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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
セブンネット
歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2015/01/08
課題:浅草と墨田〔東京都〕の由来
―「山谷」は本来何と称すべきか―
≪浅草神社・浅草寺の起源伝承≫
出典:浅草神社と三社祭:
編者・森田新太郎、発行者・浅草神社・矢野泰良
浅草神社と三社祭:
浅草神社
5.ビンザサラ
編木(ビンザサラ)、又は拍板(ビンササラ)とも書き、
田楽の楽器の一種である。
板を百八枚並べて上の端を紐で結び、
両端に持つ所を作り、アコーディオンを奏でる様に
端を握って伸縮するとそれにつれて板と板がふれ合い、
サラッサラッと云う音を出す。
木を編む所から編木と云い、
板を打ち合わす所から拍板と云う。
古来田楽の「烏間口の舞」(中門口の舞)には
必ず用いられた楽器で、土地により長短の別があるが、
中国の北斎時代頃から行われたものが、
日本へ日本へ輸入されたのではないかと云われている。
浅草神社の拍板神事は
東京に残る数少ない神事舞踊の一つとして昔から有名で、
中世の田楽踊り(拍板踊り)の名残を留め、
現在では東京都の無形文化財に指定されている。
それから「烏間口の舞」と云うのは田楽の舞の一つであるが、
田楽と云うのは平安朝の頃から行われた舞踏で、
元来は農村の田植頃から発生した。
この「田楽」という言葉は、
『栄華物語』『今昔物語』の二書に見えるのが最初で、
古くはこの胸につける大太鼓の事を指し、
転じてそれを打って舞うことも田楽と云ったらしい。
後には田楽笛を吹く者、ササラヲ打ち鳴らす者、
或は獅子舞を舞う者までが附き物となったらしい。
「烏間口の舞」と云うのはこれらの田楽の中で、
特に神社仏閣及び貴族の邸宅の繁栄を祈念する意味で
行われた舞のことを云う。
娯楽としての田楽は、
北条時代、執権高時が殊のほか愛好したので、
京都市中貴賎老若を問わず熱狂し、
専門の田楽法師による新座、本座の二団体まで出来、
互いに対抗して芸を競ったらしい。
足利尊氏の時にはあまり見物人が多いので桟敷がつぶれ、
死傷者迄出したと云われる。(『太平記』)
この様な盛況さも室町末期以後は新興の「能楽」に食われ、
僅かに神社仏閣にの儀式としてのみ名残を止め、
次第に衰退して今日に至った。
従って我々は浅草神社の拍板神事を眼のあたりに見る事により、
遠くは中世の田楽の名残を偲ぶことが出来る訳であり、
これが無形文化財に指定された所以でもある。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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