法をもたらすことである。

 木工や家造りの技術、皮細工は「神殿の建設」とも関係する。

 家畜飼育についても「羊小屋」によって代表される。

 金属加工に関しても「金属鋳造」「青銅加工」技術について、

 また旅をしての商売にも触れられている。

 政治的側面として支配権を明確化する

 「司牧」「王」「高貴な王杖」を挙げている。

 神職者については男女の司祭について述べ、

 性的行為を行う神職者の職能を解説している。

 さらに灌漑についても洪水と比較して説明されている。

 その他

 文字、書紀術、音楽、幾何学の方法、家庭生活、祓魔儀礼も

 含まれている。

 これらはエンキ神の創造によるもので、

 同神により指導される分野なのである。
 
 バビロニアの叙事詩にうたわれたとおり、

 葦や木は生えておらず、家もなく、都市もできてなく、

 すべて海であった大地に諸機能を植え付け、

 エリドゥ市をエンキ神は創り上げたのである。

 しかし、

 百余の項目全てが紀元前五千年前、

 エリドゥ市が始まった当時に存在したとは思えない。

 シュメル人やバビロン人が文明の進展の中で

 獲得した知識と技術を神話化して

 まとめ上げたものと判断するのが妥当であろう。

  これらの項目は、

 都市の国家において

 文明化された文化生活を送るための規範を示しており、

 エンキ神によって教唆された天則であり、

 律法をも想定していたことがみえてくる。

 しかし、違反に対する罰則などという内容はなく、

 法律という規範でない。

  「メ me 」は南メソポタミアにおいて

 北メソポタミアに誕れた牛頭信仰の象徴である

 角の変身したものであることがを述べたが、

 その説明援助する事実がバローチー語にある。

 先にバローチー語の角を表す用語が khald の転訛である

  kārt であることを紹介したが、

 同語における「法律」は

  kārūd で kārt の派生語となっている。

 パキスタンのバルチスタン中心に居住するバローチー人は

 メソポタミアの歴史と密接な関係にあるが、その訳は後述する。

  「イナンナとエンキ」は、

 エンキ神の専有物であった「メ me 」が

 エリドゥ市から他の地方へ伝播されていったことの挿話を語る。

 ウルク市の女神イナンナがエンキ神から

 「メ me 」を入手しようともくろみ、エリドゥを訪ね、

 エンキ神がもうけた酒宴で同神の酔いが回って

 朦朧としている間に

 「メ me 」をエンキ神から掠め取り、

 ウルク市へ船に乗せて持ち帰った。

 この挿話の意義をジャン・ポテロは

 「エンキやエリドゥから メ me が

  奪われたという意味ではなく、

  イナンナとウルクもまたこの時以来エリドゥ同様

   メ me を所有し利用するになったことを意味している」

 といっている。

  つまり、

 エリドゥの神殿の権威が

 他の都市にも波及したことを示しているのであり、

 各都市によって守護神は変わっても

 権威を象徴する神殿の概念が踏襲されていることの証左となる。

 また、

 エリドゥの神殿の信仰に従い奉献が行われたのである。

 森林がなく木材を輸入しなければ入手できない

 南メソポタミア地方にとって、

 北メソポタミアでのように高床式神殿を作るためには、

 木材は不適当であっただろう。

 当然大量に作り得る煉瓦を積み上げた建物を

 神殿とすることに転換されたことは明らかで、

 大規模化も可能となったのである。

 階段は神殿が巨大な土塁の上に造られるようになったために

 必要になったのではない。

 高床式神殿にあった階段が

 「天への門」であるという観念を尊重しているのであり、

 ジックラトの主要な特徴となっているのである。

 エリドゥ文化が南メソポタミア全域へ広がった

 証左の代表的要素である。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ