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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/01/08
課題:浅草と墨田〔東京都〕の由来
―「山谷」は本来何と称すべきか―
≪浅草神社・浅草寺の起源伝承≫
出典:浅草神社と三社祭:
編者・森田新太郎、発行者・浅草神社・矢野泰良
浅草神社と三社祭:
浅草神社
4.船祭
昔の隅田川は水清く澄み、
浅草海苔を採る業者や漁師が多く生活していた。
その後川が汚濁したり、
又殺生禁断の地域になったりした事から、
これらの人々が多く大森辺りその他み移住して行ったが、
その昔の神恩を忘れず、3月18日の浅草神社の本祭
(丑、卯、巳、未、酉、亥の隔年)には
遠く安房、上総の浦々からも
漕来たって大森の浦に船を繋ぎ、祭礼の前日には
大森、佃の船と共に浅草川(隅田川)へ漕寄せ、祭りに
参加したと云われる。
即ち本祭(隔年)の当日、神社を出た神輿は
浅草の大通りを浅草見附(今の浅草橋)まで舁がれ、
浅草御門の外、神田川で神輿を船に遷し、
浅草川(隅田川)を漕ぎ上がって駒形で陸にあがり、
神社に舁ぎ帰った。
この時には一船に一基ずつ神輿を乗せ、
また故実に従い、専当・斎頭・常音の三坊も
夫々一基に一人ずつ付き随い、浅草寺の別当顕松院も
御船に供奉したと云われる。
これらの船の奉仕をしたのが前述の漁師達で、
皆船印を立て、
浄衣を着て威勢よく漕ぎ上って来たものと思われ、
府内随一の大祭として江戸中の人気を集めたが、
既に断絶して年久しく約百年程を経過する。
◎三社権現船祭再興者功績の碑について
前述の船祭は宝暦11年(1761年、234年前)に
故あって断絶したので、それを悲しんだ浅草寺達頭の
飯山・斎藤の両氏が之を再興しようとしたが、
生前は果たさず、没後に至って、
その子の飯山褒廣、斎藤秀正が父の志を継ぎ、
大森の漁人に語らい出船の奉仕方を約さしめた。
この船祭再興の模様を語り、二者の功績をたたえ、
後世に伝えようとしたのがこの石碑で、
法眼伊蒿が文を作り、
明和8年(1771年)三社境内に建てたが、
明治以後は伝法院に移り、
今池の北側築山の下に現存している。
◎昭和33年秋浅草観音本堂落慶の開帳にあたり、
11月2日の日をえらび、この船祭を復活して執行し、
以って観音像感得の故事因縁を更に徹底して
世人に認識せしめた。
◎観音堂戒殺碑
今駒形公園にある。
その昔浅草観音感得の故事に因み、
隅田川に於ける殺生漁獲を禁じた石碑で、
元禄6年(1693)浅草寺権僧正宣存が撰文して
建立したものである。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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