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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/01/08
課題:浅草と墨田〔東京都〕の由来
―「山谷」は本来何と称すべきか―
≪浅草神社・浅草寺の起源伝承≫
出典:浅草神社と三社祭:
編者・森田新太郎、発行者・浅草神社・矢野泰良
浅草神社と三社祭:
浅草神社
3.三社祭
◎観音祭
神社の由来をみても分かる様に、
当社は浅草寺と切っても切れない関係があり、
昔は祭礼の時神輿は観音堂外陣にに備へられ、
又ビンザサラも堂前の舞台で行われた如く、
むしろ観音堂中心の行事の観があった。
従って「観音祭」と呼ばれていたが、
明治初年の神仏分離以来、
その関係がややうすくなってきた感があるのは
再興の余地がある。
◎江戸の祭
三社祭は永田町の日枝神社、神田の神田神社の祭礼と共に
江戸の三大祭として昔から有名で、
常盤津の三世相、清元の三社祭にも
「弥生の花、浅草祭」として謳われていた。
三社祭は、一番下町気分の濃厚な浅草を舞台として
繰り拡げられた関係上、
現存する江戸の祭の中でも最も街の気分と
祭の情緒がとけこみ、祭の雰囲気の盛上る点では
江戸の華として全国に宣伝して恥じないものである。
◎現在の祭礼
現在の祭礼はビンザサラ神事、
町内神輿連合渡御、宮出(本社神輿三体各町渡御)が
5月第3金・土・日曜日に行われる。
◎昔の祭
昔の祭は3月17、18日の両日、
及び6月15日に行われ、
現在の様に町内若衆によって本社神輿をかつぎ廻ると
云う事はなく、寧ろ船祭の行事が中心であり、
又江戸時代には各町から出された山車が夫々の趣向で、
その絢爛さ、豪華さを競った様である。
例えば明和8年の『日並記』には次の様な
山車が記載されている。
壱番 武蔵野の山車 諏訪町
弐番 同断 西仲町
参番 牡丹之花山車 材木町
四番 桜花之山車 花川戸町
五番 網引船人形之山車 山之宿町
六番 かんこ(諌鼓)の山車 田町壱弐丁目
又別の書には、片町、天王町、黒船町などの
山車の参加も見えているから、
往時は現在の氏子中だけでなく、
浅草橋や蔵前筋の各町まで三社祭に参加した様である。
右のねり物、獅子屋台などが、早朝浅草見附などの
御門外に集合し、行列の順を整えて御蔵前から諏訪町、
並木町と進んで、仲見世から境内に入り、
本堂に安置の神輿の前に参詣あって、
夫々の芸能を演じ、随身門(二天門)を出て、
自分の町々へ帰るのが恒例であった。
この行列が午前10時半ごろ渡り終わると、
「お堂下げ」といって神輿三体を本堂からおろし、
一の宮を先頭にかつぎ、仲見世、並木町を経て
浅草御門(浅草橋際)の乗船場まで進む。
この時の舁手は花川戸と山の宿両町の若者が
担当する習慣であった。
ここで神輿を船にのせ、浅草川を漕ぎのぼって、
駒形岸或は花川戸岸から上陸した様である。
三社祭がいつ頃から始められたかは不明であるが、
昔は、
丑(ウシ)、卯(ウ)、巳(ミ)、未(ヒツジ)、酉(トリ)、亥(イ)の
一年おきが本祭で、正和元年(1312年花園朝)3月の
本祭から
三社の神話にもとずき船祭の行事が始められたと
云われている。
この船祭は大森の漁民が来て奉仕したが、
ある種の理由で宝暦11年(1761年9代将軍家重)に中絶し、
その後10年を経て明和8年(1771年10代将軍家治)に
飯山褒廣、斎藤秀正らがこの祭事を復興し、
江戸末期まで続いたが明治以後は廃絶している。
安政の末(1890年)には、宮本三町(山の宿、花川戸、
材木町)の乱暴によって、
神輿を門外へ出すことは勿論、境内に於いて
舁ぐことも禁止されるに至ったが、
明治5年から5月17日、18日両日に祭礼を行い、
氏子各町に神輿の渡御を行うようになった。
毎年3月18日の祭礼には、内陣にある幣を神輿に移し
別に新しい幣を捧げた。
専頭坊は中知の幣を、斎頭坊は浜成の幣を、
常頭坊は竹成の幣を、夫々皆左の袖に抱いて、
移したものでこの時には灯を消し神職が太鼓を打ち鳴らし、
なかなか荘重な儀式であった。
祭礼が終わると古い幣を神輿から出して
神前に向って右の方の柱にさし、
年々歳々古い幣がいくらたまっても
取捨てることはしなかった。
現在では土師(現宮司)にみが司る。
常盤津「三世相」
安政4年(1857年)の初演。
作者は三世桜田治助、作曲四世哥沢古式部である。
曲は傑作として残ったが振りは残らないらしい。
清元「三社祭」―「弥生の浅草祭」
天保3年(1832年)の初演。
四代目三津五郎と四代目歌右衛門が神功皇后、武内大臣を
山車人形の心で踊り、引抜いて漁師の浜成、竹成にかわり、
面を冠って善玉、悪玉となり、
最後に石橋のクルヒで常盤津、清元、長唄になるのであるが
今は清元だけで漁師と善悪のみ踊る。
作者二世瀬川如皐、作曲初代清元斎兵衛、
振付二世「藤間勘十郎という。
曲も振りも自由奔放の特異性に富むが、
「撞いてくりやんな八幡鐘を」とか、
「そなた思へば七里ヶ浜を」の有名な所は、
実は富本の「薄雪」「大和文字恋の歌(ウタヨミ)」から
唄も節もまねたもので、
後段の善玉悪玉は当時流行の心学の影響を受け、
一種のグロテスクな仮面舞踏である。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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