2015年10月31日土曜日

≪アズミ族の正体≫漢書の海洋交易網


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫漢書の海洋交易網

 課題:古代にローマ帝国は極東の絹を熱望した
    ―古代世界における海洋交易の実相―

  ≪アズミ族の正体≫漢書の海洋交易網

 山海経は朝鮮の近くにインドのような国

 あるいはインド人の国があるといっている。

 とすると、インド亜大陸と朝鮮のある東アジアとの行き来が

 紀元前後に実際あったとの推測が出てくる。

 まず漢の史料にその海路についての当時の情報が

  記載されている。

 『漢書地理志』がその史料で「粤国」に続いて延べられている。

 粤は越と同義で漢の時代には南シナ海に面する地域で、

 前漢時代の紀元前111年には

 現在のベトナムのホイアンには南郡を置くなど勢力を伸ばした。

 『漢書地理志』は紀元2世紀の著述とされている。

 その海路の解説部分を

 東洋文庫の「漢書食貨・地理・淳洫」から転載するが、

 合浦及び徐開は広東省の雪洲半島の境で

 儋耳(たんじ)と珠厓(しゅがい)は

 海南島の港町(郡名)である。

 海南島も紀元前111年に漢によって属州とされた。

 ※出典:「漢書食貨・地理・淳洫」

 合浦や徐開から南に海に出ると大きな洲に出会う。

 東西南北一辺が千里もあり、

 武帝の元封元年、攻略して儋耳・珠厓両郡とした。

 住民は大風呂敷のような一枚の布を身につけ、

 真中に穴をあけてそこから頭を出す。

 男子は農耕を行い、禾稲や紵麻を種え、

 女は蚕を飼って機を織る。(中略)

 元帝の時代とうとうここを放棄した。

 日南郡の陣塞や徐開、合浦から

 五ヶ月ばかり行くと都元国がある。

 また船で四ヶ月ほどで邑盧没国があり、

 さらに二十日あまりで諾離国がある。

 そこから陸路十日あまりで夫甘都盧国に達する。

 夫甘都盧国から船で二ヶ月以上行くと黄支国で、

 住民の習俗は珠厓とほぼ似通っている。

 その洲は広大で人々も多く珍しい物が多い。

 武帝時代より、いずれも貢物を携えて来見した。

 訳長がいて黄門に属し、募集に応じた者とともに船出して

 明珠、辟流璃、宝石や珍奇な品物を購わんと、

 黄金とさまざまな絹織物を持参して赴いた。

 行く先々の国々では、食事に女性が侍り、

 蛮来の商船がリレー式に運んでくれる。

 だが、取引の利益をめぐって、掠められたり、

 殺されることもあり、風波に悩まされて溺死したりする。

 さもなくば数年たって帰国し、

  周囲二寸もある珠国をもちきたる。

 平帝の元始年間、王莾が政権をにぎり、

 その威徳を輝かそうと黄支国に莫大な贈物をもたせ、

 生きた犀を献上するよう使者を遣わした。

 黄支から船で八ヶ月ほどで皮宗に到着し、

 さらに海路二ヶ月で日南象林地方に到着するといわれる。

 黄支の南に巳程不国があるが、漢の訳使はそこで引き返す。


 「漢書の海洋交易網」

 (1)都元国(日南郡、徐開発、合浦から海路五ヶ月ばかり)

    シンハラ国(現スリランカ)の港 Dehiwala と考えられる。

    サンスクリット語で名の Tamaraparna

    ギリシャ語名で Taprobanes として知られた。

 (2)邑盧没国:ゆうろぼっこく(都元国から船で四ヶ月ほど)

    インド亜大陸西海岸、

           古代名 suroarka (港町)に比定される。

    Sur は美称でパラカに対応するが、現在のムンバイ、

    かってボンベイといわれた市近くの港 Alibog が

    そのの遺称とみられる。

 (3)諶離国:しんりこく(邑盧没国より船で二十日あまり)

    surat のことで、紀元2世紀頃は sura-shila と呼ばれた。

    諶離は shila の音写と考えられる。

 (4)夫甘都盧国(諶離国から陸路十日あまり)

    当時ペルシャを支配していた

    ぺルチア王国の首都 Hecatonpylos のことである。

    同市は内陸カスピ海の南東に位置する。

    インドの sura-shila から陸路で十日では到達できない。

    その表記に「十日」あるいは

    「何十日」などの誤写か欠字があるとみられる。

 (5)黄支国(夫甘都盧国から船で二ヶ月以上)

    船で二ヶ月以上行くとは、

    ヘカトンピロスからカスピ海の東岸から船出して

          西岸にいたる

    旅程を含むものである。

    現在の Bandar-shah から Bandare-Pahlavi 方面の

          水上交通は現在においても重要な航路である。

    黄支は紀元2世紀当時ローマ帝国の支配下にあった

    Antiochiya のことで、

    現在の Antakaya を指すとみられる。

    黄支は iochi- の音写である。

    漢書大究列伝では「条枝」と表記される。

    これはアンチオキアに主都を置いていた

    セレウコス Seleuucos 朝名の転訛である。

    同市はローマの東方支配の拠点都市であった。

    ヘカトンピロスからカスピ海の水路と陸路を

          合わせての行程と解釈される。

 (6)巳程不国(黄支の南)
    
    巳程不(いてふ)と解釈すれば Egypt の音写と考えられる。

    巳程不(きていふ)ないし巳程不(していふ)と読めば

    Kithem (旧約聖書創世記に出る)Sidon に対応し、

    地中海東岸の貿易港となるが確定は難しい。

 (7)皮宗(黄支から船で八か月ほど)

    アンチオキアから陸路で紅海あるいはペルシャ湾に出て、

    海路船で東方へ向かう行程と考えられる。

    紀元2世紀頃の主要海路は紅海を経て

    ローマとインド西海岸を結ぶものであった。

    皮宗は当時のインド亜東岸の港町 Pitha-puran である。

    紀元2世紀は後漢の時代である。

    大秦王安敦

    (ローマ皇帝マルクス・アウレリウスとされるが、

     その献貢物品の内容から疑問も出されている)

    の使節がやって来たのは166年のことで、

    東西の海路による交流が盛んになった時代である。

    漢の使節あるいは商人が絹織物を携えて

    航海に出たとの記述は重要である。

    この地理志の西方に関する情報は、

    後漢の商人や朝廷にも西方への海路情報が

    かなり入ってきていたことを示すものである。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年10月30日金曜日

≪アズミ族の正体≫山海経(せんがいきょう):(Wikipedia)


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫山海経(せんがいきょう):(Wikipedia)

 課題:古代にローマ帝国は極東の絹を熱望した
    ―古代世界における海洋交易の実相―

 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    山海経

 山海経(せんがいきょう)とは戦国時代から秦・漢期にかけて

 徐々に付加執筆されて成立した中国最古の地理書である。

 禹の治水を助けた伯益の著に仮託される。 こ

 の書はあくまで古代中国人の伝説的地理認識を示すものであり、

 「奇書」扱いされている。

 劉歆が漢室にたてまつった際には18編、

 『漢書』「芸文志」では13編。

 『隋書』「経籍志」や『新唐書』「芸文志」では23巻、

 『旧唐書』「経籍志」では18巻。

 『日本国見在書目録』では21巻としている。

 現行本には、西晋の郭璞の伝(注釈)を付しており、5部18巻。

 各地の動植物、鉱物などの産物を記すが、

 その中には空想的なものや妖怪、

 神々の記述も多く含まれ、そこに古い時代の中国各地の神話が

 伝えられていると考えられている。

 そのため、後世失われたものの多い中国神話の

 重要な基礎資料となっている。

 3世紀に完成。

 河南省の洛陽近郊を中心として叙述されている。

 山経5書は、時代を追って成立した本書の中でも最古の成立であり、

 儒教的な傾向を持たない中国古代の原始山岳信仰を知る上で

 貴重な地理的資料となっている。洛陽を中心としている所から、

 東周時期の成立と推定される。

 もともとは絵地図に解説文の組み合わせだったが、

 絵地図は失われ、後世に解説文を頼りに想像で挿絵をつけた。

 と書かれている。

 〔清〕都美行著

 山海経箋琉
 
 18 海内經第十八

 東海之内・北海之隅・有國名曰朝鮮・天毒・其人水居・偶人愛人。

 西海之内・流沙之中・有國名曰壑市。

 西海之内・流沙之西・有園名曰沮葉。

 流沙之西・有烏山者・三水出馬。

 爰有黄金・璿瑰、丹貨、銀臓,皆流于此中。又有准山・好水出鴛。

 《参考》

 出典:山海経

 1 山海経とは

 『山海経』は、BC4世紀~BC1世紀に著作された中国最古の地理書で、

 地理、動植物・鉱物、祭祀、辺境の国々、

 伝説上の帝王の系譜などが記述されている。

 主要な部分は戦国末期(BC3世紀)までに成立した。

 特定の人物の著作ではなく、多数の人の著述を合作し、

 編集したものとされている。

 荒唐無稽な説話を含むため、内容の真偽に疑問を持たれているが、

 記事は個別に判断すべきだろう。

 倭についての記述があるので、その真偽を確認する。

 2 山海経/海内北経

 山海経/海内北経に

 「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」と書かれている。

 鉅燕(BC3世紀初頭の燕)は、戦国時代の渤海湾北岸を拠点とし、

 遼東半島も版図としていた国である。

 蓋国は山東半島の「蓋」

 (現在の山東省淄博市沂源県)として問題はない。

 朝鮮半島江原道の「穢(かい)」とする説、

 馬韓の「乾馬」とする説などがあり、

 「倭の北」という位置関係から主張されているが、

 この主張は、倭が朝鮮半島南端にあったことを、

 中国人が認識していた事を前提にしているから、理屈に合わない。

 漢代になっても中国人は倭の位置を知らなかったからだ。

 当時の中国人には、

 朝鮮半島に箕氏朝鮮以外の政権があったという認識も、

 半島南端に倭があったという認識もなかった。

 春秋戦国時代の朝鮮半島南端に、

 倭人の国があったという証拠もない。

 弁韓の製鉄が始まっていたのかも疑わしい。

 続く文章に、

 「朝鮮は列陽の東に在り。列陽は燕に属す。」と書かれているから、

 朝鮮半島の北西に朝鮮があったことになり、

 正しく認識している様に見える。

 列陽がどこなのかは分からないが、遼東半島辺りだとすれば、

 解釈に無理がない。

 山東半島の南に倭があるのは、世界地図を見れば違和感があるが、

 後漢書の著者の生きた南北朝の宋の時代でさえ、

 中国人には日本列島についての地理的認識がなかった事情が

 書かれているから、地理的な南北感ではなく、

 倭人がどの方面から蓋国に来たのか考えるべきだろう。

 漢書に、「楽浪海中に倭人有」と書かれているのは、

 倭人は海から来るという認識からだ。

 山海経はそれ以前に書かれたから、

 中国人は、倭人の本拠地に関する情報は持っていなかった。

 漢書地理誌の「楽浪海中に倭人あり」は、

 朝鮮半島沿岸を航行して大陸に向う倭人の船が、

 最初に寄港する中国の領土が、楽浪だったと解釈される。

 この倭人の船の目的地は、黄河沿岸だった。

 これと同じ感覚で考え、倭人は燕に朝貢するにあたり、

 蓋国を通ったか、蓋国を介して燕と接触したという状況になる。

 燕に行くのに、

 倭人が船で直接渤海湾に入れば済むという地理感から考えると、

 何らかの事情があった事が想定される。

 山東省淄博市沂源県から東方に、

 さほど高くない山間を抜け平地を進むと、

 200kmほどで黄海沿岸や膠州湾に達する。

 その通路で最寄りの海岸を探せば、瑯琊になる。

 江南での交易が主体で、沖縄経由で江南に出掛けていた倭人が、

 船で北上して山東半島の瑯琊とか膠州湾に上陸し、蓋国に行った場合、

 当時の地理感では、蓋国は倭の北にあることになるだろう。

 倭人は、日本列島に関する正しい知識を、

 中国人に伝えていなかったから、

 蓋国の人達に自分達は南から来たと言っただろう。

 山東半島の海岸は、南東が海で北西が陸だから、

 海から来るのは、南から来る事と同義だった。

 倭人は海から蓋国に行かなくとも、

 淮河とその支流の沂水を船で遡上しても行く事ができた。

 沂源県とは沂水の源という意味に見える。

 3 地理的、地勢的、環境

 戦国時代後期、燕は急速に勢力を伸張した。

 日本人にもその名を知られる楽毅が活躍した時代である。

 中国の歴史は人物伝に終始するが、

 燕は中華的農耕社会の北端にあった国だから、

 燕の国力の伸張は気候の温暖化が原因だったと考えるべきだろう。

 楽毅は偶然そこに居ただけの人だったかもしれない。

 燕は、蓋国が属していた斉を滅亡寸前にまで追い詰め、

 国力を消尽させた。蓋国は斉を見限り、燕に属したのだろう。

 燕はこの時渤海南岸と山東半島まで掌握したことになる。

 渤海の南岸の国は燕の根拠地と比較し、

 農業生産が豊で富裕な国だった。

 蓋国はその豊かな都市国家群を代表する存在だったのだろう。

 倭人は元々蓋国と交易していたが、

 この事情により燕に朝貢する様になったと解釈すると、矛盾が無い。

 それであれば、渤海湾から直接燕に行かなかった謎も解ける。

 属すという言葉は、朝貢があった事を意味する。

 中国人は、

 臣従の意味を込めて贈り物を持った使者を派遣し成立する行為を

 朝貢と考えていたが、交易民族倭人は、

 高価な財貨を貴人に買ってもらうために、

 先ずプレゼントを持って挨拶に出かけたのだろう。

 中華秩序に組み入れられることを拒み続けていた倭が、

 海で隔てられた燕の属国になる筈はない。

 燕や蓋国がそれを朝貢と勘違いしたと思われる。

 いずれにしても、倭人は斉に勝った燕の国王や貴人と交易し、

 蓋国とも交易したかったのだと考えるべきだろう。

 当時の倭人は、江南方面から山東半島に向っていたことになる。

 朝鮮半島沖の航路は主要な航路ではなく、

 燕などの黄河北岸の国は、倭の交易相手ではなかった様だ。

 春秋時代の寒冷期に農業生産性の観点から考えれば、

 雑穀を主体とした農耕が中心だった燕などの国は、

 倭人としては交易相手として積極的になれない相手だったのだろう。

 この情報は、そんな燕から誇らしげに発信されたと思われる。

 黄河は現在渤海の西南に河口があるが、

 こうなったのは1855年以降の事で、

 それ以前は山東半島の南を回り、黄海に流れていた。

 もう少し詳細に言えば、

 BC2278年~AD1128年は渤海に、

 AD1128年~1546年は黄海と渤海に流れ、

 1546年~1855年は黄海に流れていたとされている。

 黄河は膨大な土砂を流すので、その堆積によって、

 とんでもなく流路を変える河なのだ。

 実際の流路が

 BC2278年から変らず渤海に注いでいたのかも疑問であるが、

 旧河道を船で航行することは可能だったかもしれない。

 倭人は渤海湾の奥に船で出掛けず、淮河とその支流、

 及び黄河の旧河道を使い、戦国時代に最も栄えた都市だった斉の都、

 臨淄(りんし)に往けたのかもしれない。

 このルートが倭人の戦国時代の主要交易路であった場合、

 朝鮮半島経由では却って遠回りになる。

 当時の海洋航行は、陸の位置を確認しながら進むのが基本だから、

 海岸が入り組んだ朝鮮半島経由で天津に行くのと、

 沖縄経由で上海に行くのとでは、大差がない。

 倭人は

 揚子江流域や淮河の流域の各所の豪族を歴訪する交易者だったから、

 朝鮮半島沖を主要航路とする必然はなかっただろう。

 結論として、

 山海経に書かれた倭に関する内容は、

 当時の実情を記したものだと判断できる。

 漢書・後漢書の項で検証した、

 華南で東鯷人と呼ばれ漢王朝で倭人と呼ばれていたいう関係を、

 時代を遡った戦国時代ではどうだったのかと検証する観点でみれば、

 燕・斉は黄河流域の国だから、

 黄河流域で倭人と呼ばれていたという流れには合致している。

 蓋国の説明をするのに、基準地点として、

 倭が燕と同格に書かれているから、

 倭人は黄河流域では知られた名前で、

 会稽辺りから来るという認識だった様だ。

 山海経/海内北経の末尾に地理的な知識が羅列されている中で、

 最初に上掲の「蓋」があり、続いて上掲の朝鮮があり、

 更に以下の記録がある。

 「列姑射(れこや)。海の河州の中に在り。」

 「射姑(やこ)國。海中に在り。列姑射に屬す。西南、山が之を環る。」

 「大蟹(だげ)。海中に在り。」

 「陵魚は人の面で手足は魚の身なり。海中に在り。」

 「大鯾(だぴ)。海中に居す。」

 「明組の邑。海中に居す。」

 「蓬莱山。海中に在り。」

  (蓬莱山という地名はここまで遡ることが分かる。)

 「大人(背の高い人)の市。海中に在り。」

 記述された場所の特定は難しいが、

 海中に在るという表現は島に住んでいるという意味になる。

 中国人から見て海上の大きな島と言えそうな場所は、

 日本列島以外は、台湾と済州島しかない。

 台湾はその後も中華に通好を求める行為を行っていないから、

 候補ではないだろう。済州島の住民は、

 魏志倭人伝によれば海上に出ていた様だから候補ではあるが、

 中国大陸に出かける必然が考えにくいから、

 「れこや」、「やこ」、「だげ」、「だぴ」、「明組」、「大人」、

 などと並べた国や邑や市(交易場)の名前は、

 日本列島から渡った人達から聞き取った結果だと思われる。

 200年後の倭を記した漢書に「百余国ある」と書かれたが、

 その内訳だった可能性が高い。

 前項で徐福伝説を検証したが、山海経に書かれた倭の記述に、

 徐福の根拠地だったらしい瑯琊に極めて近い地域が

 登場するのは奇異に感じる。

 斉の人であった徐福は、蓋国と関係のある人だったのかもしれないが、

 根拠のない推測の域を出ない。

 いずれにしても徐福が活動した斉は、

 前代の戦国時代から倭人が活動していた地域であるのは確かだろう。

 他の史書と矛盾の無い説明が出来るということは、

 戦国時代に、倭人は淮河流域、渤海湾、山東半島辺りで、

 海や河川を使って交易活動を行なっていたと考える根拠として、

 使って良いのではないかと考えられる。

 ※燕: 

 燕は周代(BC11世紀~)からあった国で、戦国七雄の一つ。

 現在の北京を中心とする河北省北部と遼寧省を支配した。

 首都は薊(けい)で、現在の北京市域にあった。

 建国の事情や経緯は明確ではない。

 戦国時代の昭王(BC311年~BC279年)の時代に

 領土を拡張した。

 日本人にも馴染みのある楽毅が、

 戦国諸国の連合軍を率いて斉軍を大破し、斉の首都臨淄を陥落させた。

 この頃「朝鮮」を討って、朝鮮半島北部も領有した。

 また、その南部の「真番」を略属させ、

 所々に要塞を築き官吏を派遣して治めた。

 「鉅燕」(巨大なる燕)とか、

 「全燕」(『史記』の記す完全なる燕)は

 この時の燕の状態をさすとの説がある。(以上ウイキペディア)

 「真番」が何処を指すのか不明だが、

 燕は朝鮮半島南端まで軍事支配していたのではない。

 ※蓋:

 「蓋」は「高密」の西100km程の山間地。

 淮水の支流である沂水の上流が 沂源県になる。

 倭人は淮水~沂水を使って「蓋」に到達していた。

 当時の河川の流路を再現する事は難しいが、

 山東半島域を除くこの地図域は、

 黄河の堆積土が積もった平坦な沖積平野で、

 黄河以外の大河は、湖沼を経て水路で繋がる事が多いから、

 倭人は淮河とその支流や、斉水(現在の黄河河道)を使い、

 戦国時代の各国の都に交易に出かけていたかもしれない。

 当時の淮水はこの地図の様に、黄海に流れ出ていた。

 黄河は流し出す膨大な土砂のために常に天井河となり、

 他の河川の流入を拒み、河川を分断してきた。

 当時の渤海湾は現在より東に大きく湾入し、

 そこに黄河が流れ込んでいたから、

 中原地域は縦横に水路となる河川が存在する地域だった。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年10月29日木曜日

≪アズミ族の正体≫大牟田市の弥生時代遺跡


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫大牟田市の弥生時代遺跡

 課題:古代にローマ帝国は極東の絹を熱望した
    ―古代世界における海洋交易の実相―

 弥生時代の人々は、農耕(水田)を営み、

 竪穴式住居や、高床式倉庫をつくり、村を形成しました。

 また、共同墓地に土墳墓や髪棺墓をつくり埋葬しました。

 現在、確認されているこれらの弥生時代の遺跡は、

 白銀川流域の丘陵地帯に多く、市の北部にかたよっています。

 今後、調査が進めば、市の南部からも発見されるかもしれません。

 「羽山台遺跡]は、

 福岡県南部における代表的な弥生時代の墓地の一つです。

 大牟田市大字草木字羽山の草木八幡宮と大牟田高校にはさまれた、
 
 南北に延びた丘陵の東側にあります(一部、大牟田高校の敷地も含む)。

 現在までに確認されたものは、

 甕棺墓64基(内1 基は支石墓)、

 土墳(木棺)墓43基の合計107基です。

 しかし、今後、調査が進めばかなりの数になると予想されます。

 羽山台遺跡で最も古い甕棺は、支石墓下の甕棺で

 弥生時代中期初頭(今から約2100年前)のものとされています。

 「写真」支石墓下の甕棺

     (羽山台遺跡出土弥生時代約2100年前)

     支石墓とは巨石を据え、

     その下に土壙、甕棺などの埋葬施設のあるもの。

     支石墓は朝鮮半島中部以南に多い南方式のもの。

 「図」弥生時代の遺跡(「大牟田市遺跡等分布地図」による)

 ア 山下の上

 イ 倉永小学校

 ウ 下方

 エ 神屋原

 オ 南辻

 カ 北辻

 キ 土定原

 ク 東神屋原

 ケ 熊野神社

 コ 豊持

 サ 甘木中学校

 シ 東原

 ス 陣内

 セ 堂の後

 ソ 池田天満神社

 タ 白銀辻

 チ 西

 ツ 辻

 テ 門前

 ト 高須

 ナ 内畑

 ニ 上畑

 ヌ 城

 ネ 三池高校

 ノ 柿添

 ハ 草木八幡宮裏
 
 ヒ 室尾

 フ 田隅

 ヘ 銀水小学校

 ホ 久福木納骨堂

 マ 立山

 ミ 宮部納骨堂

 ム 大久保

 メ 大鳥居

 モ 羽山台

 ヤ 柿又

 ユ 今町

 ヨ 白川堂※

 ラ 白川※

 ロ 庄屋原

 ワ 井毛谷

 ヲ 上徳

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年10月28日水曜日

≪アズミ族の正体≫「魏書倭人章」の国々


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫「魏書倭人章」の国々

 課題:古代にローマ帝国は極東の絹を熱望した
    ―古代世界における海洋交易の実相―

  ≪アズミ族の正体≫「魏書倭人章」の国々

 1.狗邪韓国:韓半島の南端

   狗那:コヤ 倭人の用語 kea,hea(阿尼語)「星に」:

      伽那に同じ、また姑射に同じ

   伽那山=(現)星山郡 『三国遺事』駕洛 kea-lug:星・山(阿尼語):

      駕洛に同じ

   洛東江:伽那山の東の河

 2.対馬国(長崎県対馬郡)

   「対馬」は「馬韓に対面する」の意、

   「ツシマ」は「二つの島:二島」の意で「五島」に似る。

   「シマ」=島 「ツ」は duo (SK.サンスクリット語、

          英語 Eng.two に当たる)。

 3.一大国(長崎県壱岐)「一大」は「一支」の誤記、

   「火」:at,echa

   「イチキ」は阿尼語の「at-gu」:

   「火の峰」の意=愛宕神社名となっている

   (芦辺町諸吉本村触)

 4.末盧国

   (長崎県、佐賀県に広がる松浦郡のうち

    具体的には何処か確定し難い)

  「マツロ」=(SK.)madhura 、「甘いもの、蜜」

        (Eng.)marts 「大麦の芽」:麦芽糖

    矢保佐神社(長崎県松浦市、佐世保市などに鎮座)

    (SK.)yavasa 大麦/草、yava 大麦

    佐世保市:(SK.)saspa 若草、佐々町、小佐々町、

    (SK.)sas 草 「大麦」を表す。

        シュメル語 Se

 5.伊都国(福岡県前原市)「怡土」とも書いた。

   「イト」(ヘブライ語、Heb.)IDH、Iedah

    ユダヤ人共同体、井田(前原市)
 
    YD、Yad 記念物、早良(福岡市早良区・西区)

        「サガラ」ZKRVN、zikaron 記念・記念物

    志摩町(糸島郡)SYV syv 糸

 6.奴国(福岡市博多湾)

   「ナ」(SK.)nau 「船」、nava「船」

    那珂(博多区)、那珂川(河名) 「ナカ」(SK.)nauk 船、小舟

 7.不弥国(福岡県宗像郡福間町花見、古賀市花見):花見・福間

    花見の里、有弥の里:Arya bhumi アーリア人の地(整地、土地)

    「フミ」(SK.)bhumi

 8.投馬国(宮崎県児湯郡都濃町藤見)

     dum/dim (阿曇語):「富」大工、na-du:船大工「松」

    投馬:藤見「トウミ」 都濃神社が鎮座、

    延岡市東海「トウミ」、富美山、岡富町

 9.邪馬台国(福岡県大牟田市八本町)

   邪馬台:(SK.)jambu-dvipa

       (漢訳)贍部州、閻浮提地、

       (音写)贍浮提、炎浮提

   「インド大陸」の意味で、

    その所在地がインド人の居留地であることを表す。

 10.女王に支配されている領域、20カ国及び奴国(6.奴国と同じ)

 11.狗奴国(奈良県大和盆地)吉野、木ノ庄(字名)、御経野(天理市)

    「クナ」(SK.)gna 巫女(かんなぎ) 

     (女神であるが、また神妃で「巫蜆(きぬ)」となる)

    卑弥弓呼(狗奴国の王の名):比売久波神社(磯城郡川西町唐院)


 「魏書倭人章」
      
 帯方郡
  ↓  水行七千里

 狗邪韓国
  ↓  渡海千里

 対馬
  ↓  渡海千里、千余戸 

 一大(壱岐):一支、三千許家
  ↓  渡海千里

 末盧(松浦)
  ↓  陸行東南五百里

 伊都国(糸島)井田千余戸
  ↓

 奴国(福岡市博多湾)二万余戸 (つまり奴国に至ることを意味する)
  →

 不弥(福間・花見・有弥の里)千余戸
  ―
 各国 七万戸
  ↓ 南水行二十日

 北に
 
 邪馬台国(大牟田市)八本:三宅郡

 投馬国(宮崎県都濃町藤見)五万余戸

 南水行十日(1ヶ月)

 陸行1ヶ月(十日)

 九州を一周する。

 後漢書

 →東へ渡ること四千余里―狗奴国

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年10月27日火曜日

≪アズミ族の正体≫交易雑物 白絹・紫草


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫交易雑物 白絹・紫草

 課題:古代にローマ帝国は極東の絹を熱望した
    ―古代世界における海洋交易の実相―

 講師:歴史研究家「黒田 光一」
 
 延喜式巻二十三 民部下

 交易雑物 <白絹>

  山城國:大麦三石。小麦三十石。大角豆六石。胡麻子四石。荏子四石。

  大和國:大麦三石。小麦十一石七升三合。菖子六斗。大角豆四石。

  河内國:大麦三石。小麦三十五石。菖子五斗。薦二千五百枚。

  和泉國:小麦二十五石。

  摂津國:大麦三石。小麦三十五一斗。菖子九斗。薦一千五百枚。

 ※伊賀國:白絹十二疋。鹿皮二十張。樽二合。【加赤漆朸以下皆同】

 ※伊勢国:白絹十二疋。絹三百疋。水銀四百斤。樽二合。鹿角菜二石。

      青苔五十斤。海松五十斤。凝菜三十斤。於胡菜三十斤。

      鳥坂苔五斤。海藻根十斤。那乃利曾五十斤。

  志摩國:大凝菜四斤。白玉千顆。

 ※尾張国:白絹十二疋。絹百五十疋。樽二合。芋一百十斤。

      鹿皮十張。鹿角十枚。

      稗子五石。胡麻子四石。 荏子四石。鹿角菜三石。

      凝菜四十斤。於胡菜五十斤。
      
 ※参河國:白絹二十疋。鹿皮六十張。樽二合。芋九十斤。

      黍子二十石。胡麻子三石。

      海松五十斤。凝菜三十斤。海藻根十斤。青苔五十斤。

      鳥坂苔五十斤。

      於胡菜三十斤。那乃利曾五十斤。

  遠江國:絹六十疋。芋一百三十斤。鹿皮十張。木綿四百七十斤。

      樽二合。

      凝菜三十斤。海藻根十斤。胡麻子二石。大鮑三十口。

      千薑一百斤。種薑十石。

  駿河國:絹二百疋。商布二千一百端別長二丈六尺。鹿皮四十張。

      樽二合。

  伊豆國:猪皮十張。鹿皮三十張。堅魚煎一石四斗六升。櫑子「十」四合。

  甲斐國:商布四千一百端。履料牛皮三張。鹿皮三十張。紫草八百斤。

      鹿皮十張。猪脂一斗。櫑子四合。

  相模國:商布六千五百端。豉二石五斗。鹿皮二十張。鹿角十枚。

      紫草三千七百斤。

      布一千五百端。鞦十具。鹿革二十張。履牛皮十二枚。

      櫑子四合。

 ※武蔵國:絁五十疋。布一千五百端。商布一万一千一百端。豉六石五斗。

      龍鬢席三十枚。細貫席五百枚。履料牛皮三枚。鞦二十具。

      鹿革六十張。

      鹿皮十五張。紫草三千二百斤。木綿四百七十斤。櫑子四合。

  安房國:商布二千二百八十段。鹿革二十張。櫑子四合。

  上總國:絁五十疋。商布一万一千四百二十段。布一千五百九十端。

      鹿革八張。

      鹿皮五十張。洗皮一百張。鹿角十枚。鑣廿具。

      木綿四百七十斤。櫑子四合。

 ※下總國:布一千五百九十端。商布一万一千五十段。

      鹿革二十張。皺文革十張。

      紫草二千六百斤。櫑子四合。

 ※常陸國:絁一百疋。布四千端。商布一万三千段。庸布七百段。

      鞍橋十具。鞦廿具。

      履料牛皮九張。鹿皮廿張。洗革一百張。鹿角十枚。席六百枚。

      紫草三千二百斤。大瓢十口。櫑子四合。

 ※近江國:白絹十二疋。曝黒葛三十斤。刈安草五百圍。曝皮十張。

      大豆六十石。

      胡麻子五石。醤大豆廿石。油二石。樽二合。

      隔三年進醤大豆十石。大豆十四石。

  美濃國:絹二百疋。胡麻子四石。荏子十二石。鹿革三十張。

      油二石。白絹十二疋。

      隔三年進金漆二斗。

 ※信濃國:商布六千四百五十端。熟麻十斤。履牛皮三張。鹿革九十張。

      洗皮十五枚。

      紫草二千八百斤。布一千五百端。細貫莚五十枚。

      圓長猪油一斗。櫑子四合。

 ※上野國:絁五十疋。布一千五百端。

      商布七千七百三十一段二尺二寸八分。

      芋八十斤。席九百枚。細貫席六十枚。紫草二千三百斤。

      鹿革六十張。

      履料牛皮廿張。櫑子四合。

 ※下野國:布一千四百三十六端。商布七千三段。履料牛革七張。

      洗皮一百張。

      鹿角十枚。席八百枚。砂金百五十両。錬金八十四両。

      紫草一千斤。
 
      氈十張。櫑子四合。

  陸奥國:葦鹿皮。獨犴皮数隋得。砂金三百五十両。昆布六百斤。

      索昆布六百斤。

      細昆布一千斤。

  出羽國:熊皮廿張。葦鹿皮。獨犴皮数隋得。

  若狭國:烏賊三百斤。小鰯腊一石一斗。樽二合。

  越前國:絹二百六十二疋。履料牛皮六張。漆一石五斗。曝黒葛三十斤。

  加賀國:絹一百六十二疋。履料牛皮二張。漆石五斗。荏油二石。

      樽二合。

  能登國:絹十二疋。鹿皮十張。履料牛皮四張。海鼠腸一石。櫑子四合。

  越中國:絹百疋。商布一千二百段。履料牛皮四張。曝黒葛廿斤。

      編筥三百十九合。

      織筥廿八合。漆一石三斗。

  越後國:商布一千端。漆五斗。櫑子四合。履料牛皮八枚。

 注)※印は紫草あるいは白絹を租庸調として貢納した國


 延喜式巻二十三 民部下

 交易雑物 <白絹>

 ※丹波國:白絹十二疋。赤五百五十疋。絲七百五十絇。

      油三石。鹿革十張。

      粟十石。大豆三十石。胡麻子五石。栗子三十石。曝黒葛廿斤。

      刈安五百圍。隔三年進醤大豆三石。

  丹後國:絹二百五十疋。白絹十二疋。鹿革十張。樽二合。

      小鰯腊十二籠。

  但馬國:絹七百三十七疋。絲一千斤。鮐皮一百五十斤。

      醤大豆廿六石。

      隔三年進醤大豆五石。

  因幡國:絹二百疋。白絹十二疋。席三百五十枚。荒筥廿五合。

      櫑子四合。

      鮐皮八百廿五斤。醤大豆廿六石。隔三年進醤大豆五石。

      鹿皮十張。

 ※出雲國:絹二百三十七疋四尺。鹿革廿張。席三百枚。青苔三十斤。

      海松一百斤。

      海藻根十斤。烏坂苔五斤。紫草一百斤。鹿皮廿張。櫑子四合。

 ※石見國:綿六百八十七屯八両。。青苔三十斤。海松一百斤。

      海藻根十斤。

      烏坂苔五斤。紫草一百斤。櫑子四合。鹿革三十張。

 ※播磨國:白絹十二疋。絹三百五十疋。大豆廿六石。胡麻子三石。

      油二石。

      鹿革五十張。樽二合。小豆三石。鹿角菜二石。青苔三十斤。

      於胡菜廿斤。那乃利曾三十斤。

  美作國:絹四百七十五疋。油三石。猪脂一斗。櫑子四合。

      鹿革十張。鹿皮廿張。

      鹿角十枚。大豆十石。小豆六石。醤大豆廿石。

      隔三年進醤大豆十五石。

  備前國:絹三百疋。白絹十二疋。油三石四升。胡麻子三石。櫑子四合。

      苔十五枚。鹿革廿張。鹿皮十張。鹿角十枚。小豆十九石七斗。

      醤大豆廿五石。大豆四十四石七斗。秣料大豆八十石。

      隔三年進醤大豆十石。

 ※備中國:白絹十二疋。油一石四斗。朴消一百斤。小豆一石六斗。

      苔廿五枚。

      櫑子四合。鹿皮五十張。大豆廿八石。醤大豆四十四石。

      隔三年進醤大豆七石。小豆十六石。

 ※備後國:白絹十二疋。油二石。櫑子四合。鹿角十枚。

      大豆十六石七斗。小豆一石七斗。

      胡麻子二石。醤大豆六十石。隔三年進醤大豆十石。

 ※安芸國:白絹十二疋。絲八百絇。木綿二百五十九斤。

      油三石四斗。苔廿五枚。

      櫑子四合。鹿皮廿張。鹿革廿張。

  周防國:鹿革廿張。席三百五十枚。苔廿五枚。櫑子四合。

  長門國:鹿革廿張。胡粉廿斤。緑青廿斤。丹六十斤。

      海藻一百五十斤。苔廿五枚。

      苔廿五枚。櫑子四合。

 ※紀伊國:白絹十二疋。絹二百疋。鹿革十張。鹿角菜二石。

      青苔五十斤。海松四十斤。

      海藻根十斤。烏坂苔五斤。那乃利曾五十斤。樽二合。

      大凝菜一百斤。

      於胡菜三十斤。大豆廿石。小豆三十石。胡麻子五石。
       
      醤大豆十石。

      隔三年進醤大豆三石。

 ※阿波國:絹三百疋。白絹十二疋。油二石四斗。亀甲六枚。鹿皮十張。

      粟廿石。

      小豆十六石。秣料大豆八十石。胡麻子四石。小麦七十石。

      凝菜七斗。

      青苔廿斤。海藻根。於胡菜六斗。鹿角菜二石。苔廿五枚。

      樽二合。

      醤大豆廿二石。隔三年進醤大豆五石。

 ※讃岐國:白絹十疋。鹿革廿張。苔廿五枚。菅圓座四十枚。

      櫑子四合。鹿子皮十五張。

      金漆一斗五升。醤大豆四十二石。

  隔三年進醤大豆五石。大豆十八石。

  伊予國:鹿革五十枚。鹿皮十張。砥一百八十顆。大豆十八石。

      海藻根十斤。

      那乃利曾五十斤。苔五十枚。樽二合。胡麻子五石。

      醤大豆三十二石。

      隔三年進醤大豆五石。

 ※土佐國:亀甲四枚。煮鰹年魚五缶。紫草一百五十斤。苔廿五枚。

      櫑子四合。

 ※大宰府:絹四千疋。履料牛皮廿四張。狸皮十張。銀三百両。金漆五缶。

      朱砂一千両。茜二千斤。紫草五千六百斤。猪膏二石。

      雑油三十石。

      檳椰馬蓑六十領。同螻蓑百廿領。繭砧笠百三十藍。

      黒漆鞍十具。鑯鎧廿隻。

  右以正税交易進。其運功食並用正税。

  但下野國砂金者。使傜夫探食亦充正税。

  其大宰雑油三十石中男作物若満此数者。更不交易。

 凢諸國雑交易不論正税地子。便附貢調使不差専使。

 凢諸國年料雑交易物者。當年充進。不得踰年。若有未進。拘調庸返抄。
 
 凢有雑交易未進者。准雑米未進例。奪郡司職田直。若不足者。國司公廨。

 凢諸國大未進。小未進等帳者。勘録國司功過。毎年正月五日以前進官。

 凢京職諸國郡司功過帳。主計。主税勘定送省、畿内十月二日。

  外國十一月二日申官。

 凢勅旨交易絹。并商布减直者。去年料附當年使。待充前年料。

  乃放後年返抄。

  其運賃用减直内穀倉院交易减此。


 延喜式巻二十三

  延長五年十二月廿六日

   外従五位下行左大史臣阿刀宿称忠行

   従五位上行勘解由次官兼火外記紀伊權介臣伴宿祢久永

   従四位上行神祇伯臣大中臣朝臣安則

   大納言正三位兼行民部卿臣藤原朝臣清貫

   左大臣正二位兼行左近衛大将皇太子傅臣藤原朝臣忠平

 注)※印は紫草あるいは白絹を租庸調として貢納した國

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ